兄、憤慨する
その夜、寝支度を整えて自室のベッドに入っていたユウトは、唐突に訪れた静けさに身体を起こした。
時刻はもう夜の11時を回っている。当然だが大きな物音を立てているような場所はない。大通りの方から風に乗って酔っ払いたちの僅かな話し声が聞こえる程度だ。
今もその声は聞こえるが、それでも静かだと思ったのは感覚的なものだった。
慣れてしまっていて全く気付かなかった、魔力のノイズが消えたのだ。
それがマルセンによる大地の浄化によるものだとすぐに理解する。
ユウトはベッドを降りると、窓を開けて外を見た。
いつもより空気が澄み、月が綺麗に見えるのは気のせいではない。全ての感覚が何の干渉も受けずに解き放たれたようだった。
何故だか、意味もなく涙が零れる。
感情の伴わない自分の涙に、ユウトは驚き戸惑った。
どこかが痛いわけでも、辛いわけでも、悲しいわけでもない。かと言って喜びや嬉しさに繋がるものでもなくて、本当に意味が分からない。
ただ、どこか閉じられた記憶の底にある何かが、少しだけ疼いたような気がした。
「昨日の夜、大地の浄化しといたぜ」
午後の2時、早めに魔法学校までユウトを迎えに来たレオは、また実習室に来ていた。そこでマルセンの報告を受ける。
「ああ、今朝ユウトに聞いた。何か問題はなかったか?」
「んーまあ、邪魔とかは入らなかったけど……ちょっとだけ、気になることがあったんだよな」
「気になることだと?」
「ユウトが杖に突っ込んでくれた魔力が、やっぱり普通と違ってた」
「あれ、僕の魔力が何かおかしかったですか?」
「いや、すげえの。今の王都、聖域レベルで浄化されてんの。その辺のアンデッドモンスターなら一発で成仏するぜ、これ」
そう言ってマルセンはユウトを見た。
「どうもユウトには聖属性の魔力があるようなんだよな」
「聖属性……?」
それがどういうものなのか、ユウトには分からない。クエスチョンマークを浮かべながら首を傾げると、マルセンが説明をしてくれた。
「聖属性ってのは、滅多に現れない……正直、実在すら疑われるくらい稀有な属性だ。過去、この世界で存在が確認されたのは二人のみ。いずれも『世界の切り札』と呼ばれていた」
「世界の切り札……」
ユウトの隣でそれを聞いていたレオが眉を顰める。
その言葉を、どこかで聞いたことがあった。あれはどこでだったか……。
「……ユウト、お前はホーリィという魔法を知っているか?」
カチリと。
マルセンの言葉がレオの中の記憶にはまった。その言葉を聞いたのは、魔法生物研究所だ。あの日、あの時。
「……待て!」
レオは次の瞬間、慌てたように机を叩いて、マルセンの言葉を遮った。彼の言葉が弟の記憶を揺るがすかもしれないからだ。
突然のことにユウトが驚いて兄を見、マルセンはレオの様子を察してはたと口を閉じる。
不意に周囲に沈黙が落ち、レオは妙に緊張した気持ちで喉をこくりと鳴らした。
「……その話は今度にしよう。それよりも、降魔術式について調べた結果を聞きたいのだが」
「ああ、そっちの方が急を要するわな。悪ぃ悪ぃ、今まとめてきた資料出すわ」
さすが、マルセンは空気を読んですんなりと話を合わせてくる。
しかしユウトは自身に関わる言葉を遮られたことに、不安そうにレオを見た。その頭を宥めるように撫でる。
それだけでいくらか安心を得てくれるユウトに、本当は自分も安心している。無条件で兄を信頼してくれている、この存在を失うような思いは、もうしたくはないしする気もないのだ。
そうしているうちに、資料を持ってきたマルセンがそれを机に広げ、こちらに見せた。
「降魔術式の文献を片っ端からまとめてみたんだけどよ。とりあえずその原理から説明するぞ」
殴り書きのような書き込みだが、一応フローチャートのような書式になっているらしい。マルセンはその一番上の項目を指さした。
「降魔術式の基本は、魔方陣を書き、生け贄を用意して、術式を唱える。この3段階だ。生け贄のレベルと人数によって召喚される魔物のランクが変わる」
「生け贄はやっぱり必要なんだな。魔研の奴ら、ぽんぽん降魔術式を使ってるようだが、どこから生け贄を連れて来ているのか……」
「それがさ。これな、実は『魔界から魔物を召喚する場合』なのよ。この世界の別の場所から呼び出す降魔術式はまた違うらしいんだ」
そう言って、マルセンは資料の上に指を滑らせる。そして、生け贄と書かれた項目から横に伸びた矢印を指先で追った。
「この場合、魔物を呼び出す生け贄というよりは餌になる」
「餌?」
「食いつかれた瞬間だけ生命力をごっそり持って行かれるが、継続した消耗はないということだな。世界と世界の間の壁を抜けるのに比べたら、対価が少ないということだろう」
「つまり、生け贄と違って1回ごとに人命が消費されるわけではないということか」
「そう。まあ魔界から呼び込むのに比べたら手軽だわな。短期間に何人もの人間が消えれば足が付きやすいが、人間を使い回せるならそれほど目立たんし」
なるほど。だとすると、魔研の奴らは強い人間を数人捕まえて、それを使ってこの世界に居る魔物を呼び出しているわけか。
そう考えて、はたと気付く。
研究しかしてなかったようなひょろい魔研の奴らが、強い人間を捕まえるなんてできるだろうか。……いや、無理だ。
高ランクの魔物を呼び出すための餌になるなら、もちろんその人間も高ランク。誰かを雇ったところで無駄だろう。
罠や魔法アイテムを駆使すればどうにかなるかもしれないが、そこまでの労力は掛けるはずもない。
なぜならそれよりももっと簡単で楽な方法を、奴らは使っているのだから。
「もしかして、魔研の奴らが降魔術式で半魔を引っ張ってるのは……」
「まあ、魔物の餌用だろうな。魔物を召喚する対価は人間だが、その要素を持っている上に、魔物と親和性の高い魔力も持っている。そして、街中で強い人間を探してさらってくるのよりずっと楽に手に入る」
あらかじめ檻の中に魔方陣を敷いておけば、半魔なら召喚した瞬間にもう囚われの身だ。おまけに基礎能力は人間よりも断然高い。高ランクモンスターを呼び出すにはもってこいだろう。
「半魔は生け贄としても有能なんだ。能力が高い分、力尽きるまでの時間が長い。魔物を使役できるのは生け贄が生きている間だけだから、単純にその分長く使える」
「な、何ですかそれ、全然嬉しくない……」
ユウトが隣で眉尻を下げている。
「そうか、この世界のどこかから餌で呼び出した魔物は使役できないんだな。……まあ、闘技場で戦わせるのに使役も何もないか」
それにしても、半魔を餌扱いとは。
魔研の連中の所行に、レオは口には出さずに憤慨する。
昔から奴らはそうだった。
魔研には無理な交配をされて作られた半魔が多く居たが、その扱いは実験動物以外の何ものでもなかった。奴らは半魔に何をしようが微塵の罪悪感を抱くこともない。
人間と同じ感情を持った生き物であることを完全に無視しているのだ。当時笑いながら彼らが死ぬのを見ていた奴らを思い出す。
レオは魔研の連中がユウトに為した非道の数々を、許してやる気など毛頭ない。
しかし一瞬で楽に殺してやるつもりもなかった。
その罪の数だけ、生きたまま切り刻んでやる。
レオはそんな物騒なことを考えながら、無意識に腰に下げた剣を揺らした。




