弟、ゲートについて学ぶ
ゲートに向かう準備を始めたレオは、当然のようにスーツにネクタイ、革靴だ。ユウトから見ると動きづらそうだなと思うけれど、兄はあまり気にしていないらしい。
そもそも、日本から持ち込んだ荷物のほとんどがユウトのもので、彼の着替えがないのだ。下着の替えもないから、昨日も夜に洗って干しておいたという。したがって今朝全裸で起き出してきた兄を、弟は三度見してしまっていた。
「ゲートってどんなものなんだろう。空間の歪みって言ってたよね」
「見た目は斜めに切ったでかい『なると』が宙に浮いてる感じだ」
「なると……」
レオのたとえのせいであまりファンタジーっぽくない映像がユウトの脳裏に浮かぶ。
「レオ兄さん、見たことあるの? ……っていうかさ、何だかこの世界のこと、知ってる? お金の価値とか、物の相場とかも分かってるみたいだし」
弟はさっきから疑問に思っていたことを兄に訊ねた。いや、さっきどころではないか。
知識もそうだが、平和で安全な日本から来て、いきなりあのバカでかい熊モンスター相手に剣を振るえるものだろうか。これは力ではなく、内面的な問題でだ。
じいっと見つめると、訊ねられたレオの視線が軽く外れた。
「……チートだ」
何だそれは、嘘くさい。弟が言うまでチートのそういう意味も知らなかったくせに。
でも兄はそれ以上語る気はないらしかった。しらっと腕時計を着けて立ち上がる。
手元で時間を確認したレオは、それから窓の外を見た。
「夜の八時。そろそろ行くか。……迷宮の階層がどれほどあるのか分からないからな、帰りは遅くなる。ユウトは俺を待たずに寝ていろ。おなかを冷やすなよ。朝に肌寒いようならうさ耳フード付きのもこもこパーカーを持ってきてあるから、それを羽織っておけ。あ、その姿であまり歩き回るなよ。あれはヤバい。可愛すぎるから」
言いつつウエストポーチを着ける。日本にいた時の、兄の外回り営業のおともだ。入っているのは五〇〇mlペットボトルの水と、固形の栄養食品三本。
そこに借りたナイフホルダーと、剣が二本ぶら下がる。
最後に持ち物をもう一度確認して、レオは扉へと向かった。
「え、兄さん、それだけで行くの!?」
「大丈夫、アイテムや高価な素材を持ち帰るための折りたたみエコバッグも内ポケットに入れてある」
「いや、僕が心配してんのはそんなのじゃなくて! もっとロープとかたいまつとか回復薬みたいのとか、ダンジョン攻略に役に立ちそうなものを持って行ってよ!」
「必要ない。お前のいない迷宮に長居する気はないからな。本気で困るのは中で大便をもよおした時くらいだから、心配するな」
軽く手を上げると、レオはユウトを残して、まるでスーパーに買い物に行くような気安さで部屋を出て行った。
翌朝、ユウトはいつもよりだいぶ早く目を覚ました。
すぐに隣のベッドを確認したが、当然まだレオは帰ってきていない。
そこから二度寝をする気にもなれず、ユウトは着替えを済ませて部屋の窓を開けた。
二階から見える太陽はまだ地平に下半分を隠したまま。しかし、周囲を見渡すには十分だ。うっすらと靄のかかる森の方へと目をこらす。
(ゲート、ここから見えないかな)
離れたところに見える抉られたような丸い場所は、ユウトが先日作ったクレーターだろう。ゲートから熊もどきが現れていたというのなら、きっとあの付近にあるはずだ。
けれど、ここからでは森の緑が見えるばかりで、空間の歪みとやらは確認できなかった。
「よう、少年。早いな」
不意に窓の下から声を掛けられて目を向ける。
見れば、先日若旦那と一緒にユウトを助けてくれた三十代くらいの無精ひげの男が、こちらを見上げていた。警備に回っているのだろう、背中に弓を背負っている。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。あのバカ強いお前の兄ちゃんがゲート壊しに行ってくれてんだってな。そこから見えるか?」
「全然見えないです。どの辺にあるんでしょう」
「ええとな、こっからだと森の真ん中からちょっと右の奥……説明が難しいな」
男がバリバリと頭を掻き、それから何かを思い立ったようにこちらを見上げた。
「そうだ、今からそのゲートの見回りに行くが、少年も来るか?」
「え、いいんですか?」
「魔物は朝日を浴びてる間、おとなしくなるんだ。太陽が出てから朝八時くらいまでは襲われることはまずねえから平気だ」
「行きます!」
ユウトは急いで部屋を出て、階段を降りる。すでに朝食の支度を始めていた商家の使用人に外出を告げると、そのまま建物を出た。
「ここからどのくらいなんですか?」
「まっすぐ歩けば二十分くらいかな。朝飯の時間までには十分帰ってこれるぜ」
思ったよりは近いか。だからこそ、村の脅威でもあったのだろうけれど。
すぐに村の門を出て、ユウトは男と二人で森に入る。
魔物らしき生き物がちらちらと見えたがみんな敵意は見えず、近付いて行かなければ本当に平気そうだった。
散策に近い見回り業務。少しぐらい会話をしてても大丈夫だろう。
「あの、一般的にゲートの攻略って、難しいんですか?」
「んー? まあ、ピンキリだな」
ユウトが訊ねると、男は簡単に説明してくれた。
「そのゲートを作った魔物の強さによって攻略のランクが決まるんだ。基本はAからD。これは一般の冒険者に依頼して潰してもらえる。Dは魔物も弱くて階層も一~五階程度の簡単なヤツ。Aになるとボス以外のザコも強えし、階層も五十階くらいあんのがざららしい」
「五十階……ただ踏破するだけでも大変そう……。ここのゲートも結局ランクA相当なんですよね。最高ランクってことですか?」
「いや、モンスターゲートにはさらにS、SS、SSSってランクがある。でもこれは一般冒険者には回らない、さらにやべえヤツだ。ランクSは冒険者ギルドから直接指名で冒険者に依頼が行く。ランクSS、SSSになると国からの直接依頼になる。報酬はすげえ額らしいぜ」
「はあ、さらに上が……」
そこまで行くと、どれだけの深い迷宮なのだろうか。考えるだけで途方もない。
「まあ、そんなゲートは滅多に出ないけどな。言えばランクAのゲートだって全体の割合からすればかなり珍しい方なんだ。そんなのが近くにできちまうなんて、ウチの村もついてねえわ」
そんな話をしながら、歩き続けることしばし。
不意に男が前方を指さした。
「……さて、兄ちゃんが入ったゲートがそろそろ見えてくるぞ、少年」
言われて彼の示した先に目を向ける。
するとすぐに分かる、異質な光景。
そこには、空間を歪めてゆるゆると渦巻くゲートがあった。人ひとりが通れるくらいのそれは、確かに大きいなるとに見えないこともない。
……何となく、ユウトが学校の裏山で飲み込まれた、光の渦に似ている。
「あれがゲート……」
「悪いが、近くまでは行かねえよ。突然魔物が排出されることがあるからな。少年の兄ちゃんが戦ってるなら、逃げ出てくる魔物もいないとも限らん」
「……どのくらい攻略されてるかとか、表からじゃ分からないんでしょうか」
「冒険者ギルドが持ってるゲート測定器があれば分かるんだが、俺たちじゃ分かんねえな。ただ、五十階あると仮定したら一晩で五階も行ってりゃ順調な方だぜ。まだまだ掛かんだろ」
そういうものなのか。だとしたら、やっぱり昨晩にもう少し食料や攻略に役立つアイテムを兄に持たせるのだった。
「攻略が終わると、入った人はどうなるんですか? 閉じ込められるってことはないですよね。ボスを倒した時点で消えるゲートから強制的に出されるんです?」
「んー、話によるとボスの素材を取る時間もあるらしいから、入った人間が自分の意思でゲートから出た時点で消えるんじゃねえかな。ゲートが消滅する瞬間、天に向かって光の柱が立つらしいぜ、あんなふうに……ん?」
「あ」
男の言葉のタイミングに合わせたように、目の前のゲートから光の
柱が立った。
真っ直ぐ上にのぼったそれはすぐに上空で収束し、まるで花火のようにはじけて霧散する。
本当にこの瞬間、ゲートが消滅したのだ。
そして、ゲートの消えた場所には、背広の裾を直すひとりの眼鏡の男が立っていた。
「あっ! レオ兄さんだ!」
「え、待て、う、嘘だろ……ランクA相当の迷宮を一晩で、ひとりで攻略してきた……!?」
その名を呼んだユウトの隣で、男が愕然と呟く。余程予想外だったのだろう。しばし目と口が開きっぱなしだった。
けれど、弟に気付いたレオがこちらに平然と向かってくるのを確認すると、にわかに浮き足だって慌ててユウトに声を掛ける。
「マジか、こうしちゃいらんねえ……! 少年、ここから帰るのは兄ちゃんいるから大丈夫だな!? 俺は一足先に村に戻って村長にゲートの消滅を知らせてくるわ!」
「あ、はい、お願いします。僕は兄さんと後から歩いて行きます」
「ああ、じゃあな!」
男は即座にきびすを返し、村に向かって勢いよく走り出した。それを見送っているうちに、レオがユウトのもとにやってくる。
ユウトは兄に身体の正面を向け、高い位置にある端正な顔を見上げた。
「レオ兄さん、お帰りなさい」
「ああ、ただいま。お前が夜中に布団を蹴飛ばして風邪をひいてないか心配で急いで帰ってきたが、大丈夫だったようだな。……朝食の時間には間に合いそうか? 一晩中動いていたから、さすがに腹が減った」
「大丈夫、村に戻ったらちょうど朝ご飯の時間だよ」
少し髪が乱れているが、レオは至って通常運転だ。やはり背広に返り血などついていないし、ネクタイがよれてもいない。
先ほどの男の反応からして彼はすごいことをなしたのだろうけれど、いつもと変わらぬ兄の様子に弟はあまり実感が湧かなかった。
まあ何にせよ、無事だったのならそれでいい。
ユウトは手を伸ばしてレオの髪の毛をちょいちょいと直すと、二人並んで村に向かって歩き出した。
「兄さん、エコバッグ使わなかったの? 高価な素材取ってくるって言ってたのに」
レオは、持ち物もほとんど変わっていないようだった。
ウエストポーチと剣二本、ナイフホルダー一つ。戦利品らしき物は見当たらない。
「ああ、エコバッグは必要なかった。もっと良い物を手に入れてな」
しかしよく見ると、兄の腰に別のウエストポーチがもう一つ着いていた。口が一つだけの、シンプルな物だ。
「……新しいウエストポーチ?」
「これは圧縮収納ポーチだ。上限容量五十㎏分まで物を収納することができる。素材やアイテムはみんなこれに突っ込んできた」
「へえ! そんな画期的な物が! 大荷物がコンパクトに持ち歩けるなんて、楽だね。僕も欲しいなあ」
これがあれば自身の荷物を全部持ち歩ける。自分の家じゃない今はタンスも何もないし、収納としてちょうど良い。
そう思って言うと、しかしレオに即座に首を振られた。
「ユウトでは無理だ」
「え、何で?」
「持ってみろ」
腰に下がっているポーチを示されて、ユウトはそれを片手で下から持ち上げようとした。しかし、それは微動だにしない。さらに両手で試しても駄目だった。
重いのだ。岩石のように重い。何だこれ。
「言ったろう、圧縮収納だ。質量は変わらず圧縮するだけだから、重さは変わらない。今はポーチ容量上限近くまで突っ込んであるからな、ほぼ五十㎏ある」
「……こ、これは確かに僕じゃ無理……。いや逆に平然と腰に下げてるレオ兄さんが信じられないんだけど」
「腰にユウトが巻き付いてると思えばたいしたことはない」
一五〇センチのユウトの体重は、五十㎏に満たないとはいえだいたいそのくらいだ。まあ男としては少し軽いかもしれないけれど、それでも腰にひとりの人間分の重さを下げて、ここまで平然としていられるものなのだろうか。
……何にせよユウトの非力では、これはあきらめざるを得ない。
「じゃあさ、他に何かいいものあった?」
「宝箱から防汚+5、防臭+5の効果の付いたブーメランパンツが手に入った」
「……あ…………そう」
「それから、強力消臭剤」
「消臭剤……」
何だか思ったより弟がわくわくする物はないようだ。
ブーメランパンツは下着の替えのない兄が下着代わりにはけばいい。とりあえずユウトは要らない。
「他にも……」
「あ、うん、もういいや。レオ兄さんも疲れてるだろうし、早く帰ってご飯食べて休んでよ」
続けようとするレオを遮って、ユウトは微笑んだ。
頑張ってきた彼に、これ以上自分の微妙な反応を見せることもないだろう。
兄が元気に戻ってきたのだから、手に入れた物に好奇心はあれども後は些末ごとだ。まずは村に戻ってこのくそ重い荷物を下ろしてもらおう。
そうして村に近付くと、村長たちが門の外まで出迎えに来ていた。
早朝だというのにたくさんの村人がいる。
待っていた彼らに歓声と共に家に招き入れられた二人は、朝食としてはかなり賑やかな食事をすることになったのだった。