あなたいったい誰ですか?
前回のあらすじ
エミルの正体が明かされ、ジャスパー・クリスノートと衝突。その勝敗の行方はジャスパーに傾いたかに見えたが……
砕かれた何かが、とてつもない速度で回転しながら空中を疾走する。
生身の人間に衝突すれば四肢欠損は免れないであろう勢いそのまま、それは幸運にも誰にも衝突することなく、最も手近な距離にあった柱の一つに突き刺さって止まった。
それは水晶の破片だった。
薄く、まるで研ぎ澄まされた刃のような美しい水晶だ。その先端は柱に埋まったためにもう見えないが、そこへと続く弧を描くような二対の曲線は、諸刃の剣の先端の形によく似ている。
そして、それが柱に突き刺さるまでの行方を目で追うことのできた数少ない人物の一人。自らの勝利を確信して高笑いしていたジャスパー・クリスノートは、
「ハハ、あ……ぁ。あぁ……? ぁあああ……?」
へし折れ、吹き飛び、柱へと突き刺さった《水晶剣》の切っ先を、信じられないとばかりに目を見開いて顎を落として見つめていた。
吹き荒れていたエミルの風が止み、静寂が辺りを包み込んでいる。
よろよろとジャスパーが振り返った先にいるのは、たった今まで死闘を演じていた竜王。竜化したエミル・エアーリアの巨大な姿だ。
その全身を包んでいるのは、相変わらず磨き抜かれたような翡翠色の輝きを放つ竜の鱗だ。
水晶化は――していない。
『…………あれ?』
ぐっと覚悟を決めていたエミルも、拍子抜けしたのか、竜の強面に似合わない間抜けな声を出した。
斬られた。そう思ったのに、斬られたという感触も痛みもまったく全然なかったのである。
恐る恐る首を巡らせてみると、エミルは背中と脇腹の中間ぐらいのところに一筋の線が引かれているのを発見した。
黒板にチョークで一本線を描いたようなラインだ。緩やかに凹凸するエミルの鱗に削り取られたみたいに水晶の欠片がこびり付いている。
その線をエミルが爪で引っ掻いてみると、まるで完治した後の瘡蓋みたいに水晶はぽろぽろとよく落ちた。
そしてその下にあるのは、傷一つない美しいエミルの鱗だ。
そう。無傷である。
「バロールの言った通りでしたね」
『だから言っただろう。別に心配なぞいらんと。というか、あの程度の武器で今のエミルがどうにかなると思うほうがどうかしているのだ』
そうこそこそと話しているのは、ちょっぴり離れた場所から事の顛末を見守っていたルージュと魔王である。
『おまえが磨いたからだぞルージュ。ただでさえ硬いエミルの鱗を、おまえがああも念入りに磨いたからだ。見てみろ、より強靭に進化したエミルの鱗を。あれはもう生半可なことでは傷一つ付かんぞ』
「えっ……? そんなあたかも私がやらかしたみたいに言う? 私がエミルを磨くとき、バロールだって『まぁいいんじゃね?』みたいなノリだったじゃないですか!」
『そこまでフランクに言っとらんわ! だが正直、エミルが快楽に悶えるたびに加速度的に跳ね上がる魔力総量を見たとき、これは美味いなとは思ったことは否めん』
そう。今この瞬間まで、エミルは気付いていなかった。
ルージュに全身を余さず磨かれ、あまりの快感にンアっていた時には、かつてない輝きを取り戻した自慢の鱗は既に取り返しのつかないほど魔改造されていたということに。
それはルージュの仕業と言うよりは、彼女の意思を無視して垂れ流され続ける魔力の仕業と言うべきだ。
寝て起きたら祝福されていたアグニの革鎧と同じように、何しろそれは無自覚で、かつ自動的だからである。
ただそのきっかけや作用に対して、ルージュの無意識下の意思や願望が反映されるだけである。
磨けば磨くほどに鱗の輝きを取り戻していくエミルを見たとき、ルージュはふとこう思った。
本当はこんなに綺麗な鱗だったのに。こんなに汚れていたなんて。ずっと綺麗なままでいられたらいいのにと。
アグニの革鎧に寝心地を求めたように、ルージュはエミルに変わらなさを求めた。
ただそれだけの願いだったはずだが、ルージュの魔力は如何なるフィルターを通したのか、取るに足らない小さなことで傷つくことすら許さないと、こういう意味にも受け取ったようだ。
だから、エミルを堅くした。
それがエミルの身に起きた、劇的な異変の全てだった。
実のところ、エミルの直感は間違ってはいない。
ジャスパーの放つ魔力と風格。そして決して才能に溺れず、今まで磨き抜いてきた実力は本物だった。
先ほどの渾身の一撃は、《水晶剣》は、確かにエミルの命に届くはずだったのだ。
気まぐれに温泉行きを決めたルージュによって、魔改造さえされなければ。
尤も、ルージュがそんな気まぐれを起こさなければ、そもそもこうしてジャスパーとエンカウントすることもなかったのだが。
『しかしまあ、どうにもならんとは思っていたがまさか擦り傷一つ付かんとはな。もはやおまえの次くらいの防御力があるのではないか? 間違いなく魔族最硬だな』
「そこで引き合いに出される生身の人間ってどうなの……?」
僅かでも傷つけば大変なことになっていた《水晶剣》の性能はおろか、ジャスパーについても何も知らない二人の会話はどこまでも能天気であり、そしてエミルはというと、
(なんだ、意外と大したことないヤツだったのか……? この俺が、こんな気迫ばっかりの見せかけ野郎を見抜けなかったなんて)
などと自分の観察眼にちょっぴり自信を失いながらも、
(ま、いいや。取りあえず、このニンゲンだけは噛み殺しておこう)
と、順調に精神力が鍛えられているエミルは前向きに戦闘を継続することにした。
次の瞬間、膨れ上がったエミルの殺気に、時は再び加速する。
我に返ったエミルの行動は素早かった。
こちらを振り返っているジャスパーは無防備にも背中を晒しており、戦闘中にも関わらず惚けるマヌケを噛み砕くことに迷いはなかった。今度はエミルのほうが、茫然自失のジャスパーを強襲する側だった。
気付けば、ジャスパーの目には巨大な顎門を大きく開いて己を噛み砕かんと迫る竜王の姿が映っていた。
《水晶剣》が通じなかったせいだろう。その姿は先ほどまでの何倍にも、何十倍にも巨大に見えていた。
(しまった! かっ、回避せねばっ!!)
急速に狭まる視界の中で、竜の牙の一つひとつが描く凶悪な曲線がやけに鮮明に見て取れた。
愛用している素材剥ぎ取り用のミスリルナイフよりよく切れそうだと益体もないことを考えながらも、ジャスパーの鍛え抜かれた反射神経は我を取り戻しかけている思考を置いてけぼりにして回避行動を取ろうとする。
この牙は、容易に想像できる致命の一撃だ。
これを避けたとして、今のジャスパーに反撃の糸口はない。
だがそれでも、ジャスパーが己の命を諦める理由にはならない。
今はどこか頼りない、しかし間違いなく人界最高峰の戦力である《水晶剣》を握り直し、石畳を蹴って距離を離そうとしたその時、
「エミル、そこまでです!」
妙に間の抜けた声と同時に、まるで巨大な手のひらで頭を叩かれたかのように、エミルの頭部は真下の石畳へと吸い込まれていった。
気付けばジャスパーの隣に立っていたルージュが、なんと首輪にかけたリードを思いっきり引っ張ったのである。
『ぐへえっ!?』
よい子は決して真似しないような哀れな仕打ちを受けたエミルは、潰れたカエルのような呻き声を発しながら下顎で石畳を叩き割った。
とてつもない衝撃が城中を揺らす。
全力ではなかったとはいえ、あの手加減下手なルージュがリードを引いたのだ。その威力たるや、埋まった下顎が階下に貫通し、天井から巨大な舌がだらりと垂れるのが見えるほどだった。
ちなみに余談だが、謁見の間の下の階は無人のダンスホールになっていた。
とても豪奢で美しい、光溢れる煌びやかなダンスホールだ。この世で最も華やかで、そして洗練された空間。この世の社交界の頂点がどこなのかを雄弁に表している、そういう場所だった。
その天井には何代か前の国王が国家の威信を知らしめるために作らせた、この空間の象徴とも言える世界最大級のシャンデリアなども飾られていたのだが、その位置がエミルの顎の真下だったというのがよくなかった。
ひび割れた天井と共に、国の威信を、富と権威の象徴を、そして国家予算の千分の一ほどを粉々に吹っ飛ばしたことをルージュが知るのは暫く後になってからのことである。
その一連の流れを、ジャスパーの優れた動体視力は克明に捉えていた。
ルージュの出現こそ感知できなかったものの、石畳に叩き付けられて脳が揺らされたせいか、ぐるりと白目を剥いて意識を失っていく竜王の姿がスローモーションのように映っていく。
階下から響く絶望的な破砕音などもジャスパーの聴覚は捉えていたが、それはついでのようなもので、今の彼にはどうでもよかった。
今だ。
ジャスパーの肉体は飛び退こうとする動きを中断し、前方へと飛び込むための力を新たに溜め始める。
好機だった。
殺そう、と思った。
いま、ジャスパーには目の前のエミルの眼球に《水晶剣》を突き刺すことしか考えられなかった。
そうだ。鱗が駄目なら眼球を刺せばいい。きっと鱗よりはずっと柔らかいはずだ。それでも駄目なら口の中だ。鼻孔や爪の隙間、鱗の薄い腹部や肛門なども試すに値する。きっとどこかに《水晶剣》の通る、弱点とも言うべき場所があるはずだった。
欠けた《水晶剣》の先端に触れ、ジャスパーは再び魔力を通す。欠けた断面を補うように、新たな水晶の刃はすぐに生えた。
憎くてたまらないはずの当代の勇者に助けられたという事実すら、今は心からどうでもいい。
まずは今、己の命を脅かしたこの愚かな魔族に引導を渡すのが先だ。
《水晶剣》が通用しない。そんな危険な生物は、敵だろうと味方だろうと生かしておいてはならないのだ。
だからジャスパーは剣を振り上げ、真っ直ぐ突き入れるように踏み込み、そして、
「あっ、それもダメです」
残像すら残さないジャスパー・クリスノートの神速の突きは、当代勇者に易々とキャッチされた。素手で。
「んんっ!?」
思わずジャスパーは変な声が出た。
だがジャスパーはへこたれなかった。掴まれた《水晶剣》は凄まじい膂力に抑えられピクリとも動かせなかったが、気を強く持った。噴出しそうだった鼻水も堪えた。
なにせ素手である。鋭利極まりないジャスパーの《水晶剣》を握って、無傷でいられるわけがないのだ。
馬鹿め! 死ね! 今すぐ水晶の肖像になって死ね! 砕け散れ!
そう願うジャスパーの目の前で、ルージュは無情にも《水晶剣》を雑巾を絞るようにしてバキバキに折った。
「ファッ!?!?」
ジャスパーは今度こそ鼻水を噴いた。
ミスリル以上の硬度を持った魔法剣の水晶が、水で固めた砂か何かみたいにぼろぼろとひび割れて落ちていく。本来の刀身だったミスリル製の細剣もぐにゃぐにゃだ。
不壊のはずだった《水晶剣》の崩壊は、ジャスパーの精神の根底にあった信念や矜持、不屈の闘志を揺るがす。
決して折れてはならないはずのものが、音を立てて崩れ落ちていく。
「ひい!」
ジャスパーはあまり恐ろしさに思わず手を離した。目の前の存在から一歩でも遠ざかりたい一心だった。
それが彼と《水晶剣》の永遠の別れとなった。
身に纏う魔力以外、どう見たってそこらの町娘にしか見えない小娘が、冷たい笑顔でミスリルの塊を粘土みたいに丸める光景は冗談を通り越して喜劇だった。
ルージュの手のひらの上で弄ばれるようにして最後の欠片をまき散らす美しい水晶の残骸は、今のジャスパーの心をよく表していた。
「陛下の前でいきなり剣を振り回すなんて、あなたちょっと非常識なんじゃないですか? あと、田舎者で顔が汚い雌豚っていったい誰のことなのかその辺詳しくお願いします」
全ての刃を丸められて、ただのミスリルの塊になったそれをポイとそこらに投げ捨てると、ルージュはジャスパーにニコリと笑いかけて言った。ただ、目だけは笑っていなかった。
ルージュが激怒していたので口を挟まなかったが、女神と魔王は『ルージュに非常識とか言われたらおしまいだな』と、仲良く同じ事を考えていた。
ギリエイムを含むゴードグレイス聖王国の重鎮らも同様だった。心の奥底で「お前が言うな!」と満場一致にツッコミつつも、固唾を飲んでルージュの動向を見守っている。
ジャスパーは、体を支える力を失い、崩れ落ちるように膝をついてルージュを見上げた。
そしてエミルは完全にのびていた。
冒険者の頂点、ジャスパー・クリスノート。
魔族の将、竜王エミル・エアーリア。
共に世界を代表するほどの実力者たちの暴走と衝突を瞬く間に制圧してみせたルージュの背中は、その行動や発言とは裏腹に、年相応の娘ではない勇者の風格を確かに思わせるものだった。
傷つき、倒れた無数の近衞騎士たち。しかし奇跡的にも、誰一人として死者は出ていない。それは他の誰でもなく、ルージュが竜王の初動を完璧に潰したからだ。
図らずもルージュは国王ギリエイムの目の前で、仮に竜王が暴れたとしても容易に御することができるのだという実績を作ったことになる。
(人命以外の損害に、目を瞑ればだがな……)
無数にひび割れた内壁や砕かれた石畳。そして容易に想像できる階下の惨状を想像して、ギリエイムは深くため息をついた。
「ぼ……ボクは……。ボク、は……」
ジャスパーは茫然自失のまま、それだけを繰り返して言った。
Sランク冒険者。
ジャスパー・クリスノート。
それは自分が超常の存在であり、その絶対の自信を支えてくれるはずの名だった。
だがジャスパーには、いま、その続きがどうしても言えなかった。
誇りと共に高らかに名乗り上げていたはずの自分の名を、目の前にいる存在の前で、どうしても言葉にすることができなかったのである。
名乗ってしまえば、それが完膚なきまでに打ち負かされたという事実を、心の奥底で認めてしまいそうな気がして。
彼の心はどうしようもなく無防備だった。
何の防御もできなかった。
そしてそうとは知らぬルージュから、最後の言葉が告げられた。
「いきなりひとさまの従者に斬り掛かったりなんかして! そもそも、あなたいったい誰なんですか? ちょっと顔がいいからって、何やったって許されると思ったら大間違いですよ! 反省してください!」
ルージュはジャスパー・クリスノートのことをこれっぽっちも知らなかった。
それが、ジャスパー・クリスノートの精神へのトドメとなった。
彼は廃人のような表情でよろよろと立ち上がると、そのまま背を向け、謁見の間を後にした。
誰も声をかけなかった。かけられなかった。
それ以降、ジャスパー・クリスノートは王都にも、そして冒険者ギルドにもその姿を現してはいない。
@
「陛下! ご無事ですか!」
増援の騎士たちを連れて、アグニが謁見の間へとなだれ込んだ頃にはもう全てが終わっていた。
廃墟の如くズタボロになった室内の惨状。石畳に顎を埋めたままピクリともしない巨大な緑竜。壁際で震えている重鎮たち。
昨日城から消えていったはずのルージュの姿もあった。彼女は倒れた近衛騎士一人ひとりに対して順番に回復魔法を施しているところだった。
そして懸念していた国王陛下の安否だが、ギリエイムはピンピンしており、物珍しげに気絶した緑竜の鱗を撫で回しては宰相に窘められていた。
「……いまいち、状況がつかめないのだが……」
ざわめく騎士たちを代表してアグニが言った。
「単身城へと攻め込んで来た悪しき竜王を、陛下の危険を察知したルージュ殿が速やかに帰還しこれを討ち果たした。つまりこれは、そういうことだろうか?」
真剣な眼差しで問うたアグニに、室内にいた全員が首を横に振って答えた。
自宅のルーターが逝ったり江ノ島にラプラスを取りに行ったりしていて更新が遅れました! すまねえ! すまねえ!
ルージュの一人旅とジャスパーさんの出番はこれで終了ですが、ジャスパーさんがあまりに可哀想すぎたので、どこかで出番を作ってあげたいところです。
余談ですが、ラプラスは見つかりませんでした。




