婚約解消話は場所を選ぶべき
コトナギ公爵家は、リカナ王国の北の国境を守っている。
環境がそうさせてしまったのか、コトナギ家第二子長女のシオナは、武術の達人だ。
十四才で初陣し、武功まで立ててしまった。
コトナギ公爵家の旗の下に戦う者たちは、コトナギの次期当主へ捧げるのと同じ敬意をシオナにも払っていた。
十九才になったシオナには、一つ年上の婚約者がいる。
質実剛健。騎士らしく鍛えられた体を持ち、黒い髪に、青い瞳で、怜悧な印象を与える整った顔立ちをしている。初陣も共にした。
ナバル子爵家の次男ガイだ。
シオナも黒髪だが、目は黒い。ガイほど容貌で褒められることはない。残念だが、これは自分でもどうにもならないので仕方ない。美人ではないが、普通顔だから問題もない。
ただ、威圧感が半端ないとか言われるのは、複雑だ。国境で軍の指揮を執るものとしては、身についていてしかるべきものだが、普通顔のはずの年頃の娘としては、目付きが悪いと言われているのと同じだから、時々ため息が出る。
それでも、半年後の秋、シオナは花嫁になる。
春を彩る花たちが咲くその日、シオナは婚約者との語らいために、いつもの騎士服ではなく、貴族のお嬢さまらしく薄緑色のドレスを身につけた。
侍女とメイドたちの努力によって保たれている艶やかな黒髪は結いあげられ、解説付きで化粧がなされた。その合間に愚痴も入る。
「もっと普段からご令嬢らしいお姿を見せてください。」
「ダンスやマナーのレッスンの時にお召しになるドレスなんて、素っ気ないものばかり。もう少し着飾ってください。」
「お嬢さまが淑女らしくできるということを、忘れがちになります。」
「せっかくお背が高くて、素敵に着こなされますのに、もったいなく存じます。」
「とにかくドレスを着てください。」
大人しくして、全てを聞き流す。準備の全てが終わってから、シオナは、色々文句を言いつつも着替えに手を貸してくれた侍女とメイド達に微笑む。
「すごい化けようですね。」
「お化粧と淑女の笑顔。別人です。」
褒められた。褒め言葉のはずだ。
気にしない。
空は晴れ渡っている。
婚約者ガイ・ナバルの到着が、使用人によってにこやかに告げられた。
「玄関ホールでお待ちになるそうです。」
いつも応接室か庭で待つのに珍しい、とシオナは少し首を傾げたが、深くは考えなかった。
まずは庭園の早咲きのバラを見にいこう、とシオナはのんびり思いながら屋敷の無駄に広い正面玄関ホールへと向かった。
「おまたせ、ガイ。」
気合の入ったドレス姿と笑顔で迎えたシオナへの、婚約者ガイの第一声は挨拶ではなかった。
「婚約を解消して欲しい。」
一瞬にして、冷たい空気が玄関ホールに張りつめた。もちろんシオナが発したものだ。
ガイが場所を選ばなかったため、凍りついた被害者は、主にコトナギ家の召使たちだったが、運悪く館にやって来ていた騎士三人も道連れにされた。
そんな動かない彼らを横目で見て、シオナは、お嬢さまらしくドレスに沿わせていた両手を、おもむろに腰にあてた。
まともに目を合わせようとしないガイが、そんな事を言い出した理由を、シオナは一つしか思いつかない。だから、単刀直入に切りこんだ。
「もしかして、王女に求婚するつもり?」
ガイは口を噤む。
莫迦だなぁと、シオナは目の前の長身の男を見上げる。
黙っていればわからないが、話せばバカがバレる。
たった今も、何も言わずに少し眉を寄せているから、苦悩をしているように見える。けれどこの表情を見慣れているシオナには分かっている。怒られるの嫌だな、と思っているだけなのだ、こいつは。
シオナはため息を飲み込む。
本当に莫迦だ。
王女の婚約者が亡くなったのは、二ヶ月ほど前の事である。
事故死だった。
嵐の後、落石事故現場の視察に出て二次災害に遭ったのだ。この二次災害で他に三名の死者が出ている。最初の事故と合わせると、亡くなったのは八名。陰謀説は今のところはない。
明白な事故。
だからこそ、今、リカナ王国は、空前の政略的婚約再編成状態に突入している。
未来の王配の席が空いてしまったのだ。
王女ファレアとその婚約者ロキス・クレアの結婚は、政略によって決められたが、恋仲でもあった。
誰もがそれを知り、ファレア王女の嘆きの大きさも知っていたから、次の相手をと言って不興を買うのを恐れていた。
が、我慢は三日と持たなかった。
それから今日まで、王女への求婚は絶えることなく続いている、とシオナは聞いている。
そして、婚約解消された令嬢たちと、王女に振られた令息たちを巡り、様々な駆け引きが繰り広げられている、らしい。
そんな所に突っ込んで行こうなんて、ガイは本当に莫迦だ。
シオナは、自分よりはるかに大きな男を見上げて追及した。
「王女に求婚するの?」
ガイは目を逸らしたまま、少し拗ねたような顔をした。二十歳になる大人がする顔ではないが、幼馴染みの気安さがそうさせるのだろう。
だが、これはただの悪戯を怒っての追及ではない。ガイはそれを分かってないと、シオナは苛立たしく思う。
「どうなの?」
追い打つように言葉を重ねると、やっとガイが口を開いた。
「俺は、あの方を守りたい。」
シオナが黙って見上げる姿勢を変えないせいか、ガイが重い口をまた開いた。
「俺は、あの方のお側で、あの方を守りたい。」
ガイの視線は、シオナより上に向けられ、遠いどこかに想いを馳せているようだった。
ファレア王女は美しい。金の髪に緑の瞳。堂々とした態度と、まだ少女めいた軽やかさが、多くの人々を惹きつける。その王女に求婚が殺到している事は、頷ける。
しかし、ガイは子爵家の次男だ。今現在、婚約者がいないならともかく、それを破棄して王女に求婚など、彼の身分からすると博打以外の何物でもない。しかも負けは目に見えている。はっきり言って惨敗する。
「父に頼めば、すぐにでも近衛騎士に慣れるわよ。」
そう水を向ければ、ガイはやっと真っ直ぐにシオナの目を見て来た。
「ごめん、シオナ。何度でも謝る。でも、どうしても、俺はあの方の一番近くに行きたいんだ。一番傍で、あの方を守りたい。」
いったん口を開いたガイは、次々語りだす。
「きっと心細い思いをしておられるに違いないんだ。ファレア王女の涙をぬぐってさしあげたい。大丈夫だとしっかりと手を握っていさしあげたい。王女様がお一人で苦しんでおられるのかと思うと胸が痛む。苦しいんだ。」
莫迦だと思いつつ、呆れて聞いているシオナに、ガイは沈痛な顔を向けてきた。
「シオナには申し訳ないと思ってる。けれど君は強い人だ。いつだって、苦難を乗り越えて来た。俺がいなくても、君は大丈夫だろう。けれど、あの方には支えが必要だ。本当に、ごめん。君の事は尊敬している。けど、・・恋じゃない」
そう言って俯いてしまった男に、恋じゃないのはお互い様だとシオナは言いたがったが、止めた。
恋ではなかった。でも、結婚しようと思うくらいには、好きだった。
莫迦な人、と思う。
だから、シオナが言えるのはもうこれだけだ。
「わかった。私は同意する。」
「え?」ガイが驚いて聞く。「怒らないの?」
本当に莫迦だ。
シオナは親切にも教えてあげた。
「怒ってるわよ。当然でしょ。さぁ、父のところに案内するわ。」
娘の婚約者が訪ねてくると知っている父は、今日は屋敷に仕事を持ち込んでいる。威圧感満載で、騎士たちと毎日剣を交わしていても、父親には大事な大事な箱入り娘らしいのだ。婚約者とは、仲良くしてても、喧嘩してても心配らしい。
「え? 今すぐ?」
ガイが少し顔をひきつらせてる。
「そうよ。私は同意した。それなら、すぐに話を進めましょう。」
身を翻し歩き出したシオナに、ガイはついてこない。
振り向くと、ガイが不審そうな目を向けて言った。
「シオナは、俺のこと、どう思ってんの?」
「はぁ?」
それまでの平静さを捨てたシオナの、喧嘩上等という声の調子に、侍女ふたちが壁際へと身を引いた。
使用人たちの目は、立ち去る機会を逃していた騎士たちに向けられる。殴り合いになったら止めてくださいという懇願だ。玄関ホールには、高価な絵画や置物がある。
騎士たちがわずかに身構えた。喧嘩を止めるためじゃない。高価な品を守るためだ。
そんな様子を目の端にして、シオナは、ガイに向き直った。
「婚約解消したいんでしょう? どうしてそういうことを聞くのかしら?」
「あんまり冷たいからだよ。俺のこと、嫌いだったわけ? 解消するって言ってくるの待ってたのかよ。」
「嫌いだったら、今日、ドレスなんて着てないわ!」
ガイが黙った。
お嬢さまの本音を聞き、見守る者たちも息をつめてる。そこへ、ガイが言った。
「じゃあ俺のこと、好きなんだ。」
ドレスの裾がふわりと揺れた。次の瞬間、シオナの右拳がガイの腹に入っていた。
すぐにシオナは、ガイから距離をとる。今日はドレスだから、足技が使いづらい。反撃を受けたら不利だ。
「一発ですんだことに、感謝するのね。」
腹を押さえ、少し前のめりになったガイに、シオナは言い放つ。
ガイの目に不穏な色が見えた。
来るか、と思ったその時だった。
コトナギ家の執事がゆったりとした口調で割って入って来た。
「ガイ・ナバル様。公爵様が、お会いになります。」
五十五才になる痩身の執事オトルク・ケイリカは、武術を身につけていない。だから、彼に手を上げることは絶対に許されない。
ガイは、わざとらしくシオナから目を逸らすと、怒りが消化できないままの顔で、執事に会釈した。
今ここで起ったことなど何も知りません、という静かさで、執事は廊下の奥を示した。
「ご案内します。」
ガイは、もうシオナを見ることなく、その後をついて行く。
シオナは、二人の背中が廊下を曲がって見えなくなるまで見送った。
当たり前だが、この騒ぎは父の耳に入っているだろう。もしかしたら、どこからか見ていたかもしれない。
シオナは、とうとう口に出してしまった。
「本当に莫迦。」
でもそれは呟きだったから、誰の耳にも入らなかった。壁際に避難してきた侍女たちが安堵の声を上げながら、シオナの側にやってくる物音にかき消されてしまった。
「お嬢さま。びっくりしました。」
「どうなるかと思いました。というか、どうなるのですか。」
「本当に婚約解消ですか。」
「王女様に求婚って、ガイ様、本気で言ってるんでしょうか。」
陰から見ていたのか、若い女の子の使用人たちが何処からともなく集まって、シオナを置き去りにして話し始める。
「騎士としては最高なのでしょうし、お顔もいいですけど。」
「確かに美形ですよね。」
「性格も悪くはない、ですよね。むしろ良い方?」
「でも、こんなこと言い出すなんて、性格いいとは言えません!」
「性格の問題ですか?」
「剣の腕は確かなようですけど。」
「騎士なら問題ないと思います。」
「騎士に限れば。」
こういう状態を、シオナはあまり叱らない。彼女たちの本音がこぼれ落ちているのが面白いし、貴重な情報を拾うこともあるからだ。
「騎士しかできないのに、王女様に求婚できるんでしょうか。」
「ガイ様はもしかして勲章を貰っているというだけで、王女様のお相手として通用すると思っておられるのかしら。」
「勲章なら、お嬢さまだって。」
その言葉が出たところで、申し合わせたように皆、口を閉じた。
シオナは、沈黙の間が出来ないうちに、彼女たちに穏やかにゆっくりと話しかけた。
「みんな、驚かせてしまったわね。この件に関することは、執事か家政婦長から話があるでしょう。私の今日の外出は無くなったわ。部屋に戻ります。」
微笑むシオナに、使用人たちは落ち着きを取り戻し、自分たちの令嬢に一礼して各々の持ち場に散っていった。
次は、騎士たちだ。勝手に立ち去らなかった事は評価できる。
シオナは、手振りで、玄関ホールの隅に騎士三人を集めた。
「積極的に噂を流すようなことはしないでね。」
「消極的なら良いんですか?」
打てば響く軽妙さで、一番若い騎士が不思議そうに聞いてきた。隣にいた年嵩の騎士が、若い騎士の足を軽く蹴りつける。
「誇れる話じゃないから、話を盛るなってことだ。」
「盛らなくても、事実だけで充分盛り上がれますよ。」
三人目、二十歳代後半の騎士が、あっさりと言う。
シオナは、三人を見上げてにっこりと笑った。
「今日はドレスで良かったわ。蹴りを入れられないから、誰も昏倒させずに済むもの。」
騎士の顔が、すぐに任務中のものになった。調子がいいことと思いつつ、シオナは声を張った。
「仕事に遅れの出た者は、理由をそのまま上官に話していい。すぐに父か兄が、今回のことについて皆に知らせを出すだろう。任務に戻ってくれ。御苦労だった。」
「はっ。」
三人は声を合わせ、剣の柄を握って鳴らし、敬意を払うと、シオナに背を向けた。
残ったのは、シオナの侍女ふたり、アオリとミリカだ。
ふたりとも痛ましいものを見るような目をしていた。今日、シオナをきれいに装わせてくれたふたりだ。
せっかく着飾っていい気分だったのに残念だわ、と心の中では思ったけれど、言葉に出したのは、別のことだった。
「あなたたち、一番最初に、隣の部屋に逃げ込める壁際に逃げたわね。」
アオリとミリカは揃って、ごまかし笑いを作った。
「お茶を準備いたしますわね、お嬢さま。」
「せっかくのドレス姿ですから、豪華な首飾りなどを着けてごらんになりません?」
二人に歩みよりながら、シオナは別の提案をした。
「あの莫迦にプレゼントされたアクセサリーを寄り分けましょう。売り払って、何か偽善的な事に使いましょうよ。」
「偽善的って、お嬢さま・・。」
ミリカが力尽きたような声で言って肩を落とす横で、アオリが真面目に言う。
「いえ、お嬢さま。先方が返せと言ってくるかもしれませんから、それは少し先に致しましょう。それより早急に取り組むべき課題が他にあります。」
返せというかしらと思いながら、シオナはとりあえず聞き返した。
「お茶?」
するとアオリが両手を拳にして、小さく振る。
「違います。新しい婚約者様探しですよ。今やお嬢さまも、政略的婚約再編成のお一人に組み込まれておしまいになったのですから!」
「そうですわ!」
ミリカが力強く復活した。
結婚は出来なくてもいいかな、兄も弟もいるし。そのうち甥や姪が生まれるだろうし。
シオナはそう思ったが、侍女たちが盛り上がっているのを、楽しく見守ることにした。
反論するのは面倒だから。