弟、エルドワを立ち直らせる
唐突に部屋の中に現れた強者の気配。
殺気はないが、抜き身の刃のような鋭い空気に、無意識に肌が粟立つ。
まさか侵入者かと反射的に腰を浮かせ掛けたレオたちに、唯一それを察知できないユウトがぱちりと目を瞬かせた。
「……みんな、どうしたの? ……あっ」
レオたちの視線がさっと向いた方向を、ユウトも振り返る。しかしそこにいたのは、侵入者でも何でもなく、今までずっと眠っていたエルドワだった。
その小さい身体が身動ぎしている。
「エルドワ! 起きたんだね!」
「あっ、ちょ、ちょっと待て、ユウト!」
少し高い椅子から降りて、すぐに子犬に駆け寄って行く弟には、全く警戒心がない。
もちろん、エルドワがユウトに危害を加えるとは思えないけれど、この怖気が走るような気配に、レオはとっさに呼び止めた。
「エルドワの気配がおかしい! 不用意に近付くな!」
「えっ?」
「グルル……」
小さな子犬がもぞもぞと動いて顔を上げ、険呑な目つきでユウトを見る。
モフモフの毛が逆立ち、どうやらエルドワはひどく興奮しているようだった。慌てて弟を引き寄せて背後に隠すが、エルドワの視線はずっとユウトを追っている。
その様子を見たネイとクリスもそばに来てユウトを隠した。
「ちょ、エルドワどうしちゃったの!?」
「すごい威圧だね。エルドワは自分の力を自制できていないみたいだ。害意は感じないけど、暴れられたらちょっと困るね」
「グラドニの力をもらったせいか……。あいつ、殺気とか敵意とか全くなくても激強だったからな……」
そう言いつつも、エルドワが何を考えてどう動いてくるのかも分からなくて、そのまま膠着する。さすがに攻撃する気にはならないし、したとしても事態は悪化するだけで利はないのだ。さて、ではどうしたものか。
考えあぐねていると、後ろにいたキイとクウが口を開いた。
「レオ様、エルドワはグラドニの血によって魔性が上がっています」
「そのせいで、ユウト様の血と魔力の匂いに興奮しているのです」
「ユウトの血と魔力の匂いに興奮?」
「あ、レオくん。それって、リインデルでユウトくんがヴァルドさんを呼び出した時と同じ状態かも……」
クリスに横からそう言われて思い出す。
リインデルでユウトに襲いかかろうとしたヴァルドも、確かにこんな感じでユウトのことしか見ていなくて、自我を飛ばして興奮していた。
だとすれば、解決策は同じ。
「狐! 貴様はエルドワの首根っこを掴まえて持ち上げろ! 力は強いが、持ち上げてしまえば短い脚ではなにもできん!」
「了解……わ、やば、ユウトくんの方に飛びかかる体勢になってる! 確保!」
ユウトをめがけて飛びつく気だったのか、頭を下げて後ろ脚に力を入れようとしていたエルドワの首根を、ネイが瞬時に掴まえた。そのまま持ち上げるとぴこぴこと4本の脚を動かして暴れるが、このサイズだと可愛いだけだ。もちろん、あの脚に当たったら吹っ飛ぶほどの威力なのは間違いないけれど。
「ユウト、ラフィールからもらった浄魔華の蜜を出せ!」
「う、うん!」
「害意がないとはいえ、今のエルドワに近付くのは危ないから私が行こうか?」
「不運持ちのあんたにやらせると貴重なアイテムほど零しそうだから、俺がやる! あんたはこれ以上エルドワが興奮しないように、ユウトの前で壁になっててくれ!」
「はいはい」
レオはユウトから浄魔華の蜜を受け取ると、正面からエルドワに近付いた。こうして見ると、強者の気配をまとい眉間にしわが寄っているものの、いつものころころもふもふの子犬だ。それに油断しそうになる自分を叱咤する。
後ろから首根を掴むネイが気を利かせてぐっとエルドワの頭を後ろに反らして、真上に向いた口が自然と開いたところに、レオは慎重に蜜を流し込んだ。
子犬がそれをこくりと嚥下するのを確認する。
「よし……これで、平気なはずだが」
「あ、ほんとだ。エルドワ、暴れるのやめましたね」
途端に四肢を投げ出して、エルドワはネイの手元で脱力したようにぷらーんとぶら下がった。
また意識を失ったのかと思ったけれど、そうでもないらしい。
ユウトがクリスの後ろから心配そうに顔をのぞかせると、子犬は小さく「アン」と鳴いた。
「エルドワ……元に戻ったの?」
「……アン。アン、ウウ……」
「エルドワが珍しくすごいばつの悪そうな声出してるなあ。まあ主人である大事な姫に飛びかかろうとするなんて、騎士として失態だもんね。……レオさん、とりあえずエルドワをユウトくんに渡していい?」
「……そうだな、もう大丈夫だろう。ちゃんと気配を自己制御できているようだ。ユウト、もうエルドワに近寄って良いぞ」
「良かった! エルドワ、おいで」
「アウ……」
エルドワの先ほどまでのだだ漏れていた威圧感は、なりを潜めている。吹っ飛んでいた子犬の自我が戻ってきたのだ。
それを確認して弟に声を掛けると、ユウトはネイから凹んで萎れているエルドワを受け取った。
「エルドワ、おなかすいたでしょ? ちゃんとエルドワの分は取っておいたから、食卓についてみんなで一緒に食べよう」
「アンアン……アウゥ……ウウ、アン」
「今日はグラドニさんの力をもらって大変だったろうけど、頑張ったね。グラドニさんもエルドワのことすごく褒めてたよ」
「アウ、アンアン、……ゥゥゥアウ、アン……」
「ん? 何言ってるか分かんない」
ふふふ、と柔らかく笑うユウトは子犬を抱きしめる。
おそらく自己嫌悪からの謝罪を述べていると気付いているのだろうが、気にしていない自分を貫くようだ。
まあ実際これは不可抗力に近く、エルドワが謝るべき事態ではない。それをレオたちも分かっているから、みんな再び何事もなかったかのように食卓についた。
「ほらエルドワ、人化して。子犬のままじゃ食べづらいでしょ」
ユウトの隣の椅子の上に置かれた子犬は、数瞬ためらった後に人化する。そしてやはり、現れた表情はこれまでになく凹んでいた。
「……ユウト、さっきは……」
「うん。前のヴァルドさんみたいになっちゃってたね。でもエルドワが絶対に僕に危害をくわえることはないって分かってるから、大丈夫」
「確かに、ヴァルドさんもリインデルでユウトくんに襲いかかろうとしたけど、目的は匂いを嗅いだり舐めたりしたいってだけだったものね」
「そう、クリスさんの言うとおりです。それに、僕はどちらかというとエルドワの状態の方が心配だったから、何事もなく元に戻って良かったっていう安堵しかないんだよ」
そう言ったユウトはエルドワの頭を優しく撫でる。それだけで子供の緊張していた肩の力が抜けたのが分かった。そう、他の誰でもないユウトさえ赦してくれれば、エルドワはそれだけでこうして立ち直れるのだ。
「……ユウト、エルドワのこと怒ってない? 怖がってない?」
「あはは、そんなこと思うわけないじゃない」
ユウトは子供の不安を吹き飛ばすように屈託なく笑った。
その言葉に嘘は全く見えず、ようやくエルドワの瞳に力が戻る。
「僕はいつだってエルドワのことを信じているし、頼りにしているよ」
「……うん! エルドワはいつでもユウトを護る!」
「じゃあ明日も僕を護ってもらうためにも、いっぱい食べて栄養付けてもらわなきゃね」
「分かった!」
すっかりいつもの調子を取り戻したエルドワは、ユウトが取り分けておいたピザに手を伸ばす。そのまま勢いよく食べ始めた子供に、大人たちはアップルパイをつまみながら目元を緩めた。
「ユウトくんとエルドワのやりとりは可愛いくて癒やされるわ~」
「私も同感だね。素直で表情豊かな子供たちを眺めてると、心が浄化される気がするもの」
「ユウトだけでもとんでもなく可愛いが、エルドワが加わると可愛いが倍加されるからな……」
「キイとクウもほっこりします」
なんとも和やかな空気。
みんなでほのぼのと癒やしの時間を過ごす。
けれどこうしてひとつの問題が一段落すると、また次に気になることがわいてくるのが難儀だ。
この空気を壊すのは忍びないが、これは今後のためにも確認すべき事案。やむを得まい。
エルドワが料理を頬張っているのを横目に見ながら、レオはそれを向かいに座るクリスに向けて投げかけた。




