2-変化
「ここは……?」
瞼をゆっくりと開けた俺の視界に見慣れた天井が広がった。
ここは……俺の部屋か?
けど、昨日どうやって帰って、そして寝たのかがはっきりと思い出せない。
額に手を当てて昨日の記憶を遡る。
たしか、ホームセンターに寄ったところまでは覚えている。
それからその帰り道――誰かにぶつかりかけたような……。
寝起きの頭でははっきりと思い出せないのかどうもその辺りが曖昧だ。
たぶん、俺はぶつかりそうになった人の容体を見ていたような気がするんだけど、結局どうやって別れたのかをまるで思い出せない。
ノイズがかかったような記憶の模索を諦め、俺は自分の格好に目をやった。
「マジか……」
着ていたのはいつも寝る時に使っている寝間着ではなく学園の制服だった。
しかもシワがよって一度クリーニングにでも出さないといけないと思うほどよれよれになっていた。
「ネクタイも外さすに制服のままで寝てたのかよ。しかも校章が外れてる」
ブレザーについているはずの校章がどこにもなかった。
ベッドを調べてもそれらしい物はないし、その下も一緒だった。
「どこいったかな……」
なくしても別段困る程のものでもないが、学園の先生に小言を言われるのは面倒だった。
どうにかして見つけ出そうとベッドから這い出たところで部屋のドアがノックされた。
「ハル、起きてる?」
ドア越しから聞こえてきたのは聞き慣れた姉――深月椎奈の声だった。
「ああ、起きてるよ」
俺は適当に返事をすると頭を掻きながらため息を吐く。
仕方ない。校章は諦めるか。
というのも椎奈が俺を呼びに来たということは朝食の用意が出来たことを告げているからだ。
深月家では出来る限りごはんは家族で食べる決まりだ。特に椎奈は体調が悪い時以外で俺がこの決まりを破ろうものならものすごくキレる。
「早く下りてきなさいよ」
「うん、わかった」
遠ざかる姉の声に応えながら俺は軽い身支度を整える。
まぁ、単純にシワになったカッターシャツを交換しただけだが。
リビングまで来るとやけにいい匂いが鼻と胃を刺激した。
この匂いはパンと目玉焼きとベーコンかな?
そういえば昨日から両親が仕事の関係で家を空けたはずだから椎奈が朝飯を作ったことになるのか。
「ハル、昨日何時に帰って来たの?」
キッチンで背中を向けていた椎奈が料理を盛り付けながら聞いてきた。
「う〜ん、覚えてない。けど帰るのが遅いっていうのはメールしてたと思うけど?」
「そりゃあ確認したけど、いくらなんでも遅すぎじゃない? 私昨日、ハルの部屋で寝息が聞こえるまでハルが帰ってきたことに気付かなかったわよ。なにかやましいことお姉ちゃんに隠してない?」
「隠してないって」
「本当に――って」
面倒くさげに答えながら椅子に座った俺に振り返ると椎奈はポカンと口を開けた。
目を大きく見開いてまじまじと俺を見つめるその表情は驚きの色を隠せていない。
加えて納得したように肩を落とすと小さなため息。
そして少し怒ったような視線を向け、ピシッと指先を俺に向けた。
え? なんだ?
まったく状況を掴めない俺を余所に少し怒りを覗かせる椎奈の視線が俺の瞳から僅か上に向けられる。
「なるほどね。昨日こっそりと帰って来たのはそういうわけか」
一人納得する椎奈を前に何がなんだかわからない俺は冷や汗を滲ませた。
「な、なんだよ」
「そ・れ」
椎奈は俺の頭を指差すと尖った口調で続けた。
「べつにお姉ちゃんとしてはハルのすることになにかケチをつけるつもりはないけど――ハルはまだ学生でしょ? そんな真っ白に髪を染めて学校に行ったら注意どころじゃすまないわよ?」
「――へ?」
今、椎奈はなんて言ったんだ?
髪が白いとか言わなかったか……?
俺の困惑した姿をどう理解したのか呆れた様子をみせる椎奈。
「今気付いたって顔してもダメ。もう染めちゃったものは仕方ないんだから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 染めたってなんだよ!」
「だから髪よ。昨日染めてきたんでしょ? まったくどういうつもりか知らないけど羽目を外すのも――ってハル!?」
急に立ち上がった俺に椎奈はビクッと身をすくませる。
リビングを飛び出した俺を呼びとめる声が背後から聞こえてきたが、俺は足を止めることなく洗面所へと急いだ。
洗面所の鏡に映った自分の姿を目にした途端俺は息を詰まらせた。
「な、なんだよ……これ?」
そこには見慣れたはずの黒髪の深月陽斗ではなく、なぜか白髪――いや、銀髪に染まった深月陽斗がいた。
食い入るようにして鏡を凝視する。
根本から銀に色づいた髪はとても染めたものだとは考えにくい。
というより、俺は髪を染めた記憶なんてものは一切持ち合わせてはいなかった。
一体、なにがどうなって……。
バチッ――。
「――っ!」
頭痛に似た痛みに俺は額を抑える
痛みで閉じた瞳に映ったのは銀髪の女の子だった。
何かが弾けるようにフラッシュバックした記憶にはその女の子と複数の人間――そしてその女の子とキスをしているシーンがノイズまみれで浮かび上がってきた。
壊れたテレビのように雑音だらけのシーンが連続して直接俺の脳というレコーダーに焼き付けられるような感覚。
ぐらりと揺れた体をどうにか壁に手をついて支え、胃が逆流しそうになってくるのを唇を噛みしめて押し止める。
ヤバいな、これ……。
とうとう自分の体がまるで自分のものじゃないような感覚さえしてきた。
いよいよヤバいと思い始めてきた瞬間、フッと意識が遠のく。
まるで体から意識――魂が引き離されるような感覚。
完全に意識が途切れる寸前、俺が目にしたのは白銀の少女の後ろ姿だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
陽斗が洗面台に走り込んで随分と時間が経過した。
いい加減にしないと陽斗の学校、それと椎奈の仕事場に遅れるという時間帯に差し迫ってきたところで痺れをきらした椎奈は陽斗を呼びに行こうと腰を浮かせた。
「まったく何をやってるんだか……」
あきれた様子を覗かせながら扉に手を伸ばしかけた時、ひとりでに扉が開き、疲れた表情を見せながら陽斗がリビングへと戻ってきた。
チラリと椎奈に目を向けると陽斗は無言のまま素通り。今度は興味深げにリビングを見渡した。
「そうか。ここがコイツの……」
「ちょっと、陽斗本当に大丈夫なの?」
普段らしからぬ陽斗の態度にさすがに心配になった椎奈は見上げるように陽斗の顔を覗き込む。
――え? 目が赤い?
真紅の瞳が椎奈を映したことに若干の戸惑いをみせる。
瞳はおろか向ける視線もそして全体の雰囲気も全くの別人と言っていいほどの違和感。
本当に陽斗?
目の前にいるのがまったくの他人だと言われてしまえば納得してしまいそうな感覚に椎奈は一歩後ずさる。
「大丈夫だ」
だからこそ、その声が聞き慣れたものだった時には椎奈は思わず安堵のため息を吐いた。
肩から力を抜いた椎奈は先ほどの違和感を一蹴するように口を開いた。
「そう。なら早くご飯食べよう。もう遅刻ギリギリだよ」
「そうだな。私も腹が減っているし、早く食べたい」
私――?
普段の一人称は「俺」だったような……。
先に席に座って朝食を食べ始めていた陽斗に気付いて椎奈は小さな違和感をひとまず置いて急いで朝食に手をつけた。
いつも通り玄関の鍵を椎奈が施錠したところで未だに陽斗が鞄だけを持って動こうとはしていなことに気付いた。
普段ならガレージに停めている自転車を引っ張り出して途中の交差点まで一緒に行っていたはずなのだが、今の陽斗には自転車を取りに行こうとする素振りが見られなかった。
「どうしたのハル、自転車は?」
「自転車?」
「そうよ。今日は使わないの?」
「うむ……」
陽斗はキョロキョロと周囲を見渡し、玄関横のガレージの手前に駐輪されている自転車を見つける。
「昨日のアレのことか……今日はいい」
「そうなの? 何か荷物が入っているけどそれもいいの?」
「ああ」
コクリと頷く陽斗を見て椎奈は渋々といった様子で納得した。
たまにはそういう日もあるのだろう。
「あれ? 椎奈さん? それにハル?」
玄関前で言い合っていた陽斗と椎奈を一人の少女が呼び止めた。
陽斗の方は仏頂面で声の主に視線を向け――。
椎奈は聞き慣れた声の主に視線を向けて笑顔を浮かべた。
「キサマ――」
「澪ちゃん、おはよー」
陽斗が口を開けるよりも速く、椎奈が目の前の少女に歩み寄る。
「おはようございます、椎奈さん。今日はいつもよりも遅いんですね」
澪と呼ばれた黒い長髪の少女は軽い会釈を交えながらにこやかな笑顔をみせる。
歳は陽斗と同じくらい。陽斗のことを愛称で呼ぶあたり幼馴染といったところだ。
大きな違いとしては彼女の着ている制服が陽斗の黒を基調としたものとは違い白をベースとしたものであるということだ。
白い制服というものにいい思い出はなく、咄嗟に身構えてしまった陽斗は警戒を解くと慎重に少女に近づいた。
陽斗の接近に気付いた澪は一度視線を向けると陽斗の態度に呆れた様子を示した。
「もう、私は気にしてないって言ってるのに、まだそういう態度なんだ。それよりもどうしたの? その頭?」
澪がなについて言っているのか咄嗟に判断できなかった陽斗は「お、おう……」と言いよどむとサッと視線を逸らした。
「ごめんね澪ちゃん、ハル、まだこの春先のこと気にしてるみたいなのよ」
頭のことは私にも教えてくれなくて――と続ける椎奈に澪は手を振って応える。
「私は全然平気なんですけどね。それよりも時間の方はいいんですか?」
「あ、ごめん! そろそろ時間だわ。悪いんだけど陽斗のことお願いできる? 今日はちょっと体調が悪いみたいだから――」
「大丈夫ですよ。任せてください。いってらっしゃい、椎奈さん」
早々と会社に向かった椎奈を見送ると澪は陽斗に向き直る。
ビクリと肩を震わせる陽斗に澪は肩を揃えて視線を向けた。
「じゃあ、私たちも学校にいこっか」
「お、おう」
恐る恐るといった様子で頷く陽斗に澪はため息を吐きながら通い慣れた通学路を歩き始めた。
付かず離れずの距離を保って陽斗は注意深く澪と呼ばれた少女を観察した。
長い黒髪にある種の既視感を覚えなくもない――と言うか幼馴染なのだから見覚えがあって当然なのだろう。
きっと長い間一緒にいたのだから体が懐かしく覚えたに違いない。
それよりも、だ。
服に隠れて見えない体のラインは置いとくとしても澪の体は正直に言って興味をひくものだった。
恵まれなかった平たんな胸には目もくれず、それよりも――。
年頃の少女の肉付きよりも実に健康的――いや、鍛えられたような肢体に陽斗は目を向けていた。
スカートから伸びる素足は張りがあり、スッと伸びた背筋に規則正しい歩調。一定のリズムを崩すことなく動く姿は人形というよりは洗練された戦士のイメージに近い。
――もし昨日襲ってきたのがコイツだったなら間違いなくやられていたな。
陽斗は感心するのと同時に思った。
面白そうだと――。
「ねえ、ハル、どこまでついてくるつもりなの?」
すぐ側で歩いていた澪が足を止めて陽斗に向き直った。
意味が理解できなかった陽斗は首を傾げる。
「どういう意味だ? 学校まで一緒に行くんだろ?」
「あのね……」
澪は眉間に手を当てると呆れたような表情を覗かせた。
「椎奈さん、体調が悪そうって言っていたけど、本当にその通りね。あのね、ハル。私とハルの通う学校は違うの。いつもそこの交差点で別れていたでしょ!?」
そう言って陽斗たちから数十メートル離れた交差点を指差した澪。
つられるように陽斗も視線を向け、なるほど。と頷いた。
「そうだったな。けどお前の通う学校とやらは本当にこの先にあるのか?」
「は? どういう意味よ?」
今度は澪が目を大きく見開いて驚いていた。
まるで陽斗の言ったことが信じられないとでもいうように。
澪はふぅーと息を吐き出すとスカートの端を掴んで少しばかり持ち上げる。
「これ学校の制服。わかる?」
ヒラヒラと動かして存在を強調させるようにみせる彼女の制服に目もくれず陽斗は続けた。
「そんなものが証拠になるわけがないだろ。私が知っているのはこの先にあるのは壁に囲まれた白い建物があることだけだ。学校なんて物を見たことがない」
「え? なに言って……」
言葉に詰まる澪を見て、陽斗は自身の中の確信をさらに強くした。
やはりこの女はあいつ等の仲間か。だが、顔なじみということならあるいは――。
「ハル、あんた、もしかして――」
「――うるさい。黙れ」
陽斗は澪の言葉を遮るように彼女の手首を掴み、さらには腰に腕を回しやや強引に体を引き寄せる。
カァーっと頬を朱色に染めた澪はアワワと目を回しながら震える口を必死に動かそうとした。
「ちょ、ちょっと、なによ、突然。わ、私――」
しどろもどろになる澪の耳元に顔を近づけ、彼女だけに聞こえるようにそっと呟いた。
「お前、私の物になれ」
「――え?」
澪は陽斗の発した言葉の意味を理解できないとでもいうかのように目を見開いた。
「ちょ、ちょっとハル、それってどういう意味?」
「意味だと? 言葉通りに決まっているだろ」
陽斗の言葉を聞いて大きく息を吐いた澪は妙に冷めた視線を陽斗に向けた。
「……ねぇ、ハル。春先のこと覚えてるよね?」
「ん……お、おう?」
澪の豹変ぶりに違和感を抱きながら陽斗は『悟られない』ように適当に相槌をうった。
「なら私がどう答えるかもわかっているよね?」
「む、そうなのか?」
「そうだよ。当たり前じゃない。何度言っても同じだよ――」
澪は一度心を落ち着けるように瞼を閉じるとゆっくりとそしてはっきりと陽斗に言った。
「私はハルとは付き合わない」
「――ッ!」
ズカン――と雷が落ちたような感覚が体を貫く。
それは二度と陽斗が聞きたくなかった否定の言葉。見たくなかった現実。
仮に魂が変わろうとも肉体が――慣れ親しんだ耳が、瞳が、心臓が、その言葉を聞いた瞬間凍りついた。
地面に縫い付けられたように動こうとしない足を睨みつけ、陽斗は歯噛みした。
――この程度で!
動けなくなってしまう躰が煩わしい。くじけてしまう深月陽斗という人間に嫌気がさしそうになる。
ショックを受けた陽斗の体をすり抜け澪は興味を失った視線を陽斗に向ける。
「話はそれだけ? なら私急ぐから――」
「ま、待て――」
必死に手足を動かし遠ざかる澪の肩に手を伸ばす。
「いい加減にして!」
が――振り向き様に飛んできた澪の細い足が陽斗の注意を逸らした。
腹部に直撃するはずだった一撃をギリギリで避けると陽斗は大きく後退しながら地面に膝をつく。
まさか避けると思っていなかったのか蹴りだした足をそのままに驚愕に目を剥く澪は陽斗と目があった瞬間、振り上げたままの足をすぐに下ろし、めくれ上がったスカートを直すとキッと睨みつける。
「――一度振られたのにしつこいなんて男の子として最低だよ。だから二度とこの話をしないで。あと、どういう理由があったか知らないけど、ハルが施設に入ったことは黙っといてあげるから」
だからもうついてこないで。と剣呑な雰囲気を纏いながら澪は陽斗の目の前から走り去った。
それからどれくらい時間の経過したのか陽斗は無意識に体に記憶されていた――いわゆる通い慣れた道をゆっくりと歩き、学校に着いたのがちょうどチャイムが鳴った時だった。
既に周囲には人っ子一人いない。チラリと廊下を挟んで教室の中を覗き見ると陽斗と同じ制服を着た学生たちが席に座って一様に濃い緑色の板を壁に貼り付けた方へと顔が向いていた。
そして、先ほどのチャイムをきっかけにその緑の板の前に立つ大人が指示を出し、一人の学生の合図と共に一斉に他の学生が立ち上がった。
――どこぞの軍隊か!?
規律のとれた行動は初めてその光景を目にした陽斗にはそうとしか思えなかった。
これが学校――育成機関だというのか。
知識としては知っていたが、実際に見てみると異様な場所だ。
一体この世界はどこへ向かおうとしている!?
その後粛々と大人の話が始まり、時折り白く細い棒を持って緑の板に傷跡をつけた光景は驚愕に値するものだった。
あんな細く今にも折れそうな棒っきれを使って壁を削っただとッ!?
なんという握力だ。そしてそれを見ても微動だにしない――それどころか寝ている者さえいる現状についに陽斗の頭は混乱の極みに達しようとしていた。
――ッ!
だが、崩壊寸前だった陽斗の思考を押し止めたのは思考にノイズが走ったような鋭い痛みだった。
このまま思考を乱してはマズイと判断した陽斗は頬を軽く叩き顔を引き締めた。
どうにもこの学校に足を踏み入れてから居心地が悪い。具体的に言うと体がすごく重たい。早く学校から出ていきたい。
落ち着いた陽斗が最初にとった行動はまず深呼吸だった。
続いて何度も拳を握ったり解いたりを繰り返す。
幸いまだ違和感と呼べるような物はない。この体の主導権は陽斗――。
否、陽斗の体に『干渉』した白銀の少女――《ロストシルバー》と呼ばれるユリノ・マルクパージュの手にあった。
今朝、鏡の前で陽斗の魂が動揺した拍子に主導権を奪い、情報の取集も兼ねて陽斗のふりをして過ごしてみたが、昨日の一見に関する情報はまだ得られていない。
そもそも気を失った陽斗の体を家まで運んだ人間がいる以上、誰かしら目撃者がいた可能性があるのだが、陽斗に付きまとう人影もユリノを追う追っ手も現れてこない。
発信機を外した今、ユリノを追う手段はもうないはずだからひとまずは追っ手のことは置いとくとして、問題は謎の目撃者だ。だが、どういうわけだかそれらしい人影が見つからない。
陽斗の体に『干渉』した結果としてユリノの能力の大半が機能しなくなったのは正直に言って手痛い代償だった。
もしユリノ自身の体であれば目撃者がユリノと同じ異能者であった限りでなら瞬時に気付くことができたというのに。
そうできない状況にユリノは小さく舌を打ち、意識を陽斗に使った能力へと向ける。
「『グリモア――レリーフ』」
能力解除に意識を向ける。
だが一向に能力が解除される気配はない。今朝と違って能力名すら呟いているというのに。
それこそが今、ユリノにとって一番の問題だった。
――『干渉』した対象から抜け出せないなど、今まで一度もなかったことだ。
なぜ?
という疑問が尽きない。
もう追っ手の心配をする必要がないなら早々にこんな体からおさらばして元の姿に戻りたいというのに。
どうしてだ?
堂々巡りばかりする思考に嫌気がさして窓に映った深月陽斗を睨みつける。
キサマのせいで余計な手間ばかり増えたぞ。どう責任をとってくれる。
当然、体の支配権をユリノが有しているということはこの愚痴は眠りについた陽斗本人に聞こえることはない。
元の体に戻れたらまずはコイツに蹴りの一発でも入れよう。絶対に。
その後は忠実な下僕として散々利用してやる。
心にそう決め、居心地の悪い学校から出て行こうと昇降口を目指した――
「おい、何をしている!?」
矢先、ユリノの背後から届いた野太い声がユリノの足を止めた。
誰だ? と振り向いたユリノの前にいたのはジャージ姿でスポーツ刈りをした白髪の教師だった。
その筋肉の盛り上がった外見に野太い声がよく似合う中年の男にユリノは容赦ない視線を向けた。
その態度をどう捉えたのか目尻をキッと上げた男性教諭は値踏みをするようにユリノを――正確には陽斗の容姿を見た。
「なんだ、その頭は?」
最初に指摘したのは陽斗の白くなった髪だった。
まったくどいつもこいつも口を開けば同じことばかり……。
「…………」
答えるのも煩わしくて視線を逸らしたユリノに教師が怒りを顕わにする。
「なんだ、その態度は!? だいたい今何時だと思っている!?」
チラリと昇降口近くにある時計を目にしたユリノは仕方なく口を開いた。
「十一時だが? お前の腕についてるそれは飾りか?」
「――ッ!? ちょっとこい!!」
ギリッと歯を食いしばり、最後の一線だけは超えないように必死に拳を押し止めた教師は変わりに陽斗の腕を強引に掴む。
づきりと痛みを伴った腕に眉をよせ、ユリノは視線を鋭くした。
面倒だ。潰すか。
脳裏に過った光景はユリノの拳がこの男の顎に直撃しているシーンだった。
思い描いた通りに空いた手を握りしめ、拳をつくる。
余計な動作を省きノーモーションで拳を繰り出す――。
「先生!」
直前、聞き慣れない声が響き渡り、ユリノは拳を止め、男性教師は声の主に振り返り僅かに肩を落とした。
「なんだ、央中か。一応授業中だぞ。静かにしろ」
「すみません、先生。深月の姿が見えたもんですから慌ててました」
中性的な顔をした青年はフッと瞳をユリノに向けると眉間にシワをよせた。
「先生、いったい深月の奴何をやらかしたんですか?」
「見ての通りのだ。髪染めに、そして遅刻。終いには教師向かって暴言と来た。一度指導してやる必要があるだろ?」
ああ、なるほど。といった具合で央中と呼ばれた青年は頷いた。
そして何かを考えるように視線を宙に彷徨わせると今度は勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした!」
突然の出来事にユリノも教師も唖然とした。
どうしてコイツは今頭を下げているんだ?
「おい、どうした? 突然頭を下げたりして?」
ユリノの疑問を代弁してくれた男性教師に央中は顔を上げると恥ずかしそうに頬を掻いた。
「深月が髪を染めた理由がうちのクラスにあるからですよ」
は?
何を言っているんだコイツは?
深月陽斗の髪と瞳が変化したのは私がコイツに『干渉』したからだ。
コイツには一切関係ない。
「おい、お前――」
問い詰めるように口を開きかけたユリノは央中の唇の動きにグッと息を殺した。
『話に合わせろ』
口の動きだけではわからなかった部分は央中の瞳を見て推測するしかなかったが確かにそう言ったように見えた。
ユリノはキッと澄ました央中の顔を見て腕を組んで鼻を鳴らした。
いいだろう。その茶番につきやってやる。
高みの見物を決めたユリノは二人の話に耳を傾ける。
「コイツの髪染めがクラスせい? それは一体どういうことだ? なにかあったのか?」
不安げな表情を覗かせる男性教師を落ち着けるように央中は笑みを浮かべた。
「先生が考えているようなことはありませんよ。うちのクラスの団結力は最高っすから。でも今回はそれが行き過ぎったっていうか……先生も知ってるでしょ? うちのクラスの題目が演劇になったの?」
「う、うむ」
「やるからには全力で。そして役になりきろうって提案したのは俺なんですよ。深月の役は病弱でありながらそれを匂わせない気の強い青年って役柄で、髪を染めたのも役になりきる為で、病弱って設定だからちょっと登校に時間がかかったんですよ。それで病気のことを知られたくないから、先生にきつく当たったんだと思います」
「そう言われてもな……」
明らかに言い淀む教師にさすがのユリノも首を傾げた。
あんな説明で納得しかけているだと?
まったく説明になっていないようなただの言い訳に揺さぶられるような人間には見えなかったのが余計に不可解だった。
「すみません、先生。文化祭が終わるまでの間でいいんで目を瞑ってください。俺たちも必死なんです!」
央中の必死の形相にやれやれといった様子で肩をすくめる男性教師。
「わかったよ。お前がいつも学園のために必死なのは知ってるし、演劇のためと言うなら今回は納得しよう。ただし、深月!」
「む?」
ユリノは半眼で教師を見かえす。
「役になりきるのもいいが学校生活をおろそかにするな。髪の件は他の先生にも話しておくが、今日の遅刻はキッチリと反省文を書いてもらうからな」
「好きにしろ」
「おい、深月……」
央中が汗を流して呻くが聞く耳は持たなかった。
男性教師はガリガリと頭を掻くと去り際に呟いた。
「ここまでのことをしているんだ。最高の演劇を期待しているからな」
「はい!」
意気込みを新たに頷く央中。
その姿をユリノは不可解な物を見るような視線で向けていた。
まるで茶番だな、と――
深月陽斗の教室に辿り着いた時にはユリノの居心地はさらに悪くなっていた。
まるでここはユリノの居場所ではないとのけ者にされるような感覚。強制的に排除されるような違和感。
ようやく自分の席に腰を落ち着けたユリノは苦しげに息を吐き出す。
くそ。なんなんだ。この体の違和感は。
もしかしたら体の主導権がユリノから陽斗に移ろうとしているのかもしれない。
だが、同時にまだその時ではないとユリノは確信した。
主導権の入れ替わりはそう簡単な話ではない。
まず、主導権を握りたいと強く願うこと。
そして、現主導権を握る者――つまりユリノが大きな動揺で魂が揺さぶられること。
その条件が揃う時でしか体の主導権を奪うことは出来ない。
例外としては互いに納得して体の主導権を譲るという手段があるにはあるが、陽斗がユリノを知覚してない今、それができるわけではないし、能力の解除が出来ない状況でユリノも主導権を譲るつもりはさらさらない。
なら、これは――。
額に手を押し当て違和感を振り払うように別の可能性を模索し始めようとした時、ユリノの机に影が落ちた。
「やあ、君が深月君かい?」
「ん?」
誰だ? この忙しい時に……。
気だるげに視線を持ち上げたユリノはビクッと息を詰まらせた。
今日最大の衝撃。
目を疑うような人物が目の前に現れた。
鋭くも優しそうな双眸に整った顔立ち。線も細く着やせしていているがそれでもはっきりとわかる鍛え抜かれた肉体には似合わない優しい声音。
制服の襟元から覗き見える銀のチェーンは恐らくドックタグの類だろう。
だがユリノがそこまで衝撃を受けたのは目の前の人物が屈強な人物だったからではない。
ここまで動揺したのは単純にその男とユリノの間に面識があったからだ。
昨晩――ユリノに一撃の銃弾を当て窮地にまで追い込んだ男。
ユリノを追うラディカル・ケージの中でもかなりやり手の人物だった。
どうして、コイツがここに……?
今まで以上に混乱する思考の中でザザッ――とノイズのような頭痛が襲う。
まずい。
今ここで主導権が入れ替わりでもしたら豹変した深月陽斗を見て不審がるに違いない。
どうやってここまでこの男が辿り着いたかは知らないが、何か理由があってこの学園来たのには違いない。
ここで尻尾を掴まれるような失態だけは……。
ユリノは何とか平常心を保ちながら目の前の青年に向き直る。
「ああ。そうだ」
「そうか。よかった。まだ君にだけは挨拶出来てなかったからね。僕は今日転校してきた――あれ?」
目の前の青年は目を丸くして驚いた表情を見せた。
続いてポケットをまさぐると手の平に銀色のバッチをユリノにみせる。
目の前に差し出されたバッチの正体に皆目見当がつかず首を傾げる。
「どうした?」
「あ、いや……別にどうしたってわけでもないんだけど、ちょっと気になることがあってね。これもしかして――君のかい?」
そういいながら目の前の青年は自分の制服につけられた手元と同じバッチを指差す。
「たまたま昨日の夜に拾ったんだけど、落とし主がわからなくてどうしようか困ってたんだ――どうやら君以外の人の制服には同じ校章があるし、もしかしたら君のかなって」
「――ッ!」
そこまで言われてユリノはある可能性を思い浮かべて絶句した。
昨日の戦闘で聞いた金属音の一つに妙なものがあった。
耳元で弾け飛ぶような音――それがこのバッチだとしたら――。
恐る恐るユリノは陽斗の身に付けていた制服に視線を落とす。
目の前の青年が見せてきた校章はそこにはなかった。
かわりによく見ないとわからないほどに擦り切れた――ナイフが掠めたような傷跡だけが校章のあった場所に残されている。
ザザザーとノイズが走る。
魂が大きく揺らぐ。
まずい――。
「――あ……」
何かを言おうとしたことだけはわかる。
だがそれよりも早くユリノの意識はノイズと暗闇に飲みこまれていった。