波紋は当然起こる
気に入らないことを言い続ける相手を、殴って黙らせた。
これは、貴族の子女として、有るまじき行為だ。
シオナは自室の居間のお気に入りのソファに沈んだ。
反省すべきだろうけど、後悔はない。
婚約は解消だ。
何となく納得していた結婚も、あのガイの言葉で完全にありえないものになった。
シオナの気持ち的には、すっきりおしまいのつもりだ。
けれど、ガイを殴ったことと、その経緯は、コトナギ全軍にすぐに知れ渡るだろう。またしばらくは、皆から、無駄に畏怖の目を向けられることになりそうだ。
窓の外へと目を向けた。
国境に近いここは、城塞都市だ。
石造りの城の窓は、全て細長い。敵の侵入を防ぐためだ。けれどそこに鉄の格子が入っているのは、防戦のためではない。その隙間にガラスが分厚いガラスを入れているからだ。
ガラスが窓にはめられるようになる前から、この城塞はリカナ王国を守ってきた。昔の窓は木と鉄でできた重い鎧戸を開け閉めしていたらしい。初春といえども、外の光を求めたら、寒い思いをする事になっただろう。
今は、ガラスが冷たい風を防ぎ、明るい日陽射しとその温かさを与えてくれる。住みやすい時代に感謝だわとシオナは思った。
そして、ため息を一つで、思考の逃避から現実に戻る。
ファレア王女に手紙を書かなければいけない。
ロキス・クレワが亡くなってから、王女との文通は頻繁になった。内容は他愛無いことばかりだ。天気のこととか、共通の知人の笑える失敗とか、上手に出来上がった刺繍の話とか。
ロキスの事と、いくつも起こっている婚約解消事件は話題にしていない。でも、王女からの手紙の最後はいつも同じ文章で終わる。
--婚約解消したら即連絡を寄こすのよ。
現状の報告を、王女にしないわけにはいかないだろう。
でも理由は言えない。
すぐにペンをとる気にもなれなくて、シオナはふたりの年下の侍女たちに視線を移した。
仲良くふたりで、メイドが運んできたティーセットの乗ったワゴンを部屋に引き入れている。
茶色の髪のアオリは、レンメ子爵家の三女だ。十七才で、コトナギに使える騎士と婚約中だ。
ミリカは赤い髪をした十六才。ミリカ男爵家の次女である。こちらはまだ決まった相手はいないが、普通顔のシオナやアオリと違って美人だから、恋のさや当ての的になっている。
普通顔仲間のアオリがお茶を入れながら、シオナに話しかけて来た。
「お嬢さま。コトナギ公爵家にふさわしい、武芸に秀でた殿方はたくさんいらっしゃいます。」
それにミリカが大きく頷いた。
「そうですわ。跡取りに嫁いで、貴族の奥様になりましょう。」
貴族の身分が保障されている奥方の座。面倒そうだなとシオナは思う。
シオナの希望は、このままコトナギ公爵家の旗の下で、騎士として生きることだ。
「よそへお嫁に行ってしまったら、コトナギの騎士ではいられないわ。」
思ったままを口にした。すると。
「お嬢さま!」
二人の侍女は、感極まったように声を合わせた。この二人も、コトナギ公爵家の旗の下に生きると決めた者たちだ。
「お茶、こぼれそうよ。」
微笑んでシオナが声を掛けると、アオリが慌ててポットを持ち直す。
そんな姿を可愛いなぁと思う自分は、感覚的に「おばさん」ではないだろうか、とシオナは思ってしまった。いや「おじさん」かもしれない。嫌なこと思いついてしまった。
結婚なんてしなくていいかもと思ってしまっているところが、もうすでに乙女らしくない。
シオナが少々自己嫌悪に落ち、アオリが無事にお茶を入れた時だった。
少しばかり忙しないノックがあった。
「はい。」
ミリカが返事をすると、ドアが半分開かれる。兄嫁付きの侍女の姿が見えた。
「若奥様が、お話をしたいと仰せなのですが、ご予定はいかがでしょうか。」
答えを求めるようにミリカがシオナを見てきた。それに頷くと、ミリカは義姉の侍女に慌てることなく答えた。
「はい。こちらから、お伺いいたしますか?」
「いいえ。」
返事をしたのは、侍女ではなく、義姉本人だった。
大きくドアが開かれる。実家からついてきた兄嫁付きの侍女は、兄嫁の後ろから、すみませんというように小さく頭を下げてる。
ロバト伯爵家から兄のところに嫁いできて三ヶ月。真っ直ぐな気性で、すぐに武家の館に溶け込んだ。ただ最近、物凄く几帳面なことが発覚し、使用人たちに恐れられ始めている。
名はキエラ。歳は十九。シオナと同い年だ。
「お邪魔するわね、シオナ。聞いたわよ。」
キエラは怒っていた。そしてシオナの部屋に入って来ながら、気炎を揚げる。
「ガイが王女に求婚するですって? なんて馬鹿なの! 剣を振るしか能が無いくせに、身の程知らずにも程があるわ!」
「その通りよ!」
続いた声は、母のものだった。前触れもなしに押し掛けて来た。
義姉の前触れも、はっきり言って意味がなかったが、普段から礼儀正しくを心がけましょうとうるさく言う母だ。これは相当怒っている。
コトナギ公爵夫人である母は、シオナの方へつかつかとやってくると、威厳を見せて言った。
「たとえ公爵が、婚約解消に応じなくても、私が必ず、壊してあげます。」
「義母上様、及ばすながら、このキエラ、お力にならせてくださいませ。」
この嫁姑の仲は、今の今まで決して良好とは言えなかった。
義姉キエラの几帳面さと、母の潔癖さは、似ているようで、似ていない。同居三ヶ月目、未だお互いの動向を探り合っているように、シオナには見えていた。例えるならば、嵐の前の静けさのようだったのだ。
しかし、共通の敵が出来た事で、距離を縮めている。
義姉と母は、シオナの前の長ソファに並んで座り、互いにしっかり目を合わせた。
シオナの怒りは、ガイに拳を入れた事で、ひとまず治まっている。けれど、怒り沸騰中のこの二人には何を言っても、逆にシオナが怒られそうだ。
今は静かに見守り、暴走だけは止めよう。
そう決めて、シオナは、アオリに声に出さずに、お茶、と言った。アオリは小さく頷くと、いつも以上に音をたてないよう、ワゴンにカップを並べ始めた。
話は、シオナを置き去りに始まった。いつものことだから、そこは気にしない。
「義母上様、ナバル家の者を追い出せませんの?」
「恥を知っているなら、多少は出て行くでしょう。兵の受け入れを減らすことはできるけれど、全部を追い出すのは無理ね。」
キエラが眉を寄せて聞く。
「補給のためですか?」
「隣領ですし、長い付き合いですからね。急に補給線を変えると、ナバルで仕事を失う者が出る。民を苦しめたくないわ。ナバル家だけでなく、コトナギを逆恨みする者が出るかもしれない。」
「勉強になります、義母上様。」
公爵夫人の言葉に、若い嫁は、神妙に頷く。
「けれど、口惜しいですわ。懲らしめてやることはできませんの?」
義姉の真っ直ぐな云い様に、母が悪い笑みを浮かべた。それに、義姉が期待に満ちた目をきらめかせる。
「当然できるわ。」
怖い笑み母が言った。
「ガイの親たち、ナバル子爵夫妻は、我が公爵家と縁戚関係になるからと、社交界で随分大きな顔をしていたのよ。私がさりげなくそれを諌めていたのを多くの人が見てる。」
義姉が真面目に続けた。
「つまり、縁戚関係になる将来が無くなった今後、コトナギ目当てで親しくしていた人々は離れる。」
「貴族だけじゃないわよ。商人もね。さて、彼ら自身には、どれくらいの信用があるかしらね。」
姑と嫁は仲良く含みのある笑顔になる。
シオナが知るナバル子爵夫妻は、人の話をあまり聞かない人達だ。しかも彼らの話はあまり正確ではない。
しかし次期当主であるガイの兄夫妻は常識人だ。シオナに丁寧で、いつも気を使ってくれた。次期当主夫妻のために、シオナは少しだけ言葉を挟んだ。
「ナバル家の後継者夫妻は良い人達だから。ひと括りにして厳しくしないでね。」
キエラが眉を下げて言った。
「酷い目にあったのに、なんて優しい事を言うの。」
感激して貰えるほどのことではないけど、とシオナが思っていると、母が自分の計画を話し出した。
「ナバルの次期当主とは、彼が実際に当主となった時に、関係修復をすればいいわ。当面はもう、ナバルと親しい顔をする必要はない。コトナギの血縁者の、誰の個人名も呼ばせなくてよ。全て家の名で呼ばせる。これだけで社交界では、コトナギがナバルとは特別な間柄ではないと知れ渡るでしょう。」
キエラが納得顔で頷いている。
母は、急にシオナの方に向いてきた。
「シオナ、ガイに未練はないわね。」
ない、と即答することもできたが、別のことを正直に答えた。
「あの顔は好きだったわ、」
母が額に手を当てた。呆れたというふうな声で言う。
「我が子ながら情けない。顔が良ければいいの?」
シオナが遠慮なく憮然とした顔を見せた。
「言っておきますけど、私が自分で決めた相手じゃありませんから。おじい様が勝手に決めてしまったんでしょ。私は婚約なんて、早いって言ったのに、お母様とお父様が、おじい様に押し切られたんじゃない。」
母が視線を遠くへ向けた。
「あの戦役の後、ガイ・ナバルとの婚約を公表する前に、とても良い婚姻の申し出がたくさん来たのよ。おじい様は、ご自分の判断誤りを絶対に認めませんでしたけどね。」
それは、自分が押し切られたことを謝る気はないということだろうか。シオナは首を傾げる。
母は強気だった。シオナに気力ある表情を向けてくる。
「でも安心して、シオナ。もうわたくしたちの前に立ちはだかるおじい様もおばあ様もいないわ。」
さり気なく、おばあ様を付け加えて母は続けた。
「わたくしが必ず潰します。ナバルの息子はまだ、公爵のところにいるのかしら。」
「結果が気になりますわ、義母上様。」
すっかり同志になっている嫁姑。
これはある意味、平和は光景と言えるのだろうかと、シオナが遠い目をしてしまった。
そこに果敢に割って入る勇者が現れた。シオナの侍女アオリだ。
「奥様、若奥様。お嬢さまの次のお相手は、どうお考えなのでしょう。」
そういえば、シオナが政略的婚約再編成の一人に組み込まれたと言いだしたのは、アオリだった。
彼女にすれば、終わった話より、将来の方が気になるのだろう。
母が目を輝かせた。
「そうね、アオリ。シオナだって公爵家の娘よ。以前には良縁があったのですもの。今だって子爵家の次男よりいいお話があって当然よ。政略的婚約再編成が起っている今、早々に動かなくては。」
キエラも身を乗り出す。
「王女様のご不幸には、心からお悔やみを申し上げます。けれど、王配を巡り婚約破棄が多く起こってしまったのは、事実。他家の婚約者を失ったご令嬢に先を越されぬように、良いご令息を見つけなければ。」
「婚約解消をしたご令息たちは、またいつ裏切らないとも言えないから、それ以外の方となると、競争率が高くなるわね。」
今にも婚約者候補リストを作り始めそうな母と義姉に、これ以上は勝手にやってという気持ちになって、シオナは割り込んだ。
「婚約者候補を探したいのなら、止めません。けど、気に入らない相手を押しつけて来たら、私も、潰すから。」
そしてソファから、立ち上がった。
「誤解のないよう、言っておきます。私、顔で、婚約者を選びません。」
部屋のドアへ体を向けながら、シオナは言った。
「しばらく一人にして。書斎にいます。お父様以外には会いません。」
自分の部屋の居間に、訪ねて来た人も、侍女も残して、足早にシオナは廊下に出た。
このままコトナギの騎士として生きていくことはできないのかしら、と思いつつ。