ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
あなたがねむるころ
薄暗くなりかけた、雨の中で、その女の子は立っていた。
仕事帰りの車から、ちらっとだけ見えた。信号を見上げて傘もささずに。
ほんの一瞬、視界のすみに写っただけだったが、濡れて額に張り付いた黒い髪と冬服のセーラーが印象に残った。
それが、初夏のことだった。どうして僕がその子に気をとられたのか分からない。あえていえば、その表情が悲しそうに見えたからかもしれない。雨の中、傘もささないまま立っている姿が、あまりに憐れに思えたのかもしれない。
実際、彼女は悲しそうだった。その日は朝から一日中雨だったから、彼女が傘を忘れてきたというのは考えられなかった。学校で傘を盗まれたのか、それとも彼女の不注意で失くしたのか。
学校で傘を盗まれたのなら、いじめにあっているのかもしれない、と僕は思った。だから彼女はあんなにも悲しげだったのだ。
けれども、そう思ったところで、僕にはどうすることも出来なかった。あの場所でもう一度出合うなどという保証はなかった。
次に見かけたのはそれから三日後のことだった。その日もやっぱり雨が降っていた。その日は仕事がなかなか片付かず、夜の十一時になってようやく帰ることが出来た。だからもうすぐ真夜中だったと言っていい。彼女は街灯の下で、やっぱり信号を見上げていた。悲しそうな顔で、信号が青に変わるのを待っているようだった。
僕は、躊躇した。
声をかけようか。
でも、なんと言っていいのか分からなかった。一つ間違えれば、僕は変質者だと思われるのではないか、と思ったからだ。
僕の仕事は、人と会う仕事ではないから、行き帰りはスーツなんていうものは着ていない。どちらかというと、ラフな格好、いや、どうでもいいような、と言った方が正しいかもしれない。とにかく、あまり身なりのよさそう印象は与えないだろう。そんな人間が、
「どうしたんですか?」
なんて声をかけたら、誘拐される、とでも思われてしまうのではないか。
それの、何がいけない、と思うかもしれない。誤解されるのが嫌だから、彼女を見捨てておくのか、と言うかもしれない。
そうではないのだ。
彼女にとって、悲しそうに信号を見上げている、その瞬間は、ひょっとしたら安心していられる一瞬なのかもしれないからだ。意識的に誰の目も気にしないでそうしている時間が大切なのかもしれない。学校や家庭での嫌なことから逃れ、安心して自分の身の悲しさに思いを寄せられる時間なのかもしれない。そんな時、僕が声をかけてしまったら、彼女はなんて思うだろう。
考えすぎだろうか。
けれども、彼女のように、僕にもあんな時期があったのだ。社会から疎外されているような、そんな気持ちになった時が。あの頃の社会とは、学校と親だけだったけれど。
分かってくれない親や教師なんかよりも、冷たく降る雨のほうが自分のことを分かってくれるような気がしたものだ。それから夜の街灯は優しく語りかけてくるような気がしたものだ。
彼女も同じかどうかは分からない。
でも、そうだとしたら、僕はいったい、どうやって声をかければいいのだろう。
だから、僕は声をかけないまま、通りすぎてしまった。
もちろん、車でその場所を通りすぎたのは、ほんの一瞬だ。だから、今話したことは、みんな後から考えた理屈に過ぎない。でも、僕が声をかけられなかった理由はそれで間違いないと思う。
それからは、何度か彼女をみかけることがあった。
いつも、同じ時間にそこを通るわけでもないのに、いつも決まって雨が降った夜に彼女はそこに立っていた。
いつも、悲しそうに信号を見上げている。濡れた黒髪が額にかかり、そこからしずくが落ちている。黒いセーラー服は、水分を含んでより黒く光っていた。
僕は、彼女を見る度に、気持ちが沈んだ。彼女の助けになりたくても、僕にはただ通りすぎることしか出来なかった。
学校や社会に裏切られたような気持ちを抱えていたあのころ、僕が思っていたようなことには、答えなんか無いからだ。
いや、そうではない。
僕は、あの甘酸っぱい時代を思い出すのが嫌だったのだ。幼くて、一人よがりで、自分ばかりが不幸だと思っていたあの頃のことを思い出すのが嫌だった。
忘れていたい思い出をいろいろと思い出した。好きな女の子に馬鹿にされるように振られたことや怒りにまかせて物を壊したことなんかだ。
彼女を見る度に、気分が悪くなった。
それでも、僕は同時に彼女のことが気になっていたのだ。
自分でもよくは分からなかった。
だから、彼女を見れば気持ちが沈むと分かっていながら、同じ道を通って帰るのだった。
その日は、いつもより早く仕事が終わった。定時に帰るなんて、ここしばらくなかったことだ。僕は早く家に帰って、読みかけの小説のページを繰りながら、ビールでも飲もう、と心に決めて外へ出た。
雨が降り出したのは、車に乗ってすぐのことだった。
僕は暗い気持ちになっていった。今日も彼女は立っているのだろう。雨の中、傘もささないで信号を見上げて。
額には黒い髪がかかっていて、しずくが落ちているのだろう。
一体、彼女はわざわざ雨の日を選んで何をしているのだろう。僕は、正直に言えば、怒りにも近い感情が沸き上がるのを感じていた。近ごろでは、雨が降るというだけで、彼女を思い出すようになっていた。つまりは、甘酸っぱい思い出もだ。
彼女の姿を見れば、小説なんて読みたくなくなり、ビールは苦くなるだろう。
僕は、歯ぎしりをしてアクセルを踏み込んだ。
だが、彼女はいなかったのだ。
時間が、早すぎたのかもしれない。僕は、その交差点を通り抜けながら、意外にも安心した気持ちにはなれずにいた。
彼女がいないことを願っていたにもかかわらず、実際に彼女が立っていないと分かると途端に彼女のことが心配になったのだ。
ただ、時間が早かったのだ。そう、自分に言い聞かせるようにして僕は家に向かった。これで、ビールを飲みながら、小説が読めるな、と思いながら。
しかし、そうはならなかった。彼女がいなかったことが気になって仕方がなかった。読みかけの小説を手にとって、頭に入らないまま何ページかを読み進んだ。缶ビールも、半分も飲まないままだった。
夜の闇の中、街灯の光りに照らされて立っている悲しそうな少女。その姿が頭の中から追い出せない。こんなことはどうでもいいのだ、といくら考えてみても、どうにもならない。ほとんど、学生時代の片思いのような気持ちだった。
そんな馬鹿な。
いくらなんでも、20代の半ばを過ぎて、中学生のような少女に恋なんて。僕は頭を振ってその考えを追い出そうとした。
しかし、彼女の姿はしっかりと頭の中に住み着いていて、気になって仕方がなかった。
これは恋ではない。
どちらかといえば、守ってあげたい、という父性愛だ。
くだらない。
いずれにしても、一言だって声をかけたこともない。ただ、通りすがりの道に立っている少女だ。たまたま気になっているだけの少女だ。彼女は、今日もあの場所で立っているのだろうか?あの場所で、信号を見上げて。
ついに、僕は我慢できなくなって立ち上がった。彼女の姿を見ないと、安心できない。それがとてもばかばかしいことだとは、自分でもよく分かっていたが、どうすることも出来なかった。ただ、あの場所にあの少女が立っていることを確かめたかった。
僕は車に乗って会社までの道をたどった。
ぼんやりとした色の街灯が、夜の霧のなかに浮かんでいた。雨は弱く、霧のようだった。落ちてくるというよりも、漂っているような霧雨だった。視界は悪く、ヘッドライトも近くしか照らさない。
ひょっとしたら彼女も、こんな霧の日には現れないのではないか、とすら思った。
曲がり角を折れ、彼女の現れる交差点に車を進めた。そういえば、この時間に、こちら側からあの場所に向かうのは始めてことだった。いつもと同じ道が、少し違って見えるのはそのせいだ。僕はゆっくりと車を走らせた。霧のせいで彼女の姿はなかなか見えなかった。
ぼんやりと信号の青色が浮かんでいた。
僕は車を停めた。
わざわざここまで来たのだ。いつもは、通りすぎるだけだった。けれども今日は違う。わざわざやって来たのだ。彼女のために。
僕は車を降りて歩き出した。彼女がいるという保証は無かった。
彼女の姿は、霧のせいで見えなかった。
信号のところに車を停めるわけにもいかず、少し手前で車を降りたから、余計に見ることは出来なかった。ひょっとしたら、いないかもしれない、僕はそう思った。
けれども、彼女は、そこにいた。
いつものように、赤信号を見上げながら、ただじっと雨に打たれている。僕がそばへ歩いて行っても振り向きもしない。黒いセーラー服はぐっしょりと濡れて、スカートからもしずくが落ちている。髪はぴったりと顔に着き、ただ、大きな黒い目が、そこから信号を眺め続けている。口はしっかりと閉じられたままだった。近くで見ると、余計に声をかけにくかった。若い少女の肌は、雨に濡れ、つややかで繊細だった。それが黒いセーラー服とコントラストを描き、透き通るまでに白い肌はなまめかしくさえあった。
僕は声をかけられずに躊躇した。
彼女は全く動かなかった。長袖のセーラー服から出た手は軽く握り締められていた。
僕は、その時不思議に思った。
何故、彼女は冬服のセーラーなのだろう。
季節は夏なのに。
そう思った瞬間、背筋に寒気が走った。
まさか、彼女は幽霊なのではないのだろうか。よくあるじゃないか、雨の中にいつも立っている幽霊の話が。こんな薄暗い交差点で。
交通事故かなにかで死んでしまった、成仏できない幽霊が、さみしがって人を呼ぶというような話があるじゃないか。
思わず僕は、彼女の足を見た。
そこには、ちゃんと足があった。それで、何が証明されたのか分からなかったし、恐怖も去りはしなかった。彼女が生きた人間であるはずがない。僕はそう思っていた。いや、ほんの一瞬の間に、そう信じてしまった。一歩、後へ下がった。
そして、彼女は振り向いた。にっこりと微笑んで。
僕はその瞬間、今までの恐怖のことなど忘れていた。美しい笑顔だった。髪から滴が落ちて、頬を伝っていく。雨の冷たさに震えながら、上気したような頬の赤さ。心の底からうれしいと思っているような微笑み。はにかんだような微笑み。車の中から見た、彼女の悲しみに満ちたような表情は何処にも無かった。そして、彼女は口を開いた。
「やっと、来てくれたのね。」
僕は、彼女に見とれていた。
「ずうっと待っていたの。」
彼女はそう言った。それで、僕は我に帰った。
待っていた?
「これ。」
そう言いながら、彼女はぎゅっと握り締めていた手紙を差し出した。僕はぼうっとしながらそれを受け取った。そこには、僕の名前が書かれていた。
まさか、中学生が僕に惚れている?
正直に言って、当惑していた。
「読んでくださいね。」
そう言われて、僕は顔を上げた。
彼女は居なかった。
受け取ったはずの手紙も無かった。
僕は思わず辺りを見回した。ただ白い霧だけが漂っている。街灯に照らされた白い霧だけが。
そうなのだ。ずうっと昔に、あの子を知っていた。霧のようにぼやけてしまった記憶の中で。
もう、あのころは戻っては来ないのだ。ただ、白い霧のように突然現われて、そして消え去っていく。見えているのに触れることの出来ない思い出が、辺りを漂っていく。
もう、思い出すことも出来ない。ただ霧のように漂っているだけ。ぼやけてしまった思い出がただ、漂っている。
きっと彼女は、二度とは現われないだろう。二度とは、見ることもないだろう。
霧のようにぼやけていく。
もう、彼女の顔も思い出せない。美しかった、という思いだけが残り、すべては霧の向こう側へと過ぎ去っていく。
こうして僕は、またひとつ、あのころのことを忘れていくのだ。