『聖なる犠牲』とアンブロシア
「ジードさん、次は『おぞましきもの』についてもお聞きしたいです。従来の内容では曖昧な表現が多く、魔尖塔が現れると引き寄せられてくる混沌を司るもの、と言われますよね」
この『おぞましきもの』については、クリスもリインデルにいた当時、魔界の書物で一度くらいしか見たことがない。もちろんエルダールにある絵本や逸話なんて魔尖塔までしか出てこない。
だから、クリスの『おぞましきもの』に関する知識はそれほど深くない。その後にもジラックのガラシュの部屋で従来の通説を一度、祖父の考察で新たな解釈を一度見たきりだった。
「まあ、曖昧な表現になるのは当然だろう。『おぞましきもの』の秘めたる力を認知した時は世界が失われる時だ。だから、こうして世界が存続している間は、それに関しては事実など知りようもない。……本来ならな」
「……本来なら?」
事実など知り得ない、ということに納得しかけたクリスだったが、最後に付け足された言葉に目を瞬いた。
本来なら知れないこと。だが彼は何かを知っている。と。
ジードは暗にそう言っている。
「……ルガルとお爺さまの本でも、解釈は違えど『おぞましきもの』に関する記述は少々曖昧でしたが」
「ふむ、そうか。……では、あの内容は編纂から外したのだな。だいぶ世界の核心に触れすぎていたからな。書物の方には何と書いてあった?」
「……『聖なる犠牲』は、魔法薬アンブロシアの奇跡を使って『おぞましきもの』を消滅させたと」
「アンブロシア?」
クリスの言葉に、不意にユウトが反応した。
「アンブロシアって、使ってみないと何が起こるか分からない、奇跡の薬のことですか? 世界にひとつしか存在できないっていう」
「うん、それ。……そういえばもゆるちゃんとレオくんが持ってるって聞いたけど……」
「はい。持ってます」
ユウトがあっさりと頷く。それを見て目を瞠ったジードが、思わずといった態で立ち上がった。
「なっ、え、は? 待て待て。世界にひとつしかない神話級のアイテムを、もゆるが持っているだと……?」
「えっと、正確には僕とレオ兄さんです。三つに増殖させてしまったので」
「三つに増殖!? いや、アンブロシアはさっきもゆるが言ったように、世界にひとつしか存在できないはずだぞ……!?」
「そうなんです。だから少しずつ効能がズレて別のものになってしまって……。一応僕が持っているのが『時間』と『事物』に関する奇跡、レオ兄さんが持ってるのが『ひと』に関する奇跡を起こす薬なんですけど」
「……つまりもゆるたちは、三様の奇跡を三回起こせるということか……。ここまでお膳立てされていると、薄ら寒くなるな……」
ジードは少し不愉快げに眉根を寄せ、再び椅子に腰を下ろした。
おそらく彼は今、クリスと同じことを考えている。
『聖なる犠牲』がアンブロシアを使って世界を救った。その過去を、ユウトが同じようになぞらされようとしていると。
おそらくは当人であるユウトもこの状況に気付いていると思われるけれど、しかし特にそれに嫌悪する様子は見えない。
それどころか興味津々とばかりに身を乗り出して、ジードに首を傾げて見せた。
「ジードさんは、『聖なる犠牲』がどうやって『おぞましきもの』を消滅させたか、知っているんですか?」
「む、うむ、まあ、な」
その話をすることに対してあまり気乗りしない様子だったジードだが、ユウトにそうやって目を見て訊ねられれば、嘘をつけずにあっさりと頷いてしまった。うーん、この男、ユウトが相手だとちょろ過ぎる。
「ジードさん、教えて下さい。『聖なる犠牲』はアンブロシアでどんな奇跡を起こして、どうやって『おぞましきもの』を消したんですか?」
こんな期待を込めた瞳で見られてしまっては、もはや濁すこともできまい。
果たしてジードは、その答えを口にした。
「『聖なる犠牲』はアンブロシアを使って、『おぞましきもの』ごと転移したのだ」
「転移……?」
しかしその言葉だけでは理解しきれずに、ユウトはぱちくりと目を瞬く。
自分でもだいぶ言葉足らずだと分かっているのだろう、ジードはその可愛らしい反応に苦笑した。
「その詳細を語る前にもう少し、前提の話をしよう。そもそもだな、なぜ『聖なる犠牲』は魔界で『聖なる犠牲』と呼ばれていると思う?」
「……それは、世界を護るために亡くなったからですよね?」
「その時護られていたのは人間界だ。となれば、『聖なる犠牲』は人間界で使われるべき呼称。魔界でそう呼ばれるのは不自然だと思わないか?」
「え? でも、人間界が滅ぶと後々魔界も滅ぶんだし、それを考えれば別におかしくないと思うんですけど……」
「最終戦争の場にいた魔族や魔物は、そのことを知らずに世界のバランスを崩しに行った集団だぞ。おまけにそのほとんどが死んでいるし、生き残ったのも魔尖塔から現れた『まだ神ではないもの』を恐れて早々に魔界に逃げ帰った下っ端ばかりだ」
確かに、そう考えるとどうして『聖なる犠牲』はそう呼ばれているのだろう。
ジードとユウトの問答を聞きながら、クリスも首を捻る。
魔界の文献で最終戦争時の出来事があやふやなのも、生き残ったのがその事情を知らないような下っ端ばかりだったからだ。
当然だが、彼らはその結末を知らない。
そもそもジードが言うように『聖なる犠牲』が『おぞましきもの』ごと別の場所に転移したのだとしたら、『聖なる犠牲』が犠牲になったことすら知るはずがないのだ。
では、『聖なる犠牲』を『聖なる犠牲』と称したのは誰か?
そこには確実に事情を知る第三者の存在が見える。
しかしそれがどんな者なのかは見当が付かず、クリスは静かに二人の問答に耳を傾けた。




