エミル、キレる。
前回のあらすじ
人々が恐れたオムアン湖の竜王。
その正体は、過酷なサバイバル生活を一人で生き抜いていたショタっ子魔族だったのです……。
「で? つまり俺に、コイツの仲間……つーかその従者ってーのになれと、オマエはそう言いたいのか」
「まぁ、平たく言えばそういう事だ」
むっつりと眉根を寄せる少年に、黒い毛並みの子狼が答えて言った。
見渡すほどの湖にぽっかりと浮かぶ小さな島。その大部分を締める古びた館の前で、パチパチと音を立てるたき火を囲う影が三つある。
二つの人影と、一つの動物の影である。
気難しそうな、あるいは不満げな表情を隠そうともしていないのは、鮮やかな翠色の頭髪をした少年である。
ぶかぶかの大きいローブに身を包んだ彼は、実は人間ではない。人界に済む人間にはない特徴である、その細く長い耳が証明する通り、彼の正体は魔族。それも緑竜族の中でも一際強大な力を持った、通称竜王。魔界ではエミル・エアーリアと呼ばれた人物だ。
一方、たき火を挟んで反対側に座っているのは、こちらはまごうことなき人間である。
こちらも鮮やかな赤色が目立つ髪を持ち、二人が並ぶとまるで宝石箱を覗き込んでいるかのようだ。
ただし、赤い髪をした少女の心が宝石のように透き通っているとは、エミルは微塵も思ってはいなかったわけだが。
死に別れたと思っていた、敬愛すべき魔王であり、またかけがえのない友であったバロールと再会し、また勇者であり、そして魔王でもあると名乗った謎の少女が鼻血を噴いてぶっ倒れてから、まだそう時は経っていない。
と言うかエミルは最初、女が倒れたことにも気が付いていなかった。一人敵地である人界に取り残されたという極限の緊張。その糸がぷっつりと断たれ、大号泣していたのだ。できたことはバロールの胸に顔を埋めて激情に身を任せる事のみで、他に意識を割り振る余裕などありはしなかったのである。
無様に泣き喚いてしまったことを、エミルはちっとも恥ずかしいことだと思わなかった。年が若く子どもだからとか、そういう文化だからという理由ではない。ただエミルにとってこの島で孤独に過ごした時間が、それほど長く寂しいものだった。泣き喚いて当然だと納得してしまったからである。
だが、魔王バロールにとってはそうではなかったようだ。人の姿をとった魔王はエミルに存分に泣かせた後に、噴水のように血を噴き出し続けている女を放置し、これ幸いとエミルを連れ出したのである。
魔王の瞳がしめしめと邪悪に輝いていたのをエミルは覚えている。
魔王はルージュのことをこれっぽっちも心配していなかった。
むしろ、これで落ち着いて話すことができると小銭を拾ったような笑みを浮かべているではないか。
その様子に、エミルには死んだはずの友と、幸せそうにビクビクと痙攣している女の関係性がまったく理解できなかった。
「な、なぁ、バロール。いったい、何がどうなって」
「ああ、エミル。今から説明してやる。落ち着いてよく聞け」
魔王はもとより、エミルに誤摩化しや隠し事をするつもりはなかった。
魔王は滔々とこれまでのことをエミルに話して聞かせた。エミルが戦線から離脱してからの人間と魔族の争いのこと。その結末と、次代となる勇者と魔王のこと。そしてあの人間の少女、ルージュに取り憑いてから始まったこれまでの旅の話を。
それは悲しむべき話だった。
それは驚くべき話だった。
どうとってよいか分からない話でもあった。
先代の魔王であり、そして友であるバロールの口から直接語られたにも関わらず、信じられないような話だった。
だが、それが全て真実であるのだと繰り返し諭され、ようやくそれを受け入れられた頃には、まさにその後の出来事の渦中である少女は既にピンピンに復活していた。
致死量どころか体積を超える出血を見せていたはずだが、瀕死を通り越してなぜか元気いっぱいの様子だった。
しかも心なしか肌がツヤツヤとしていた。わけが分からなかった。
暇つぶしのつもりなのか、ルージュはその辺に転がっている無数の石ころで水切り遊びに興じていた。
もの凄い音を立てて水面を跳ねた石が、遥か遠くに見える湖岸に無数の土煙を立てているのが見えた。
魔法を行使した形跡はなかった。技術の問題でもなかった。それは単純な魔力による肉体強化の産物だと気がついたエミルだったが、一投ごとにどれほどの魔力を注げばそうなるのか、エミルには皆目検討もつかなかった。
「あっ! お話は終わりましたか?」
振り向いた少女がにこにこと笑って言った。
見たところ、疲労などは一切なさそうだ。
エミルは思った。
「少なくとも、このニンゲンが無敵であるのは事実だな」と。
そうしてエミル、そしてルージュの両名はようやく落ち着いて話し合う機会を得るに至った。
エミルにとって今やルージュは無条件に敵対し倒すべき敵ではない。
ここからは暴力ではなく、言葉によって意を交わし合う時間である。
エミルはずっと、人界の孤島ともいうべきこの場所で再起の機会を伺っていた。
ルージュ、そして魔王の側からは提案があり、エミルはそれを検討する立場だ。
相手は人間だ。種族という括りで見れば、エミルにとって人間とは両親の仇である。当然わだかまりはある。
しかし魔王の頼みもある。エミルはそれが魔王の、ひいては魔界の益となるならば、あえて竜王としての誇りを捨てて、目の前のニンゲンの軍門に下ってもよいという覚悟さえ持とうとしていた。
持とうとしていたのだが。
「つまり、クソ勇者もバロールも死んで、クソ女神とバロールが同時に次にってんで選んだのがそのニンゲンだったってわけだ。オマエがわざわざニンゲンを選んだ理由も、普通じゃありえない、そのとんでもねー魔力を見れば納得はできる。
そいつが無敵なのも分かった。もう身に染みた。そいつが勇者になったら確実に魔界は滅びて、魔王になったら人界を滅ぼせる。俺たちとニンゲンとの、そいつの奪い合いだ。俺たちの戦争は今、そういう戦いになったんだってことも分かった。……分かった、が」
いったいどうしたのだろうか。
魔王のため、魔界のため、努めて冷静であろうとするエミルの声だが、気のせいだろうか、僅かな震えが混じっている。
いいや、気のせいではない。
バロールの願いを、その意を酌むためにも、決して感情的になったりせずに状況を整理し、理解しようとする健気なエミルであったが、その心とは裏腹にエミルはまったく落ち着いた気分になることができずにいた。額には極太の血管が浮き上がり、その細く小さな手はぷるぷると震えている。落ち着けー落ち着けーと内心で連呼してなお御しきれない情動がエミルを支配している。その症状は紛れもなく、強い感情の動きにより大量分泌されたアドレナリンが引き起こす血圧の上昇と、自律神経の乱れによる生理的な振戦反応である。
「んんっ!! ……そいつのお気に入りのニンゲンの従者を連れ歩くために、もう一人従者が欲しいっていうそいつの事情も理解した。そこにまたニンゲンを加えるよりは、魔族の俺が加わったほうが俺たちにとって有利ってこともな。人界に魔族がもういないってんなら、俺に白羽の矢が立つのも仕方ねー……」
様子のおかしいエミルとは裏腹に、ルージュはたき火を挟んだ向こう側に座ってニコニコとしている。実に友好的な表情で、機嫌よさそうにしているではないか。
もとよりルージュのほうにはエミルと敵対する意思はない。寧ろエミルの本当の姿を見てしまったことにより、どちらかと言うと人間、魔族という枠を放り投げて好意的ですらある。今も脳内では「エミルきゅんかわいい! 抱きしめたい! お姉ちゃんって呼んでくれないかなぁ!」と妄想に余念がないほどだ。
そのせいだろう。ルージュは今にもよだれが垂れそうな、そういうしまりのない顔をしている。それは見る者によってはイラっとこないこともない表情だったが、あいにくそれはエミルの怒りとは無関係であった。
勿論、エミルが特別怒りやすい体質というわけでもない。いくらエミルが人一倍、いや魔族一倍人間が嫌いであるといっても、いくらなんでも目の前に人間が存在しているだけで激高したりなんかしない。それではまるで禁断症状に襲われるナニ中毒者のようではないか。エミルはそこまで無分別ではないし、パンクでロックでノーフューチャーでもない。
ただ、その手元がよろしくなかったのである。
もふもふっ。もふもふっ。
「何より、バロール。オマエはこうして俺を迎えに来てくれた。また会えて、本当に嬉しかった。これからも一緒にいられるんだと思うと正直泣けそうだ。ありがとう、バロール。俺はオマエの死に目にも間に合わなかったってのに……ほんと、すまない」
「良いのだ、エミル。我は、おまえが生きていてくれただけで……」
ヒクヒクとこみ上げるものを隠せないエミルに対し、穏やかに答えるのはハリのあるヴァリトンボイスを取り戻した子狼だ。
魔王である。
ただし、その実力者然とした威厳に満ちた声で話す魔王は――上下、さかさまになっていた。
仰向けになっていた。
だらしなく腹を見せていた。
ルージュの膝の上で。
ルージュの手のひらの中で。
ルージュの思うがままに、為す術無く、全身くまなくもみくちゃにされていた。
そう。
かつてエミルが尊敬し、敬愛し、絶対の忠誠を捧げた偉大な魔王バロールは。
おぞましきニンゲンの手によって、手慰みに好き放題、モフられまくっていたのである……!
ミシィ! メリメリィッ!
「時にエミルよ。眉間がもの凄いことになっているが大丈夫か?」
「あーうん。ベツニナニモ? ほら、俺この島についてから日焼けしたジャン?」
「いやあ日焼けで誤摩化すのは無理があると思うぞエミルよ。青筋がすごいことになっているぞ」
そうしている間にも、ルージュの指は縦横無尽だ。
もこもことした腹をくすぐり、ふわふわの尻尾を指にからませ、毛並みの感触を頬で確かめながら、右前足と左前足を指で交互に踊らせたりもしている。
そしてそれに、魔王は抵抗しないのだ。
魔王がエミルに目で語るのだ。「何も言うな。いつものことだ」と。
よく見ると、瞳からハイライトが消えている。
諦めているのである。
受け入れているのである。
いま、魔王の心と肉体、そして毛先の一本に至るまで、すべてはルージュのものであった。
それはまさに凌辱と呼ぶべきものであった。
「俺のことはいいんだ、バロール。それより、俺もオマエと同じ気持ちだよ」
もふもふ。もふもふ。
「一度死んじまったとはいえ、こうしてまたバロールと話せるだなんて最高だ」
もっふもっふ。もっふもっふ。
「初代魔王の与えたもうた奇跡だ。感謝しなくちゃ」
もふもふもふもふもふもふ。
「その上で、俺の答えを言わせてもらうよバロール……いや、そこのニンゲン」
魔王を蹂躙する指が停止した。
ルージュは目を輝かせている。
「それじゃあ、一緒に来てくれるんですねっ!」
魔王が、ルージュの手によって両手を上げてバンザイをした。
エミルはキレた。
「だぁれが行くか、ぶわぁぁぁぁあああぁあああか!!」
「えっ! ぇぇええぇええええええええぇええええ!?」
「待て! 待つのだエミル! ルージュもそうだが、おまえも待て! さっきから空気が悪かったし絶対断るなこいつと思っていたし、正直意外でもなんでもないがそれでも待て! いいか、今、ガチでおまえに魔界の運命がかかってる! 生きるか死ぬかの瀬戸際だ! 頼む、我のためにとは言わん! 魔界に残したおまえの仲間たちのために、おまえの矜持を捨ててくれ!」
「そんなニンゲンの手でいいように踊らされてるオマエの言葉は俺の心には響かねーんだよぉおお!」
頭を抱えたエミルの魂からの慟哭が迸る。
ちなみに踊るというのは物理的にである。
「無理だねっ! あったま来た、もう我慢の限界だ! さっきからコイツ、バロールのことを好き放題に弄びやがって! いいか、よく聞け! この俺、エミル・エアーリアが忠誠を誓ったのは、歴代魔王でも魔界最強でもない! オマエだ! オマエなんだよバロール! 俺は他の誰でもない、誇り高き魔狼族のバロールに忠誠を誓ったんだ!! 俺はオマエのものなんだ! 次の魔王だかなんだか知らないが、そこのクソニンゲンのものなんかじゃねえっ!!」
「エっ……エミルぅっ……!!」
感極まったように体を震わせる魔王!
「おっ……おまえの、ものっ……!!」
ピンク色の妄想を働いてウッと鼻を抑えるルージュ!
そのあまりにもひどい温度差に意義を唱える者は残念ながら誰もいない。
ツッコミ不在の空間の中、エミルがゆらりと立ち上がる。
「そのニンゲンの体がどうしても必要だっていうのなら仕方ねー。そいつと一緒に旅もしてやるし、見せかけの従者だって演じてやらあ!
だが、序列はハッキリ付けさせてもらうぜ! トップはバロール、次に俺、最後にオマエだニンゲン! それが嫌なら、この話はナシだ! もう二度と、その汚らしい手でバロールに触れるんじゃねー!」
『フッ。まるで話になりませんね』
「ッ! 誰だ!!」
その時だ。この場の誰のものでもない女の声が響いたのは。
鈴の音のように澄んだ美しい声だ。だが、それに込められているのは見下すような冷たさだった。
エミルの誰何に呼応して、立ち上る煙からゆらりと影が浮き上がる。朧げだったその像は見る見るうちに鮮明になり、空中にたゆたう美女の姿となった。
ルージュとエミルの邂逅からずっと見守り続けていながら、ただ一人その場に姿を現さなかった最後の人物。
女神トーラである。
『聞こえましたねルージュ。いくら必死に取り繕おうと、これが魔族というものなのです。この魔族が特別なのではありません。これが彼らの常識なのです。人間を憎み、排除し、自らの下につけることでしか存在を許すことすら出来ぬ者たち。敵対者にして侵略者。外敵にして仇敵。この世界に住まう人々とは決して相容れぬ価値観を持つ者たち。それが、魔族なのです』
そう冷たく言い放ちながら、女神はルージュの反応を疑う。
女神はルージュのみならず、この場の全員に等しく声を届けている。無論、魔王とエミルを煽るためにわざとやっているのである。
ルージュとエミルの関係が壊れて困ることなど女神には何一つない。寧ろ積極的にぶち壊す所存である。しかし過剰かつ積極的なヘイトスピーチは却って逆効果になることをこの三ヶ月間で学んだ女神は、こうして正面から堂々と魔族を叩く隙を狙っていたのだ。
実に狡猾な女神である。
もっとも、肝心のルージュは妄想の世界から未だ帰ってきていない様子だった。女神痛恨の誤算である。
「オマエ、ニンゲンどものクソ女神だな」
『クソはそちらであるという点を除けば、その通りですが?』
『エミル。そいつは』
連発される女神によるあからさまな挑発。魔王が何かを言いかけたが、エミルは最後まで聞く気はなかった。
何故なら目の前の存在は人界の女神トーラ。間接的にとは言え、魔王の仇だ。
エミルにとってこれ以上なく、明確な敵だったのである。
だからエミルは迷わなかった。
「《風塵旋風》!!」
体内で練っていた魔力と怒りを、エミルは呪文に込めて解き放つ。
それは魔法の行使だった。相手を死に至らしめることも厭わない、攻撃のための魔法だ。
しかし、人界で扱われる魔法とは少し違う。魔力を注ぐという点については共通するものの、詠唱を必要とする代わりに繊細かつ精密な現象を引き起こせる魔族流の魔法だ。
唱えたのはエミル・エアーリア。
風と嵐の支配者たるエミルが魔力をもって風に呼びかけたとき、その魔法の行使は瞬時に完了する。
我に返ったルージュがそれに気がついた時には、女神はすでに、彼女を中心とした極細の竜巻の中に捕われていたのだった。
「わっ!!」
次の瞬間、竜巻を中心として吸い込まれるような突風が吹き荒れた。
体ごと持っていかれそうになり、太い木々が音を立ててしなるほどの猛烈な風だ。そのような風が四方八方から竜巻に向かって吹いている。いや、吸われていると言ったほうが正しいだろう。周囲に落ちていた岩塩や釣り竿、不格好に切りそろえられていた重い木材さえもがたちまち浮き上がっては竜巻の中へと吸い込まれていく。だが、明らかに竜巻よりも太く長いものが吸い込まれても、それが竜巻の中から出てくることは決してない。
何故ならば、竜巻の内部は鉄をも切り裂く無数の風の刃からなるミキサーだったからだ。
それはあらゆるものを吸い込みながらも、ひとたび内側に入り込んだらなんであろうと切り刻み、すり潰し、そよ風に吹き散らかされる塵になるまで決して外に逃がすことのない死の結界。
人界の魔法では決して再現できない、魔族だから実現できる精緻にして綿密なる死の魔法。
それがエミルが予備動作なしに瞬時に発動させてみせた、凶悪な魔法の正体だった。
「こんの、バカモノがーーーーっ! エミルーーーーっ! おまえっ、少しは我の話を聞けぇえええっ!!」
「わっ、わっ! 暴れないで! 捕まってくださいバロール!」
だが、流石というべきだろう。そんな死の竜巻の間近にいながらも、ルージュは吸い込まれることなくその場に留まることに成功している。
エミルはルージュの靴の踵が深いところまで地面に埋まっているのを見た。まるで空中に座るように腰を浮かせたまま、ピンと伸ばした両足の力だけでこらえている。魔王を抱きとめる余裕もあるようだ。狙ってそうしたのか偶然そうなったのかはエミルには分からなかったが、どうせルージュが吸い込まれたところで結果は変わらないだろうと視線を外す。魔王も同様だ。
竜巻の中は無数の塵に包まれ見通しが悪い。しかも今や風だけでなく、風によって強固に圧縮された木片や石片までもが吹き荒れているためにより凶悪な空間と化している。
普通の人間ならば瞬時に塵。鎧を着た兵士でも数秒も保たない。エミルと同じ緑竜族であっても決して無傷ではいられない。
だが。
『フッ。無様ですね。あなた如きの手がわたくしに届くとでも思ったのですか』
死の吹き荒れる竜巻のただ中にあって、しかし女神は悠然とした、見下すような嘲笑を浮かべてエミルを見下ろしていたのだった。
ジャンル再編されましたね!
拙作は清純派ハイファンタジーとして、初ランキング入りを目指して頑張ります!