兄、弟に起きた変化を知りたい
王都に戻る道中は順調だ。
アシュレイも疲れ知らずで、その速度を落とすことがない。
通常の馬車なら丸1日掛けて走る距離を半日で踏破したところで、一行はようやく遅めの昼休憩を取った。
「アシュレイ、ご苦労様。今ハーネス外すね」
馬車を降りたユウトが、アシュレイの側に寄っていく。
するとやはり何か気になるのか、馬は弟の匂いをふんふんと嗅ぎ始めた。
確実に昨日までとはユウトの何かが違うのだ。
その何かを言語化して疑問を呈してくれるのは、昨晩の弟の散歩に同行しなかったアシュレイしかいない。
レオはそれを期待して、さりげなく彼の人化を促した。
「……アシュレイ、1時間ほど休憩を取る。その姿のままじゃコーヒーも飲めんだろう。人化したらどうだ」
当然ここにはアシュレイの姿を気にする者はいない。
そう言われれば彼はレオの思惑通り、躊躇いなく人化した。
そして身体を屈め、再びユウトの匂いを嗅ぐ。
馬にされるのとは違う、明らかに意図を持って匂いを嗅がれている状況に、ユウトが初めて気付いたようにきょとんとした。
「どしたの? アシュレイ。……僕、何か臭う?」
やはり自身では変化が分かっていないようだ。自分でもクンクンと袖口のあたりを嗅いでみている。
それに対して首を振ったアシュレイは、どこか陶然としたような息を吐いた。
「今のユウトはすごく良い匂いがする。……もちろん今までも良い匂いがしていたんだがもっと複雑な……」
「え? 特に何もつけてないけど……。あ、もしかしてガントを出てくる時にラフィールさんからもらった浄魔華の蜜の匂いかな」
ユウトがとろりとした液体の入った瓶をポーチから取り出す。その蓋を開けると、レオでも分かるほどの甘い匂いが広がった。
甘い物が得意でないレオにとっては眉間にしわが寄る香りだ。
「……いつの間にそんなもんもらったんだ。蓋を閉めろ、甘ったるくてたまらん」
「さっき別れ際の挨拶の最中にくれたの。用途はよく分からないんだけど、必要になるかもしれないから持ってなさいって言ってた。……アシュレイ、匂いってこれじゃない?」
「いや、その匂いは全然違う。ユウトのは、身体から滲み出る魔力の匂いだ。昨晩からうっすらと香ってはいたが、今ははっきりと分かる」
ユウトが取り出した蜜ではなく魔力の匂いだと、アシュレイは断言した。
そしてその匂いが変わったのは昨晩、クリスが言ったようにユウトの魔力が大きくなり、闇属性が混じってからだということだ。
彼らのような半魔からすると、身体の中にある魔の部分がその闇属性に惹かれるのかもしれない。
闇属性については魔界の資料の方が詳しいだろうし、今後のためにあとでクリスに聞いておいた方がいいだろう。
それはさておき。
レオはアシュレイの言葉尻に乗った。
「昨晩からユウトの魔力の匂いが変わった? ……何があったんだ?」
内心の緊張を見せないように、平静を装って弟の顔を覗き込む。
するとユウトは少し困ったように眉尻を下げた。
「魔力の匂いが変わったって言われても、自覚がないんだけど……」
「何の切っ掛けもなく変わるわけもないだろう。昨日、夕食前に散歩していた時に、何かあったんじゃないのか?」
思わずピンポイントで突っ込んでしまう。
しかし実際、あの時以外考えられないのだ。
そんなレオの指摘に対し、ユウトは一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに取り繕うような苦笑を浮かべた。
「……別に、嫌な匂いじゃないならそれで良くない? 特に何の支障もないんだし。アシュレイも平気でしょ?」
「もちろん、ユウトが良い匂いがするのに問題なんてないが……」
水を向けられたアシュレイが、頷きながらもちらりとレオを見る。
何かこちらに言いたいことがある様子だが、ユウトを気にしているようだ。
レオはそれに視線だけで応えて、突っ込むことを止めた。
「……まあ、問題ないならそれでいい。じゃあユウト、休憩で飲み物を淹れるから、クリスを叩き起こしてこい。特別濃くて苦いコーヒー飲ませてやる」
「うん、分かった」
それ以上の言及がなかったことに安堵した弟が、にこりと笑って馬車の荷台に入っていく。
その後ろ姿が消えるのを確認して、レオはすぐさまアシュレイに向き直った。
「……ユウトの変化についてお前が気付いたことを手短に言え」
僅かに低くなってしまった声と鋭くなってしまった目付きにアシュレイが萎縮したようだが仕方がない。ユウトに関することでは感情を抑えることは難しいのだ。
だが当然彼だってレオがそういう人間なのは知っている。気後れはしたものの、すぐに気を取り直して口を開いた。
「ユウトに現れた匂いは、闇属性の魔性の匂いだ」
「……やはり闇属性なのか……」
クリスに言われて分かってはいたけれど、それを駄目押しされて落ち着かない気分になる。
暗黒児だった頃のユウト、それが今の弟とリンクし始めているのだろうか。それはレオにとっては考えたくないことだった。
「レオさんはユウトに闇属性が発現したことを知っていたのか」
「ああ。今朝クリスに聞いた。だがそれだけしか分からん。昨晩一体何があってそんなことになったのか……」
「どちらにせよ、ユウトには元々闇魔法の素養もあったのだと思う。四大の司る属性は学び取って精霊と契約すれば使えるものだけど、聖と闇の属性はその出自によって使えるようになるものだから」
「ユウトの出自……」
弟に闇魔法の素養があることは分かっていた。昔使っていたのだから当然だ。
しかし、ユウトの正体に近付くほどに分からなくなってくる。
弟は一体何者なのか。
できることならばただただレオの弟でいて欲しいのだが、それを世界が許してくれない。
いっそこの世界が滅びようと、あのまま日本に2人でいられた方が平和だったのに。そんな極端な考えすら浮かんでくる。
……いや、そもそも自分たちがあちらの世界に飛んだことも、いきなり引き戻されたことも、この世界の何かが意図したことなのだろうか。だとしたら一体誰が。
そうして答えの見えない思考を巡らせているうちに、クリスを起こしたユウトが馬車から降りてきた。
「クリスさんを起こしてきたよ。……どうしたの? レオ兄さん、眉間にしわが寄ってる」
すぐに兄の様子に気が付いた弟が、近付いてきて手を伸ばす。
その指先に眉間を撫でられると、少しだけ安心してそのこわばりが解けた。
この瞬間は紛れもないレオの可愛い弟だ。とりあえずその身体を一度ぎゅうと抱き締めて、すぐに解放した。
どうあろうと結局、ユウトを世界の呪縛から解くためには、レオは立ちはだかるものを全て潰していくしかないのだ。立ち止まってはいられない。
「ユウトは何を飲む? 紅茶で良いか」
「うん、はちみつ入れたやつ。エルドワも同じのでいいよね?」
「アン」
レオは手際よく飲み物の準備をし、欠伸をしながら出てきたクリスに特別苦いコーヒーを押しつける。
自分とアシュレイにはいつものコーヒー、ユウトとエルドワには甘い紅茶を用意して、おいおいで自然と円を描くように座った。
「うわ、にっが……」
「眠気覚ましにはちょうどいいだろ。今日はできるだけ、進めるところまで行きたい。うとうとして御者席から転げ落ちんなよ。……アシュレイ、体力の方はどうだ」
「まだまだ、全然元気だ。夜通しでも走れる」
「もう、ダメだよちゃんと休憩取らないと。こんなスピードで常時走ってくれてるだけでもありがたいんだから」
意気込むアシュレイをユウトが窘める。
まあ当然、レオも夜通しで走らせる気はさらさらない。彼がいなければこの馬車を引ける馬はいないのだ。いくら体力自慢でも無理は禁物だ。
「もちろん、夜は野営にする。それでも昼間にこれだけ走れれば、丸々2日でどうにか王都に着けるかもしれん」
「ていうか、この距離を2日でってのはかなりすごいよね。アシュレイくんがいてくれて良かったなあ」
確かにこの緊急時、移動時間がこれだけ短縮出来るのはありがたい。転移魔石を温存出来るのも何気に大きい。
今後、何があるのか分からないのだ。打てる手数は多い方がいい。
「王都に着いたらレオくんは王宮に報告に行くのかな?」
「ああ。その前にユウトを魔法学校に送っていくが」
「……魔法学校なら、僕とエルドワだけで大丈夫だよ?」
またそんなことを言う。
さっき心細そうにしていたくせに、放っておけるか。
「送っていく」
「……うん」
もう一度強めに言うと、ユウトが今度は素直に頷く。どこか安堵したように見えるのは気のせいではあるまい。
きっと彼にとって何か重要な話をしにいくのだ。
レオも同席する、と言ったらさすがに断られるか、全く違う話になるのだろう。ユウトが祠で手に入れてきた情報が何なのか、今さらながら気に掛かる。
「じゃあ私も魔法学校に行こうかなあ。ディアさんと話したいことがあるし、ユウトくんの話にも興味あるしね」
「え、クリスさんも!?」
クリスが思わぬことを言い出した。この他意のなさそうな軽い言い回し、おそらく狙わずにやっている。
クレバーながら天然な彼の為せる技か。
何にせよ、クリスが一緒に話を聞いてくれるなら、レオとしてはありがたいこと。万が一彼もユウトに口止めされたとしても、最低限その約束に抵触しない程度に必要な情報は漏らしてくれるだろう。
半魔たちほどユウトに傾倒しているわけでない彼は中立。
情報源としては十分期待出来る。
「……クリスさんの、ディアさんへの用事って……?」
「色々読んだ魔界の本の答え合わせ、かな。ディアさんも世界の理に関しての造詣は深いからね。魔界、魔術、歴史の知識もあるし。ユウトくんも私たちの話を横で聞いてみたら面白いと思うよ」
ユウトは即座にクリスの同席を拒否することはしなかった。
逆に彼の説明を聞いて、うん、と頷く。
「そっか、クリスさんなら……」
クリスなら、と言うことは、レオではダメ、と言うことだ。
そのことにレオは少々ムッとする。
「なら俺も一緒に……」
「レオ兄さんはライネル兄様に報告があるでしょ。クリスさんがいるから大丈夫」
即座に拒否られた。
それに対してあからさまに不機嫌な顔をしてみせると、レオの宥め方を知るユウトはぴとりとすぐ横に身体を寄せてくる。
ああもう、この子犬のようなしぐさと瞳は卑怯すぎる。
そのまま上目遣いで見上げられれば、兄の不機嫌は結局長くは続かないのだ。
「レオ兄さん……魔法学校までは送ってくれる?」
「もちろんだ」
駄目押しに可愛く小首を傾げられたら、頷くしかないだろう。
「……レオくんってユウトくん相手だとチョロいよね」
それを見ていたクリスが、コーヒーを啜りながら苦笑した。




