兄、そのこぼれ落ちた記憶
とりあえず害意がないのならいいか。
レオはツルを気にせず水やりを続ける。
そのまま大きなじょうろひとつ分を掛けきって空にしたところで、ようやく鉢の下から水が流れてきた。
どうやらこれが鉢に十分な水が行き渡った目安のようだ。
ラフィールはその量を把握していて、ぴったりの水を用意していたのだろう。
「……これで終わりか?」
「うん。後はユウトの魔力で成長を続けて、実が成るんだと思う」
「そうか」
エルドワのおかげで、何とかつつがなく終えることができた。
魔妖花の件は、まずはこれで一安心だ。
安堵のため息を吐いたレオは、じょうろを置くと、そこでようやく身体に巻き付いたツルに目を向けた。
魔妖花のツルはユウトの魔力で成長しているからだろうか、不快な拘束ではなく、感触も柔らかい。
これならすぐに外せそうだと手を掛けると、しかしその感触と裏腹に、ツルは微動だにしなかった。
「……このツル、外れないんだが」
「だから気を付けてって言った。魔法植物のツルは魔力が強いほど頑丈。ユウトの魔力で育ってるから、この魔妖花のツルはそう簡単に外せない」
「切ることもできないのか?」
「難しいけど、レオの力なら切れるかも。……でも、そこから漏れた分、魔妖花の魔力が減る」
「あー……」
ユウト専用の魔妖花、できることなら傷を付けたくはない。
魔力が減ることで何か弊害があると困るし、何よりこのツルは拘束というより、縋るような庇護欲をそそる感触があるのだ。
まるで、『行かないで』と子どもに抱きつかれているような。
(まあ、いいか)
ツルが絡んでいても特に締め付けられて苦しいわけでもないし、動けないわけでもない。構われたがりの少し困ったペットに懐かれた感覚に近い。
ただ自分のベッドまで距離があって、ツルの長さがそこに届かないだけだ。問題というほどでもない。
どうせ明日の朝に魔妖花の実が成れば、ツルも茎も枯れてしまうのだし、それまでの辛抱だろう。
「仕方ない。俺は今日ここで寝る。エルドワはそのまま俺のベッドで寝てろ」
レオはサイドテーブルの横に座ると、そのままベッドを背もたれにした。
まあ、旅をしている最中はよくこうして座ったまま寝ていたし、慣れたものだ。特に辛くもない。
しかしそんなレオに、エルドワが提案をした。
「レオ、だったらユウトと寝たら?」
「……ユウトと? ……だが、この中に入って大丈夫か?」
ユウトのベッドは、成長した魔妖花のツルや茎で緑の天蓋のように覆われている。いや、繭に近いだろうか。
今はまだ完全にふさがれているわけではないが、未だ成長を続けている魔妖花の葉は、やがてその隙間も覆ってしまうに違いない。
もちろんいつもだったら喜んでユウトを抱き枕にして眠るレオだが、この中に異物となりえる自分が入るのは、さすがに少し躊躇われた。
けれど、エルドワは首を振る。
「レオは干渉する魔力が全然ないから問題ないと思う。……近くにいたからツルの成長に巻き込まれただけかと思ったけど、さっきから魔妖花の魔力の流れがレオを包んでる。どうやらユウトを取り巻く素養の一部と見なされているみたい」
「素養?」
「レオが、ユウトの魔力を構成する要素のひとつだと思われてるってこと」
魔力の流れが見える彼は、確信したように頷いた。
だが、どういう意味なのかレオには今ひとつよく分からない。
「俺がユウトの魔力を構成する要素? 魔力が微塵もないのにか?」
「そういうのじゃなくて……んー、説明が難しい。ユウトの力の源って言うか……。とにかく、ユウトはレオがいることが力になってるってこと」
ずいぶんと漠然とした説明だが、さっきよりは分かる。
レオだってユウトがいると力が湧く、つまりそういうことだろう。
そこに細かい理由付けなど必要ないのだ。
「ってことは、むしろ近くにいた方がいいってことか」
「うん、多分。万が一必要なかったとしても、レオなら害にならないし」
「そうか。そういうことなら」
問題なくて、この場から離れられないなら、ユウトの隣で眠ることになんの躊躇いもない。
レオは立ち上がると、どうにか自分が入れそうな大きめのツルの隙間をかき分けた。
腰に巻き付いていたツルはびくともしなかったものの、こちらは簡単に動いてくれるようだ。
レオは通れるだけの隙間を作って、エルドワを振り返った。
「エルドワ、俺はここに入るとおそらく明日の朝まで出られん。周囲の警戒は頼んだぞ」
「うん、任せて。眠ってても耳と鼻は利くから」
何とも頼もしい子どもだ。
一階にはラフィールもいるし、彼らがいればまあ心配はいらないだろう。
エルドワに後を託したレオは、念のため着ていた睡眠無効の付いたシャツを脱いで、魔妖花の天蓋の中に入っていった。
ユウトの元に行くと、レオの後ろに開いていた隙間がすぐに閉じてしまった。
必要がなくなったのか、腰と足に絡んでいたツルがいつの間にか引いている。
(あのツルは、やはり俺をユウトの近くに置くためだったのか)
魔妖花の思惑通りに動かされたことに多少してやられた感がないわけではないが、結果としてユウトを抱き枕にして眠れるならむしろありがたがるべきだろう。
レオは光を遮られたうす暗がりの中、すやすやと眠る弟の隣に横になった。
ユウトがすっかり熟睡しているせいか、今の魔妖花からの安眠を促す香りは薄く、穏やかだ。
それでも心地良く眠りに誘われる感覚に、レオは抗うことはせず、弟を抱き込んで目を閉じた。
二人だけの空間で、成長を続ける魔妖花のツルと葉がサワサワと鳴っている。
まぶたを閉じていても、外の光が遮られ、さらに暗くなっていくのが分かる。繭が完成されていく。
まるで、世界に兄弟二人だけになったような感覚。
それをどこか懐かしいと感じるのはなぜだろう。
うとうととして意識から音が遠のいていくのに、ユウトの穏やかな寝息だけは聞こえる。その安堵。
ずっと昔に、同じように。
こんなふうに、彼の寝息だけを聞いていたことが、あったような気がする……。
そのまま意識を手放しかけたところに、不意に脳裏に誰かの声が蘇った。
『……この子には潜在的な魔力が僅かしかない。おそらく長くは生きられないでしょう』
『王家に病弱な息子など必要ない。地下にでも閉じ込めておけ』
『アレオン、見て。面白い卵を手に入れたんだ』
『……小さき者よ、生きたいか? 生きたいのなら……』
これは一体いつの何の誰の科白だったか。
一貫性のない断片的な言葉の記憶が、レオの意識に引っ掛かることなく浮かんでは消えていく。
この不確かな記憶のトリガーになったのは、狭い空間に満ちたユウトの魔力か、この懐かしいと感じる状況か。
その判別もできぬまま、レオの意識から言葉の全てが滑り落ちてしまう。
しかし。
『目覚めよ』
最後に短く脳内に響いた声が僅かにレオを揺さぶる。
それは手放し掛けていた意識を引き戻すほどではなかったけれど。
レオは眠りに落ちる中、無意識にユウトを抱き締める腕に力を込めた。




