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弟、ピンチ

 ユウトは今、懸命に巨大な熊から逃げていた。


 と言ってもそれは彼の知っている熊ではない。3メートルくらい見上げた位置にあるその顔は異形で、凶暴さを絵に描いたようだった。

 大きな口にはセイウチみたいな牙があり、目が3つ付いている。


 まるで、ゲームや小説に出てくるモンスターだ。

 ユウトにはまだこれが現実なのかも判別できていなかった。


 しかし、足を止めるわけにはいかない。捕まったらまず間違いなく死ぬ。

 その恐怖はとてもリアルだ。ここで死んだら夢から覚める、なんて甘い結末は微塵も感じられない。


 ユウトを追う熊もどきは、時折地鳴りのように空気を震わす咆吼を放った。

 獲物を脅して、なぶるように。

 その空気の伝播は明らかに皮膚に届き、ユウトの肌をぞわりと粟立てる。


 脳みそはまだ現状を理解できていないが、身体は確実に死の危険を感じ取っていた。


(なんだこれ。さっきまで、同級生と裏山にいたはずなのに)


 走りながらも、懸命に思考も追いつかせようとする。


 しかし全く状況は繋がらないままだ。

 そもそもユウトは学校の裏山で妙な光の渦に巻き込まれ、気がついたら1人でこの知らない森の中に立っていたのだ。

 直後に正面にいたこの三ツ目の熊もどきと目が合ってしまい、そこからずっと追われている。


(落ち着け、ピンチの時ほど冷静に)


 いつも兄から言われていた言葉を思い出し、ちらりと後ろを見る。

 とにかくこの危機から脱するのが先決だ。


 熊もどきの足が思ったより速くないのは救いか。魔物は木をなぎ払いながら二足歩行で追ってきていた。

 木の間を縫うように走れば、いくらかその距離を離すことができる。しかし文化系で150センチと同年代からみても小柄なユウトは、そろそろスタミナ切れを起こしそうだ。


(どう考えても夢じゃないよね……空気の匂いも肌の感覚もリアルすぎるし足が痛い。……そういや以前、こんなふうに突然異世界に飛ばされる話を読んだことがあったっけ)


 息は切れているが、頭だけは懸命に回転させる。

 感情に思考を引きずられてはいけないと、常に兄から教えられていたのだ。

 慌てると視野が狭まり、浅慮を招く。


(ここが異世界だとしたら……僕もチート能力とか手に入れてないのかな。でも転生でもないし神様の声みたいなの聞いてないし。体力も変わってないから、剣とか絶対振れない。だったら魔法? ……そういえば昔に一度だけ、兄さんが魔法について何か言ってたような)


 土地勘がない分、ユウトが取れる有効な手段はほぼない。だったらと、試しに後方に向かって手を翳してみる。

 もちろん呪文なんて思いつかないが、一つだけ、頭の中に魔法として再現できそうなイメージがあった。

 いつの記憶か分からない、大きな爆発の激しい光と熱と風圧。その感覚をどうにか掘り起こす。


 すると翳した手のひらの前に、妙な熱の塊が現れた。

 火の玉というには高すぎる熱量。大きなエネルギーを圧縮させたような塊は、明らかに破壊以外の用途を持たない。


(いける、かも)


 不思議と驚きもなくそれを受け入れたユウトは、足を止めて振り返る。そこで一つ深呼吸をして、迫り来る熊もどきを両眼で捉えた。

 的が大きく動きがあまり早くない敵で助かった。

 3つの目を黄金にギラギラさせて、牙の生える口からよだれをたらす大きな獣。その現実味のなさもバーチャルゲームの中のようで、さらに少しユウトを冷静にさせてくれる。


(どこまでコントロールできるんだろ。スピード、爆発範囲、軌道……自動起爆も操作したいな。でも今はとりあえず、あの化け物を退治できれば)


 あまり近付かれてからだと自分も巻き込まれるかもしれない。しかし焦ると外しかねない。

 ユウトは正面の木と木の間に狙いを固定し、熊もどきがその範囲に入ってくるのを待った。


 魔法なんて使った記憶がないのに変な話だが、ユウトにはこれさえ当たれば絶対勝てるという確信めいた気持ちがあるのだ。それは以前やったゲームのせいかもしれないし、どこかで読んだ物語のせいかもしれないのだが。


(……来た!)


 数秒もたたず、ユウトの構える正面に魔物の姿が現れた。

 そのタイミングを逃さずに思考だけで魔法を前方に放つ。特に呪文を唱えなくても、そのエネルギーの塊は勢いよく熊もどきに向かって飛んでいった。


「よし、当たれ!」


 思わず声を出したのと同時に、ユウトの魔法は魔物に当たり、……次の瞬間、轟音とともにその周囲の景色も全て吹き飛んだ。









 自身も風圧で吹き飛ばされ、背中を大木に強かに打ち付けてしまったけれど。

 ユウトはその痛みよりも、目の前の一変した光景に呆然とした。


 さっきまで木々に覆われていた森に、巨大なクレーターができている。そこには熊もどきの残骸はおろか、あったはずの木々の根っこすら残っていなかった。

 この一瞬で芯まで焼き尽くされたのだろうか。乾いた燃えかすのようなものだけが熱風の残滓に煽られて、はらはらと宙を舞っていた。


(何これ……僕がやったの?)


 魔物だけを退治するつもりが、ここまで大きな被害を出すと思わなかった。今はたまたま森の中で、他に巻き込むものがなかったから良かったけれど。もしこの範囲に誰かいたら?

 最悪の事態を考えて、ふるりと身体が震えた。


(こんなチート能力なんてそれを扱えるだけの器がなければ、恐ろしい危険物じゃないか……)


 大きく息を吐いて脱力し、ずるずると大木の根元に座り込む。

 こんな異世界の森の中で、身に余るヤバいチート能力を手に入れて、それでどうしろというんだろう。

 もう日没だというのにこれからどこに行けばいいのかも分からない。夜になるとモンスターが強くなるというのも異世界の定番だ。正直ユウトには、明日の朝まで生きていられるのかという確証もなかった。


(レオ兄さん、心配してるだろうなあ……)


 そんな中で、日本にいる兄に思考を向ける。

 レオは18歳のユウトより8つ歳上の兄だ。とても頼りになる男で、特殊な事情を持っている弟を5年前から養ってくれていた。

 ちょっと過保護で心配性。

 時計を見ると、いつも彼によって決められている門限を超えたところだった。


 太陽の名残がわずかに残る空に、薄く星が瞬き始めている。

 ユウトは時計を見たまま気怠げに立ち上がり、制服のブレザーとズボンに付いた土を払った。完全に夜になる前にせめて水と食料の確保、それから身を隠せる場所を探したい。


 そう思って正面を向いた時。

 ……また目が合ってしまった。熊もどき。

 さっきとは別の奴だ。今度は目が4つある。おまけに、さらにでかい。


 ちょうどクレーターを挟んで向こうにいる魔物は、ユウトに気付くと獲物を威嚇するように咆吼を上げ、すぐに身体を低くした。周囲になぎ払う木がないから、このまま四足で突っ込んでくる気なのだ。そうなるとさすがに逃げ切れるスピードじゃない。

 とっさに熊もどきに向かって手を翳す。


(ここでならもう一回くらい魔法を放っても平気かな……。でも、今度も爆発が同規模とは限らないし。僕にコントロールできない力では、山火事とか別の被害が出る可能性も……)


 迷っている僅かの間に、魔物はこちらに向かってゆっくりと走り出した。

 それに慌てて魔法を放とうとして。


(あ、あれ、出ない!?)


 さっきと同じように念じたはずなのに、手のひらの前に、今度は何の熱も生じなかった。


 これは、魔法には頼れない。

 瞬時に思考を切り替える。ピンチの時ほど冷静に。

 ユウトはコントロールできない力に頼れないと分かったおかげで、逆に少し落ち着きを取り戻した。


 さっきの熊もどきとの追いかけっこで、二足歩行だと遅いこと以外にも、あまり知力や警戒心はないだろうことが推察できている。

 四足になればスピードは格段に上がるが、きっと対象物に突進することしか考えていない魔物はブレーキも掛けないだろう。


 ユウトはあえて森に入らずにクレーターの方に出ると、大木を背に四ツ目の熊もどきを待った。

 森に入ってしまうと魔物のスピードが落ちてしまう。それよりもトップスピードで背後の大木に突っ込んでもらおう。障害がない方が避けるにもタイミングを取りやすいし、熊の特性を持っているのなら鼻っ柱を思い切り大木に打ち付けてくれれば、ここで若干怯んでくれるはずだ。少しでも遠くに逃げる余裕が持てる。


 唸り声と地響きを立てながら徐々にスピードを上げて近付いてくる魔物との距離をはかる。自分の瞬発力はあまり頼りにならないから、慎重に。

 ちらりと視界の端に小さな明かりが見えたけれど、それに気を取られている場合ではない。


(……3,2,1、今!)


 十分に引きつけてぎりぎりで横に飛び退くと、間髪入れずに突っ込んできた魔物が大きな音を立てて大木に衝突した。


(やった! ……え?)


 思惑通りの結果に一瞬喜ぶ。

 しかしよくよく見れば、激突の衝撃に負けたのは大木の方だった。勢いで折れた幹が音を立てながら森の向こうへと倒れていく。

 熊もどきが痛みに怯んだのはわずか数秒で、飛び退いたユウトが体勢を立て直した頃には再びこちらに狙いを定めていた。


(うわ、まずいな……あとはせめて近くの地形でも分かれば、谷に落とすとかやりようがあるけど)


 また森に入って魔物と追いかけっこをしながらそんなチャンスを探すのは不可能に近い。他の魔物と遭遇する可能性だってあるし、夜になれば自分が崖から落ちるかもしれないし、何よりユウトの体力がそこまで保たない。


 それでも懸命に頭を働かせていると、不意にどこからかヒュンッといくつも風を切る音がして、目の前の熊もどきに何かが刺さった。

 何が起こったのか分からずに、ユウトは目を丸くする。


(これは……矢?)


 誰かが魔物を狙って放ったのだ。

 矢は先端に炎をまとっていて、それが熊の毛の一部に燃え移っていった。突然の攻撃に魔物が怒りの唸り声を上げ、矢を払い火を消そうと前足をばたつかせている。


 ユウトはその隙に、矢の飛んできた方向を振り返った。


「ん? あれ、若旦那、あそこに人がいるっす!」

「おい! 何してんだ、早くこっちに来い、ガキ!」

「みんな、次の矢をつがえろ! 相手は四ツ目だぞ!」


 人だ。

 離れたところに声がして、ユウトはまだ危機的状況だというのに、思わず安堵の息を吐いた。出口の見えなかった八方ふさがりの袋小路に、突破口が開いたのだ。

 言葉が分かるというのが何よりありがたい。もし相手が何者であろうとも、この後も交渉の余地があるということだ。


 さっき視界の端に入ったのは彼らの持つたいまつの明かりだったのだろう。そちらの方向から続けて降ってくる矢が熊もどきの足を止めてくれている間に、ユウトは急いで彼らのもとへ走った。


「四ツ目に麻痺毒1本では効かん! 三本使え!」

「若旦那、村の麻痺毒のストックはこれで最後ですぜ!」

「構わん、これ以上のランクは出ないはずだ! ガキを回収したら後退しながら罠に誘い込むぞ!」


 この魔物への対処法も心得ている人たちのようだ。近くなる会話にほっとする。たいまつの下、その姿は明瞭に見えるわけではないが、若旦那と呼ばれていた男を中心に六名ほどが対応に当たっていた。

 服装を見れば日本ではファンタジーの中でしかお目に掛からない、革の鎧や麻の服と胸当て。異世界感ばりばりだ。


 ようやく彼らのもとにたどり着くと、そのうちの一人がユウトに手招きをした。


「ほら、危ねえから後ろに来な! ……ん? お前、ずいぶん変な格好してんなあ。それに女……いや、男か?」

「あ、男です」

「そうか、悪い悪い。可愛い顔してっから、一瞬分からんかった」


 小柄なユウトは女顔でもあった。おかげでこうして困惑されることが多々ある。しかしこれが自分であると納得しているので、特に気分を害することはなかった。兄にこの姿を全面的に肯定されて育ってきたせいもあるだろう。


「気にしてません。それより、助けて頂いてありがとうございます」

「いや、まだ助かったとは言えねえけどな。若旦那、少年回収できたから後退しようぜ!」

「よし、麻痺毒が切れる前に後退! さっき仕掛けておいた火柱の罠に誘導する! おそらく四ツ目はそれだけじゃ倒しきれねえから、最後は全員で持ってきた矢を使い切る勢いでぶち込むぞ!」

「了解!」


 若旦那という男の言葉に、みんな迷いなく従う。気持ちがいいほどの信頼と団結力だ。

 それに感心しながら、ユウトは彼らに続いた。

 続くと言っても、男たちは常に武器を持たないユウトを最後尾にはせず、前後左右を守ってくれていたが。


「目的地に到着! 若旦那、罠の起動は?」

「ぎりぎりまで待て。夜のあいつらは少しだけ知能が付くからな。罠の気配を察するかもしれん。スピードに乗って突っ込んできて、罠回避が不能の位置まで来てから起動する」

「若旦那、四ツ目野郎の麻痺が解けた! こっちに向かって来るっす!」

「よし、一人が罠の起動準備! 他全員で矢をつがえておけ! ガキ、後ろに下がってしゃがんでろ! でも一番後ろには行くなよ、危ねえから!」

「は、はいっ」


 庇護を受けるものの義務は、その命令に従って、彼らの邪魔にならないことだ。ここで自分ができることなどを考えるのはかえって迷惑になる。

 ユウトは少しだけ下がって、彼らの弓の邪魔にならないように身を低くした。


 月明かりの下、魔物の駆ける足音が近付いてくる。黒い大きなシルエット、そこに光る四つの目。罠を仕掛けている場所は火を使うためか開けているから、四足で向かってくる影はあっという間に目の前に迫った。


「罠点火!」

「了解!」


 若旦那の声で罠が起動し、次の瞬間にはそこに突っ込んだ熊もどきが火柱に包まれる。勢いでこちらまで突進してくるかと思った巨体は、下からの炎の突き上げで出来損ないのバック転のように中空へと煽られ、燃え上がったまま少し離れたところへと背中から落下した。


「おっしゃ、全員ありったけの矢をぶち込んでやれ!」

「了解!」


 間髪入れずに指示が飛び、数多の矢が放たれる。

 それでも再び起き上がり咆吼した魔物だったが、絶えず燃え続ける炎と怯まず矢を打ち続ける男たちを前に、ようやくぐらりと身体を傾げた。尾を引く唸り声が力をなくしていく。


 ほどなくして、傾いだ巨体はそのままずしんと地響きを立てて伏せ落ちた。

 同時に四つの目にあった光が、ふつりと消える。


 彼らは魔物を倒したのだ。


 森に訪れた静寂に、ずっと構えていた武器を下ろした男たちは歓呼の声を上げた。


「やったぜ若旦那、四ツ目野郎撃破!」

「すぐに浮かれんなアホ。村に戻るまでは何があるか分かんねえぞ。とりあえず解体して、肉と内臓を持ち帰る。魔石も売れるから忘れんな。本当は毛皮も取れりゃいいんだが、炎がねえとこいつらに太刀打ちできねえしな……」

「ああ……火柱でこんがり焼かれたお肉のいい匂い……解体してるとつい一切れつまみたくなるよなあ」

「ちょ、お前よだれ垂らすなよ!」

「一切れくらいなら食っとけ。そのくらいのご褒美、親父だって気にしねえよ」

「さすが若旦那、太っ腹!」


 いきなり目の前で解体ショーが始まったが、少し生臭いものの香ばしいいい匂いもするし、暗がりでもあるしであまり気にならない。それよりもと、ユウトは少し緊張を解いて彼らを観察した。


 話から察するに、彼らは近くの村の者のようだ。この若旦那というのが村の偉い人の息子で、父親はきっとまとめ役、村長か何かだろう。彼らの関係を見ただけでも、村長を中心に住民がまとまった良い村に違いないと思える。


「臭いを嗅ぎつけて他の魔物が来る前に、撤収するぞ。ガキ、どこのどいつか知らねえが、とりあえず村まで来い。そんな小っちぇえ身体じゃ、夜の村ネズミにすらやられそうだ」

「はい、ありがとうございます」


 村ネズミというのがどんな魔物か知らないが、心配してくれているのだ。行く当てもないし、ありがたく同行させてもらおう。

 お礼を言って、深々とお辞儀をする。

 そして顔を上げると、……ユウトは次の瞬間、その遠く背後の何かと目が合って思わず固まった。


 暗がりの中、月を背景にした大きなシルエット。そこに、黄金に輝く五つの目。


「わっ、若旦那! 嘘だろ、五ツ目野郎が現れた!」

「はあ!? 五ツ目だと……!?」


 村人の一人が気付いて声を上げると、若旦那も振り向いてそれを確認した。

 四ツ目の熊もどきよりも、さらにでかい。仁王立ちした頭の高さは二階建ての屋根を超えるくらいの位置にある。

 それだけでなく、こちらに向かって放たれた咆吼は、まだそれなりの距離があるというのに暴力的な空気振動を起こし、びりびりと彼らの皮膚を切りつけるようだった。


 四ツ目と比べものにならない、圧倒的な威圧感。

 言葉を失った男たちがその表情に絶望の色を見せたのを、ユウトは呆然と見ているしかなかった。


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