弟、エルドワに連れ去られる
ユウトは持ち物を確認すると、くるりとレオを振り返った。
見上げた兄の顔は、とても不機嫌で不安げだ。そんなに心配しなくても、と小さく笑ってユウトはその手を取った。
一度だけきゅっとそれを握る。
「じゃあ、行ってくるね」
「……行かせたくない」
まだ言ってる。こちらの手を逆に掴まえた往生際の悪いレオは、大きな子どもみたいだ。
「ここを通りたければ俺を倒してから行け」
「何それ」
ユウトは思わず吹き出した。
いつも頼りになる兄が、弟について行けないというだけで拗ねているのに、こそばゆい気持ちになる。つまりそれだけ自分を大事に思ってくれているということだ。
「そんなに心配しなくても、鍵を開けた時に罠でどこかに飛ばされたら、すぐ連絡入れるよ」
「……絶対だぞ。こちらから掛けると、着信音で敵に勘付かれるかもしれんから、お前からの連絡を待つしかない」
「分かってる。……圏外だったら無理だけど」
「……圏外とかあるのか?」
「どうだろ」
まあ魔界とも通話出来るくらいだし、余程特殊な場所でなければ問題はないだろう。
ユウトはやんわりとレオの手を外すと、一歩下がった。その距離でいたらまたすぐに掴まえられてしまう。
「レオ、心配するな。ユウトにはエルドワがついてる。ヴァルドもいる」
「……この後も馬車を引かねばならんから中には行けないが、扉までは俺もついていっていいだろうか?」
エルドワとアシュレイも人化して、一緒についてくるようだ。それは僅かながらレオの不安を減らしてくれる。
兄はようやく諦めたようにため息を漏らした。
「……お前たち、ユウトを頼む。……何があっても護ってくれ」
「もちろん! エルドワはユウトの騎士だもの!」
「祠への往き帰りは俺が護る」
「みんな過保護すぎなんだけど……」
やはりユウトの小さくて細い見た目が頼りないのだろうか。
色んな事が終わったら今度こそ筋肉を付けようかなあ、などと思っているのはレオには内緒だ。絶対阻止される。
「ユウト様、出立の準備ができたのでしたらそろそろ向かいましょう。夜に掛かってしまうと周囲の瘴気も増してきます」
「あ、はい。分かりました。じゃあね、レオ兄さん、クリスさん」
「気を付けて行ってくるんだよ」
ユウトが手を振ると、クリスも軽く手を振って応じた。
そして兄はこの世の終わりみたいな顔をしている。
「レオ兄さん、顔」
「顔なんぞどうでもいい! ユウト……必ず生きて戻るんだぞ!」
「うん、行ってきます」
ここまでされると死亡フラグが立ちそうだ。レオの精神状態を安定させるためにも、さっさと行って帰ってこよう。
苦笑しつつそんなことを思いながら、ユウトはラフィールに連れられてガントを出た。
精霊の祠に向かう途中、ユウトは道のあちこちに瘴気溜まりがあるのに気付いた。
これは半魔には紫がかった靄として視認出来るが、人間には無色無臭で察知出来ないらしい。こんなところにレオとクリスを連れて来たら、気付かずに瘴気を吸ってしまうところだ。村に置いてきて良かった。
「……他のところは精霊の祠が閉じていても瘴気が出るようなことはなかったのに、どうしてここには瘴気が発生しているんでしょう?」
「ここの祠は、魔界との接点に一番近い場所なのです。以前から瘴気の発生していたところで、遙か昔にはこの辺りは魔物の住む城がありました」
「魔物の城? 人間と共存していたってことですか?」
「人間界が侵蝕されかけたという方が正しいですね。おかげで魔界と人間界のバランスが崩れ、当時は世界崩壊の危機に瀕しておりました」
「世界崩壊の危機……」
何だか、今と状況が似ているような。ジラックが魔界の城とは言わないけれど、世界を危機に陥れているのは事実。
「その時は、どうやって危機を回避できたんですか?」
「……ひとりの、大きな力を持つ者の犠牲によって」
「ひとりの犠牲……?」
「世界のバランスを崩すのは人、魔族や魔物……。しかし一番恐ろしいのは、そのバランスを欠いた世界に忍び寄る悪意も敵意もない這い寄る混沌、全てを飲み込むおぞましきもの……。それに抗しえたのが、特別な力を持ったたったひとりの者だけだったのです」
「おぞましきもの……」
ユウトはその言葉を今初めて聞いた。
「そんなのが現れたら、同じように特別な力を持ったひとを見付けないと終わりですよね」
「それを出現させないように戦っておられるのが貴方様がたなのでは? ……現在のこの状況、精霊の祠を全て開放されればだいぶ良くなるはずです」
「あ、そっか、そうですね。じゃあレオ兄さんは分かって行動してるのかな。僕には教えてくれないんで、詳しいこと知らないんです」
レオが秘密主義なのはいつものこと。しかしそれはユウトが知らなくていいことだと兄が考えているのだから、無理に知ろうとは思わない。
ユウトがそう告げると、ラフィールは顎下に手を当て、思案するように僅かに眉間にしわを寄せた。
「……お兄様は、貴方様の出自をご存じで?」
「えっ? ……どうでしょう、知ってるのかな。僕の昔のことは全然話してくれないから……」
「話してくれない?」
「僕、5年前から昔の記憶がないんです。自分が何の半魔かも分からなくて」
「なんと……!」
その言葉に、ラフィールが言葉を失う。
そしておもむろにユウトの肩に手を掛け、「失敬」とひとこと断って、その瞳を覗き込んだ。
「昔の記憶が切り離されている……外因と内因の相互の作用によるものか。これは……」
「……ラフィールさん?」
こちらの瞳を見つめたまま、ラフィールは美しい唇で聞き慣れない言葉を紡ぎ始める。……何だろう、呪文のような。
するとその途端、2人の間にエルドワが割り込んできた。
「ユウトユウト、あっちにカボチャがなってる匂いがする。採って帰ってレオに今晩料理してもらおう」
「え? ちょ、エルドワ」
身体は小さくても、力はユウトの数十、いや、数百倍はある子どもだ。手を引かれたユウトは、あっという間に林の中までエルドワに連れ去られた。
「……なぜ邪魔を……」
ラフィールが眉根を寄せたまま、林に連れ去られたユウトを待つために足を止める。
その彼に、アシュレイも眉根を寄せた。
「……あんた今、了解も無しにユウトの記憶を戻そうとしたな」
「そうだ。失ったものを戻して差し上げるのは当然だろう。……しかしあの子犬、それを分かって邪魔をしおったな。なぜそんなことを?」
「それはこっちの科白だ」
アシュレイが肩を竦めると、ラフィールは少しいらだたしげに、前に流れた長い髪を背中側へと払った。
「お前もあの子犬も、ユウト様の眷属であろう。記憶を封じられ、その能力を人間に利用されるあの方を黙って見ているつもりか」
「人間に利用されるって……レオさんがユウトをってことか? それはあり得ない話だ。レオさんはユウトを自分の命より大事に思っている」
「来たる時まで、手元に置いておくための演技かもしれぬ」
思ったよりラフィールは猜疑心の強い男のようだ。……いや、そういえば彼の身体は今、瘴気に汚染されていると言っていたか。
ラフィール自身が気付かないうちに、思考が瘴気に侵されているのかもしれない。
「あんたがユウトについて何を知っているか知らないが、あいにくレオさんはユウトが何者であるか知らない。そもそも、あのひとはそんな打算的な男じゃない。……それに、ユウトだってレオさんをとても信頼している」
「……昔のことを語ってもくれぬ男だというのに?」
「それでもだ。彼ら2人の間のことに、勝手に手を出してはいけない。ユウトとレオさんの間には、そういう空気がある。俺はユウトの眷属だが、レオも護り、そして2人の空気を護ることもまた、ユウトを護ることに通じる。あんたが勝手にユウトの記憶を戻そうとするなら、俺もエルドワも阻止するのは当然だ」
「……何とも視野の狭い……」
ラフィールが呆れ果てた様子で首を振った。
まあアシュレイだって、ユウトとレオが納得済みなら記憶は戻った方がいいと思っている。ただ、弟のことに関してだけは酷く臆病な兄は、きっとそれを望まないだろう。
世界においてのユウトの重要性は、アシュレイにだって痛いほど分かる。レオならなおのこと、それを感じて怯えているはずなのだ。
ユウトの抱える過去、そして宿命、それらが詳らかになった時、2人は一体どうなってしまうのか。
もしも全てが明かされても、出来ることなら彼らが一緒にいられる未来がいい。それはアシュレイの望みでもあった。




