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霧の魔法  作者: 美月 純
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第5話:旅立ち

 病院の駐輪場にタイヤを鳴らすようにすべりこんだ宙は、自転車を倒したのも気に留めず走って病院の通用口へ向った。

 絵羽の病室に向かいそのドアを開け放つ。そこには多くの機械に取り囲まれながら絵羽が激しく呼吸をしている姿が目に飛び込んできた。

 

「絵羽!」

 

 駆け寄ろうとすると、看護師に制止された。

 

「今、最善を尽くしています。とにかく落ち着いてそこで患者の回復を祈ってください。」

 

 そうさとされると、宙は、そこから一歩も動けなくなった。

 傍らには絵羽の母親が祈るように手を組んで震えながら絵羽の名前を呼び続けていた。

 

「絵羽・・・。」

 

 そういいながら、少しずつ絵羽の横たわるベッドに近づいた。そして、母親の声を打ち消すくらい大きな声で叫んだ。

 

「絵羽!がんばれ!こんなことで負けんな!絵羽、俺が来たからもう大丈夫だ!俺のほうを見てくれ!絵羽!」

 

 その声が絵羽の耳に届いたのか、絵羽の身体は一瞬大きな呼吸をした後、グッタリとして、宙たちを驚かせたが、すぐに身体をピクリと動かし、そっと目を開いた。

 

「絵羽!」

 

 そういうが早いか、ベッドに駆け寄った宙は、看護師や石田医師を押しのけて絵羽の手を握っていた。

 

「絵羽・・・。」

「宙・・・。」

 

 見詰め合った二人を誰も引き離すことはできなかった。

 

「絵羽、一緒に旅行行くんだろ。頑張れるよな。」

「宙・・・、当たり前・・・でしょ。甲子園も・・・ね。」

 

 いき絶え絶えに絵羽が応えた。

 

「そうだよ。美樹生、もう、四回戦まで行ったよ。次、勝てばベストエイトだから。」

「すごい・・・ね。美樹生・・・君。頑張ってるんだ。」

 

「そうだよ。俺と絵羽を甲子園に招待するって、約束してくれたから・・・、一緒に行こうな甲子園も。」

「うん・・・、宙と一緒に甲子園に行って、その後、旅行に行くんだよ・・・ね。」

 

「そうだよ。もうすぐ夏休みなんだから、それまでに絵羽は病気に勝つんだよ。」

 

 フッと絵羽が微笑んで、頷いた。そして、ゆっくりと窓の外を見つめた。

 

「霧・・・、宙と出会ったのもこんな霧の日だったよね。」

「あぁ、そうだな。俺が自転車ぶつけそうになって、絵羽の彼氏のマグカップ壊して。」

 

「うふふふ、彼氏かぁ・・・、今じゃその宙が彼氏・・・だもんね。」

 

 そういうとまた絵羽は宙を見つめて力なく微笑んだ。

 

「そうだよ。俺は絵羽の彼氏さ。世界に一人だけ絵羽を愛してるって堂々と言える彼氏だよ。」

「ばか・・・、ハズイよ。でも、ありがとう。あたし・・・幸せだよ。」

 

「絵羽・・・、もっともっと幸せにするから・・・、だから・・・。」

 

 そういうと宙の瞳から止め処もなく涙が溢れてきた。

 

「やだぁ、宙・・・、泣いてるの?だめだよ。みんなの前でハズイよ。」

「うん・・・、でも、止まらない。いいんだ。絵羽の前で泣くの、初めてだろ。」

 

「そうだね・・・、泣いてる宙もかわいい。」

 

 三度みたび絵羽は微笑んだ。

 

「ばかに・・・すんなよ。愛する人の前だから、涙を見せてるんだぞ。」

「うん、ありがとう。宙・・・。」

 

「絵羽・・・。」

 

 再び二人は見詰め合った。その二人の間だけ時間が止まっているようだった。

 

「宙・・・、少し眠い。」

「うん、ゆっくりおやすみ、明日また来るから。」

 

「ありがとう。少し眠るね。試験勉強もがんばって・・・。」

「余計な心配すんな。今は自分の身体のことだけ考えればいいから。」

 

「うん・・・、ありがとう。幸せだったよ。宙。」

「幸せだったじゃ、ないだろ。『幸せだよ。』だろ。」

 

「あっ、今そういった?変だな・・・、うん・・・なんか眠くて・・・。」

「ごめん、いいよ。ゆっくり眠って。」

 

「うん・・・。」

 

 そう言って頷くと絵羽はスッと目を閉じた。

 そして、握っていた宙の手から絵羽の力がフッと抜けた。

 

「・・・。絵羽?」

「ちょっと、宙君、どいて!」

 

 石田医師が、突然宙の身体を絵羽から引き離し、絵羽の瞳孔反応を見た。

 同時に部屋に響いていた心電図の機械音が「ピーッ」という耳を刺すような音に変わった。

 絵羽のベッドから一歩離れた宙は何が起こっているのか全くわからず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

「残念ですが・・・、ご臨終です。」

 

 石田医師が力なく告げた。

 石田医師が言った言葉は耳には入っているが宙の脳はそれを理解していなかった。

 宙は目に映っている深々と頭を下げた石田と看護師の姿、絵羽の母親が絵羽の身体にすがり付いて泣き崩れている姿を見て、ハッと我に返った。

 

「絵羽?嘘だろ?今、眠るって言っただけだよな。眠るって・・・。」

 

 そういいながら一歩ずつ絵羽の横たわるベッドに向った。そして、がっくりと膝を付くと絵羽の身体にそっと手を伸ばしておなかの辺りに手を置いた。

 

「絵羽?旅行・・・、甲子園・・・、一緒に行くって言ったよな。絵羽・・・言ったよな!!」

 

 突然大声で叫び、絵羽の身体を揺すりだした。

 驚いた石田医師が宙の両腕を抑え絵羽の身体から引き離した。

 

「絵羽!一緒に行くっていっただろ!旅行も!甲子園も!いま・・・いま、眠るって言っただけだろ!眠るって!俺との約束どうすんだよ!絵羽!!」

 

 狂ったように叫ぶ宙に看護師も身体を押さえだした。

 

「絵羽!!なんで!なんでおまえだけ!なんで?!」

 

 そういうと再びがっくりと膝を落としてその場にうずくまって泣き叫んだ。

 

「絵羽!!絵羽―――!」

 

 霧が深く立ち込めたその夜、絵羽は静かに眠るように息を引き取った。

 

 

 

「大丈夫か、宙・・・。」

「あぁ、美樹生。うん、たぶん。」

 

 宙と美樹生は絵羽の葬儀に来ていた。

 最後の出棺が終わり、絵羽の最期を見送ったところだった。絵羽の母親からは斎場まで行って一緒に骨を拾って欲しいと頼まれたが、宙はどうしても行く気にはなれなかった。

 確かに病院で絵羽の臨終の瞬間に立会い、絵羽の死を見届け、こうして葬式にまで顔を出したが、宙の中では絵羽が死んだことをまだ受け入れていなかった。

 あと数日で夏休みに入る暑い日だった。

 

「ほんとに信じられないよ。絵羽ちゃんがこんなことになるなんて。」

「・・・。」

 

「あぁ、ごめん。まだ、おまえだって整理ついてないよな。」

「うん。まだ、信じてない。」

 

「そうだよな。わりイ・・・。」

「いや、いいんだ。本当は頭では全部わかってるんだよ、俺も。ただな、気持ちっていうか、心が受け入れてないんだ・・・家ではお袋がしっかりしろっていうけど・・・しっかりできな

 いんだよな。」

 

「当たり前だよ。一番愛していた大事な人だったんだから。そんなの当たり前だよ。」

「ありがとう。美樹生、おまえっていつも俺の慰め役だな。」

 

「ばーか、気にすんな。幼稚園からの付き合いだろ。」

「そうだな。一人でも俺の気持ちを理解してくれる奴がいるっていうだけで、死にたい気持ちが癒されるよ。」

 

「ばか!なにが死にたいだよ。おまえは絵羽ちゃんの分まで生きなきゃだめだろ!」

「だよな。そう、絵羽は・・・、死んだんだよな。」

 

「宙・・・。」

 

 すっかり空は夏になり、遠くには大きな入道雲が浮かんでいた。

 

 

 

「お袋!じゃ!行ってくる。」

「あぁ、気をつけてな。連絡してこいよ。」

 

「ああ、うん。手紙書くよ。」

「手紙?なんで?電話でいいわよ。」

 

「いや、手紙にする。なんか・・・、手紙がいい気がして。」

「そっか、わかった。じゃあ、手紙書いておくれ。待ってるから。」

 

「うん。そうするよ。じゃあ、行ってくる。」

「あ!宙!」

 

「うん?」

「信じてるからな。おまえのこと。」

 

 母親のその言葉に何も応えず、ただ、フッと微笑を返して宙は家を後にした。

 夏休みに入り宙は一人旅に出ることにした。最初母親に言った時には成績も下がってるのに塾でも行けと散々言われたが、どうしても自分の気持ちを整理したいことを説明すると母親も折れた。そして、旅の資金までくれて、快く送り出してくれた。

 改めて母親に感謝した。本当は絵羽の後を追って死に場所を探すため旅に出ようと思っていたのだが、母親のことやそんなことをしても絵羽が喜ばないということに気づいて、その気持ちはもう消えていた。

 

 でも、どうしても旅には出たかった。絵羽との今までのことを整理すること、そして、これから自分がどうして生きていけばいいか考える時間が欲しかった。そのためには見知らぬ場所、空間が必要だと考えた。そして、宙は街を出た。

 行き先は北海道に決めていた。当初は甲子園に向うことも考えていたが、残念ながら美樹生は準々決勝で敗れて最後の夏を終えていた。美樹生は『約束を果たせなくてごめん。』と泣きながら言ってくれた。絵羽が亡くなっても宙を元気付けるために甲子園に絶対行くと言っていたからだ。改めて美樹生の優しさに触れた宙は友達のためにも死んだりしてはいけないと思った。でも、甲子園への道はそこで閉ざされてしまったため、行き先を考えていたところ、偶然HPを見て霧多布岬きりたっぷみさきというのが北海道にあることを知った。その名の通り夏の間はほとんど霧がかかっている岬らしい。絵羽との出会いの日が霧だったことを思った宙は迷わずそこを目指すことにした。

 

 本来なら飛行機で釧路まで行って陸路を霧多布まで行けばすぐなのだが、敢えて電車での旅にした。おそらく絵羽と旅行に行っていたらお金もないので、電車の旅になるだろうと思った宙は電車を乗り継ぎながら霧多布を目指した。

 上野から東北への鈍行に乗った宙は、夏休みで混んでいる車内に乗り込んだ。ちょうど、四人席の窓側が空いていたので、そこに座った宙は、一息つくと、持っていたペットボトルのお茶を飲み、ゆっくりと流れる景色を見つめていた。

 

「おや?一人旅かい?学生さん?」

 

 前の席に座っていた老婦人が声を掛けてきた。

 

「ええ、一人旅です。高校生です。」

「へぇ、高校生で一人旅かい。えらいね。うちの孫ももう、高校生になるけどちゃらちゃらして頼りないんだよね。あんたはしっかりしてるね。」

 

「いえ、そんな・・・。」

 

『えらい。』と言われて、なんだか照れくさかった。旅の動機はそんな立派なものではなくいわゆる傷心旅行なのだからあまり格好のいいものではない。

 

「どこへ行くんだい?」

「はい、北海道まで。」

 

「北海道?!この鈍行でかい?」

「はい、学生ですから、お金ないですから。」

 

「へぇ、益々えらいね!うちの孫につめの垢を煎じて飲ませてやりたいよ。」

 

 また、そういわれて照れくさくなった宙は愛想笑いを浮かべた。これ以上いろいろ聞かれるのは面倒と思ったので逆に聞き返した。

 

「おばあさんはどちらまで?」

「あたしかい?あたしはその孫に会いに仙台までね。」

 

「仙台にいらっしゃるんですか、お孫さんは?」

「そう、仙台はいいよ。あたしも本当は仙台の生まれなんだけど、娘の頃東京に出稼ぎに来てね。あぁ、出稼ぎっていってもわからないかね。まぁ、裕福ではなかったから中学を出たらお

 金を得るために東京に出てきたんだよ。」

 

「中学を出たら・・・ですか。その方がよっぽどえらいですね。」

「そうかい?その頃は当たり前だったんだよ。まだ、戦前の話だからねえ。ちょうどまだ戦争が始まる二、三年前頃かね。あたしゃ長女だったから、その頃は子沢山でね。兄弟が七人もいたから、家は農業だけでは食っていけなくて、金を得なければ生活ができなかったんだよ。」

 

「すごいですね。じゃあ、家族を支えていたんですね。」

「そんな、支えてるなんて格好のいいもんではなかったけどね。東京と言っても働いてるのは工場での労働者だから。しばらくは繊維を扱っていたんだけど、戦争が始まってその頃から軍

 需工場で働かされてね。お国のためってんで、稼ぎにもならなかったけど、とにかく生きていくためには仕方なかったからね。」

 

「生きてくためには・・・ですか。」

「そう、働いている分にはなんとか飯は食えたからね。最も戦争が激しくなった頃はもう、工場も閉鎖されて、仙台に戻ったけど。でも、その頃出会ったのが、死んだ旦那でね。その人が東京の人だったもんだから、一緒に仙台に疎開して、戦争が終わって再び東京に出てきたんだよ。」

 

「へぇ、大変だったんですね。戦争って。」

「あぁ、だからろくな娘時代は過ごしてないからね。今のあんたたち高校生とかがうらやましいよ。そいで、娘が出来て結婚したと思ったら娘婿の仕事の都合で仙台に転勤ときたからね。皮肉なもんだよ人生は。」

 

「あぁ、それで仙台に行かれるんですね。でも、いいじゃないですか、里帰りできるみたいで。」

「あんたうまいこというね。そうだね。もう、娘以外身内はいないけど、まぁ里帰りってことで考えればいいもんだね。」

 

「そうですよ。それに娘さんやお孫さんにも会えるわけですし。」

「そうだね。あんた、高校生のくせに、ほんとにしっかりしてるね。」

 

「いえ、そんなことないですよ。」

 

 しばらくそんな風に話をしていたがやがて電車の揺れに釣られてその老婦人は眠ってしまった。ふと窓を見ると少し後ろの方に夕日が見えていた。

 

 

 仙台に着いた時は、もうすっかり日が落ちていたが、想像していたより都会の街並みを見て家で待っている母親のことを思い出した。

 特にホテルは予約していなかったので、とりあえず駅の観光案内所に行ってその日に泊まれる安い宿を探した。ちょうど駅から近いビジネスホテルが空いているということで、そこに行くことにした。

 ホテルについてフロントに行くと観光案内所から連絡を入れてくれていたので、前金を払うと、すんなり泊まることができた。正直なところちょっぴりドキドキしていた。高校生が一人でビジネスホテルに泊まるなんて家出とかと間違われて何か問いただされるのではないかと思ったからだ。夏休みということもあり、一人旅の高校生とかはそれほど珍しくはなかったらしい。

 部屋に入ると安い割にはそこそこ清潔な感じだった。

 シャワーを浴びて、ホテルに着く前に近所のコンビニで買ってきていたおにぎりとお茶を出し、夕食にした。

 

「やっぱり独りで食う飯は味気ないな。」

 

 ほとんど当たり前のように母親と食事をしていたことを改めてありがたいことなのだと思った。食事を終えてフッと窓の外を見ると月が出ていた。かかっていたレースのカーテンを開けてしばらくその月を眺めていた。

 目は月を見ていたが心は絵羽のことで満たされていた。

 霧の中での出会いから絵羽が病室で息を引き取るまでをずっと巡らせていた。

 絵羽との想い出はわずか四ヶ月足らずだったが、その一日一日を鮮明に覚えていた。交わした言葉もすべて頭の中に入っていた。その一つ一つ、一言一言を心の中に再び焼き付けるように反芻していた。

 

 

 翌朝再び鈍行に乗り込むと次の目的地青森の今別町を目指した。そこは青函トンネルの東北側の町だった。鈍行で約6時間の道のりだった。

 今別に着くと早速宿を探した。小さな町なのであいにくビジネスホテルのようなものはなく、小さな観光案内所で民宿を世話された。

 宿に着くと一人の初老の男性が出迎えてくれた。

 

「お世話になります。東京からきました江口 宙です。よろしくお願いします。」

「おう、こっだらとごまで、たんだでったねぇ。」

 

「・・・・。」

 

 いきなりの津軽弁に宙は意味がわからず閉口した。

 

「あ、すまね。えっど、遠くからたいへんだったね。どうして、こんなところまできたんだ?」

「はい、北海道まで行こうと思いまして。」

 

「ほう、北海道はどさ(どこへ)いぐの?」

霧多布岬きりたっぷみさきまで。」

 

「霧多布岬?」

「はい。」

 

「そごには、どなたかいるだか?」

「いえ、誰も。」

 

「じゃあ、そんなとこまで何をしにいぐだ?」

「・・・。目的はないんですが・・・ただ、行ってみたくて。」

 

「・・・、そっか、まぁ、若い頃はそういうごともあんだね。」

「・・・。」

 

「ところで、腹減ったろう?もうすぐ晩飯だで、ひとっ風呂あびできな。」

「あ、はい、ありがとうございます。そうさせていただきます。」

 

「はははは、そんなに硬くならんでもいいて。自分ちだと思ってくつろいでくれ。」

「自分ち・・・ですか?はい、そうします。お世話になります。」

 

「あははは、それじゃかわらんじゃろ。まぁ、ええわ。風呂いっできな。」

「はい、じゃあ、風呂行ってきます。」

 

 宙は民宿にあるそれほど広くはないが温泉だという風呂につかった。

 

「ふう、やっぱ、日本人は風呂だな。ホテルのシャワーじゃ疲れがとれなかったし。」

 

 言いながら自分が親父くさいことを言ってることに一人で照れた。

 同時にいつも絵羽に「おやじくさーい!」と言われていたことを思い出し、また、心の芯が締め付けられるような思いがした。

 湯船に頭まで浸かって息を止めた。

 お湯の暑さとその圧力で息苦しさに耐え切れず思い切り顔を上げた。

 

「はぁはぁ・・・。」

 

 息をしながら、絵羽は死ぬ間際もっと苦しかったんじゃないかと、病室で苦しんでいた絵羽の姿を思い出した。

 

「でも・・・俺が死ぬわけにはいかないんだよな。」

 

 ぽつりと独り言をいったあと、窓から見る赤く染まった空を見ながら、大きなため息をついた。

 

「おぉ、上がったかい。晩飯の用意ができたで、居間まで来な。」

 

 そこには、予想に反してご馳走が並んでいた。

 見たこともない野菜のてんぷらや刺身まであった。

 

「ここでは魚も獲れるんですか?」

「あぁ、猟師町も程近いで、魚は新鮮じゃぞ。」

 

 食べてみると確かにうまい。山菜のてんぷらもいける味だ。

 

「なんか、自然な感じでうまいです。」

「あははは、お客さん東京だっけか?都会じゃこんな野趣やしゅなものは食べれんだろ。がっぱど(たくさん)食べでな。」

 

「はい、いただきます。すみません。もういっぱいご飯を。」

「あははは、飯食って元気になっだか。えがった。えがった。」

 

 言われてみて、宿に来たとき元気のない顔をしていたことに気づかされた。

 

「ご主人はこの民宿を一人で切り盛りされてるんですか?」

 

 宙が尋ねると、主人は大声で笑い出した。

 

「あははは!まぁな。嫁はとうに死んだで。もう、十年ぐれえ一人で切り盛りしでる。」

「十年ですか?一人で寂しくはないですか?」

 

「ん、寂しぐなくはないが、一人も気楽でいいもんだ。それに、あんたのような旅の人とも話せるだで、楽しいことも多い。」

「そうですか、つまらないこと聞いてすみません。ご馳走様でした。」

 

「ええて、はい、お粗末さまでしだ。元気になっでよがった。」

 

 

 食事を終えた宙は部屋に入り、敷かれている布団に寝転がった。

 

「ふぅ、やっぱり、落ち込んでる風に見えるのかな、俺。」

 

 宙は、しばらく天井を見つめていた。

 今までの旅では何か現実じゃないような、いつもどこかで緊張している自分がいたことを思っていた。でも、この宿はなんだか落ち着く。しばらくそんなことを考えていた宙だったが、いつの間にか眠ってしまった。

 

「おはようございます!」

「おう、おはよう。夕べは良ぐ眠れだか?」

 

「はい!お蔭様ですぐに寝ちゃいました。なんか、ここは安心できて。ホッとしちゃったみたいで。」

「そっがー、それはよがった。」

 

 老人は目を細めてにっこりと笑った。

 

 

「本当にお世話になりました。」

 

 朝食を済ました宙は旅支度を整えて、民宿の玄関にいた。そして、世話になった老人に深々と頭を下げて挨拶をした。

 

「元気になっでよがった。気をつけていぐだよ。」

「はい!ありがとうございます。じゃ、いってきます!」

 

「はい、いってらっしゃい。」

 

 なんだか、身体も心もすごく軽く感じた。あの宿で過ごしたたった一晩で今までの疲れや緊張や重苦しさがすっかり抜けた気がした。

 ぼくとつとした老人と交わした言葉が何か癒しを与えてくれた。

 交わした言葉は別にこれといって特別なことではないのに。何か不思議な感じがした。

 

 

 再び電車に乗り、いよいよ北海道に乗り込んだ。そして、できるだけ早く霧多布岬に着きたいと思った宙は、「とにかく、いけるとこまでいこう。」と時刻表を見ながらその先の予定を立て、昼食もとらずに電車を乗り継いだ。


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