序 英雄
シリアスなのは、この一話だけの予定です。
暴力行為あり。主人公の戦闘の話です。人が亡くなります。
森はさまざまな音に満ちている。
高い木立の先で葉を鳴らす風。
突然飛び立つ鳥の羽ばたき。
自分の靴が土を踏みしめる音。小枝が折れる音、落ち葉の擦れる音。
時々深くなる自分の呼吸。
相棒の防具の音。
小雨が降っている時は、さわさわと木々が鳴き、小川のせせらぎも大きくなる。
この森で、敵に遭遇する。
そう想定していた者は、シオナが所属する隊では、彼女の他には父が信頼する古参の騎士たちと、幼馴染みの二人の内のひとりルナン・サザメだけだっただろう。
ここは本隊が展開している地から、はるかに遠い場所だったから。
その年の秋、シオナ・コトナギが属するリカナ王国は、北方の王国のひとつコルランの王位継承戦争に巻き込まれつつあった。
王位簒奪を狙った王弟が、王太子の軍に負けた。そこまでは、順当に王太子が後継者となることを望んでいたリカナ王国にとっては良い結果だ。
しかし王弟が武力を残したまま南へ逃走したとなると、リカナ王国としては見過ごすことはできない。王弟に、南方に居座られるということは、リカナ王国の北方が脅かされているのと同じだ。
コトナギ公爵家は、王国の北の国境を守る一族である。
シオナはまだ十四歳でだったが、武術に秀で、戦略の才ありと王国の将校たちに言われていた。本人は、世辞や社交辞令だと思っていたが、彼女の祖父の考えは違った。シオナにも参集をかけたのだ。
直系で、武術の達人であると知られていたら、娘でも戦場に立つのがコトナギだ。とはいっても、最前線に立った娘はいない。
事実、シオナの父は、自分の娘にむごい戦場を見せたくなかった。このことで家庭内では、シオナを参謀本部に配するつもりだった祖父と父が揉めたが、家の外の者たちはそれを知らない。
結果、父が勝利し、シオナは、最後方の補給部隊の護衛の、さらに支援という「遊軍」に配属された。
しかも、幼馴染みふたりと、父が頼りとしていた古参の兵たちも一緒という過保護な状態だ。
シオナと同じ隊に配属された彼ら以外の兵が、「お嬢さまのための戦争ごっこ部隊」と陰で呼んでも仕方がない。確実に生きて帰れると、揶揄とも、自嘲とも、本音ともとれることを言う者もいる。
戦場だというのに、日々やることは訓練の様相を見せ始めていた。
森の巡回。
時々、本当にたまに、近隣の村々から血の気の多い若者が集まり、敗残兵を捕まえて褒美を得ようと考え森に入ってくる。
狙いは悪くない。コルランの王弟一派が少ない人数で逃げ落ちて、この国の大きな街で身を隠すなら、逃走ルートには街道でなく森を選ぶだろう。
だが村の若者たちは山賊に見えたりもする。彼らの目論見どおりになる前に、不審者として自軍に捕えられ罰せられないとも限らない。それどころか、うまくそこをすり抜けて戦場に近づくほど、見た目で身元がわからない彼らは問答無用で切り捨てられる危険が増す。
自国の民が、自軍に襲われないよう、見つけられるなら見つけて、村に返す。
大半の目的をそれとして、シオナ達は毎日森に入る。
士気は低い。
この森で、敵に遭遇する。
敵に遭遇しないとは限らないのだ。
その日の相棒、幼馴染みの一人であるルナン・サザメは、シオナと同じ危機感を持っていた。一番信頼できる相手だ。
ただ、武術の腕では頼りにならない。二人で組む時は、いつもシオナが前衛だ。理由は単純。シオナの方が強いから。
空には薄い雲が広がっていた。
夜半に降った雨が、ぬかるみを作りっていた。
川の流れも早く、音も高かった。耳から得られる情報が無かったのはそのせいだ。
右手側は崖、左手は崖沿いに川。広めの道だった。逃亡者が堂々と通る道ではない。
シオナとルナンが、道なりに、右へと曲がり、崖に遮られていた視界が開けた時。
ほんの十歩ほど先に、見知らぬ男が四人いた。
見知らぬ四人の男。
いや、知ってる顔がふたつあるとシオナの頭に名が浮かんだ。
ひとりはコルテン王国の、右の大将軍カヤハ。
もう一人は髪を茶色に染めているが、金髪のはずの王弟サナドだ。
以前一度だけ見た事のある威厳ある姿とはまるで違う。髭は伸び、目立つ装備は捨てたのか、薄汚れた格好だった。
こちらを見て動きを止めている。
相手の正体に良く気づいたものだと、自分でも思うけれど、シオナも完全に動きが止まっていた。
散々訓練したはずなのに、しなくてはいけないことがあるはずなのに、息が出来ない。指一本、動かない。
その時。
ピィ、ピィィーと、すぐ頭の後ろで呼び子の鋭い音が鳴った。
ルナンだ。敵発見を知らせる呼び子だ。敵が動き出す。
抜刀して走り込んでくる相手。右利きだ。
シオナの体が考えるより先に動いていた。
まだ十四才の少女であるシオナの剣は軽い。一撃必殺しか手はない。
男が剣を振り下ろす、そう感じた時には、シオナは左足を横へ一歩踏み出し、腰を落とした。男の右脇めがけて剣を振り上げる。剣が急に重くなった。相手に当たったのだ。迷う暇はなかった。勢いのまま振り上げるしかない。左足を軸にしたまま、右足で男の右脹脛を踏みつけた。演習で何度かやった。
濡れた、と感じたけれど確かめる暇はなかった。振り切った剣が、急に軽くなって慌てて握り直した。そのまま剣を今まで自分が足場にしていた相手の右脹脛に向けて切りつける。
ルナンが後ろにいる。男の足に負傷を負わせたから、剣が苦手といえども、ルナンは何とかするだろう。
二人目がこちらにめがけてやって来るのが目に入っていたから、ルナンに任せて先に進むしかない。
左手に剣を持ったカヤハ大将軍だった。
カヤハ将軍の後ろで、王弟ともう一人は、何か揉めながら、後ろ向きに後退している。
ここは、シオナがよく知っている道だ。
右手は低い崖、左手は川。そして、川沿いに大きな木が何本もある。
シオナはとっさに、自分が丁度隠れる事の出来るくらいの大きさの木に向かって走った。 いつもなら読み間違えない歩数を間違えた。立ち止まると、息が大きく切れる。
シオナの足取りは、心許ないものに見えただろう。大きく息を吐く様は、怯えているようにも見えただろう。怒りの形相だったカヤハ将軍の顔に嘲りが浮かび、それからまた憤怒の表情になった。
思い通りの木を背にしたシオナは、相手の表情に木を止める余裕はなかった。ただ、動きに集中する。
相手がどんな手でくるか。
シオナが一番ありえないと思っていた状況になった。カヤハ将軍は、剣を腰だめにして突進してきたのだ。
左に避ける。そう判断した。王弟たちに背を向けることになるが、カヤハの視界にルナンを入れたくない。
引きつけるだけ引きつけて、シオナは大きく左に飛んだ。
カヤハの剣が木に突き刺さる。それを引きぬこうとする間が、シオナに攻撃の機会を与えた。
シオナは、振り返ろうとする相手の右肩に、左上から斜めに剣を打ちおろす。カヤハが剣を自分の手に取り戻した時には、シオナは、右下からまた斜め上に向かって剣を振り上げていた。装備の無い相手の腹に当たる。シオナの剣には力が無い。だから、押さずに自分の方へと素早く引きぬいた。血が飛び散った。
でも、まだ終わっていない。
シオナは、今度は崖の壁に背を預けるべく、カヤハから距離をとった。ルナンが気になる。王弟サナドもだ。
ルナンの方に目をやると、襲ってきた男は倒れ伏していて、ルナンが剣を突き付けている。
反対側には、王弟ともう一人の後ろ姿が見えた。逃走すると決めたようだ。
とっさに、シオナは投げナイフを手にとり、ろくに構えもせず、二人の背に向かって投げつけた。
目の前にはカヤハがいる。狙っている暇はない。動いている相手には、狙っても当てるのは難しい。当たらなくても、相手が恐れてくれたらいいと思っただけだ。
そのナイフの行き先を、シオナは見ている暇が無かった。
「小僧がぁ!!」
声が襲ってきた。けれどシオナには、くぐもったように聞こえていた。カヤハが、右手で腹を押さえ、悪鬼のごとき形相でシオナを見ていた。
聞こえたその時、何故かシオナの頭の中に浮かんだのは、自分が名乗っていないという事だった。そして思った時には、口から出ていた。
「私は、リカナ国コトナギ公爵第二子長女シオナ。そちらは、コルテン王国、右の大将軍カヤハ様とお見受けいたします。」
少女らしい高い声。
カヤハが怪訝な顔になった。
「コトナギ?」
奇妙な沈黙が訪れた。
シオナは崖を背に、剣を下に構えつつ、相手の動きに注視する。
カヤハの顔は、シオナを睨みつけたままだ。この時のカヤハ将軍は、受け入れがたい何かを推し量ろうとしているように見えたと、後からルナンに聞いた。
向かい合っていたシオナは、ただ油断なく、身構えていた。
王弟が去った方向から、乱れた二つの足音がゆっくりと戻って来た。
「カヤハ。」
これにはカヤハも驚いたようだ。
「どうして。」
カヤハの短い言葉に、王弟は苦笑した。
「足をやられた。」
シオナのナイフが届いたようだ。彼はもう一人に支えられていた。
王弟が座りこんだ。ナイフは右脹脛にくいこんでいた。もう一人が手当てを始める。
武装解除の声をかけるかとシオナが思ったのと、カヤハが改まった声を出したのは同時だった。
「シオナ・コトナギ殿。」
彼の表情は、理性的な厳めしい将軍のものになっていた。
「この者たちは、私に従ってきた兵卒にすぎない。見逃してやってくれ。」
ここで、はいと言えるはずがない。
シオナは、気を引き締め直す。
「コルテン王国、サナド王弟殿下をお見逃しするわけにはまいりません。」
カヤハが剣をグッと握りしめるのが目に入って、シオナは、わずかに腰を落とした。
が、もう剣が振り上げられることはなかった。
王弟が逃げようとせず、聞いてきたからだ。
「コトナギ?」
驚きを声にも顔にも隠さず、コルテン王弟サナドが聞いてきた。
それに答えたのは、彼らの動きに注意を払うことを最優先にしていたシオナではなく、カヤハだった。
「コトナギ公爵長女のシオナ殿です。騎士服の色、なにより柄の紋章。コトナギの者に違いありません。」
確かにシオナの柄にコトナギ家の紋章はある。目立つものでははない。カヤハが最初から気づいていたとは思えない。シオナが名乗ったから、確かめたのだろう。
「リカナ王国、北の守護者、コトナギ公爵家か。」
王弟が聞くとなしに、そう言い、曇り空を見上げ続けた。
「ならば我が名の汚れとはなるまい。」
「・・・はい。」
カヤハが、サナドの方へ向き、膝をついた。
「殿下、おさらばでございます。」
言ってから、カヤハの腰が地に落ちる。そして彼の口から苦しげな咳と共に血が溢れ出た。
反射的に立ち上がったのだろう王弟の側にいた男に、シオナは剣を向けていたが、王弟も彼の動きを手で制していた。
「コトナギ殿。」
王弟サナドが真剣な目でシオナに訴えてきた。
「カヤハを楽にしてやってくれ。」
息がつまった。向かってくる敵に応じて戦うことと、これは違う。
これが戦場で起こること。
血だまりがそこにある。
シオナは無理やり息を大きく吸った。
「コルテン王国カヤハ将軍。コトナギ公爵長女シオナ、参る!」
一閃で事は終わった。
呼び子の音に応じた味方がやってきたのは、それからすぐだった。
最初に到着したの者たちの中に、幼馴染のもうひとり、ガイ・ナバルがいた。
シオナが、頭のすぐ後ろで慣らされた呼び子のせいで、少しの間、音を拾えてなかったことに気づいたのは、その後だ。最初に切りかかって来た男が罵声を上げていたことを、ルナンに聞いて、それがわかった。
結果として、シオナの耳と命は無事だった。
味方に負傷者なし。
敵の頭を捕縛し、二人の命を奪った。
そして、祖父の強権により、シオナの婚約者が早々に決められた。ふたりの幼馴染のうち、武術に勝るガイ・ナバルに。
英雄とは、時に誰か思惟によって作り上げられる。
2017.2.10.サブタイトルを変更しました。(旧:序 英雄)
2017.3.19.サブタイトルを元にもどしました。迷走してすみません。