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シャラ・ラ

作者: 雪本 歩

※本作は同性愛ならび自慰など、一部の方が不快を覚える要素が含まれております。

作品としての表現を優先しております、予めご了承ください。



―――六月の花嫁が、サブマシンガン片手に乗り込んできた。花嫁が絶望の弾丸を撃ち込んでくる。いつかやってくると思っていた現実が、存外早くやってきた。


 次の小説の書き出しはこれだなと、職業病の思考が羽柴雄介(はしばゆうすけ)の脳裏に浮かんだ。

 湿り気を帯びた梅雨の風がうっとおしくなった時期。例年この時期になると増える「幸せのお裾分け」とやらに、正直辟易としていた。晩婚が囁かれる近年であっても早い奴は早い。学生婚をした奴もいたし、もっと早い奴はすでに何児かの親。「恋人くらいいないの? 紹介してよ?」と老後の楽しみを小突き始めた母親に対して、申し訳なく思うその反面、雄介は心の奥底の方で皮肉のような一文を浮かべていた。


「別に俺は自分の性別を疑ったことなんて一度もないが、どうせならマトモな性癖を付与した状態で生んでくれ」


 届いたハガキの宛名を持っている方の親指でなぞる。「石川晃(いしかわあきら)」と並んで書かれる「里中美津子(さとなかみつこ)」の文字。何も知らずに上京してきた雄介にあれこれと世話を焼いてくれた大好きで愛しい先輩の結婚式の招待状を手に、キッチンへと移動した。


『是非、ご出席ください』


 典型的なデザインの招待状に書かれた、テンプレートの言葉。いつもだったら宅配便の受け取りサインをするような気楽さで「欠席」に丸をつけ、その日のうちに返送してしまう。そうしようと思えなかったのは、ハガキの隅に書かれた少し。右肩上がりの癖がある字が目に留まったからだ。


―――久しぶりに顔を見せろよ


 晃が何を思ってこれを書いたのか雄介には想像すらできない。正確には、想像したくもなかった。

 小説家とは聞こえのいい自由な生活の惰性期間たる締切前。必要最低限の外出をしていなかったためにタバコが最後の一本だと、手にとって気づく。空腹を誤魔化すためのコーヒーを入れようとコンロに火を点けた。


「美津子……さん」


 手にしたハガキを再び見つめる。これから石川になるのか既にもう石川になっているのかはわからない伴侶の名前の部分に、雄介は手にしていたタバコの火を押しつけた。


「俺は、あんたを呪うよ」


 紙が僅かな焦げに染まり、小さなドットサイズの火が虫のように紙の上を踊る。そうして穴の開いたハガキを、まだやかんを乗せていないコンロの火にかけた。まるで悶え苦しむような動きで四隅から反り返り燃えていくそれを、疲労で痛む目をこらしながら、燃え尽きるまで見つめていた。


「……南無三」


 正確には知らない供養っぽい言葉を囁いた。

 それは諦めた恋のはずだった。晃は明らかなノーマルで、自分は見事なまでのゲイで。大学の先輩後輩という間柄すら、言ったら壊れてしまうと思っていた。伝えなかった後悔をしたくないという気持ちよりも嫌われる事への恐怖が先行してしまい、じっと気持ちを押し殺して過ごした大学時代。想いは流れた時間の長さに耐えきれず、燃え尽きてしまったと思っていたのに、思い出したように燃える情炎が、雄介の胸を痛めていく。

 ハガキが完全に燃え尽きたところで、やかんに水を入れてなかった事を思い出した。コーヒーの粉も砂糖もない。冷蔵庫の中は、ほとんど空だ。

 また明日からの事を考える。買い出しに出るなら今日の方がいい。心に打ち込まれた銃弾も、ついでに溶かしてしまわなければ。

 コンロを消し換気扇を回した。数日ぶりの外気が室内を飛び回り始める。

 ほとんど使うことのない携帯に入っていた不在着信。原稿が届いたのだろう担当の編集からだった。用件は留守録に入っているだろうと折り返すことなく、アドレス帳を開く。数少ない登録番号の中から唯一、カタカナ表記で登録された番号を選び出し、発信ボタンを押す。

 数回のコール音。それがぷつんと遮断された。


『はいはーい。ユウから電話って珍しいじゃん、仕事終わったの?』


 小城野紀希(おぎのかずき)の若干低いテノール声が耳に飛び込んでくる。外にいるのか電話の向こうがやけにうるさい。


「悪かったな、外か?」


『久しぶりにオフで暇だから買い物。昼食べた?』


「これからだ。買い出しにも行かにゃならん」


 ざわめきが遠くなる。人通りの少ない道に出たか何かしたようで、紀希も声のトーンを落とした。


『じゃあ久しぶりに会おうよ。胃の具合はどんなもので』


「三日ほど液体だけだな、そこまで受け付けない」


『相変わらずだなぁ。わかった、美味しいお粥が食べられる中華屋があるからそこに』


「カズ」


 トントン拍子で進んでいく予定話を雄介が遮る。一度口を開いて言葉に迷い、唇を噛んだ。紀希が続きを待っているのが判り、一瞬顔をしかめた。


「うちに来い。外じゃ落ち着かん」


 返事は無い。しばし間を置いた後、わざと声を低くした笑うような囁きが、紀希から返ってきた。


『何、珍しいじゃん。お前がその気とか』


「うるさい。からかうなら来るな」


『誘ったのはそっちだろ? いいよ、買い物はこっちで済ませるからメールちょうだい。三〇分で行く、準備しといて』


 言葉を返す間も無く、電話が切られた。

 案外近くに居るのか宣言された到着時間までさほどない。頼めと言われた買い物も、後日自分で行った方が後先の不便はないだろう。


「……くそったれが」


 悪態を付くべき相手は自分だ。

 とばっちりを食らった携帯電話が、ベッドの上で跳ねた。




 おざなりの片づけをちょうど終えたところで、チャイムが鳴る。

 まだ三〇分経ってはいなかったが、良い意味でも悪い意味でも時間通りに来ることのない来訪者のため、確認することなく扉を開けた。案の定、紀希がにこやかな笑みを浮かべ、ビニール袋を持つ手を上げた。


「ちわー、弁当の配達に来ました小城野商店でーす」


「……相変わらずテンション高ぇな」


「ユウが暗いだけでしょ? はいはいおじゃましまーす、台所借りまーす」


 我が物顔で雄介を押し退け入っていく紀希を呆れ顔で見送り、玄関を閉めた。小さな五帖も無い台所に立つ身長一八〇近くの金髪年下青年が、不思議そうな顔でユウを呼ぶ。


「コンロ、燃えカスがあるけどなんか燃やしたの?」


「あぁ、手紙な。お湯沸かそうと考えてたら、手が滑った」


「盛大な手の滑り方ですこと。テイクアウトでチャーハン買ってきたから今暖め直す」


 ビニールの中から黒いプラスチックの容器を取り出す手を、雄介は止めるように取った。一〇センチ以上違う身長差。見上げると、驚きを露わにした目とかち合った。


「そんなの後でいい」


 せっつくような声になっていたかもしれない。

 容器をキッチンの流し台に置き、紀希が目を細める。


「ずいぶんなやる気じゃん、何かあった?」


「……悪いか」


「積極的なのはうれしい限り」


 雄介が掴んでいたはずの手はいつの間にか腰に。さっきまで粗雑に袋を漁っていた手が、壊れ物を扱うような手つきで頬を包んでくる。近づく端正な顔が、一気に幼さを隠して噛みつく獣に変わるのが判った。


「雄介」


 欲を潜めた声で名を呼ばれる。舐められ、僅かに開いた唇を塞がれる。遠慮なく探ってくる舌に、雄介も自分のそれを擦りつけた。吸われ、翻弄されていく状態に、粟立つ背筋と意識が酔っていくのが判った。

 いつもと同じ、変わらない快楽への入り口に立つ。流されていく先が見えているそこからさらに自らを迷いの中に落とすため、唇が離れた瞬間に雄介は呟く。


「カズ」


 吐息と言葉を唇に、できうる限り欲情を乗せて。


「いつもより、激しくしてくれ」


 紀希の表情が揺らいだ。目を見開くような仕草の後、いたずらめいた笑みを浮かべる。


「抱き潰しちゃうかもよ?」


「かまわん、好きにしろ」


「好きにして欲しい、の間違いでしょう? 元々誘ってきたの雄介だよ、忘れた?」


「積極性なんぞコンロで燃やした」


「じゃあ新しく書き下ろさないといけませんね、羽柴先生」


 戯れのような言葉のやりとりをしながらも、紀希の手が体中をまさぐってくる。ベッドどころか未だキッチンで立ったままだ。雄介は緩やかに広がる肉体の悦楽に溺れようと、肺から全て出すつもりで声交じりのため息を吐いた。


「雄介」


 左の耳に唇を押しつけ、紀希が笑った。


「愛してるよ」


 耳に感じる生暖かな息と、湿り気を帯びた声。

 貪られていくような、それでいて溶かされ溺れ、果てているかも解らない意識の中で頭に浮かんだのは、届いた結婚式の招待状のこと。その度に忘れようと、雄介は自分の体内に押し入る熱に没頭していった。

「呪い死ね」と、雄介は心の中で、自分に向かって囁いた。




 荒々しい本能の熱が渦巻いていた室内に、甘いタバコの香りが広がる。

 終わった後は目を開けているのもだるかった。そのせいかいつの間にか寝入っていたようで、目を開けた時すでに部屋の中が薄暗くなっていた。

 先に起きたのか隣に紀希がいない。それでも聞こえてくる小さな歌声に、雄介は耳をすます。インディーズながら人気バンドのボーカルを務めているらしい彼の歌声は、素人耳で聞いても上手いと思った。


「何の曲だ?」


 ゆっくりと上半身だけを、足下の方に座っている紀希の方に向ける。

 さっきまで餌を目前にした狼の顔をしていた紀希が、無邪気な子供のように笑って雄介を見た。


「ドロボウの歌」


「……奴はとんでもない物を盗んで行きました?」


「残念ハズレ、まぁ結局は心も盗んでいくけどね。ユウも俺に盗まれない? 『Light my fire!』ってな感じで」


 拳銃を模した片手を向けてきた紀希に「BANG!」と一発撃たれる。何が面白いのかケラケラと笑う彼を一瞥して、雄介は頭をベッドに落とした。


「よくわからんが、遠慮しておく」


「あら、つれないのね」


「その声でその口調ヤメロ」


 細いながらも骨ばった手が雄介の足を撫でてきた。わざと性的に触っているのが判り素っ気ない様子で足を振ると、やはりそれも面白いのか紀希がまた笑った。


「それで、人を当て馬にしているという自覚があるんだったら何があったか話してくれていいんじゃないの?」


 責めるでもなく心配するでもなく、今日の晩飯の話でもするような気軽さで問うてきた紀希の方に一度目を向ける。一瞬苦虫を噛んだような露骨な顔をしたかもしれない。

 そもそもどうしてこのガキは、こんなに聡いのか。

 そんな雄介の内心すら見透かしてきたのか、紀希が意味深な笑みを浮かべた。


「俺はユウのこと愛してるからね、考えてることは何となく解るよ」


「愛くらいで判られてたまるか」


「自分が思っているほどユウは大人じゃないよ? まぁ俺もまだ二〇前半のガキですけどねー」


 二本目のタバコに火を点けながら笑う紀希を見て、雄介は僅かながらの罪悪感を感じた。彼を当て馬にしている自覚はある。紀希に告白されてもセフレという関係から先に進ませなかったのは、諦めたと呟きながら諦めきれない晃への思いが、そもそもの原因である。それを薄々気づいていながら、紀希は雄介のワガママに何度も付き合ってくれていた。

 今回もそうだ。


「お前はバカだよな」


 ベッドのすぐ脇に置いてあるテーブルに手を伸ばしながら、雄介は呟く。自分のタバコを引き寄せようとした寸でのところで、紀希が雄介のタバコを回収した。


「俺は自覚してるバカだから性質悪くないでしょ。で? 盛大に手を滑らせたという手紙が原因?」


 言わなきゃ返さないと言いたげな顔の紀希を思わず睨みつけていた。しかし今回は自分が悪いという自覚があるだけにタバコを諦め、手を布団の中に戻す。


「好きだった人が、結婚するから式に来いと。わざわざ直筆で寄越しやがった」


「わお。何、昔の彼氏?」


「完全なノーマル、ゲイだってことすら言ってない」


「行って花嫁の目の前で浚ってくればいいじゃん。ほらなんか、昔そんなドラマあったんでしょ?」


「知らん。そもそもカムアウトの勇気もなかったのに、浚ってくるなんてできるか」


 ではなぜ、わざわざ晃は直筆を添えてきたのか。

 本当にただの先輩後輩で、それ以上特別な関係だったとは雄介自身思えない。自分と違い社交的な晃は友人もたくさん居て、自分など目の端に留まっていたかすら定かではないのに。

 それは雄介がいくら考えても、答えは晃の中にしかないだろう。


「自分がゲイだっていうのは、高校くらいから薄々気づいてた。大学でその人を見て初めて抱かれたいと思った。自分ながら狂ってると思ったさ」


「その人に相談がてらカムアウトして、告白しちゃえばよかったじゃん」


「関係を壊したくなかったのもあるが、明らかなノンケに告白してOKをもらったところで、どうしたって幸せになれないだろ。だから、相手が幸せになるならそれで良いと思ったんだ。それがどうだ、いざ幸せになったと知ったとたん、相手である女を呪った。そんなことを考えた俺をまず、呪い殺したい」


 微かに掠れた独白。相槌を入れずに聞いていた紀希がゆっくりと、長い煙を吐いた。


「ゲイだから幸せになれないとか、それってユウが決めつけてることじゃん。俺はユウと一緒に居るだけでも幸せですけど?」


「そんな、気楽なものじゃないだろ」


「気楽で気軽だよ。人を好きになることに男も女も関係ない。真新しい別タイプの服を着るのと同じくらい、気楽でいいものだ。ばーい小城野紀希」


 何かの引用かと思えばただの思いつきらしい。それでも自分で曲を書いているからというのもあってか、言葉選びのテンポの良さには関心した。


「……お前案外詩的なんだな」


「マジ? 俺芥川取れたりする?」


「お前如きが取れたら俺は苦労してない」


「でさ、さっきの結婚式どうすんの? ハガキ燃やしたところで返事しなきゃいけないんじゃないの?」


 紀希がばっさりと話を切り替えてきた。心に撃ち込まれた花嫁の弾丸は無くなっていたが、傷跡は残っていたのか雄介は一瞬言い淀む。直筆を添えてまで出した招待状だ、晃からどんな形であれ、返事の催促はくるだろう。


「お前、代わりに行ってくれ」


「俺面識ないもん。いいじゃん、行って盛大に呪ってくれば。呪い疲れたユウを盛大に愛するやらしいお仕事ができそうで、俺は楽しみ」


 他人事のようにと言い返そうとして、雄介は口を噤んだ。セフレという関係を忠実に守る紀希にとっては、雄介のことなど他人事だと思い出した。




 サブマシンガン片手の花嫁が乗り込んでから一週間が過ぎる。日付も変わりかけた深夜の十一時、雄介の携帯電話が思い出したかのように仕事をした。初めから入っていたクラシックアレンジが、けたたましく雄介を呼ぶ。


「誰だよ、こんな深夜に」


 久しぶりにまともな時間に就寝していただけに、舌打ち混じりの悪態が口をついて出る。無視を決め込もうと思ったが相手もしつこく、留守電に切り替わってから二度三度の着信。低い怒りの沸点はすぐに振り切り、電源を落としてやると乱暴に携帯を引き寄せた手が、一瞬動揺に揺れた。

 サブディスプレイに映る「石川晃」の文字。

 返信の催促をするにしても日はさほど経っていない。それでもこの名前からかかってくるだろう用件が、ひとつしか思いつかなかった。

 どうしようもないほど胸が高鳴る。親指が受話と電源ボタンをさまよって震える。戸惑いがちに受話ボタンへ置いた指に、そっと力を込める。


「……もしもし」


 緊張に声が震えた。


『もしもし、羽柴か? 悪いな夜遅くに』


 久しぶりに聞く晃の声。たかが名字だというのに自分の名を呼ばれて、雄介の心臓が一回だけ大きく跳ねた。


『結婚式の招待状って届いたか? 先週出したんだが』


「あぁえっと……届いてません、ね」


『本当か? 郵便事故でもあったかな……』


 すぐにバレる嘘だと思ったが口が勝手に動いた。疑いもせず自ら理由をつけ納得する晃のため息に、体中の血が沸騰したような気がする。

 近隣寝静まった暗い部屋の中で、聞こえる己の声と、電話を通した晃の声。たったそれだけの要因が雄介の欲望に火を点ける。携帯を枕と耳で挟み込むと、少し晃の声が大きくなったような気がした。

 右手が勝手に足の間へと伸びる。


「あの、結婚、するんですか」


『あ、あぁ。会社のな、同期の子と』


「おめでとう、ございます……」


 心にもないと思った。それ以上に冷静な頭の片隅で、別の自分が自分を非難している。声だけで熱を持ち始めた己を手淫し始める。きつく閉じた目の向こうには、覚えている限りリアルな晃の姿。


『羽柴は一人暮らしなんだろ? 他の連中もお前のこと心配してるし、どうせならと思ったんだが』


 二度目の名呼びに一瞬手に力が入りかけた。思わず零れそうになった呻き声を飲み込む。瞼の裏に立つ晃が、欲情した目で雄介を見る。手を伸ばす。


「まぁ独身ですけど……別に、寂しくは」


『なんだバレたか。お前にもさ、良い相手が見つかればと思ったが。おせっかいだったな』


「ははっ……そんなことはっ」


 剣道をしていたというしなやかな筋肉を持つ晃の腕に抱かれる。男の自分に欲情する晃の姿は、例え雄介の中の想像でも十分だった。ありえないと解っていても、鼓膜を震わせる声が、想像を本物にしてくれる。


『それだけじゃないんだけどな、最近連絡もしてなかっただろ。ハガキに書いたけどそうか、届いてなかったんだよな』


 上がる息を隠すために枕に顔を押し付けた。携帯だけは何があっても動かすまいと、左腕に力を込める。滑り始めた指先で先端を弄る頃には半ば夢中になり始め、話が頭に入っていない。


『結婚式来てくれよ。羽柴に、会いたいし』


 まるで念を押すかのように区切られた一言。脳内で何度も反響する。大音量のライブハウスにでも突然迷い込んだかのように、耳鳴りが止まない。

 何か言い含めているかのような響き。それはどうしたって、今の雄介には期待という名の麻薬でしかない。

 夢心地のような吐息のせいで、胸焼けがした。


「いっきます! ……日程とか、また、送ってもらえると」


『そう言ってくれると嬉しいわ。わかった、今度送る。ゴメンな夜遅くに、またな』


 通話の切れた音を確認する余裕もなく床のほうへ放り投げた。液晶の明かりが部屋を照らす。

 幻影とのセックスを貪る自分はずいぶん滑稽だと、雄介の冷めた心中が囁いた。




 梅雨明け宣言のあった三日後。初夏特有の高い青天と日差しが、雄介を刺す。結婚式会場はそこそこな規模があり、新郎新婦の会社関係者を中心に祝福に駆けつけた人々は多かった。空と同じように一点の陰りもない人々の中、雄介は滞りなく進む式にただ、ぼんやりと佇んでいた。なぜ自分はここにいるのか自問自答する。し、空想の晃とのセックスに狂って適当な相槌をしていた、あの時の自分を呪い殺す術を考え続けた。

 数時間の苦行のような式はなんの問題も無く進み、勝手に終わった。幸せのお裾分けどころか不幸のどん底に撃ち落とされた雄介は、早々に会場を立ち去ろうと足早に席を立つ。


「羽柴!」


 式の主役が、雄介を呼ぶ。会場の視線が雄介に向いたのが判る。聞こえなかったフリのできない状況で足を止め、振り返った。今すぐこの場から逃げ出したい衝動と晃が呼んだという事実が撃ち合って、結果後者が勝利する。


「すまん、こっちが呼んだのに挨拶が遅れた」


「こちらこそ……ご結婚、おめでとうございます」


 想像ではないリアルの晃が目の前に立つ。白いタキシード姿はどちらかと言えば醤油顔の晃には似合っていなかった。

 それでもバカになった心臓が、息切れを促すように動悸を起こす。頬が高潮していないか、今はそれだけが心配だ。


「羽柴は、彼女とかいないのか?」


 若干ためらいがちに問うてきた晃を直視することなく、言葉を受け止める。彼女なんて一生できないし作りませんとはさすがに言えない。引き出物が入った紙袋のもち手部分を弄りながら、磨き上げられた晃の白い靴を見つめた。


「あまり、縁が、無くて」


「好きな人くらいいるんだろ?」


 ――貴方が好きです。


 そう言えたらどれほどの幸せだろうか考える。自分がゲイだから、晃が好みの男だからという点は確かにあった。それでも晃と知り合った当初はただ純粋に、雄介は晃のことが好きだったし、それは今も変わりない。抱かれたいという気持ちですらまるで生娘のような純真さに感じるほどだと、自分を揶揄したこともあるほどの、淡い恋心。


「先輩は」


 答えを解っていながら、聞かずにいられなかった。


「今、幸せですか?」


 一大決心をして顔を上げる。

 見つめた晃の向こうから、花嫁の呼び声がした。ほんの僅か振り返った晃の頬が、幸せに色づく。


「今は、幸せだな」


 六月の花嫁がサブマシンガンを持ってやってきた。その傍らにいたスナイパーの存在には、全くもって気づけなかった。




「おかえり」


 憔悴しきった足が向かった先は、自宅ではなく紀希が一人で暮らしているボロいアパート。毎夜のようにバンド活動に明け暮れている彼が、夕刻を過ぎたこの時間に居るとは思っていなかった。まるで来ることが判っていたような口ぶりで迎え入れてくれた紀希に、年上の体裁なんてものは投げ捨て、雄介は縋るように抱きついた。

 音楽関係の道具が雑多に置かれた室内に、この間紀希が口ずさんでいた歌が流れている。


「花婿誘拐はやめたの?」


 子供をあやすような手付きで背中を擦ってくる紀希が、優しい声音で問う。


「撃たれた」


「そう」


「ドロボウに、撃たれた」


 ほんの一瞬、何のことか理解できなかったのか紀希が黙る。それから思い出したのか、雄介を抱く腕の力が強くなった。


「撃たれたんだ……」


 決壊したダムのように、両目から涙が溢れて止まらなくなった。紀希が着ているTシャツの肩の部分があっという間に濡れていく。

 こんなときだけ紀希が居て良かったと思う自分を、もう何度目かも判らない呪詛で呪い殺してやりたいと思った。


「雄介」


 歌を止めた紀希が耳の近くで囁く。


「俺は、雄介のこと愛してるよ」


「言うな」


「愛してる」


 泣き声を堪えるせいで、喉が詰まる。もうすぐ三十路に近い男が恋のあまりに泣くなどどうかしていると思ったが、ダムを固めるコンクリートはどこにも見つからない。

 手から滑り落ちた引き出物の紙袋が、二人の足元で潰れる音を立てた。


「……紀希」


 呼び慣れない本名で彼を呼ぶ。

 拳銃を突きつけられたかのように、紀希が身構えたのが判った。


「ゴメン、今までずっと」


 そしてこれからも。

 心の中で呟いた言葉も愛の力で読み取ったのか、紀希が苦笑する。


「何度も言ってるだろ。俺は雄介の側に居られるだけで、幸せなんだから」


 ダムの中が空になったのか、雄介の目からはもう涙は溢れてこない。散々泣いてすっきりするかと思っていたが、空になっただろう心の奥底に、今度は隙間風のような寒気を感じた。埋めていたものがなんだったかは、思い出せない。


「雄介」


 歌うような紀希の囁きを耳にする。きつく抱きしめてくる腕。もう何度目かもわからない言葉を繰り返される。


「俺は雄介のこと、愛してるよ」


 ちょうど一周したのか流れていた音楽が止まった。立ち尽くす二人に静寂は襲ってきたが、紀希が子守唄のように、止まってしまった音楽を歌い始める。

 また会える日を夢におやすみと、紀希がそっと雄介の頭を撫でた。

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