弟、アイクに厳しい
ゲートを脱出して海から出ると、もう夕暮れだった。
桟橋に上がった途端に水中歩行が切れて、べしゃりと海水が身体にまとわりつく。一応防汚・防水は付いた装備だが、一度水洗いして乾かしたいところだ。
エルドワのころころもふもふしたいつのも見た目も、ぺたーっと身体に毛が貼り付いて別犬のよう。犬ドリルで水分を飛ばしてもべたつきは取れず、だいぶ不愉快そうな顔をしていた。
できれば今後、水中ゲートは極力勘弁願いたい。そう思わずにはいられない。
しかし、いつものことなのだろう、クリスだけは平然と微笑んだ。
「みんな、お疲れ様。私は一旦自宅に戻るよ。村を出る準備もしなくちゃいけないしね」
「お疲れ様でした、クリスさん」
「明日は昼頃に出立しよう。……あんた、ギルドカードとか持ってないんだよな? できればアイクから通行証をもらって来れれば良いんだが」
「ああ、分かった。頼んでみるよ」
……クリスはとっても軽く請け合うが、あの男は素直に出してくれるだろうか。
まあ最悪、またルウドルトに頼んで裏から王都に入れてもらっても良い。ギルドカードはライネル経由で作ってもらえる。
「荷物はどのくらいある? 一応村の外に馬車があるから、ポーチに入らない荷物があれば積めるぞ」
「いや、自分の荷物は大して持ってないから大丈夫。……じゃあ、明日の昼前に村の門のところで待ってるよ」
「クリスさん、また明日」
「うん、またね」
そう言うと、クリスは手を振って自宅へと戻っていった。
それを見送ったレオたちも、遅れて宿屋に向かう。
今日はゆっくりと風呂につかって、装備は宿屋で洗濯してもらって、たっぷりと飯を食って、ユウトを抱き枕にして寝よう。
レオは勝手に自分の中でそう決めて、濡れた前髪を掻き上げた。
「こんにちは、皆さん」
「あれ、エリーさん。村長さんも。こんにちは」
翌日の昼前、村の門のところに行くと、クリスとエリー、そしてアイクがいた。
……これは、また面倒臭いことになるパターンか。
レオはその嫌そうな表情を隠すことなく、エリーを見た。
「……何でここにいるんだ、あんたら」
「その問いに答えは必要ですか?」
皆まで言わせるなということか。まあ、無表情だが彼女もきっと面倒臭えと思っているのだろう。
エリーを伴って来たアイクは、クリスの前でまたブツブツ何かを呟いている。大変鬱陶しい。
レオは彼を無視してクリスに話し掛けた。
「おい、クリス。通行証はもらえたのか?」
「ええと、私の手にはまだだね。今アイクさんが持ってるんだけど」
見れば確かに、アイクの手に封筒がある。それをクリスに渡すと村を出ることが確定で、だから停止しているのか、この男。ここまで来て往生際の悪い。
「力尽くで取り上げろ。面倒臭え」
「きっ、貴様は鬼か! クソ、横から親友の座を掻っ攫いに来やがって……!」
「掻っ攫うも何も、その座はガラガラに空いてたじゃねえか。そもそも、攫う気ねえし」
こちらには普通に反応するようだ。ただ、クリスに対するこじらせが半端ないから進まない。
レオが呆れたため息を吐くと、何故か兄に代わって隣のユウトがアイクに物申した。
「村長さん! ここは男らしく行くべきですよ! 最後をそんな女々しい姿で終わらせるつもりですか!」
「うっ、一回り以上歳下の子どもに叱られた……!」
ユウトは妙にアイクに厳しい。何か思うところがあるのだろうが、レオとしては昔の自分が叱られている気分になるから、あえて知らんぷりをした。
「いいですか、この状況を変えたいのなら勇気を持って自分が変わるしかないんです! 自分が変わらずに相手だけを変えようなんて、虫が良すぎますからね!」
「うぐぅ……」
「ユウトさん、素晴らしい。倍も歳の離れた子に叱られてぐうの音も出ない村長に、私は胸がすく思いです」
エリーはその状況を楽しんでいるようだが、横で聞いているレオは耳が痛い。
もちろん今は違う、でも未だに残る自己嫌悪に、弟の言葉はグサグサ突き刺さるのだ。
同様に現在進行形で刺さっているこの男は、途方に暮れた。
「し、しかし、どうすれば……」
「村長さんには想像力が欠けています。相手の気持ちを慮る力です。あなたが今そうして通行証を握りしめていても、クリスさんには迷惑なだけで何のプラスの効果もない。どうすればクリスさんに良く思ってもらえるか、まずそこから考えて下さい」
「くっ……」
アイクはコミュ障ではあるが馬鹿ではない。ユウトに的確なアドバイスをもらって、苦悶の表情を浮かべた。おそらく自身の思いと、するべき行動の間で葛藤しているのだろう。
しかし、彼はようやく震える手で通行証をクリスに差し出した。
「ク、クリス、これを……」
「うん、ありがとう、アイクさん」
やっと差し出された封筒を、クリスがにこりと微笑んで受け取る。
その笑顔に、アイクも緊張していた身体の力が僅かに抜けたようだった。
「……こんな鬱陶しくて挙動不審な男に、よくあんなににこやかに応対できるよな、あいつ」
「同感です。クリスさんはもはや悟りを開いているんじゃないでしょうか。私ならイライラして往復ビンタ2・3回かましてます」
こそこそと話す2人を余所に、ユウトはアイクに後ろから耳打ちする。
「さあ、次は男らしくさらりと今までの感謝とか述べましょう。これまでクズ対応だった分、印象アップの振り幅が大きくなります」
「お、おう……。ええと、クリス。……これまで長い間、ベラールの村を護ってくれたこと、感謝している」
アイクが完全にユウトに誘導されているが、まあ、上手く話が進むならそれでいい。……しかし、ユウトの立ち位置は一体何なんだ。
クリスも2人のやりとりが見えているだろうに、それでも穏やかに笑っている。
「お礼ならこちらこそ。家も貸してもらっちゃったし、女性化やアホ化で大変な時に色々世話してもらって、ありがとう」
「そ、そうだろう! 俺が世話してやったから……」
「調子に乗らない」
「……ハイ」
すぐにマウントを取ろうとしたアイクを、ユウトが後ろからすかさず咎める。それに素直に従う、アイクはすっかりユウトの言うなりだ。
「村長としてだけじゃなく、個人的なお礼とかもあるでしょ?」
「あ、ああ……。その、クリスが作ってくれる料理、美味くてとてもありがたかった」
「あれ、アイクさんいつも今ひとつって言ってたから、私の料理好きじゃないと思ってたんだけど」
「うわ、料理作ってもらっておきながらそんなこと言ってたんですか? 最悪……」
「いや、本気で言っていたわけじゃなく! クリスの作ったタコ飯も味噌汁も、本当は好物だ。……すまん」
アイクが謝ると、レオの横にいたエリーが目を丸くした。
「あのクソプライドの持ち主の村長が、謝罪を……?」
「ユウトの突っ込みが上手いこと効いているんだな。天使のようなユウトに非難されるとすぐ謝ってしまう、あいつの気持ちはよく分かる……」
「レオさんや村長は可愛い子に詰られると弱いのでしょうか」
「俺を詰れるのは可愛いユウト限定だがな」
「何故ドヤ顔」
レオのことは置いておいて、この展開は短時間にユウトとアイクの間で上下関係が出来た様子なのが一因だろう。
不本意ながら昔の兄に似ているというアイク。その心情を早々にユウトが喝破したことで、彼はその目の前で本心を偽れなくなったのだ。
そうして一度謝罪の言葉を口にしたアイクは、まるで憑きものが落ちたように表情が和らいだ。
「これまで、お前に危険な役目ばかりさせて悪かった」
「そこは適材適所ってやつでしょ。村のみんなには良くしてもらったし、アイクさんが謝ることじゃないよ」
「おお……普通に会話してる……」
「すごいです、ユウトさん。ウチの次席秘書に欲しいくらい」
「やらん」
とりあえず、これなら後腐れ無く出立できそうだ。
そう思いながら成り行きを見守る。
「……あ。そうだ、クリス。これを」
すると、アイクが何かを思い出したようにポケットから1枚の紙切れを取りだした。




