弟、危機を脱したはずが
隆起した岩の高台に乗れば回避出来るかと思ったが、どうやらこの粘液は本当に山の岩一つ残らずの表面を覆うらしい。重力に逆らい、その流れは傾斜の上にも向かった。
逃げ場を失ったユウトたちに消化液が迫る。
「こうなると分かってれば、下だけでもジャージはいてきたのに!」
「ぼ、僕は犠牲になるのがパンツだけですし、頑張ってネイさんのこと持ち上げてみましょうか……?」
「ユウトくん、なんて良い子……! でも、どう考えても無理でしょ!」
「あ、そうだ! 足場を使って上に逃げて……」
「んなこと言ってる間にもうそこまで来てんだろ」
ユウトとネイが慌てていると、それを眺めていたミワが突然動いた。
ネイの首根っこを捕まえて引っ張って米俵のように肩に担ぎ、次いでユウトを軽々と腕に抱える。
一瞬遅れてその足下を消化液が覆った。
「ミ、ミワさん、ありがとうございます! 危なかった……」
「何だろう、この石造りの塀に乗ったような安定感……。頑強すぎる……。まさか、女性に抱えられて難を逃れるとは」
「こんなん、鉱石の塊を運ぶより全然軽いわ。ポリシー的に兄にはお触り厳禁だが、お前らは特に問題ねえしな」
確かに、レオが相手でなければ密着しても特に異様な反応は見せないようだ。それが分かっているからか、ネイもユウトもこの状況をあっさりと受け入れている。
ユウトに害がないのなら、レオだってあまり気にすることもない。
「それにしてもすごい流出量。この王冠スライムの粘液が、鉱山の新たな魔法鉱石の素になるんでしょうか」
「鉱石を主食にしてんだから、体液にそういう素養を持ち合わせててもおかしくねえな。あちこちに液溜まりができて、そこから濃度に応じて変化していくんだろ」
「そう考えると、これは山の恵みかな。昔の人間が裸になってもめでたいと祝ったのも分かる気がするねえ」
「王冠スライムって、鉱山のために現れるありがたい魔物なんですね」
粘液はレオの腿の辺りまで来ているが、重いだけで押し流されるような勢いはない。ミワの上では緊迫感もなく、のんびりとした会話がなされている。
魔物による、世界の新陳代謝。
これはその一環なのだとレオも納得した。
「……そろそろ終わりのようだ。嵩が減ってきた」
やがてゆっくりと粘液の水位が下がっていき、レオも足が動くようになる。振り返ると、ミワが液溜まりを避けた場所にユウトとネイとエルドワを降ろしていた。
「ありがとうございます、ミワさん」
「うん、助かったわ。あのままだったら危うく心に傷を負うところだった」
「僕も危うく……あ」
ユウトが突然はたと言葉を止めた。そして自身のローブの内側をこっそりと見る。
一体どうしたのか。
レオが側に行こうとすると、しかし弟はその前にこちらに向かって小走りでやって来た。
その頬が赤らみ、眉尻が下がり、何だか可愛らしくもじもじしている。
「どうした」
「あ、あのね……えっと」
レオは言いづらそうに口ごもるユウトに、身を屈めて顔を近付けた。すると内緒話をするように手を添えて、弟がこそっと兄に耳打ちをする。
「……!」
その内容を聞いたレオはカッと目を見開き、即座に上着を脱いでユウトに着せ、前ボタンを全部閉めた。
そうした上でポーチを漁り、取り出した布物を渡す。
「……あっちの岩陰に行ってこい」
「う、うん」
袖がだぼだぼで裾がふくらはぎまで来る兄の上着をなびかせて、弟は近くの岩陰に走って行った。
それを見ていたネイが、ぱちりと目を瞬く。
「どうしたの、ユウトくん」
「……どうしたもこうしたも……ミワ、貴様がさっきの王冠スライムの指ミサイルで食らった粘液がユウトに……」
「あ。そういや身体の真っ正面で消化液受け止めたままの状態で、弟を抱えてたわ」
「……もしかして、そこから装備の隙間に入っちゃった? 危ね、ユウトくんと位置が逆だったら、ミワさんとの密着面が溶けて、俺が縦半分に半裸になるとこだったわ」
「全く、俺が替えのパンツを持っていたから良かったものの」
「……レオさんが何でユウトくんのパンツの替えを持ち歩いているのか、謎なんだけど」
「俺の危機管理の一環だ」
そんなことを言っている間に、パンツをはき直したユウトが戻ってきた。
「……弟はちんまいから、兄の上着を着ると彼シャツ感半端ないな。タイチ母あたりが見たら狂喜乱舞しそうだ」
「彼シャツ?」
ユウトが首を傾げながら借りた上着を脱ぎ、レオに返す。もう大丈夫なようだ。
「そういやミワさん、上着を脱いだレオさん見ても萌えを叫ばないね」
「いや、あの腰のラインとか、たまらんよ。だけどあたし的には、あの上着まで揃えて完璧なんだよ。つまりモロ見えより、あれがひらりと翻った時にちらりと見えるのが最高なわけ」
「あー、こだわり派なのね」
クソどうでもいい。
レオはそう思いながら、ユウトのローブに残った粘液を手で払い落とす。それから自身に付いたものも手で拭った。
もえす装備には全部防汚+が付いていて、どんな汚れも大体払えば落ちるのだ。当然ミワの装備にも付いている。それをユウトを抱える前に払っておかなかったのは彼女の怠慢だ。
パンツを失ってもじもじする弟が可愛かったから、特に責めはしないけれど。
「……まあいい。これでもうメルトスライムも現れないし、あとは精霊の祠を開けるだけだ。ミワ、先導しろ」
「おう、任せろ」
一行は再び歩き出した。
マナが満ちたせいか、さっきと空気が違う。
山風は穏やかになり、気温もほのかに上がったような気がする。ユウトも少し嬉しそうだ。
「マナが豊富になったおかげかな? 魔力が回復してくる感じがする」
「これが精霊をここに根付かせる下地になるんだろうな。うまく呼び寄せることができればいいんだが」
「王冠スライムより、ここからの方が難儀ですよね。精霊がいないと祠は開かず、祠が開かないと精霊は呼べないんでしょ? 最初から手詰まりですもん」
「……そこは、ディアを介した精霊の言葉を信じるしかあるまい。ユウトなら行けるというんだし」
精霊が自ら祠を閉じたのではなく閉じ込められたと言うのなら、通常と違う条件があってもおかしくない。
悪意あるものの思惑が間違いなく絡んでいるのだから。
「ミワ、バラン鉱山に関する文献を読んだんだろう? 精霊の祠について詳しく聞かせてくれ」
「んーそうだな、精霊の祠は世界に点在する竜穴の上に作られた社で、ここにあるのはそのうちのひとつらしい」
「精霊の祠って、他にもあるんですね」
「ただ、祀られてる精霊は全部同じやつなんだとよ。余程偉い精霊なんだろうな」
その偉い精霊の一部が、現在ユウトに引っ付いているなんてミワも思うまい。
「祠は基本的に閉じられているが、その加護が必要な者が訪れれば扉を開けて招き入れてくれると言われている。しかし最近祠が開いたという記述は全くない」
「山に精霊がいないと祠は開かないっていう話だから、そうやって祠の開け閉め自体を管理してたのは山の精霊なのかな」
「そうかも知れんな。だが逆に、何か精霊でない他の力によって扉が封じられているなら、精霊を集めても意味がないということになる」
「となるとやっぱり最初は精霊を集めるより、祠を封じている何かを排除するのが先だね」
「ああ」
その『何か』が、魔研と関わりがある可能性は大。
精霊を切り離して閉じ込めるようなそれが、人間であるかどうかも分からない。もちろん、その目的すらも。
ジアレイスがそれを利用しているのか、手を結んでいるのか、はたまたその『何か』に利用されているのか。分からないことが多すぎる。
ここは慎重に行かねばなるまい。その悪意に、みすみす大事な弟を晒すわけにはいかないのだ。
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