003 バジルピアノ
<P―エリュシオン>。
<サンライスフィルド>にはかつて二つの文化施設があった。一方は既に廃墟と化していて、まったく新しい建物として蘇ったのが<アオウゼ―F>である。このFにはフロンティアの意味が込められていて、建てた【工房ハナノナ】の思いが感じられる。
もう一方が<P―エリュシオン>である。こちらは完全な廃墟にはなっておらず、神代の名残をとどめつつ桜童子たちの前衛的な意匠によって改装がほどこされている。このPには「人の集う場所・故郷」を表すパトリアの意味が込められている。
【工房ハナノナ】によって大きく居住用に変えられながらも、大ホールが残っているのにはそうした思いを反映しているからかもしれない。
その大ホールにこもり、あるものを作成していた男がいる。頭だけ狼面の男、バジルである。
バジルはホワイエのあたりでサクラリアと談笑していた<猫人族>のイクスに声をかけた。
「おいおいおい、猫娘。ちょっと来てくれ」
声をかけるだけならまだしもいきなり左の肘のあたりをつかんで引っ張るものだから、テーブルの上の飲み物を倒しそうになる。サクラリアが咄嗟に容器を支える。
「なんにゃなんにゃ、どこに連れていく気にゃ。暗がりにゃか! 強姦にゃか! 腐れバジルの腐れ遺伝子ならお断りにゃ!」
「ぶぉ! どこで覚えるんだよ、そんな言葉。いいから、ホール来てくれって」
バジルはホールの扉を引き開けて、イクスを連れ込む。サクラリアは慌てて飲み物の容器を持ったまま後を追う。
バジルは正月からこれまで、暇があればステージで何かの製作に打ち込んでいたらしい。ステージには緞帳のように布がかけられている。
「その幕引っ張ったらするっと外れるようにしてっからよー。するっと引っ張ってくれよ、するっと。除幕式といこうじゃねえの」
「なんなのにゃ。もうそのしたり顔して待つのやめるにゃ。布取ればいいにゃね、まったく。イクスに何の得があるっていうのにゃ」
イクスが布をするりと引っ張ると、見事にその布はバジルを覆う。
「ぶぉ! なん! この! どうだ、猫娘! びびったか」
布地獄を脱出したバジルは勝ち誇ったように言った。
「うわー! すごーい!! ピアノだよー!」
サクラリアは喜んだが、イクスはきょとんとしている。
「何にゃ、これ? 腐れバジル用の棺桶にゃか?」
「棺桶じゃねぇよ! ピアノっつってんだろ。ってそうだった、ピアノを知らねえおめえに一番に見せるために呼んだんだ」
「何に使うにゃ。ベッドにゃか」
黒い光沢はなく木目がはっきりとした見た目なので、ピアノを知らないものからすればたしかにベッドか足付きの棺桶に見えるのかもしれない。
「楽器だっつうの」
「バジルさん、これ音出るの?」
まったく会話の噛み合わないバジルとイクスに割り込むようにサクラリアが口を挟む。
「オレ様<楽器職人>だぜ。あったりまえだ。見ろよ、HPもMPもすっからかんになるまで苦労して作った力作だぜ」
おそらく、素材になる部品を集めに行ってからそのまま製作に打ち込んでいたのだろう。そういえば、数ヶ月前に<鋼鉄猛牛>の骨を使って鍵盤を作らされていたことをサクラリア自身すっかり忘れてた。
「おい、リア嬢ちゃん。<吟遊詩人>なんだから何か弾けねえのかよ」
「小学校の間ピアノ習ってたから、一応弾けますよ」
「おう、おう、頼むぜ。ちょいと使用感試してくれ」
サクラリアはステージに上がり、『ネコふんじゃった』を簡単に演奏した。演奏すると、八分音符がピアノから弾け出る。
「こ、これは凄いにゃ。感動したにゃ」
イクスは飛び上がって喜んだ。
「にっしっし。どうよ、元<大地人>のお前に一番に見せて驚かせてやりたかったんだよ」
「すごいにゃ、リアにゃん! 虹色の音符がぺけぴょぴょんぴょっぴょって飛んで出てすごかったにゃ」
「そっちかよ! ま、まあいいや。嬢ちゃんどうだったよ、使用感は」
「すごいよ、バジルさん。このね、鍵盤。強い押しにも弱い押しにもきちんと音が応えてくれるの。それに、ほら、連続音も弾きやすいし隣り合う音を弾く時もこんなに滑らかだし」
低音から高音までたららららんっと音を出してみる。イクスは宙に舞う音符に飛びつく。
「そこら辺のアクション機構はエドのおかげだぜ。エドワード=ゴーチャーな。あいつは<盗剣士>としても<機工師>としても面白くなるぜぇ。まあ、大半はオレ様が素材作りしたからバジルエドアクションと呼んでもいいな。大変だったのが、そのフェルトな。おっぱい姐さんの伝手でよう、<もふどるマスター>の櫻華って嬢ちゃんからフェルトの原料もらってよう。<アキヅキ>の革職人にフェルト作らせたんだけど、フェルト知らねえってんで一から教えなきゃいけねえわけよ。ただ、出来上がりはよかった。<準秘宝級>ってやつだ」
「みんなの力借りてるならバジルエドアクションって呼ぶのもおこがましいにゃ」
「そこら辺はいいんだよ。嬢ちゃん響きはどうだった? 近いか? あっちの世界のピアノの音に」
「なんかハープシコードとか大正琴とかの響きに近い音も混じってるけど、まあまずまずじゃない? あ、このミの音とこっちの高い音がいくつか狂ってるから後でチューニング手伝うね」
「リア嬢ちゃん、絶対音階あるのか」
「いえーい」
「そいつぁありがてえ。って猫娘何やってんだよ」
イクスは広げた手のひらを見つめている。
「何だかリアにゃんの音符、あったかいにゃ」
「エフェクトにあったかいとか冷たいとかあるもんかよ。ちょっと嬢ちゃん弾いてみてくれ」
「ちょっと待って、ミだけ締めるから、道具ある?」
サクラリアの調律を待ってからステージに上がるイクスとバジル。
「何がいいかな、楽譜見ないで弾けるのがいいな。よし、『月光』弾きます」
厳かな調子で曲が始まる。さっきの時とは違って音符が流れ出るように生み出される。
キラキラと輝く音符は、水の中で生まれた空気の泡をスローモーションで見るように宙に舞い上がっていく。
イクスとバジルはシャワーを浴びるように音符を浴びた。
「にゃ! あったかかったにゃ!」
「いやいや、いやいや、まったくあたたかさとかなかったぞ。なんとなく気持ちよくはあったけどな」
言い合いになるイクスとバジル。毎度の光景だ。
サクラリアは目を細めてバジルを見た。
「ああっ!」
「うおおぅ、なんだよ嬢ちゃん」
「びっくりしたにゃ、なんにゃ?」
「バジルさん、MP回復してるよ!」
「おおぅ、まじか!!」
「ちょっと待ってちょっと待って。じゃあ<付与術師>の<マナトランス>みたいに私のMP減ってない!?」
イクスも<冒険者>になってステータスを読めるようになったので、慌てるサクラリアのMP量を細目で確認した。
「まったく減ってないにゃ」
「なんでこんなことが起きるの? 私からこのピアノを通じてMPを受け渡したと思ったらピアノがMP生み出してんの!?」
思い当たる節があるらしく、バジルは他所を向いている。
サクラリアはピンときた。
「<舞い散る花の円刀>と同じことしたんでしょ!」
「なんにゃ? リアにゃんの愛剣と同じ?」
「ほら、最初の旅でみんなと合流したとき!」
「わかったにゃ! <ルークインジェ・ドロップス>使ったにゃね」
「し、仕方ねえだろ。おっぱい姐さんに高級素材の鋳鉄フレーム作ってもらったはいいがビビり音がひどくて安定した音がでなかったんだ。だから、エドから<るーどろ>借りてハメてみたんだよ。ホレ、そのミの鍵盤の奥に」
「あー、インチキしてたにゃねー!」
「インチキじゃねぇよ!」
「エド君の持ってた<ルークインジェ・ドロップス>って、<リーフトゥルク・クライシス>鎮圧のご褒美にもらった四つのうちの一つでしょ。それを巻き上げて何考えてるんですか、バジルさん!」
サクラリアからもイクスからもバジルは責められる。
「わかった、わーったよ! このピアノはバジルピアノと呼ぶつもりだったが、エドバジルピアノって呼んでもいいからよー」
「まったくもう」
「でも、なんでイクスはオタマジャクシみたいなのをあったかく感じたかにゃ」
「だから、感じねえって」
「感じたのにゃ」
「それって共感覚じゃないですか?」
二階席から落ち着いた声が聞こえた。ハギがいつのまにか座っていた。
「なんにゃ? それ」
「優しい人を見ると明るい色に包まれて見える。『ネコふんじゃった』は暖色系で、『月光』は寒色系の色がついて見える。数字の『2』もひらがなの『に』も赤く見える。なんて風に、通常の感覚以外の感覚が同時に沸き起こる現象のことですよ。さしずめイクスちゃんのは『熱魔』現象とでも言ったらいいかもしれませんね」
「MPが付与されればあったかいと感じ、MPドレインにあったら寒いと感じる、ってことですか」
サクラリアはハギに聞いた。
MPドレインとは、先ほどとは逆にMPを吸い取る現象だ。桜童子と盟約状態にある<火雷天神>や、<フィジャイグ>で出会った<決定の典災シンブク>の使う<龍脈>という従者の能力として、【工房ハナノナ】メンバーにはよく知られている。
「ええ、おそらく。しかし、今の演奏はリアちゃんだったんですね。バジルさんを呼びに来たら美しい音が聞こえてきたので。いやあ、お見事でした」
「てひひ、ありがとです」
「呼びにきたって何かあったっけ? ハギの介ー」
バジルがハギに尋ねた。
「そろそろ雨が降るから雨漏りしないようにしようって言ってたのバジルさんでしょ。バジルさんは木で補強、ボクは呪符で補強」
「ああ、そうだった」
「うにゃー!」
「今度はなんだ!」
「飲み物こぼしてるにゃー」
「ハイハイ、雑巾とってきますから、バジルさん先あがっといてください」
バジルは<P―エリュシオン>の屋上に立つ。たしかにいくつか穴が開いている。
「<ノーラフィル>のアンポンタンどものせいだぜ。まったく手伝いに来いってんだ」
バジルは辺りを見る。ほとんど高い建物のなくなった世界である。<サンライスフィルド>を取り囲む山々が青空によく映える。
「雲ひとつねえや。雨なんて降るのかねえ」
屋根の上にもサクラリアの音符が浮かび上がってきた。バジルの<狼牙族>の聴覚をもってすれば、また『月光』を弾いているのだなと分かる。
「たしかにあったけえなぁ」
音符を浴びながら、バジルは屋根の上でごろりと昼寝することに決めた。