とろける青
コーヒーにミルクを入れた瞬間の、あのまどろみが好きだった。
黒色に混ざる白濁色が、ゆっくりとグラスの中で浮上し、クラゲのようにゆらゆらと動いている。
邪魔をすることはしない。
ジッと見て、自然に溶け込んでいくまでの永遠と思われるような時間を、夢現かのような瞳で過ごすのだ。
彼女もそうだった。
私は、グラスにできた水滴を指でぬぐってみながら、まだ新しい記憶をゆっくりと浮上させてみた。
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私が初めて会った時の彼女は、公園のベンチで白のワンピースを着て、おしゃまな麦わら帽子を、その黄色く焼きつく日照りから守るようにかぶっていた。
大学と言うものがあって、上京してきたのだという。
だが、道に迷ってしまい、体もほとほとに疲れ、ベンチに座り込んで途方に暮れていたところだったらしい。
そんなことを照れくさそうに笑いながら言う彼女が、なんとも健気で可愛らしいと思った。
もうその時から私は、この野暮ったい目を、完全に射抜かれていたのだと思う。
私も偶然、彼女と同じ大学であったから、彼女を構内で見かけることは少なくなかった。
射抜かれたその目は意識せずとも彼女を向いていたし、かといって目が合いそうになると瞬時に目を離してしまう。彼女には不思議に見えただろうが、こんな乙女心を、男の私が抱くことを許してほしいと、切に願ったものだった。
しかしある日、突然彼女がいなくなってしまった。
いつもすれ違う廊下にも、彼女のいつも座っていた席にもその姿はなく、初めは体調でも悪くしたのだろうと、そのつまらない光景を眺めるだけだった。
だが、それが数日、数週間となると、私は胸にざわざわとした嫌な違和感を覚えるようになった。
ただの休みではない。
そう考えると、私の足は学食を食べる彼女の友人たちの輪の中に急に入り込んだ。
「彼女は?」
「彼女なら、入院しているよ」
ざわざわとした胸の違和感は当たっていた。
私はその返答を聞くと、すぐにその友人から病院の名を聞き出し、昼飯など考えもせず、今すぐにと足早に彼女のいるという病院へと向かった。
着いた先での、あの真っ白な建物に充満する薬品独特の匂いを、私はまだ覚えている。
薬品の匂いに包まれた部屋の中で、彼女は窓際のベッドに寝かされ、窓から見える青い空を瞳に写していた。
私が部屋に入りドアを閉めると、その様子に気づいた彼女が、青い空を名残惜しそうした瞳でこちらを見た。
「入院したなんて、知らなかった」
ふと出た一言が、こんな色気もなにもない言葉で自分自身も驚いた。
よろよろと彼女のベッドに近づく。
あんなに柔らかそうだった頬も、今では青白くこけた頬になり、袖口からのぞく腕も骨ばってマッチ棒のように細い。大学で見た時の明るい彼女の姿はどこにもなかった。
そんな彼女の姿を見ていると、ふと視界がぼやけはじめ、目から涙がこぼれた。
彼女はこんな情けない私の姿を見ていながら、ベッドのふちに顔をうずめる私の頭を撫でた。
「ねぇ、お願いがあるの」
私の頭を撫でながら、彼女はぽそりとつぶやいた。
「私ね、青が好きなの」
顔を見上げて彼女の顔を見る。彼女を照らす太陽の光は逆光で影になり、顔の様子がよく見えない。
「だから、私が死んだら、故郷の海に流してほしいの」
「どうしてそんなこと言うんだ」
「私の体ね、どんどん青白くなっていくのよ。
ミルクみたいな白さじゃなくて、どんどん青さが強くなって……。
だからいっそのこと、このまま青に溶けてしまいたいの。
ねぇ、お願い。こんなこと、あなたにしか頼めないわ」
袖から伸びる細く青白い腕を、彼女は私の手をとって触らせた。
筋肉という中身を失った腕は皮が伸び、ぶよぶよとした感触とごつごつとした骨が私の手のひらに当たる。
青白い腕は人間としての限界を知らせているような、そんなことを私に感じさせた。
「……」
相変わらず逆光で見えない彼女の顔に、窓から吹いた風が彼女の長い髪をさらりと流れさせた。
「……きみは身勝手だ」
「ありがとう。自分でもわかってるわ」
「人の気も知らないで」
「えぇ」
顔の見えないのを良いことに、何かをひどく言い返してやりたい気分になった。
けれどそんな言葉は、彼女の白い手を握るとどこかに飽和していってしまい、単純な話、惚れた弱みに付け込まれたのだとその時に悟った。
「……」
「どうかお願いね」
毅然とした言葉が耳に入った途端、太陽が少し雲に隠れた。
その一瞬に彼女の表情が見たが、笑った顔なのにどこか悲しそうな雰囲気を醸し出していた。あのころに見たおしゃまな麦わら帽子をかぶった白いワンピースの可愛らしい彼女は、病によってこんなにも青に染まってしまった。悔しさでまた、目じりが熱くなるのを感じる。
「……また来るよ」
これ以上情けない姿を見せたくない一心で、彼女に背を向けた。
病室のドアを開けるときに後ろから、か細くなにかが聞こえたが、それは私が一番聞きたくないものであり、彼女に言わせるなんてしたくない言葉だった。
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それから数週間後、私は今、彼女の故郷の海に来ている。
紫の風呂敷に包まれ四角い箱に入った骨壷を抱えて、明け方の東京から真昼の彼女の故郷にまでやってきた。
「お待ちしておりました」
駅に着くと、葬儀屋の方が出迎えてくれた。
海に散骨するにも手続きが必要なのだ。私は早々に葬儀屋の車に乗り込み、各種の案内と手続きを済ませた。
散骨するには船に乗る必要があるという。
「少々時間がかかりますので、お待ちいただく間に何か飲まれますか」
「じゃあ、アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
運ばれてきたアイスコーヒーには、スティックシュガ―とミルクが付いてきた。
ミルクをアイスコーヒーにとぷんと入れる。その白さはまさしく純白だ。
ゆっくりゆっくりと溶け合ううちに、その色はまどろみの中に消えていった。
「お待たせいたしました」
「船の準備ができましたので、ご乗船ください」
初老の葬儀屋が船までの道のりを案内してくれた。
外は昼間、空調の利いていた室内とは違い、熱い日差しが私の体を照らしつけてきた。
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船の上は涼しい潮風に包まれていた。
船首から遠くを見つめると、青い空と深く沈みこんだ海の青が、地平線の雲の白さによって分断されているのがわかる。
「着きました。こちらで散骨を行ってください」
係員にそう言われると、一つの白い皿を手渡された。
そこに彼女の遺骨を入れ、花を飾り、ゆっくりと海に流すそうだ。
私は彼女を皿の上に乗せ、花を飾ってやると、一度深く目を瞑った。
あの時の、初めて会った時の太陽に照らされていた彼女を、大学で話しかけられずに目で追うだけだった彼女を、そして、病に伏せった体で私に死後を頼み「ごめんなさい」と謝ってきた彼女を。
皿をゆっくりと水面にもっていく。
時折立つ波が、そのまま彼女をさらってしまわないか心配になったが、そんなことは無かった。
そっと彼女を海に浸ける。水面に浮き立つ泡と一緒に花が浮き、そして彼女だった真っ白な灰が、海の青にゆっくりと溶け込み、浮上しては沈み、浮上してはを繰り返しながら、その青に静かに溶け込んでいった。
「ご愁傷さまでした」
係員がそういうと、船を動かすようにと命令を出し、さっさと船首に戻ってしまった。
私はずっと、彼女が海に溶け込んでいく様子を、ただただじっとと見つめては、こぼれる涙を海の青に落とすしかできなかった。




