第3話:恋
翌日の朝、絵羽からメールが入っていた。
《今日、会えるかな?》
思わぬ絵羽からの誘いにちょっと戸惑ったが、宙はOKの返事を出した。
放課後待ち合わせの場所にいくとすでに絵羽が来ていた。
いつもの調子で後姿の絵羽に
「よ!」
と声をかけポンッと肩を叩くと振り返った絵羽は目にいっぱいの涙を浮かべていた。
「ど、どうしたの?」
「・・・別れちゃった。」
「え?彼氏と?」
「うん・・・。」
「どうして?」
「勉強が・・・忙しいからだって。」
「はぁ!なんだそりゃ?絵羽ちゃんより勉強の方が大事だっていうのかよ!」
「仕方・・・ないよ。受験生だもん。」
「冗談じゃない!俺だったら彼女の方を大事にするぜ!」
「しょうがないよ。受験は一生のことだから。」
「でも・・・。」
「ありがとう。もう、いいの。宙が怒ってくれただけで、私の気持ちも晴れたから。」
そういって絵羽は涙を浮かべた目でむりやりにっこりと笑った。
「絵羽・・・。」
「あ!はじめて呼び捨てしたな。宙。」
「え?あぁ、いや、なんとなく・・・ごめん。」
「いいよ。呼び捨てして。あたしだって初めから呼び捨てだし。トモダチでしょ。」
「あ、うん。絵羽。トモダチだもんな。」
「うん!」
そういうと絵羽はそっと宙の手に自分の手を重ねてきた。
「少し歩こう!」
引っ張られるように宙は絵羽と手を繋ぎながら歩いた。絵羽の小さく柔らかな手が、自分の手に重なっている。宙は、そう思うとそこだけすべての神経が集中したような感覚がして、全身から力が抜けていく気がした。
「ねぇ、あたしたち周りから見たらどう見えるかな?」
「え?」
「姉弟?それとも・・・彼氏と彼女?」
「え?そりゃ、彼氏と彼女だろ。恋人って見られてるよ。きっと。」
「そっかなぁ。あたしはきっとお姉さんが弟の手を引いてるって見られてると思うよ。」
「ちぇ、いいよ。それでも。」
「きゃはは、かわいい、宙。それでもいいんだ?」
「あぁ、絵羽と手を繋いでるだけで・・・幸せだもん。」
「え?・・・ばか。」
「なんだよ。照れてんの?手を繋ぎだしたのは絵羽のほうだぜ。」
「わかってるよ。ばか。急にそんなこと言うから・・・ハズイじゃん。」
「へぇー絵羽でも照れるんだ。」
「ばか!知らない!もう、手、繋がないから。」
そう言って繋いでいた手を絵羽がふりほどこうとすると、宙はその手にグッと力を入れて、絵羽を引き寄せ、ビルの隙間に引き込んだ。勢いよく引かれた絵羽はそのまま宙の腕の中へ引き込まれた。
「宙?」
絵羽が何かを言おうとしたのを遮るように宙は絵羽の身体をグッと引き寄せてキスをした。
驚いた絵羽は一瞬手に力を込めて宙の身体を引き離そうとしたが、重ねられた唇から力が抜けていき、そのまま今度は宙の身体に強く抱きつくように自ら力を入れた。
ほんの数秒のことだったが、二人には5分にも10分にも感じられた。
抱き合ったまま唇を離し、見詰め合った二人に言葉はいらなかった。
しばらくして、最初に言葉を発したのは、宙だった。
「絵羽、好きだよ。一目惚れだった。」
「うそ、最初は怒ってたよ。自転車でひっくり返って腕擦りむいて。」
「あぁ、でも、その日の夜には惚れてた。」
「ほんと?同情とかじゃ・・・ないよね?」
「当たり前だろ。ばか。俺は男として女のおまえが好きになったんだ。」
「ほんとはね。あたしも宙と出会ったとき、こんな風になるような予感がしてた。」
「ほんと?」
「最初はあったまくる奴だったけどね。クスッ。」
「ちぇ、やっぱ怒ってたもんな絵羽。」
「そりゃ、そうでしょ。あんな出会い方だもん。でもね。ハンカチ貸した後、家に帰ってから、何で見ず知らずのそれも喧嘩したような奴にハンカチ貸したんだろうって考えたんだ。」
「うん。」
「それで、なんかちょっと運命みたいなものを感じた。」
「運命?」
「うん、あの霧の中で魔法にかかったみたいな。」
「そういえば、すっごい深い霧だったよな。」
「そう。その霧があたしと宙を引き合わせたんだって。そんな風に考えてた。」
「俺も、帰ってから霧の空を見つめながら絵羽のこと考えてた。」
「通じてたんだね。あたしたち。」
「そうかもな。」
「クスッ」
「あはは。」
ビルの隙間で微笑み会う二人には都会の雑踏が別の世界に感じていた。
二人はそれから、毎日放課後には会っていた。散歩をしたり、お茶したり、お金はなかったが、それでも、休みの日は少し奮発してお互いのバイト代を出し合って遊園地にいったり、映画を見たりもした。ごく普通の高校生カップルと同じように二人の時間を楽しんでいた。
その日も学校の帰りに待ち合わせた二人はファーストフードの店に入って軽い食事をとっていた。
「絵羽、はい、これ。」
宙は小さな包みを絵羽に渡した。
「ん?なぁに?」
「開けてみて。」
「うん。あ!指環!どうしたの?」
「今日は何の日か知ってる?」
「え?今日?何の日?私の誕生日ではないし、宙のとも違うし・・・。」
「なんで自分の誕生日に指輪あげるの?」
「だってぇ・・・、あ!もしかして、私たちが初めて会って・・・。」
「そう、あの自転車事故から一ヶ月、つまり、二人が出会って一ヶ月の記念。」
「わぁ、ありがとう、宙、そんなこと覚えててくれたんだ。」
「まぁね。強烈な出会いでしたからね。」
「もう、言わないで。怒鳴ったりして、少しは後悔してるんだから。」
「ははは、いいよ。そのおかげでこうしていられるんだから。」
「そっか、そうだよね。でも、これ高かったんじゃない?」
「ううん、正直値段はいえないくらい安い。でも、バイト代、一応つぎ込んだから。」
「ありがとう、宙、大好き!でも、無理しないでね。」
「その言葉だけで、報われた!でもなぁ、もっとお金があればなぁ。旅行とか行きたいよね。」
「旅行かぁ。行きたいな。」
「だなぁ。温泉とか。」
「きゃはは、宙、じじくさーい。」
「なんでだよ。最高の贅沢じゃん。温泉に浸かって、ノンビリして日頃の疲れを癒すんだよ。」
「日頃の疲れって、おっさんみたい。そもそもなんか疲れるようなことしてる?」
「ばーか、俺は人一倍気を遣うんだよ。だから、絵羽と違って疲れるの。」
「なーに、それ、まるであたしが気を遣ってないみたいじゃない。」
「え?遣ってたの?それは知らなかった。」
「ひっどーい、もう知らない。宙のばか!」
「あははは、いつもやられっぱなしだからね。お返しだよ。」
「べーだ!宙と旅行なんていかなーい。」
「いいよ。べつにー、他の誰か誘っていっちゃおうかなぁ。」
「ばかぁ!」
そう言った絵羽が宙の顔面にパンチを繰り出す振りをしたとき、バランスを崩したようになり、椅子から滑り落ちた。
「あははは、なにやってんの、絵羽?だっせー。」
「・・・・・。」
「ほら、ハズイから早く立てよ。」
「・・・・・。」
「絵羽、ふざけてないで、死んだ振りとかしてんなよ。」
椅子から滑り落ちた絵羽はそのままの体勢で動かない。
「絵羽?おい!どうした?絵羽?」
ふざけているのではないことを察知した宙が、絵羽の身体を抱き寄せたが、絵羽の身体にはまったく力が入らず、動かない。
「絵羽?おい、しっかりしろ。誰か!救急車呼んでください。誰か!」
しばらくして店員が救急車を手配して、絵羽は病院まで搬送された。付き添った宙は絵羽の手をずっと握っていたが、どんどん冷たくなる絵羽の手を握りながらずっと震えていた。
「ご家族の方ですか?」
到着した病院の看護師に尋ねられた。
「いえ、恋人です。」
「ご家族の連絡先はわかりますか?」
「はい、自宅の電話なら。」
「すぐに親御さんを呼んでください。」
「はい!」
そう返事はしたものの、正直どうなっているのか頭の整理がつかなかった。『親を呼ぶ?そんなに悪いのか?一体なんなんだ?まさか・・・。』
とにかく自分が取り乱してはダメだと思い直し、絵羽の自宅に連絡を入れた。
母親が出たので、事情を説明していると、慌てた様子で「すぐに行きます。」と告げられ電話を切られた。
三十分後、絵羽の母親が病院に着いた。
「あなたが、宙さん?!絵羽から話は聞いてます。絵羽は?いったいどうしたの?!」
慌てた母親が宙に掴みかかる勢いで聞いてきた。
答えに窮していると、奥の廊下から医師が歩いてきた。
「お母様ですか?石田と申します。とにかくこちらまでおいでください。」
一緒についていこうとした宙を看護師が止めた。
「ごめんね。君はここで待っていてください。」
そう言われて、動くことが出来なくなった。医師に連れられていく絵羽の母親を呆然と見送った。
しばらくして母親が出てきた。その表情は青ざめていて、力なく歩いてきた。
「お母さん。どうなんです?絵羽は?絵羽はどうしたんです。」
絵羽の母親を呼びとめ、問いかけるが全く答えを返してはくれない。
「お母さん。どうしたんです。教えてください。絵羽は大丈夫なんですか?」
そう声を掛けた瞬間、母親はうなだれ、その場に座り込んでしまった。
宙は、座り込んで気力をなくしている絵羽の母親の肩をゆすりながらもう一度同じ質問をぶつけた。
「・・・・病。」
「え?今なんて?なんの?なんの病気なんですか?」
「白血病・・・。」
『ハッケツビョウ』確かにそう聞こえた。耳を疑った宙はもう一度母親に尋ねた。
しかし、それ以上母親は何も言葉を発することなく、その場に突っ伏して泣き出した。
しばらくして先ほどの医師が戻ってきた。
「君は?彼女の友達かね?」
「はい、恋人です。付き合ってます。」
「そうか、じゃあ、君にもしっかり聞いてもらった方がいいね。いいかい。彼女は急性骨髄性白血病だ。それもかなり悪性の。血液の癌なんだ。助かるには今すぐにでも骨髄移植をするしかない。」
「僕の、僕の骨髄を使ってください。いくらでもいくらでも使ってください。」
そういう宙に医師は力なく首を横に振った。
「誰の骨髄でもいいわけではないんだ。血液型やその人に合った骨髄でなければ意味がないんだ。その確率は約十万人に一人。親でさえ合わない方が多いんだよ。」
「そんな・・・、どうすれば、どうすれば絵羽は助かるんですか?」
「すでに、ドナー、つまり骨髄が適合した人が登録をされているか、問い合わせをしているが、それまでに彼女の身体がもてばの話だが。」
「いつまで、どれくらい待てばいいんですか?絵羽の身体はいつまでもつんですか?」
「はっきりとはわからない。一月先か、一週間先か、明日かもしれない。」
「そんな、あんた医者だろ?医者がそんないい加減でいいのかよ!」
そんなことを言っても無理なことは頭ではわかっていたが、やり場のない怒りを医師にぶつけた。
「これはどんな名医でもドナーがいなければ無理なんだよ。」
冷静に医師は答えた。
「ちくしょう!なんで、絵羽が・・・。俺が、俺が替わってやりたい!ちくしょう!」
溢れてくる涙で目の前が滲んできた。床を思いっきり叩く。
「今は運を天に任せるしかない。」
そう言われて、しばらくは黙っていた宙は冷静さを取り戻した。
「絵羽に会えますか?」
「今は無理だ。集中治療室にいる。治療を続けているので会うことはできない。」
「ひと目、ひと目だけでいいんです。絵羽の顔が見たいんです。」
宙の必死な形相に押された医師はガラス越しならという条件で絵羽に会わせてくれた。
「絵羽・・・。」
たくさんの機械に囲まれて、透明な覆いに囲われた絵羽がそこにいた。
「絵羽・・・俺の声が聞こえるか?返事してくれよ。絵羽・・・。」
力なく話しかけるが、ガラス越しに聞こえてくるのは中で作動している機械の音だけだった。