婚約解消誓約書
シオナ・コトナギの朝は、他のご令嬢たちと少し違う。
侍女かメイドが目覚めを促しにやってくる頃には、たいていシオナは起きていて、身支度は済んでいる。武術の練習着に、だ。
他のご令嬢たちがベッドから起き出し、メイド達の手を借りて支度を整えているであろう時間に、シオナは、ストレッチを入念に行う。
朝食はその後だ。少し休憩をしたら、一時間ほど走る。
唐突に決まった婚約破棄の翌朝も、シオナはいつも通りだった。
昨夜は眠れないかと思ったが、王女への婚約解消を知らせる手紙を書くと、またひとつ区切りがついた気がした。
ちゃんと眠って、すっきり起きた。
正直に言うなら、ガイよりも、王女の方が気になる。
夕べ書き上げた手紙には、婚約破棄に至った理由は書かなかった。ガイが王女に求婚する前に正気に戻るかもしれないし、常識人の兄夫妻に止められる可能性もあるからだ。
ただ、後戻りはない。
婚約解消に関する感傷的な気分は鳴りを潜め、シオナはいつも通り練習着を身に付けた。
走り込みから帰って来たシオナを待っていたのは、叔父夫妻だった。
父の弟ゴスト・コトナギア伯爵とその妻レミーラは似たもの夫婦だ。社交的で、情報収集が大好き。噂の裏を取るのも楽しいらしい。これもコトナギの旗の下、役立っている。
ゴストは父より厳つい顔をしてるのに、人好きのする表情の持ち主だ。レミーラは切れ長の目が魅力的で、いつも活気に満ちている。
「本当に毎日走ってるんだな。これ以上強くなってどうすんだよ、シオナ。」
ゴストは呆れたように言ったが、レミーラは別の意見を持っていた。
「あら、どれだけ才能があっても、磨き続けなければ、錆びついてしまうわ。努力し続けるシオナは偉い。」
褒め言葉に、シオナはへらっと笑った。
才能があると言ってくれる人は多いけれど、シオナはそれを、コトナギ公爵の娘に対する社交辞令だと思ってる。家族や親戚たちが褒めてくれるのは、身内の欲目だ。
体を動かすことは好きだけど、シオナには、努力している自覚はない。自分が強いとも思ってない。
だから、褒められる時には、困惑の表情を隠して、へらりと笑うのだ。
「その笑顔見てると、武術の達人だとは思えないわね。」
楽しそうにレミーラが言うから、シオナもちゃんと笑顔になれた。
「私の婚約解消の話、聞かれました?」
現在のコトナギ家一番の話題を持ち出す。
「聞いたどころの話じゃないよ。」ゴストが苦笑した。「昨日、俺は、コトナギ公爵の代理として、ナバルに話をつけに行ったんだよ。」
驚いた。
シオナは、確かに一人静かに過ごしたいとお願いしていたけど、その間に、事態が進んでいるとは思っていなかった。
「昨日ですか?」
目を見開いて、シオナは叔父夫妻を順に見る。
「そうよ。何の予定も入ってない日でよかったわ。もちろん予定があっても、夜中にだって相手のところに押し掛けるつもりだったわよ。」
レミーラが胸で両手を握りしめて、熱を込めて言う。
「王女に求婚なんて、バカじゃないの? 門前払い間違いなしでしょう。ナバル家がその後で、再度婚約しましょうって言ってこないように、しっかり『婚約解消契約書』に署名を貰って来たわ。」
そして、レミーラが心配そうな目で、シオナの顔を覗き込んで来た。
「実は、シオナも成人しているから、署名をして欲しいの。気分のいいものではないけれど、念のため、お願い出来るかしら? 今すぐでなくてもいいのよ。向こうの署名は入っているんだから、元の鞘には絶対に戻させないわ。」
叔父ゴストをそっと見上げると、厳つい顔で優しい目をして頷いてくれた。
最善を考え、案じてくれる人達が、ここにもいる。
シオナは、ふたりに微笑んだ。
「署名します。今すぐにでも。」
署名は、父の執務室で、父と叔父夫婦に見守られながらすることになった。
婚約解消誓約書。
実際に目の前にすると、それは、シオナの心ざらつかせる。
王女の婚約者が亡くなってから、こういう誓約書をやりとりした人は少なくないだろう。
本人の意向か、家の思惑か。事情は様々だろうが、心底悲しんでいる人もいるに違いないと思う。
考えてみると、ガイの莫迦な思いこみは、シオナが彼の腹に一発拳を入れたことも含めて、喜劇だ。情けない。
シオナは、誓約書を手に取った。
署名する時は、どんな書類もおきちんと読む。その基本中の基本を行う。文面はとてもシンプルだった。短い前文があり、起こった事実と守るべき約束が記され、最後に関係者の署名がされる。
事実確認と約束事は五つだけだ。
一つ、婚約解消は、ガイ・ナバルが申し出たことである。
一つ、ナバル子爵家の方から婚約解消を申し出、コトナギ公爵家が了承した。
一つ、コトナギ公爵家は、慰謝料を請求しない。
一つ、シオナ・コトナギとガイ・ナバルの結婚に関わる費用について、すでに発生しているものに関しては、発注した者が支払いの責任を負う。
一つ、シオナ・コトナギとガイ・ナバルが今後再び婚約を結ぶことはない。
「お父様は、昨日、慰謝料をふっかけるとか言われていたけど。」
シオナが手に持った書類で口元を覆い、目だけ出して問うと、ゴストに笑われた。
「公爵令嬢にふさわしい慰謝料を請求したら、ナバル家は王都の邸宅を売り払うくらいじゃ済まなくなるぞ。逆に、ナバルが払える額にしたら、コトナギ公爵家が世間に侮られる。慰謝料は請求しないでおいてやると、恩を売るほうがいい。」
つまり世間から見ると、それだけ身分差のある婚約だったという事だ。公爵令嬢と婚約出来るなら、王女とでもと、ガイは思ったのだろうか。莫迦だ。
レミーラがつんとした表情で言う。
「婚約解消の理由を書かずにいておいてあげたのも、こちらの温情よ。」
王女に婚約するためなんて記録が残されたら、後々恥ずかしい思いをすることになるだろう。
シオナは内容に問題を感じることなく、指定の場所に署名をしていく。
ただ同じ内容の物が三通あるのが疑問だった。コトナギ公爵とナバル子爵家の他に、叔父が持つのだろうか。シオナは三通目の署名の前に聞いてみた。
「この三通目は誰が保管するのですか。」
「王宮の内政部重要書類保管課で一般文書として保存する。」
ゴストに言われて、シオナは少し驚いた。
内政部重要書類保管課は、手数料さえ払えば、文字が書かれた紙なら何でも預かってくれる。それが至極個人的な恋文でもだ。
保管手数料は、枚数と期間によって異なってくる。期間を延長したい場合は、前日までに申し出て、手数料を支払わないと、問答無用で焼き捨てられる。
保管方法は二つだ。「機密」と「一般」である。
機密なら、署名した本人と本人が指定した者以外は誰も見ることが出来ない。
一般は、誰でも閲覧が出来る。写しが欲しければ、手数料を出して発行してもらう事も出来る。
貴族に限ってという但し書きがつくが、貴族に金を積んで、写しを手に入れる庶民もいる。
シオナは小さくため息をついて言った。
「噂の対策と、始めてしまっていた結婚準備費用対策ですか。」
「そうよ。結婚準備費用は、破棄してきたナバルが全額払うべきところなのだけれどね。」
レミーラの笑顔が少し怖いものになった。
「ナバル夫妻への牽制でもあるわ。彼らが勝手に話を作らないようにね。」
ナバル夫妻は、自分の都合のいいように話を解釈するところがある。
シオナは思った。これは本当に、親しい仲には戻れない、と。少なくとも、ナバル家が代替わりし、ガイが別の女性と結婚するまでは。
縁切り状である誓約書。
胸をざらつかせる誓約書。
けれど、こんな気持ちにさせられるのは、初めてではない。
指揮官として人の上に立ち、領地を治める公爵家の一員としての務めを果たしていれば、他人を嫌な思いにさせることも、しなくてはならない。
何度上申書を上げられても、五年先、十年先のコトナギ領と王国の全体の事を考えると、却下せざるを得ない時もある。どれだけ恨み事を言われも、情に訴えられても、出来ない事はある。
あの五年前の森で戦った日から、シオナは冷徹な判断を下せるようになった。
「シオナ?」
「どうかした? 大丈夫?」
黙り込んだシオナに、叔父夫妻が心配そうに声を掛けてくれる。
守ってくれようとしてくれる人達がいる。
「大丈夫よ。叔父様、叔母様。」
シオナは、王宮に保管される三枚目に署名した。
王宮には、王女がいる。
シオナと同い年。次の女王になるファレア王女には、シオナよりも数多く、心をザラリと逆なでされる出来事が起こっているだろう。
家を継ぎ、自ら領政を行うと決めたご令嬢たちもそうだろう。
シオナは家を継がないけれど、それを知っている。だからロキスは、シオナに王女の侍女になって欲しいと言い続けたのだろう。家を継ぐ娘は、侍女にはなれないからだ。
分かっていても、シオナは頷けなかった。三ヶ月から半年に一度王宮に行くのが精いっぱいだった。
自分の部隊があるから。ガイという婚約者がいるから。
でも、今、その重りのひとつは消えた。
そして王女の側に、もうロキスはいない。
シオナは立ち上がった。
「私、王宮へ行きます。」
「王宮?」
今まで黙っていた父が聞き返してきた。
「シオナ、急にどうしたの? この書類なら、私たちが責任を持って届けるわよ。」
レミーラに言われたが、理由は違うから、シオナは笑顔で首を振った。
そして父であるコトナギ公爵に向き直る。
「しばらく、王都で生活させてください。私の部隊は、副官に指揮権を委譲して頂ければ有り難く存じます。」
「コトナギ領を長く離れるなら、部隊長を解任する。」
公爵にきっぱりと言われて、シオナは頷いた。
「はい。」
シオナの副官は信頼できる騎士だ。なんの問題もない。
表向きには、王都に行く理由は特に必要ない。後を継がない貴族の令嬢は、結婚相手を探すのが一番の仕事だからだ。
公爵が大きなため息をついた。
「国王陛下から聞いているぞ。ファレア王女が、シオナを食客にしたいと言い出したらしいな。陛下は面白がっておられた。シオナ、王女がまたそんな事を言いだしたらどうする。」
「侍女は出来ません。」
シオナは即答した。この考えは今も昔も変わらない。
「侍女には、行動に制約があります。けれどファレア王女の長期滞在の客にならなります。」
「長期滞在か。王都のコトナギ邸にも居ついて欲しいが。」
公爵の言葉は、シオナの頭の中にあった何かのどこかを動かした。良く分からないうちに、それは勘として言葉になる。
「情報活動が必要なのですね。」
言ってから、シオナは叔父夫婦を見た。
情報通はこの二人だ。
けれど伯爵夫妻として、領地にいる時間も必要だ。
シオナは婚約が解消されたから、王都に居続けても何の不思議もない。
父がため息をついた。
「シオナは好きにふるまっていい。必要だと思う事をせよ。ただ報告は忘れるな。一人でなそうとするな。」
「はい。」
シオナは神妙に返事をした。自分が公爵家の一員である自覚はある。
「信頼しているよ、シオナ。父としての望みは一つだけだ。」
父は、自分で言いながら、どこか物憂げだ。シオナは大人しく父を見つめて続く言葉を待った。
「とにかく、やりすぎるな。」
それは、ちょっと約束できない。つい、へらっと笑ってしまった。
父がそれを見て、目を眇める。
シオナは慌てて一歩下がる。
「では私、午後一番で王都へ向かいます。」
「行くって、今日行くの?」
レミーラが驚いて声を上げる。
「はい。失礼します。」
シオナは、退出の許可も得ずに執務室を後にした。
そう、今日すぐにでも王都に行ける。もう結婚式の準備をしなくていいのだから、予定は真っ白だ。
自由だ。
何をする? 何ができる?
そしていつも通り、シオナは侍女を連れず、ひとりで馬車に乗る。
昼一番には、コトナギ城塞を出ていた。
四日後には王都に着く予定だ。
「こんなに急に、王都に行ってしまうなんて。」
コトナギ公爵夫人リスアが何回目かのその台詞を言った。
残されたコトナギ家全員と領主の弟夫婦が、書斎に集まっていた。
父が苦々しい顔で言う。
「王女の食客になるつもりのようだ。何を仕出かすかわからないのが、頭の痛いところだが。」
ヤトルが不審そうな顔で聞いた。
「食客? それって何するんだ?」
「居候じゃないか?」
ケイルが言いながら眉をひそめる。
ゴストとレミーラが顔を合わせて首をひねっている。
「いじめられたりしないかしら。」
母リスアはそこを心配したが、ヤトルが笑った。
「大丈夫ですよ、母上。たぶん、シオナは気づかないから。」
「それだと、だんだん嫌がらせが酷くならない?」
「気がついたら、反撃するよ。あいつは無敵だ。」
兄が言い、その隣で弟が小さく呟いた。
「シオナのそういうトコ、むかつく。」
弟は兄に頭を乱暴に撫でられ、家族はそれぞれため息をついた。
これから出来ることは、シオナを陰から支えることのみ。
「なんだか色々忙しくなりそうね。」
最初に華やいだ声を出したのは、社交好きのレミーラだ。
「私たち、いつ王都に行く?」
彼女が夫ゴストにそう言った時、書斎がノックされた。
執事のオトルクだった。
コトナギ公爵が許可を出し、扉が開かれる。
「失礼致します。サザメ侯爵家のルナン様からのお使者です。本日シオナ様にお目にかかれますかと問われておりますが。」
一同が視線を交わし合った。
サザメ侯爵家は、コトナギの西隣に領地を持っている。北方の国境の一部を守り、共同戦線を敷くこともある。
サザメ家第一子長男ルナンは、シオナと共に初陣に出て、同じ修羅場に立った仲だ。
そのルナン・サザメが、ガイ・ナバルとの婚約が破棄されたとたんに面会を申し込んで来た。
公爵が執事に問うのを、皆、息をつめて待った。
「他に何か、言っていたか?」
「是非とも、と。随分急いておられるようにお見受けしました。」
「急ぎの用か?」
「いえ、主人に急かされている使用人に見えました。ただの当て推量でございます。」
この執事が口にする『当て推量』は、当てになる。
公爵はしばし間をおいてから、執事に伝えた。
「シオナは王都へ向かったとお伝えしていい。」
「かしこまりました。失礼致します。」
静かにドアが閉められる。
待っていたように、キエラが声をあげた。
「ルナンって、一つ年上でしたわよね。婚約者なし! もしかして、婚約破棄の報を聞いて、求婚に来ようとされているのでは?」
「昨日の今日だぞ。サザメ侯爵が即断するか?」
ヤトルが反論したが、ゴストはにやりと笑った。
「するかもしれないぞ。サザメ侯爵夫人は、シオナがお気に入りだ。息子の命の恩人だからな。五年前の戦役の時、相棒がシオナじゃなきゃ、死んでただろ、あいつ。」
「それこそ、当て推量というものよ。」
公爵夫人は落ち着かせようして言うが、どこかそわそわしている。
「ルナンかぁ。あいつ、戦略はともかく、剣術が上手くならないんだよな。」
ヤトルが不満そうに言ったから、武術が苦手なケイルが不満の声を上げる。
「ヤトルやシオナを基準に考えるなよな。」
その時、書斎にまたノックがあった。
執事だ。
落ちついた声で彼は告げた。
「お嬢さまが居られないのなら、公爵様にお会いしたいそうです。」
公爵が会うと約束をし、執事によってまた静かに扉が閉められる。
「これは、やっぱりそうですわよ。」
キエラが目をキラキラさせる。
「だとしたら、もの凄くタイミングが悪いよな。本人いないし。」
ヤトルが言う。
公爵夫人はため息をついた。
「シオナは、結婚相手を顔では選ばないって言っていたけれど、不思議よね。美形が寄って来るんだから。」
ルナン・サザメがやって来た。
コトナギ公爵家の人々の目にさらされて、ルナンは少し動揺しながらも、公爵からシオナ次第という、求婚の許しを得た。
侯爵家の後継者であるルナンはすぐには旅立てず、王都到着は、シオナから十日遅れることになる。