【五年前】チビの留守番【回想外】
「おチビちゃん、俺はこれから王都に行って、殿下から頼まれた用事を済ませてくる。その間、絶対この隠れ家から出ちゃ駄目だよ」
「うん、分かってる」
「誰かが訪ねてきても、扉を開けないようにね。……まあ、ここの玄関に至るまでの細い通路は、途中の家の奴らが見張ってくれてるけど」
そう言いつつ、カズサが心配げにチビの頭を撫でた。
どうも見た目が小さい分、余計に気掛かりなようだ。そこまで心配されるほど幼くはないんだけどなあと思いつつ、チビはカズサを見上げた。
「ぼく、ちゃんと留守番できるよ? ぼくがここを出るときつねさんがアレオンお兄ちゃんに叱られちゃうのも分かってるし」
「俺が叱られんのは別にいいのよ。おチビちゃんに何かあると殿下が普通でいられなくなるから心配なの」
「ふうん?」
アレオンにとっての自分の重要度が今ひとつ理解できていないチビは、曖昧に返事をして首を傾げる。
それに苦笑をしたカズサは、もう一度こちらの頭を撫でた。
「まあ、聞き分けの良いおチビちゃんが勝手に外に出たりしないのは分かってるんだけどさ。……でも、できるだけ早めに帰ってくるよ。お昼ご飯は作って保存棚に入れてあるから、出して食べてね」
「分かった。ありがとう、きつねさん」
「じゃあ、行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
黒い軽鎧を着て、首に巻いているスカーフを口元まで引き上げたカズサは、そのままチビの目の前で転移して行った。
途端に、周囲に人のぬくもりがなくなる。
昔、魔研にいた時はこんな状態は当たり前だったのに、今は少し慣れない感覚だ。
つまりいつもはそれだけ、アレオンかカズサが側にいてくれているということ。そちらの方が当たり前になってしまったということだ。
チビはそれを、素直にありがたいなあと思う。
彼らは自分のような半端者を引き取って、敵からも寂しさからも護ってくれているのだ。
これに報いるためにも、アレオンのために死ねたらいいなとチビは常に考えている。アレオンが死なないことは、カズサも喜んでくれるはずだから。
未だに隷属術式の本当の出番はないけれど、まもなくエルダールに変革が起きることはチビも分かっている。
その時に大好きなアレオンの盾になって、彼を護って死ぬことができたなら、悔いはないのだ。
(それにぼくが死んだら、きっとお兄ちゃんはあのことを思い出す、はず)
ずっと昔、削がれてしまった幼い頃の記憶。
それを取り戻せば、アレオンはきっと……。
そうして過去の記憶に潜り掛けたところで、不意に自分たちの寝室からガタンと音がして、チビはびくりと肩を揺らした。
当然だが、今家の中には自分しかいない。
だというのに、明らかに室内から音がしたのだ。
「だ、誰? 猫さん?」
部屋の空気を入れ換えるために、細く窓を開けていた覚えがある。
……いや、しかし人どころか猫が入るにもキツいくらいの幅だったはずだが。
そこから何かが侵入したのだろうかと考えて、チビは恐る恐る部屋を覗いた。
「あっ……」
見れば、部屋の中央に黒い靄のようなものが漂っている。
明らかに人ではないもの、しかしそれに見覚えのあったチビは、一度だけ目をぱちりと瞬いた後、部屋に入っていった。
「……もしかして、二年前に農場区で会った半魔のひと?」
そう声を掛けると、その靄が集約して黒い塊になり、それから人型を成す。そうして現れたのは細身の長身、目元まで隠れる髪の隙間から見える赤い瞳が印象的な男の姿だった。
以前カズサに農場区の広場で自由に遊ばせてもらった時に会った男性。あの時はすぐにカズサに気付かれてしまって、一言二言交わしただけで終わってしまっていたのだが。
「お久しぶりです、救済者。ずっとあなたが一人になる機会を窺っておりました」
……誰かが訪ねてきても扉を開けるなときつねさんに言われたけど、これは仕方がないよね?
チビはちょっとだけそれが気になったものの、不可抗力だし彼が敵でないことは分かっているからいいか、と割り切った。
「前もわざわざ会いに来てくれたけど、ぼくに用事なの? ええと……」
「私はヴァルドと申します」
「ヴァルドさんだね」
敵意のない少し気弱そうな声で名を告げた彼は、チビの前に恭しく跪く。臣下の礼のようだけれど、ただ単に目線を合わせてくれただけかもしれない。
チビは同じ高さになった赤い目を見つめた。
「ヴァルドさんは、なぜぼくを救済者と呼ぶの?」
「あなたが私を救える唯一の存在だからです。……ただ、未だに闇に偏ったままなのですね。羽はまだ取り戻せないのですか?」
そういえば、以前会った時も『羽を取り戻せ』と言われていた。
その内容はカズサがアレオンに報告をしたようだったが、魔研にチビの存在を覚られたくないアレオンは特に行動に移していない。
つまり、そのまま保留されている。
「ぼくは羽をもがれたあの建物に、あれから一度も戻ってないんだ。羽はもうないかも。儀式に使われちゃってると思う」
「いえ。まだ残っているはずです。世界のバランスが変わり、羽だけでは儀式を行えない状態になっていますから。是非羽を……本来のお力を取り戻し、私をお救い下さい、救済者。そのためなら私はあなたの眷属となり、微力ながら如何様な助力も惜しみません」
微力などと言っているが、ヴァルドが強い魔力を持っていることはチビでも分かった。
変化自体がかなり高度な能力な上、肉体を靄のような状態まで細粒化して制御するのは高ランク魔族にしかできない技なのだ。
つまり、こんなのは魔力の一端。
おそらく彼は、ザイン程度なら一人で軽く制圧できるくらいの魔力の持ち主だ。
その力を借りることができれば、大きな戦力になるだろうけれど。
「分かった。もしも羽を取り戻せたら、ヴァルドさんを助けるね。でも、ぼくの眷属にはできないの」
「……それは……私では何か不足ということですか?」
「ううん。ヴァルドさんがどうこうじゃなくて、ぼくがすでにお兄ちゃんに隷属しているから」
「隷属!?」
チビの言葉に、ヴァルドは驚愕をしたようだった。
「あなたを隷属させるとは、何と身の程知らずな……!」
「あ、違くて。ぼくが自分から隷属契約したんだ。お兄ちゃんのために死ねたらいいなあって思って」
「は……隷属契約を自ら……!?」
「うん」
あっさりと頷くと、ヴァルドが心底困ったという様子で額を押さえた。目線がおろおろと泳いでいる。
「つまり個を優先したのか……。ああ、羽をもがれたせいで完全に闇に傾いているのだな……。それに、ご自身の重要性もちゃんと把握していない様子……。もはや発動してしまった隷属術式を消すことは不可能だし、仕方があるまい、せめてあれだけでも……」
そう独りごちた彼は、気持ちを落ち着かせるようにひとつ深呼吸をして、再びチビと視線を合わせた。
「申し訳ありませんが、救済者に眷属として仕えないと、私の本来の能力は発揮できません。しかし今の状態ではそれが敵わないようで……」
「そっか。でも羽が戻ったらちゃんとヴァルドさんのことは助けるから、大丈夫だよ」
「ああ、お優しいお言葉……! あの、そんなあなたに微力ながら報いたいと思うのですが、よろしいでしょうか」
「報いたい?」
何をするというのだろう。
チビが首を傾げると、ヴァルドはかしこまった様子で頷いた。
「二年前もあなたを縛めていた枷。未だその首にはめられたままの使役の輪。私がその首輪の術式を書き換えて、外して差し上げます」




