弟、精霊の祠の前で悪魔と遭う
日が暮れ始め、森の中は周囲よりも一足早く暗くなる。
足下を草に取られるようになると、エルドワはひょいとユウトを抱えて歩き出した。
いつもと逆だ。ちょっと不思議な感じがする。
そのまま抱えられて進むユウトの耳に、不意に人の怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
これがエルドワが遠くから聞こえていたという、人の声か。
「……ケンカしてる?」
「ケンカというか、敵がいる。……ヴァルド、いい?」
「はい、ここからは私に任せて下さい。エルドワ、マスターをお護りしていて下さいね」
「うん、もちろん」
エルドワが頷くと、ヴァルドがふわりと飛んで先頭に立った。
躊躇なく進む彼の後ろを、少し離れてユウトたちがついていく。
やがて少し森がひらけた場所に出た3人は、その奥にある社の前で口論をしている者たちを見つけた。
「ここで餓死をするくらいなら、実験台になってどんな形でも生きながらえた方が良くない?」
「ふ、ふざけるな! そう言って、連れて行った俺たちの仲間は全員殺されただろう!」
「えー? 実験に失敗は付きものじゃん。それに2人くらいは生き残ってるよ。まあ、すでに人間の記憶はないけど」
社を背に立つ3人の男と、対峙するひとりの男。
その会話の内容で、エルドワが『敵』と称したのがどちらかなんてすぐ分かる。口調はひどく軽いが、纏う魔力はどす黒く重い。
「実験って……あの人、何……?」
「……あの男がいるということは、ここにある研究所は、やはり魔族と……」
「ヴァルド、あいつのこと知ってるのか?」
「ええ。彼は悪魔族……魔界で魔施術師をしている上位魔族の部下です。それがここにいるということは、おそらく悪魔の水晶による転移を仕掛けたのは彼でしょう」
ヴァルドはそう言うと、エルドワをその場に止まらせた。
「ここから先は危険です。私が良いと言うまで、これ以上近付かないように。……ここは瘴気が強いので、少しあちらの方が有利なのです」
「……ヴァルドさん、ひとりで大丈夫なの?」
「ご心配なく。ただ、私も少々大きな力を出さなくてはならないので」
「分かってる。ユウトが巻き込まれないように、エルドワが気を付けるから平気」
「頼みましたよ、エルドワ」
2人を置いて、ヴァルドは再びふわりと浮き上がる。
そして未だ口論をしている男たちから少し離れたところに降り立つと、問答無用で魔法を発動した。
「紅蓮の柱」
「うっわ、何だよ!」
途端に魔族の男の足下から、強烈な炎の柱が立ち上る。
しかし彼は直前に後方に飛び退いて回避した。
今さら第三者の存在に気付いた男たちは、ヴァルドを見て目を丸くする。この出来たばかりの世界では、こうして意図しない人間なり魔族なりに会うことは、本来あり得ないことなのだろう。
「な、何だ……!? 魔族が増えた……!」
人間の男たちが社の軒下で怯えたように後退る。
しかしヴァルドは彼らに意識を向ける気はないようだった。その視線は魔族の男にだけ注がれる。
「……やはり、こんなものでは仕留められませんか」
「お前っ、ヴァルド……!? 何でこんなとこに……!」
「あなた方が、つまらない悪巧みに私の大事な主を巻き込むからです」
ヴァルドが一歩踏み出すと、男は半歩下がった。
それだけで、力関係はヴァルドの方が上だと窺い知れる。
こちらを向いた男は、悪魔らしくそのこめかみ辺りに2本の角を持っていた。
「主……? お前が、誰かの下に付いたと……!?」
「私のことはどうでもいいこと。それよりも、あなたがこんなところで人間と戯れていることの方が気になりますが。……これは上司の方の命令ですか?」
「……ふん、それこそどうでもいいこと。お前に答える義理もない。魔界から逃げ出した半魔風情が、気取りやがって」
最初こそ少し焦った様子を見せたが、男はすぐに落ち着きを取り戻し、自身の周りをとぐろを巻くような黒い魔力で覆った。
その魔力を受け、さっきまで草陰に隠れて見えなかった悪魔の水晶が暗がりで発光し始める。男と呼応しているのだ。
「……時空間転移の罠を仕掛けたのは、やはりあなたでしたか。では、問答無用で死んでいただくしかありませんね。敬愛する我が主のためにも」
「はっ! 今の俺を簡単に倒せると思うなよ。俺は昔とは違う! 出自の時点ではお前の方が上だったが、半魔のステータスなんて流動するし、何より俺は『成長』を手に入れたのだ!」
成長。その言葉でヴァルドはこの男が上司の了解を得ずにここにいることを察した。
魔族は成長をしない。
成長という要素を取り入れるにはどうにかして人間と融合するしかないが、彼の上司がそれを認めるわけがないのだ。上位魔族というのは魔族としてのプライドが高く、安易な変化を許容しない。当然部下にも許すわけがない。それも、こんな得体の知れない研究所と手を組むなど。
「……主人であるルガル様に無断で、馬鹿なことを……。半魔を蔑みながら、成長を求めて造られた半魔と化したわけですか。救いようがない。魔術が巧みに使えることと、頭が良いかは別の話ですね」
「っ、俺を馬鹿にするのか、半魔風情が!」
「自分がその半魔風情の劣化版になったことを自覚していますか? 方法は知りませんが、成長のために人間との融合をしたのでしょう? しかし、奇跡的な相性で自然受精した半魔と違い、成立した個体同士の強制的な融合には確実に歪みが生じます」
「違う、俺は人間を取り込んだんだ。融合などと、まるで対等のように言うんじゃねえ。俺にとっちゃ、能力のオプションが増えたくらいのもんだ。半魔なんかとは違う!」
全くの詭弁だ。馬鹿馬鹿しいが、これが彼の許容しうるぎりぎりの言い訳なのだろう。
理解を拒むこの男を、わざわざ論破する意味はない。
ヴァルドはそう割り切ると、腕を伸ばして手のひらを横に滑らせ、空中に術式の帯を描いた。
「……結構です。私に勝てる自信があるのでしたら、かかってくるといい。まあどちらにしろ、私の姿を見たからには逃がす気はないのですけれど」
「俺を下に見んじゃねえよ! 本当にてめえはいけ好かねえ! 半魔のくせに! その手足もぎ取って、実験材料にしてやる!」
とぐろを巻いていた彼の魔力の渦が、感情に比例して竜巻のように周囲の空気をかき回し始める。男の魔力属性は闇。触れれば呪いや腐敗を招くものだ。
固唾を呑んで2人の様子を見ていた人間の男たちは、慌てて祠の柱に掴まった。
魔族の男が彼らを力尽くで捕らえることが出来なかったことも考えると、どうやらこの祠の周囲だけは魔族の力の侵入を許さないようだ。精霊の加護だろうか。
とりあえずこれなら力を行使するのに、人間たちに気を回す必要はない。
「食らえ! 水晶の雨!」
「ファイア・バースト」
敵が鋭く大粒の水晶の塊を頭上に降らせてくるのを、ヴァルドは自身の周囲に炎を炸裂させることで砕いた。
その欠片が宙に散り、魔族の男はすかさずそこに魔法を被せる。
「鏡の結界!」
水晶の欠片ひとつひとつに魔力を通し術を掛ける、こういう細工は魔施術師の十八番だ。
鏡の結界はその水晶に映った者の動きを封じる術。
周囲を欠片で覆われたヴァルドは、その中央に閉じ込められた。
「ははっ! 造作ねえ! 長いこと人間界にいて、危険回避もできなくなったのか? 間抜け半魔」
「……あなた、馬鹿ですか?」
「な、何っ!?」
こちらの動きを封じたと思って勝ち誇った男に、ヴァルドは結界の中から呆れと不愉快の混じったような呟きを発する。それと同時に、再び空中に術式の帯を描いた。
何事もないように動くヴァルドに、魔族の男が狼狽える。
「てめえ、さっきの術式で何か細工をしやがったな……!?」
「もっと根本的な問題ですよ、お馬鹿さん。半魔と罵るばかりで、私が半吸血鬼だということをお忘れなようだ。……私は鏡やクリスタルなどには姿が映らないのですよ。よって、鏡の結界には掛からないのです」
「あっ……」
失念していた、という様子の男に、ヴァルドは呆れて肩を竦めた。
この男は、『成長』を手に入れたことで強くなったと慢心して、仕掛ける術の精査を怠ったのだ。
……しかし実際、魔物や魔族とはそういうもの。『成長』を、持っていると有利な一種のステータスくらいにしか思っていない。だから手に入れただけで、もう強くなっていると考えてしまう。
「以前のあなたなら、このような気の緩みはなかったでしょうに。……先程と今、私が描いた術式の内容だって、注意して見ていればあなたには分かったはず」
「なっ、あ……!?」
「紅蓮の柱」
ヴァルドがもう一度、天にも届く大きな炎の柱を立ち上げる。
「うわあああああああ!」
今度こそ男は回避出来なかった。その両足にヴァルドが仕掛けた術式による枷が付けられて、逃げられなかったのだ。
男が纏っていた黒い魔力を浄化しながら燃えさかる炎の柱は、彼の抵抗に遭って周囲に激しい熱風をまき散らす。
少し離れたところで、エルドワに護られているユウトですら肌を焼かれるよう。
しかしヴァルドはその場に留まり、男に語りかけた。
「……あなたの欲した『成長』というものは、”手に入れる”ものではなく、”する”ものです。そして、『成長』に必要なのは努力。努力を怠れば、『成長』は途端に『退化』に変わる……。努力というものを理解できない魔族にとって、『成長』は鬼門です。今のあなたは正に『退化』していた」
その声は彼に聞こえているのか分からなかったが、火柱の炎が少し大きくなった気がした。
「そのような状態でルガル様の前に出たら、きっとひどく落胆し、遠ざけられたことでしょう。別の何者かになろうとする必要はない……あなたも、そして他の誰でも、オリジナルであるからこそ価値があるのです。誰にそそのかされたのか知りませんが、それを努々お忘れなきよう」
一度大きくなった炎が、次第に弱まってくる。
火柱に混じっていた黒が抜けていき、徐々に炎は赤黒から青白く変化していった。
「……このまま、魔界の輪廻に戻して差し上げます。次の魔生では間違えてはいけませんよ」
ヴァルドがそう言った途端、炎は一筋の光に集約して、天に昇って消えた。まるでゲートが消える時のようだ。
魔族の男がいたはずの場所には、もう何も残っていなかった。




