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B.G.M ~Take a Step Forward~

前回のあらすじ


攻受に隙がないアグニさまのせいで、領主さまが鼻血の海に沈みました。

「来たぞ」


 アグニさまの声につられて、私は湖から這いずるようにして現れたソレを目撃しました。

 ソレはまごうことなき魔物でした。

 スライムでした。

 半透明のジェル状の生物で、うっすら水色に色づいていて、どこが目でどこが口だか分からなくて、見ようによってはちょっぴり可愛い、アレでした。

 知識としては知っていましたが、こうして実物を見るのは初めてです。

 私は慌てて剣を構えました。切っ先がブレッブレの素人感丸出しの構えでした。こういうのは重さじゃないんです。


「スライムか。ルージュ殿の腕試しとしてはちょっと物足りない相手だが、魔物は魔物だ。ところでルージュ殿はスライムのことはご存知か?」

「はっ、はい。ウチの常連さんが何度か話してくれたことがあります」

「そうか」


 明るく爽快なアグニさまですが、やはり魔物の前ともなると締めるところは締めるようで、隙のなさそうな眼差しでスライムを射抜いています。

 締めるところは締める、の辺りでまた鼻血が出そうになりましたが、直前にスッキリできていたため我慢できました。


 スライム。

 曰く、見かけに依らず意外と素早い。

 曰く、まっぷたつに斬ると意外にすぐ死ぬ。

 曰く、うっかり触ると溶けて死ぬ。

 曰く、スライムが湧くと鍛冶屋が儲かる。

 総じて、戦う相手としてはとても弱いけれど、油断すると大怪我をするし死ぬこともある。スライムとはそういう魔物だと聞いています。

 水辺に多く棲息していて、特にオムアン湖周辺のような草原地帯ですとスライムの這った後は一本の線のように草が消えるため分かりやすいのだそうです。

 ジェル状の体はやわらかく、剣どころかその気になれば木のスプーンでも掬えるくらいだとか。

 見た目はさわやかなゼリーにも見えるので、好奇心で口に入れてみた冒険者が文字通り舌もほっぺもその他諸々も物理的に(・・・・)とろけて天国を味わった、というのは冒険者たちの鉄板ネタみたいです。


 それはどうでもいいんです。


 いまスライムは、ずりっずりっずりっという感じで黙々と私たちめがけて前進しています。およそ『はいはい』を覚えたての元気な赤ちゃんが全力で這いずり回ってる感じの速度です。確かに意外と早いです。

 進路上の草花はスライムに取り込まれたり押しつぶされたりですが、概ねジュウジュウと溶けて小さく煙を上げています。

 そう。スライムの体は色々なものを溶かして食べてしまうのです。

 長く触れれば、鋼の剣をも溶かすとか。


「どうした、ルージュ殿」


 私が緊張していると、アグニさまが私の背を推すように声をかけました。


「剣の心配をしているのか? 大丈夫だ。その剣は一見無骨な作りに見えるが、実は女神の祝福を受けた聖なる剣だ。スライム一匹斬った程度では汚れ一つ付くまい」


 えっ!? この剣、聖剣なんですか!?


「女神さま、本当ですか?」

『いいえ。微弱な魔力の残滓を感じますが、この剣はただの鋼の剣です』


 なんということでしょう。

 まごうことなき偽聖剣でした。

 溜めも伏線もありませんでした。

 偽物であることにかけて、これほどまでに確かなお墨付きはないでしょう。


「あの……アグニさま。この剣はどうやって手に入れたのですか?」

「王都の教会で販売しているぞ! 魔王襲撃の知らせを受け、緊急で購入した。三本セットでもれなくもう一本ついてきてこのぐらいだった」


 アグニさまは指で値段を示唆しました。エイピアの一等地で家が建つ金額でした。

 驚きを通り越して清々しいレベルの詐欺でした。

 王都ディアカレスと言えばトーラ神聖教会総本山。教皇さまのお膝元です。

 疑問の余地はありません。

 私は確信しました。

 間違いなく教会は腐っています。

 同時になぜかこれ以上ないほどの親近感を覚えました。

 女神はこのことを知っているのでしょうか?


『どうやら教皇はわたくしの教えを忠実に守っているようですね』


 知っているどころか黒幕でした。

 知りたくなかった事実のオンパレードでした。

 トーラ神聖教には魔王戦直前の勇者さまのパーティメンバーに偽聖剣を売りつける教義でもあるのでしょうか?


『恐らく教皇が祝福したものでしょう。わたくしの加護には遠く及びませんが、対魔族戦では充分に効果があったはずですよ』


 悪びれることなく女神が言いました。

 アグニさまには死んでも言えません。この事実は墓場まで持って行くべきでしょう。


『いい機会です。ルージュ、あなたも覚えておくとよいでしょう。いいですか。世の中、金です』


 この人は本当に女神なんでしょうか。


『失敬ですね。これも人界の民草たちの群衆意識ですよ。

 それよりルージュ、魔物はもうすぐそこです。気を引き締めるのです』


 私はもしかしたら魔王のほうが清廉な人物なんじゃないかと考えましたが、今は正直それどころではありませんでした。

 女神の言った通り、スライムはもう目前に迫ろうとしていました。

 私の後ろではアグニさまが「頑張れ! やればできる!」と無責任に応援していて、領主さまはまだ寝ていました。この人はいったい何しに来たんでしょうか。

 私の前ではスライムが、私の持つ剣も、私から溢れる魔力も、まるで何でもないかのように、まったく意に介すことなく、驀進しています。

 私を食べるために。

 私を犯すために。

 私を殺すために。


 さて、そもそも魔物とは何か、というお話をしたいと思います。

 魔物というのは『積極的に人を襲って、食べたり犯したりする生き物』のことです。

 馬は人間を蹴りはしますが、突然襲いかかってきたりはしませんので動物です。

 虎は肉食で、人間を食べることもありますが、人を犯しはしないので動物です。

 スライムは、私達に襲いかかるべく黙々とガンホーしておりますので魔物です。

 でもスライムって、人を補食はしても犯したりするの? 知能とかなさそうなのに? と思う方がいらっしゃるかもしれません。

 犯すそうです。

 特に若い女性を。

 この辺りが魔物が自然発生した生物ではない事の証明になるのだそうですが、魔物に分類されている生き物は、恐ろしいことに一つの例外もなく人間と交配できるのだそうです。

 このスライムもそうです。

 魔物とはつまり女の敵なのです。

 魔物がただの害獣ではなく、邪悪な存在とされている所以です。

 こういった魔物が町の外にはウヨウヨしているというのですから、冒険者に圧倒的に男性が多いのも頷けます。騎士や兵士もほとんど男性ですしね。

 一方で、魔界に住むといわれている魔族の人たちと私たち人界の人たちの間では、どうやっても子どもが作れなかったそうです。どうやってそれを試したのかは、あまり考えたくはありませんけど。

 魔族よりも魔物のほうが私たち人間に近いのかもしれないと考えると、ちょっと鳥肌ですね。


 私がどうして怖がっているのか、これで分かっていただけたでしょうか。

 そうです。

 私はいま、とても怖いです。

 怖くなりました。

 震えが止まりません。

 どうして女の私が、町の外に立っているんでしょうか。

 どうして女の私が、剣を構えて魔物と対峙してるんでしょうか。

 普通の女はこんなこと絶対にしません。

 だって、町の外が、魔物がどんなに恐ろしいか、聞かされずに育つ子どもはいません。

 正気の沙汰じゃないです。

 私、勇者勇者とちやほやされて、調子に乗っていたんでしょうか。


「ルージュ殿!」


 頭も目もぐるぐる回ります。

 そもそも、アグニさまは私を守ると言ってくれましたが、いったいどうやって守ってくれるというのでしょうか。

 私はいま、普段着です。身を守る防具なんかありません。

 アグニさまは空手です。スライムは素手では倒せません。なにか武器が必要なんです。

 アグニさまは、私には物凄い魔力があるから大丈夫だと言いました。

 女神も魔王も、魔物なんか楽勝だ、みたいなことを言っていた気がします。

 でも実際はどうですか。


『おいルージュ。しっかりしろ!』


 スライムにだって私の魔力は見えているはずじゃないですか。

 こんなに灰色で、魔力で、勢いよく出ているのに。

 でも全然ひるんでくれません。

 小馬鹿にされています。

 でもそれも当然かもしれません。

 だって私は魔法なんて使えません。

 私は昨日までただの町娘で、魔力なんて欠片もなかったし、当然魔法の才能なんてありませんでしたし、


『ルージュ。私の声が聞こえますね』


 しかも持っているのは偽聖剣です。

 偽って。ふざけてるんですか?

 本当に戦わせる気があるんですか?

 滑稽です。

 スライムがひるまなくて当然です。

 こんなのひるむほうがおかしいです。

 負けると思うほうがおかしいんです。

 あのスライムにとって私はただの補食対象で、栄養源で、きっと、そ、その前に。


 ……。


 魔物に襲われても、助かる人もいます。

 でも、助かったのに助からない人も、います。

 女の人です。

 魔物に襲われた後、妊娠させられてると分かった人は、もう駄目なんです。

 町の外に追い出されて、二度と町に入れてもらえません。

 町を追い出された人がどうなるかなんて、みんな分かってるのに。絶対、分かってるのに。

 一度襲われたら。もう。

 二度と。

 絶対。


  @


『ルージュ! ルージュ! 聞こえていますね!?』


 アグニは勿論、女神と魔王も何度もルージュに呼びかけた。

 しかしルージュは動かなかった。まるで聞こえてはいなかった。

 ただ重たい剣を構えて短い呼吸を繰り返すばかりで、逃げることも下がることもできず、真っ青な顔で震えていた。

 どう見ても戦える状態ではなかった。


『チッ。いくら素質があろうとも、所詮はただの小娘か。しかしやむを得ん。あれは我が喰い殺す』

『待ちなさい。騎士が見ている前で実体化するつもりですか?』

『貴様はルージュを見殺しにするつもりか!?』

『必要ありません』

『なんだと!?』

『必要ないと言ったのです。ルージュがどのような精神状態だろうと、あの程度の魔物にルージュの身が脅かされることなどあり得ません。触れることさえ不可能でしょう。それが分かっているから、あの騎士も傍観に徹しているのです』


 女神の言葉は、実のところ的を射ていない。

 アグニが頑なに「大丈夫だ」と確信する根拠は、アグニ自身の爆炎系魔法にあった。

 アグニの正体は、剣を失っても戦うことのできる魔法剣士だ。

 飛びかかるスライムにルージュが反応できなかった時、彼にはルージュに傷一つ付けず、スライムを速やかに消し炭に変えられるという絶対の自信と実力があった。


『ただ……そうですね。ルージュの心が弱いというのであれば、それを補う必要はあるでしょう』

『何をする気だ?』

『簡単なことです』


 女神はルージュの魔力を使い、一つの魔法を発動させた。

 それは何度もルージュが見た……いや、聞いた魔法。

 音の魔法。


『いつの世も、乾いた戦士に勇気を与えるものは愛と音楽だと相場が決まっています』



  ――♪



  @


 ふいに、音楽が訪れた。


 まるで頬を優しく撫でるかのような旋律から始まったその曲に、私は一瞬で心を奪われました。

 目に見える風景は変わっていません。

 辺り一面の草原。正面に恐ろしいスライム。その先にある湖。

 吹きすさぶ風。突き抜ける蒼天。うっすらと見える気の早い星々の煌めき。

 だけど、どうしてでしょう。

 心の中に、森が見える(・・・・・・・・・・)


  ――♪


 その森は音で出来ていました。

 すぐ側で草むらが揺れる音。

 木々が揺れる音。

 小さい生き物が木に登る音。

 獣の雄叫び。

 遥か遠くから響く鳥の鳴き声。

 弾ける鼓動。

 いったいどんな楽器を使えば、このような音が出せるのでしょう。表現できるのでしょう。想像もつかないけれど、しかしこれは確かに音楽でした。

 それらの響きは私の前から、後ろから、右から左から遥か頭上から、しかし確かな一つの旋律に乗せて私を取り囲んでいました。

 私は逃げ場のない森の中にいる。

 どこに何がいるか分からない。

 しかし、何かが確かにいる。

 それはとても恐ろしい曲でした。

 怯える私のそれを代弁するかのように、何かで表現された鼓動が高まっていく。

 不安を感じました。

 恐怖を感じました。

 この場から立ち去りたい。

 一刻も早く振り返って逃げ出したい。

 しかし、そんな私の弱気を笑いもせず、振り払うこともせず、まるで手を握るようにその曲は私の心を連れて、そして弾かれるようにして一歩前へ(・・・・)

 新たに生まれた音が力強い一歩を刻んだ瞬間、音の奔流が私の心を包み込みました。

 その瞬間、音が爆発しました。


  ――♪


 私の心は驚きに満たされていました。

 私は目を見開いて、音を感じました。

 それは新しい音の発見の連続でした。


 この(きょく)が、こんなにも広かったなんて!


 踏み止まったままでは決して出会えない新しい音が、私の前から後ろへ次から次へと流れていきます。

 一歩、一歩、また一歩。

 私の都合なんておかまいなしに、曲はどこまでもまっすぐ前へ。どんどん前へ。一歩ずつ前へ。

 私の不安は変わりません。恐怖もそのまま。相変わらず鼓動はバクバク。

 それは決して消えることのない旋律。消えてはならない旋律。確かな音。

 でも、今はそれすらもが楽しい。

 私を不安にさせるそれらさえも、この新しい音の発見という驚きと喜びの旋律の一部だと言うことに私は気が付きました。

 気が付いてしまえば、もうどうしようもありませんでした。

 私はいま、自分から望んでこの(きょく)の中を進んでいる。

 現実の私の足はずっと止まったまま。

 だけど心だけは、(きょく)と手を取り合って何歩でも前に進める。

 私の心の中に生まれた風景が、新しい景色と音楽で満たされていく。


  ――♪


 この(きょく)はどこまで進んでいくのでしょう。

 この(きょく)はどこまで広がっているのでしょう。

 私の心はどこまでも進んでいく。

 時に(おと)に突き当たり、時に邪魔者(おと)を振り払い、そしてそれすらも新たな出会いとなって心を満たす欠片にしていく。

 どこまでも広がり続ける。


 それは前へと進むことを褒め讃える曲。

 踏み出すことの素晴らしさを伝える曲。

 勇気を出すことのできない誰かのための曲。

 一歩前へ進むための曲。


  ――♪


 見たい(ききたい)

 私の心を欲求が満たしていく。

 現実の私は、踏み出す前の私だ。

 まだ見てすらもいない恐ろしさを前に、足踏みをしている私だ。

 恐ろしいものを越えたその先に何が広がっているか、いや、そもそも広がっているということさえ知らない私だ。


 見たい(ききたい)

 こんな不安に勝てないまま、狭く苦しい旋律の中に閉じ込められるのは嫌だ。

 こんな恐怖に勝てないまま、見ることができたはずの風景を諦めるのは嫌だ。


 見たい(ききたい)

 見たい(ききたい)

 見たい(ききたい)


  ――♪


  @


 ふいに、音が消えました。

 まるで時が止まったかのようでした。

 私はいまの自分の姿を確認しました。


 無心だったと思います。


 魔物に怯えて、緊張して、泣き出しそうだった私の体は元いた場所から一歩前へ(・・・・)

 両手には大きな剣。

 両手剣。ツーハンデッドソード。アグニさまからお借りした偽物の聖剣。

 大上段からまっすぐに振り下ろした姿勢で静止。


 空中にはスライム。


 私に飛びかかった体勢そのまま、私の振った剣に両断されてまっぷたつに。

 断面がくっきりはっきり。消化されかけの草花も一緒に綺麗に切断。


 割れた大地。


 私と両手剣とスライムを繋ぐ一直線上にある大地に、筆を走らせたかのような綺麗な亀裂。

 断層。これまたくっきりはっきり。間一髪難を逃れた牙モグラのおしりがキュート。


 割れた湖。


 私と両手剣とスライムと割れた大地を繋ぐ一直線上にある水面に、包丁を落としたかのような美しい切断面。

 たまたま泳いでいた不運な魚ごとまっぷたつ。頭と尾っぽの永遠の別れ。


 割れた島と舘。


 私と両手剣とスライムと割れた大地と割れた湖の向こう側にあった竜王の舘が島ごとまっぷたつ。

 舘の上空にあった雲の結界も非の打ち所なく二等分。北雲と南雲に喧嘩別れ。



 たった一度しか剣を振るったことがなかった私が初めて放った、何かを斬るつもりで振り抜いた斬撃。

 それは偉大なる一歩のために振り払うべき魔物と、ついでに慈しむべき湖を両断して新たな線を作りました。


 すべての音が消えていました。

 恐らく私の鼓動さえも。

 誰もが声を失って、そしてやがて――今まで感じたことのない、音の広がりが訪れた(・・・・・・・・・)



  ――♪



  @


「なっ」

「なっ!」

『なっ!?』

『なぁっ!?』


「――あはっ♪」


「「『『なんじゃこりゃあああああああああああああああああああーーーーーっ!?』』」」


 まさしく音の大洪水でした。

 私の剣が巻き起こした剣風は、たった今まで存在していたスライムを欠片も残さず塵にしました。

 大地が揺れて、土砂と湖の水が一気に巻き上げられて、一本の線を挟むように二つの風に吹かれて遥か対岸のほうへ。

 太陽に届くかと思うほどに高く高く舞い上がった土砂も水も、私たちに一滴足りとも落ちることはありませんでした。

 それはまさしく暴風による鉄壁の守護。私の剣と風が生んだ自然の結界でした。


 そしてそれに押し出された土砂や水と一緒に、湖に沈むものがありました。


『あっ。あっ、あ、ああ、あああああ、あああああああああ……!』


 それは魔王の悲鳴でした。

 心の底から沸き上がる恐怖から来る悲鳴でした。


『えっ……エミルーーーーーーーーーーッ!!!!!』


 遥か彼方で湖に沈んでいく、竜王の舘が見えました。

 うっかり両断してしまった竜王の舘の左半分は、小さな島ごと土砂と水に押しつぶされて湖の藻くずと消えました。

 舘の右半分はかろうじて残ったものの、壁に屋根に無数の穴が空いていました。

 生存確率は50:50フィフティ・フィフティ。いえ、たぶんそれ以下でした。


『……あっ』


 魔王が気の抜けたような声を出しました。

 張りつめていた何かが弾けて消えたような音でした。

 私は声につられて上を見ました。

 舘の上空。

 天候魔法によって作られた魔法の雲。

 あらゆる風を制御化に置くという、風と嵐を司る竜王の結界。

 北雲と南雲に分かたれた二つの雲が、いま、私の放った風に吹き散らかされて、粉々になって、そしてやがて消えました。

 後には青空だけが残りました。


「…………………………………………ああ」


 ふいに魔力が吸われる感覚があり、同時に私の足下に気配が起こりました。

 がくがくと震える黒い子犬がいました。

 実体化した魔王でした。


「あああああああああああああーーーーーっ!」


 魔王は叫びました。

 昨夜以上になりふり構わない、全てを切り裂くような悲鳴でした。

 魔王の魂の慟哭でした。


「うわあああああああああああああああああーーーーーーーーっ!!!」


 魔王は一直線に湖へと向かって走り出しました。

 そのまま湖に飛び込んで泳いで行きそうになったので、私はあわてて止めました。

 湖岸までの距離を一息でゼロにしてしまった私の足に驚きつつ、うねりにうねった荒れ狂う湖を前に暴れる魔王を抱きしめて止めました。

 それでも魔王は暴れ続けました。私の腕に何度も爪を立てましたが、不思議と傷一つつきませんでした。


「わあああああああああああああああああああーーーーーーーーーっ!!!!!」


 魔王は私の胸の中で叫び続けました。

 誰が聞いていようが関係ありませんでした。

 私も女神も止めませんでした。

 アグニさまも止めませんでした。

 領主さまはいつの間にか起きていたようですが、また失神していました。

 私たちはただただ割れた大地と、荒れ狂う湖と、土砂に飲まれて沈みゆく竜王の舘を見つめていました。

 見つめ続けていました。


  @


 この日。

 レイライン辺境伯領の誇るオムアン湖を示す地図上に、一本の線が追加された。

 大きな円の中心を西から東へ両断するように描かれたそのマークは、やがてオムアン湖を示す新たなシンボルとして有名になった。

 オムアン湖の調査に訪れた著名な地質学者、ファイ・クーパア氏は後にこう語る。


「なんという見事な(すじ)か。まさしく神の造形。ここにオムアン湖は完成した! オムアン湖は拓かれたのだ!」


 後にファイ氏がこの体験を通じて得た興奮を記した著書「女神のオムアン湖と勇者の剣」は、今も町の書店の片隅でひっそりと売られている。

セーフったらセーフです。



次回予告


ルージュ一行、王都ディアカレスへ。


「君は素晴らしい勇者だ」

「本当ですか!」

「だけど君は剣を使ってはダメだ」

「え?」


どうなるルージュ。どうなったエミル!

次回「エミル死す」。デュエルスタンバイ!

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