第4話:闘い
途方にくれながら帰途に着いた宙は自分がどの道をどうやって家までたどり着いたのか全くわからなかった。
「お帰り、遅かったね。おデートは楽しかったかい?楽しいことのあとはしっかり勉強もしてもらわないとね。」
母親の皮肉にも全く応える気力がなかった。
「おい!宙?どうしたんだい。まさかもう振られた?やっと付き合えたってまだ、一ヶ月しか経ってないじゃない。しょうがないね。何したのさ?」
「お袋、骨髄調べさせてくれないか?」
「はぁ?何言ってんだい?しっかりしなよ。大丈夫かい?なんだい、骨髄って?」
ひとしきりしゃべっていた母親の話が途切れたところで事情を話し出した。
母親は事の重大さに気づき黙ってしまった。
「お願いだ。お袋、骨髄を調べさせてくれ。」
「わかった。明日病院に行くよ。あんたの彼女ならあたしの娘になるかもしれないんだから、他人じゃないからね。」
「お袋・・・ありがとう。」
そういって泣き出す宙の頭を軽く小突いた母親は
「あんたがしっかりしなくてどうするんだよ。あんたの彼女だろ。しっかりしな。」
「うん。ありがとう。お袋。ありがとう。」
翌日宙は母親を伴って自分と母親のドナー登録をするために病院に向った。
病院では昨日の石田という医師が対応してくれた。
「髄液を調べますので、ちょっと苦痛が伴います。よろしいですか?」
「もちろんです。早くお願いします。」
母親も隣で頷いた。
背骨から注射針で髄液を抜かれるのは相当な痛みを伴う。人によってはそれが元でしばらく歩けなくなることもあるほどだが、宙は絵羽の辛さを思えばどんな痛みにも耐えられると思った。
待合室で待っていると石田が現れた。
「先生!どうなんです?俺のか、お袋のか適合しましたか?」
石田はゆっくりと首を横に振った。
「だめなんですか?どうして?お袋のも?」
再び首を横に振った石田は
「前にも言ったとおり本当に確率は低い。ドナー登録者の中でも探している。絵羽さんのご両親、弟さんのも調べたが適合しなかった。」
「絵羽・・・。」
そういうと宙はその場に座り込んでしまった。
「こら、宙!あんたが力を失ってどうするんだよ。男ならしっかりしな!」
母親に叱咤されて、なんとか気力を出し立ち上がった。
「先生、絵羽を助ける方法は他にないんですか?待つだけなんですか?」
「もう一つ方法はある。臍帯血輸血といって赤ん坊のへその緒から採られた血液が白血病の治療に有効だということがわかっている。ただ、根本的に治すことができるとは限らない。ただ延命するだけになるかもしれない。とにかくそれでも試してはみるつもりだ。今、各産婦人科にあたっている。」
「お願いします。一日でも長く、絵羽を生きさせてください。お願いします。」
必死で頼み込む宙の肩を抱きながら石田は頷いた。
二日後病院から連絡があり、臍帯血輸血がうまくいったとの知らせが届いた。
絵羽の意識が戻り面会が出来る状態になったというので、とるものもとりあえず宙は病院に向った。
病院では石田が待っていた。そして、絵羽の病室に案内してくれた。
「絵羽・・・。」
部屋に入るとまだ色々な機械に囲まれてはいるが、目を開いた絵羽がそこにいた。
「宙・・・、ごめんね。こんなことになって。」
弱々しい声で絵羽が言葉を発した。
「なんでおまえが謝るんだよ。何もしてやれないのは俺なのに。」
「ううん。お母さんから聞いた。宙も、宙のお母さんもあたしのために痛い思いしてくれたんでしょ。」
「絵羽の辛さに比べたらたいしたことないよ。それにうちのお袋は困ってる人みるといてもたってもいられないたちだから。」
「ありがとう。大丈夫だよ。あたし、絶対治してみせるから。」
「当たり前だよ。まだ、俺たちすることいっぱいあるだろ。旅行だって行かなきゃ。」
「そうだよね。宙と温泉行くんだもんね。」
「あ、すみません。そういう話していたもんですから。」
傍に母親がいたので旅行の話はちょっとまずいと思って気を遣ったが、絵羽の母親はにっこりと笑って『いいんですよ。』と言うように頷いた。
「早く退院したいな。もうすぐ夏になるし、あたし夏が好きなの。季節の中で一番好き。」
「俺も、ほら俺の誕生日夏だから。真夏だからさ。」
「そうだよね。宙の誕生日一緒に祝わないとね。」
「そうだよ。絵羽がいてくれなきゃ折角の誕生日が台無しだよ。」
「わかってる。それまでには絶対退院するから。」
「約束だぞ。俺の誕生日は一緒にいること。」
「うん。約束する。一緒にいる。」
「きっとだよ。夏休みだからな、旅行の予約とっておくからな。」
「うん、それまでに治してみせるよ。」
「うん。がんばれよ。」
それから毎日、宙は絵羽の病室を訪れて、面会時間が終わる午後七時まで絵羽と一緒に過ごした。
時には疲れから絵羽が眠ってしまっても、ずっと傍でその寝顔を見つめていた。
二週間目から放射線の治療や抗がん剤を投与したため、絵羽の栗毛色の美しい髪は次第に抜け落ちていった。
「なんかハズイな。髪の毛がなくなっていくの見られるの。」
「何言ってんだよ。治療のためだろ。副作用が強いってことは効いてる証拠でもあるんだから。俺はおまえの見た目だけに惚れたんじゃないんだから。気にするな。」
「うん。ありがと。でも、やっぱ女としてはちょっとね。」
「・・・そっか。あっ、待ってろ。」
そういうと宙は病室を出て行った。
三十分後、宙が小脇に荷物を抱えて帰ってきた。
「何?」
「ほら。これ。」
「あ、帽子、ニットキャップだね。ありがとう。」
「うん、ちょっと暑いかもしれないけど・・・絵羽に似合う色だと思って白にしたよ。」
「かわいい。このアクセントのウサギかな?これかわいいよ。宙いいセンスしてるね。」
「ほんと?喜んでもらえて嬉しいよ。被ってみて。」
「うん。」
そういって被ったニットキャップはちょうど絵羽の頭をすっぽりと覆って、眉の上辺りで止まった。
「似合う!マジかわいい!惚れ直した。」
「もう、うまいこと言って。ほんと?」
「うん、マジだよ。ほら。」
そう言って近くにあった手鏡を絵羽に見せた。
「ほんとだ。かわいい!自分でも似合ってるって思う。」
「だろ。絵羽はなに被ってもかわいいから大丈夫だと思ったんだ。」
「なあに。気味悪い。今までおまえの顔は派手だからとか、いいこと言わなかったくせに。」
「照れ隠しだよ。ほんとは見た目にも惚れてたから。絵羽のかわいい顔に一目惚れした。」
「えー、調子いいの。さっき見た目に惚れたんじゃないって言ったじゃん。」
「良く聞いてなかったろ。見た目だけに惚れたんじゃないって言ったんだよ。」
「ずるーい!でも、いっか、見た目にも惚れてもらえた方がうれしいし。」
「だろ。」
「きゃはは、だね。」
「絵羽・・・。」
「ん・・・。」
そっと絵羽を抱き寄せた宙は、優しくキスをしようとした。絵羽もその求めに応じた。
暮れ行く日差しが二人の顔を照らしていた。
絵羽の入院も三週間目に入った。絵羽の治療成績はよく、病室から出て一人で院内を歩けるまでになっていた。そして、その週の終わりに医師から初めて外泊許可が出た。
その連絡を受けた宙は病院まで急いで出向いた。
「絵羽、よかった。外泊できるんだね。」
「うん。ありがとう。宙のおかげだよ。」
「なに言ってんだよ。絵羽が頑張ったからじゃないか。」
「ううん。実はね。先生が言ってたんだけど、治療の効果が出てるのは宙のおかげだって。」
「え?どういうこと?」
「うんとね。こういう病気の場合、治療の効果の良し悪しは患者の精神状態にすごく反映されるんだって。」
「・・・。」
「つまり、患者に生きる気力があるかないかで全然違うらしいの。あたしの場合は宙と会いたい。もう一度デートしたい。温泉行きたい。って思ってたから、それが治療効果にも結びついたんだって。」
「え?先生に俺と温泉行きたいとか言ったの?」
「言ったよ。まずかった?」
「いや、まずくはないけど・・・一応高校生だし、それって・・・。」
「あははは、そんなの気にしてんの?おっかしい。いいじゃん、高校生が旅行しちゃいけないの?」
「いや、その・・・。」
「きゃはは、照れてるの?」
「ん、なんか恥ずかしくて、先生に会えないよ。」
「大丈夫だよ。それが結果としてよかったんだから。先生もいいことだって言ってくれたよ。」
「そっか、とにかく、まだ外泊許可が出ただけなんだから。無理すんなよ。」
「わかってる。今日はおうちでゆっくりするよ。」
「そうだな。送ってくから。」
「ありがとう。お願いね。」
そう言って絵羽の身体を支えて宙は思った。やけに軽くなったと。無理もなかった。入院から三週間で絵羽の体重は9キロ近く痩せてしまっていた。
元々大きな目をしていた絵羽の目は痩せてくぼんだようになったためさらに大きく見えた。
絵羽の家まで送った帰り道、偶然美樹生と出会った。
「宙!どうだ絵羽ちゃんの容態は?」
「おう、美樹生、偶然だな。大丈夫、今日外泊許可が出て、今家まで送ってきたとこだよ。」
「ほんとか?!よかったな宙!じゃあ、退院も近いのか?」
「ん?それはわからない。外泊許可と言っても一泊二日だから、明後日からまた病院に戻るし、治療もまだ続くだろう。」
「そうなんだ・・・でも、大丈夫だよ!きっとよくなるって。」
「うん、俺が看病してるんだから絶対治して見せるさ。」
「そうそう、毎日病院行ってるんだってな。お袋さんから聞いたよ。おまえがこれほど一つのことに集中したのは初めてだって。」
「お袋が?・・・また余計なこと言って。」
「あははは、でも、お袋さん感心してたよ。おまえがこれほど人のことを大切にするなんて見直したって。」
「なんだかなぁ。そりゃ大切な恋人だぜ。当然だろ。」
「うん、そうは思うけど、普通自分のことをつい優先しちゃうじゃん、人間って。いくら惚れた相手が入院してるからって、毎日は行けないぜ。休みの日なんて朝から行ってるんだろ?」
「うん、一時でも長く絵羽と一緒にいたいんだ。」
「だよな。俺でもそうすると思う。でも、おまえも身体気をつけろよ。無理しないように。」
「今無理しなきゃいつするって感じだよ。大丈夫、俺は気力が充実してるから。」
「そっか、ならいいけど。俺ができることがあればいつでも連絡してこいよ。」
「ありがと。でも、おまえも最後の夏の県大会近いんだろ。頑張れよ。甲子園は無理としても、去年よりいいベストエイトくらいは狙えそうだしな。」
「あぁ、頑張るよ。ほんとは優勝して甲子園といきたいところだけど、去年よりは絶対上げて見せるぜ。」
「おう!期待してる!もし甲子園なら絶対応援行くから。」
「そうだな。絵羽ちゃんと二人で来てくれよ。」
「あぁ、絵羽を連れて甲子園か、悪くないな。」
「じゃあ、俺練習あるからいくな。」
「おう、休み返上で練習お疲れ!」
「甲子園が待ってるからな。」
そういって美樹生は走っていった。見送りながら宙は本当に甲子園に絵羽と行っている自分を想像していた。
再び絵羽の入院生活が始まった。この治療が進めばもう少し長く外泊できる。場合によっては仮退院をすることもできる。しかし、今まで以上に苦痛を伴い、髪の毛も完全に抜け落ちて益々痩せていくことは確実だった。
トイレにいった絵羽は鏡を見て自分がどんどんやせ衰えて、醜くなっていくことに不安を感じていた。
それでも、毎日見舞いに来てくれる宙のことを考えて、なんとか頑張ろうと気力を振り絞っていた。
「絵羽ちゃん、今日からの治療は今まで以上に苦痛を伴うけど、大丈夫かな。」
「はい、先生、治してもらえるなら。もう一度外に出て、学校にも行けるなら。頑張ります。」
「そうだね。その気持ちが大事だよ。宙君も待ってるしね。」
「はい、先生、お願いします。」
そして、治療が始まった。抗がん剤の副作用は想像以上にきつい、食べているものはすべて吐いてしまうし、眠ろうと思っても眠れない。さらに放射線治療は照射した部分がやけどのようになり、痛みを伴う。鎮痛剤は使うが、それが切れると泣きたくなるほど痛い。
しかし、絵羽はもう一度宙と手を繋いでデートすることを夢見て、それを糧にして治療に耐えた。
そして、今日も宙が病室まで見舞いにやってきた。
「大丈夫、絵羽?今日の治療は辛かったみたいだし・・・。」
「大丈夫!いっつもね、痛みや辛い時には宙のこと考えてるの。そうすると自然と痛みや苦痛が消えていくの。」
「絵羽・・・。」
そういうと、痩せて一層細くなった絵羽の手を握りその指に自分の指を絡ませて、そっとキスをした。
「宙、絶対治してみせるね。そして、夏休みには旅行に行こうね。」
「あぁ、もちろんだよ。それまでに絶対治るさ。そうだ、美樹生が今年は甲子園も狙えるかもって。そしたら、二人で甲子園に美樹生の応援に行こうな。」
「ほんと!すごい!美樹生君がんばってるんだね。私も頑張って治して宙と一緒に甲子園行きたい!」
「そうそう、そのついでに旅行しよう。楽しみだな。」
「うん、すっごい楽しみ!ますます頑張る気になってきた。」
「そうだな、俺も毎日絵羽に会いに来るから、一緒にがんばろうな。」
「ありがとう。学校、そろそろ試験だよね。大丈夫?」
「ん?当たり前だろ。ちゃんと授業はバッチリ聞いてるから大丈夫だって。」
「ほんとかな?留年なんかしないでよ。あたしだけ卒業じゃ洒落にならないぞ。」
「馬鹿言ってんなよ。ちゃんと家にいれば勉強してるから。一緒に卒業するよ。」
「うん、それに受験もがんばろうね。あたしも夏から頑張るから。」
「うん、一緒に大学生になろうな。」
宙は、そういいながら、本当は絵羽のことで全く勉強は手につかず、担任から留年と脅されていることは絵羽には言えなかった。
「じゃあ、そろそろ時間だから、帰って勉強するよ。」
「うん、今日もありがとう。」
「うん、じゃあ。」
「あっ、宙・・・。」
そういって宙を呼び止めた絵羽は甘えるようにキスをねだる仕草をした。
「絵羽・・・。」
そんな絵羽の姿が愛おしくて心の中に何か熱いものがこみ上げてきた宙は、絵羽の一層細くなった肩をそっと抱いて、先ほどよりさらに優しくキスを交わした。
『ヤバイな・・・ほんとに今度の試験で赤点あったら留年になるのかな。三隅(担任)はそう言って脅したけど・・・。』
宙はかなり焦ってはいたが、一番大切なものは何かと考えると絵羽以外には思いつかない。勉強や受験も本当は一生懸命しなければならないことは頭ではわかっていたが、気持ちがどうしても行動を起こせなかった。
絵羽は今一生懸命病気と闘っている。受験勉強だってしたくてもできない。だから、俺も今は勉強をしないで絵羽が治ったら一緒に勉強を始めて、一緒に受験して、一緒に大学に行く。 言い訳にも聞こえるが、宙にとっては何よりも『絵羽と一緒』ということが一番大事だった。
「はぁ、やっぱり勉強は無理だ。絵羽と一緒じゃなきゃだめだ。」
そう言ってため息をついた。ふと窓の外を見ると霧が立ち込めていた。
霧を見ると、それはそのまま絵羽との出会いの時に記憶を遡らせる。
宙が霧の外をボーっと眺めながら、絵羽とのことを考えていた時だった。
「ちょっと!宙!すぐ降りてらっしゃい!」
母親が大声で呼ぶ声がして、うつろになっていたところだった宙はビクッと身体を起こした。
「なんだよ!こんな時間に大声出すなよ。近所迷惑だろ。」
そう言いながら階段を下りて行くと母親がこわばった顔で電話の子機を持っていてそれを宙に差し出した。
「なに?電話?誰から?」
「・・・。」
母親は、その問いに答えることなく、ピンと伸ばした子機を持つ手を宙の前に突き出したままだった。
「なんだよ。ったく・・・。」
そういいながら、母親を一瞥すると受話器を受け取った。
「はい、江口です。え?・・・なんですって?!ちょっと、お母さん!もっとちゃんと話してください!お母さん!!とにかく、今すぐ行きます!待っててください!」
電話の相手は絵羽の母親だった。電話口で泣きながら言われたのは、絵羽が危篤状態だということだった。それ以上は相手も取り乱していて全く話にならなかった。
電話を切った宙は二階に上がり、上着だけ羽織った状態で玄関に向かった。
「お袋・・・。」
玄関先に母親が仁王立ちしていた。
「いいかい、宙、あんたがしっかりしなきゃダメなんだよ。」
急ぎ焦っている宙にわざとゆっくり噛み砕くように母親は言った。その目は宙の目をまっすぐに見据えていた。
「わかった。大丈夫だよ俺は。」
母親が言葉以上に伝えたかったことを理解した宙はそう言い返すとしっかりと靴ヒモを締めなおして玄関を出て行った。
宙の乗った自転車は猛スピードで夜の街を駆けた。母親の言葉で気持ちは落ち着いていたが、急がずにはいられなかった。