竜王エミル。
前回のあらすじ
王都からエイピアへと転移してきたルージュ。
その目的は、竜王と呼ばれる魔族と会うことでした。
私たちが島に上陸したとき、湖は嵐のように荒れるわけでもなく、島は吹き飛ばされるような暴風に見舞われるわけでもなく、つまるところ、竜王は逃げも隠れもしていませんでした。
『……待っていたぞ』
およそ人の喉から発せられるものではない、巨大な岩が転がる音にも似たゴツゴツした声で言ったのは、見上げるほどの巨大な生き物でした。
竜王は、それはそれは竜族っぽい竜族でした。
トカゲのような頭と体を持ち、剣を容易く弾いてしまいそうな分厚い鱗に、大きく広げているのは威圧感たっぷりの一対の翼。
それは古い英雄譚にも載っているような、小さな村の小さな子どもも諳んじる竜族の特徴です。
目の前にそびえ立つ竜王はそれらの特徴を兼ね揃えた、まさしく竜以外の何物でもありませんでしたが、いま私の前にいるのは英雄譚の中に出てくる空想のような竜ではなく、それ以上の、本物の竜でした。
『ずっと、ずっとこの日を待ち侘びていたぞ、ニンゲン!』
まず感じたのは重厚感。
上半身にいくほど細く強靭に引き締まり、下半身にいくほど太く力強く発達した体格。
正三角形を思わせる巨大な肉体を後ろ足だけで支え、直立する姿勢で私を見下ろすのは一対のエメラルドの輝き。
私をひと呑みにできそうな顎。
蛇を思わせる長い首。
その首は大きくたわんで私を真正面から見下ろしており、つまり竜王は、私を屈んで見るようにしてなお、この巨体でした。
『感じるぞ。オマエから漂う、クソ女神に汚染された薄汚い魔力を……! 忘れもしない。オマエ、あの日この島を斬り飛ばした勇者だな!』
その声を間近で聞くだけで、お腹の底から全身を揺さぶられるよう。
みなぎる敵意を重たく響く唸り声に乗せて、竜王は叫びました。
竜王は、それはそれは怒っていました。
でっぷりとした下半身でありつつも、肥満なイメージがまったく湧いてこない筋肉質な体も。
どこに触れても怪我をしてしまいそうな、磨き抜かれた金属のような緑色の輝きを放つ鱗も。
竜王の全身から放たれている、絶対強者としての威圧感はいま、竜王の怒りを正しく伝えるためだけに存在しました。
『供も連れずに、たった一人で来たその度胸だけは褒めてやる……! よくぞ、よくぞこの竜王の前に、その汚いツラを見せに来た!』
有り余る力を込めたためか、竜王の全身がミチミチと音を立てて僅かに膨張。
指先までを覆う緑の燐光は、臨戦態勢を整えたであろう竜王の魔力の光です。
竜王の言葉に、何一つ偽りはありませんでした。
竜王は今すぐにも、それこそ次の瞬きの瞬間にも私に襲いかかり、この首を刎ねようとしていました。
私の異常な魔力に一歩も退かずに、恨みを晴らさんと怒り狂う竜王。
その姿があまりにも恐ろしくて、私は……竜王を、直視することができませんでした。
『八つ裂きにされる覚悟は出来ているんだろうな!! この竜王の怒りを…………おい。
オマエ、どこを見ている』
竜王に、怪我はありませんでした。
体のどこも欠けていない、五体満足の体です。目立った傷もありません。
あの日の私の斬撃は、竜王の体を直接捉えなかったのでしょう。
ですが私は、それを知ってもちっともホッとすることはありませんでした。
何故なら。
『何を黙っている。恐ろしくて声も出ないか! この臆病者が!』
だからといってそれが竜王に何の被害も与えていないのかというと、そんなわけがなかったからです。
例えば、竜王の足元。
そこに何か小さく細いものが転がっていました。
竜王の太く大きな足と比べれば木っ端のように小さく見えますが、よく見るとそれは素振りができそうな長さの木の枝で、先端には糸のようなものが括りつけられていました。
そう。
それは必要に迫られて素人が慌てて急造したような、不格好で手作り感溢れる釣り竿でした。
『なんとか言ったらどうだ! ァアン!?』
それだけではありません。
竜王は揺れる尻尾で巧みに隠そうとしていますけれど、後ろにあるのはたき火の跡。
野営の跡です。
直前まで火が灯っていたのか、緩やかに黒煙が上がっています。
周辺の監視を避けるためでしょう。黒煙は木々の高さまで上がると、一定のところで緩やかに回転する風に吸われるようにして霧散していました。
僅かな黒煙も逃さない、緻密な魔法のコントロール。
才能だけでは補えない、熟練の何か……それこそ何日、何十日と繰り返した重みのようなものを感じました。
『オイ。だから……こっちを見ろよ』
他にもあります。
視線を動かすと、そこには不自然に掘られた穴がありました。
浅く掘られた穴には、魔物の骨や皮だったり、魚の骨だったり。
あと、火で炙られたような枝が幾つも重なって捨てられていました。
その近くに転がっているのは、何か石ころのようなもの。
小さな岩塩の塊でした。
竜王の体格ではなく、私の基準から見ても小さなそれは、パッと見て分かるほどに質もよくはありません。
だけどその岩塩の中央には、すり鉢に似た削った痕跡がありました。
何条もの細い傷痕が折り重なったそれは、まるで鋭利な爪か何かで、大事に大事に少しずつ丁寧に削り取った跡のようで。
ぐっとこみ上げるものがあって、思わず竜王へと視線を向けてしまった私。
その目に映ったのは、ハッとした表情でばつが悪そうに右手を背に隠す竜王の姿でした。
「あっ……」
そんな声が漏れてしまい、私は咄嗟に口に手を当てました。
どうしようもない悲しみが押し寄せてきました。
『や……やめろ! オマエ! なんだ、なんなんだその目は!』
右手を隠しながら、竜王はなぜか最初の怒りを忘れたかのように、ひどく狼狽しているようでした。
ですが私には、そんな竜王を疑問に思う余裕もありません。
だって。
まさか、こうして竜王と相対することが、こんなに恐ろしいものだなんて知らなかったんです。
そこかしこにあるのは、あまりにも痛々しく、そして生々しいサバイバル生活の痕跡でした。
無駄に目がよくなってしまったせいか、分かるんです。
其処彼処から漂う生活臭が。
竜王の苦労の痕跡が。
追っ手から逃れ、この島へと追いやられ、古びた館での生活を余儀なくされた竜王を、私が更に追いつめたのだという確たる証拠の数々が。
私の心を、こんなにも、ちくちくと苛むものだったなんて知らなかったんです。
「……うっ、うっ」
ですが。
何より一番、心に来たのは……
『……えっ。嘘だろ……なんで俺、勇者にそんな胸が締め付けられてますみたいな目で見られてんだ』
すっぱりと切断されて、かつては綺麗だったであろう、今はボロボロになってしまった湖に面した館の切断面。
その近くに。
「あっ、あああ」
山と積まれたそれを見て、私は嗚咽を堪えきれずに、その場に膝をつきました。
『なっ、なんなんだよオマエ!』
深い反省の念が沸き出してきました。
『やめろよ!』
ぼろぼろと涙が溢れました。
『そんな目で、俺を見るんじゃねえ!!』
そこにあったのは――
『やめろっつってんだろぉ!!』
――不揃いに切られた無数の木材と、湖の底から拾い上げたような、ボロボロに錆びた鉄くぎの山でした。
(直そうとしてるうっ……! もとからすっごくボロボロで、それも私のせいで半壊しちゃって、いつ崩れてなくなっちゃうかも分からない危ない館なのにっ……! でも、それでもここを、直そうとするのを諦めきれなかっただなんてえっ……!)
この大きく強く偉大な竜族である竜王が。
私たち人間が遠い昔に放棄した、朽ちてボロボロになった館を直そうとして。
その一念で沈んだ釘を探すために湖深くに潜ったのだと想像したとき、私の涙腺はぶわっ! と崩壊しました。
涙も嗚咽も後悔も、もう堪えられませんでした。
そして。
――謝ろう。
心の底から、謝ろう。
そう、思えました。
「ごめんっ……! ごっ、ごめんねぇっ……!!
私っ、ひどいことっ……うっ、うわあぁぁぁあああん!!」
『だからやめろよぉぉぉぉ! 俺が可哀想みたいな流れでいきなり謝るんじゃねーーーーーーーっ! ちくしょう! オマエェっ! 本当に、何しに来たんだよおっ!』
@
「あーなんか思いっきり泣いたらスッキリしました。こういうのは人も魔族も変わらないんですね。面白いですね」
『オマエ本当に勇者か? その反則級の魔力以外のあらゆる面で認め辛いんだが?』
そんなことを言う竜王でしたが、私が落ち着くまでの暫くの間、なんと竜王は待っていてくれました。
意外と紳士です!
まあ時々殺傷性の風の魔法が何度か飛んできていたような気もしますが、全部私の魔力に弾かれたのでノーカンといいますか、最終的には諦めて見ていたとも言います。
『それに許せだと? ハッ! 誰が許すかバーカ! ニンゲンってだけで許せないのに、オマエが島をぶった切ってくれたせいで俺は散々だ! 寝床も備蓄も全部パァになったんだぞ! クソが! 特にオマエなんかに哀れまれたせいで余計に最悪な気分だ! 許せないを通り越して死ね! すぐ死ね!』
竜王は荒れに荒れていました。
だけどそれも当然でしょう。竜王は私を勇者だと思っていて、島を切り飛ばしたのが私だということも気付いているようです。
そもそも人間と魔族ですし、当然好感度はマイナススタート。
ましてや今の竜王は、人間だらけのこの人界で唯一の生き残りだと言います。取り残された形です。
そしてこの小さな島での長期間に及ぶサバイバル生活。
心が荒んで当然でしょう。
今日この日、今の竜王の姿があるのは、半分くらい私のせい。
だから私が歩み寄って、竜王にも味方がいるって教えてあげなければいけません。
私は恐ろしい竜王を前にして、なんだか優しい気持ちになりました。
「まぁまぁそう言わずに私とお話しましょう? 話せばきっと分かります。私と竜王さんの仲じゃないですか!」
『どんな仲でもねーよ! ってかオマエスッキリし過ぎて距離感おかしい!』
怒濤のツッコミを繰り出す竜王を見て、私は気苦労が多そうな性格だなと思いました。
『俺は竜王だぞ! もっと怖がれよ! 恐れ戦けよ! っていうか、当たり前みたいな流れで会話してんじゃねえ! さっきから冗談みたいな魔力で俺の風を吹き散らかしやがって!! 真面目にやる気あんのかオマエ! この俺と、雌雄を決しに来たんじゃあねーのか!』
「え? 違いますよ」
『違うの!? じゃあ何しに来たんだよ! 勇者が俺に会いに来る理由なんて一つしかねーだろ常識的に考えて! あたかも俺がおかしいみたいに言うんじゃねえ!』
『バロールバロール。なんか凄く打てば響く感じで気持ちイイんですけど。竜王さんてこういうヒトなんですか?』
『ああ。懐かしくて可哀想すぎて泣けるほどにエミルだ。根が素直で真面目なところがあるエミルがおまえに会ったらきっとこうなるだろうなと我は密かに思っていたのだ……』
『なんでしょう、この状況に強烈な既視感を感じます。哀れな魔族の姿にざまぁ! と思うわたくしがいる反面、この沸々と沸き上がる憐憫の情はいったい……?』
『女狐よ。教えてやる。それはここいらの領主を初めて見たときに我が感じたそれだ』
『ああ、なるほど』
女神と魔王は意気投合の兆しを見せていました。
「まぁまぁ、生きるか死ぬかみたいな覚悟はひとまず置いといて、まずは話を聞いてください。お話をしましょう。竜王さんから見て、私って何に見えますか?」
『……勇者だ。俺の、俺たちの敵だ!』
「半分は正解なんですけど、もう半分は違います。私のもう半分はあなたの味方です。私は魔王です」
『はんぶ……ハァ?』
「だから魔王です。はじめまして、竜王エミルさん。申し遅れましたが私の名前はルージュ。エイピアのルージュです。酒場生まれの町娘で、今は魔王兼、勇者なんかをやってます!」
敵ではないよと示すため、私は笑顔でVサインなどを決めて自己紹介をしてみました。
あまり魔王っぽくはなかったかもしれません。
『半分魔王で……勇者ぁ……? それに、なんで俺の名前……』
そんな突然の私の半魔王宣言に、ぽかんとする竜王。
まぁ私のような小娘が突然現れて「私が魔王だ! ただし、半分だけな!」などと言いだしたら、普通はこういった顔をするものなのかもしれません。
トゲトゲしていて恐ろしいビジュアルをしている竜王ですが、あんぐりと口を開いて呆けているところを見ると、なんかこう、強面冒険者が子どもに優しくしてるところを見たような、らしくない一面を垣間見たような感じでちょっと可愛いですね。
それはさておき。
『あぁっ……可哀想に、エミルっ……! このちゃらんぽらんなルージュを前にして現実を直視できる訳がないというのにっ……! だが、おまえが元気そうにしているというだけで、我は、我はぁっ……!』
『ちょっと。失礼なこと言いながらしんみりしてる場合じゃないですよバロール。素直に信じられないのなら、信じさせてあげましょうよ! ほら、相手はぽかんとしてますよ! これは好機な予感です! 今です! この隙にバロールを叩き付けてダメ押ししましょう!』
『叩き付けるなモノのように! ……えっ? ルージュ、ちょっと待て。落ち着いてよく考えろ。
我、一応、いま感動の再開を噛み締めている最中なのだが? 我が出るにもタイミングというものがあるだろう。今というのはおかしくないか?』
「おかしくないおかしくない。竜王エミルさん! 実はあなたの名前なんですけどね?」
『えっ! ちょっ、おまっ……問答無用か!? そのあとに引けなくする感じのアレはやめろ!!』
なにやら抵抗する構えの魔王ですが、嫌がる魔王の真っ黒な魔力をこうやって集めるようにもにゅもにゅとこねくり回すだけであら不思議。
あれよあれよと言う間に魔王の分身が魔力の中からずりずりと引きずり出されてきます。
『わっ、だからっ、やめっ……あぁああっ!』
やがて私の胸の辺りからすぽんっと飛び出した子犬バロールを掲げて、私は竜王に言いました。
「ほら! 見てください、この方ですよ竜王エミルさん! 誰だと思います? なんと! 先代魔王の、バロールさんから聞いたんですよ〜!」
ほらほら、と子犬バロールを揺らすと、竜王は今度こそカチンとフリーズしました。
目と口と鼻を見開いてか細く息を吸い続けるような音がします。喘息でしょうか。
私は魔王をもふもふしながら、心なしかぐったりしている魔王に向けて言いました。
「……無反応ですね。反応がないのが反応のような気もしますけど、無反応です。バロール、もしかして子犬すぎて気付かれてないのでは?」
『無理矢理引きずり出しておいておまえは……! ……はぁ。もういい。もっと分かりやすい姿になれと言いたいのだろう』
「はい! お願いします!」
すると、バロールは私の手を抜け出して地面に着地。
私の魔力の黒い部分をぐいぐいと吸い込みながら、魔王は私に振り向いて言いました。
『まぁ、いつかは見せることになるだろうとは思っていた』
え? と思った次の瞬間、子犬の姿だった魔王は黒色の靄に包まれ、みるみるカタチと大きさを変化させました。
部屋を押しつぶすほどの巨体に、恐ろしい犬歯を剥き出しにした三つある頭。
異形の魂のようなものを全身に纏った、いつか見た魔王バロールの本当の姿――ではなく。
「……うそ……」
いつの間にかそこに立っていたのは、私と同じか私よりも背の低いくらいの、黒い肌をした黒髪の少年。
そして。
『………………………………ばっ』
同じく突如輝いた翠色の向こうから姿を現した、黒髪の少年よりも更に背の低い男の子でした。
元は白かったであろう肌は、ほんのり小麦色に焼けていて。
涙をいっぱいに湛えた瞳と同じ色をした、風に吹かれたようなナチュラルショートヘア。
竜の鱗を模したぶかぶかローブに身を包み、下ろしたフードから覗き見えるのは、黒い少年と同じ――そして、私たち人間とはまったく違う――魔族特有の尖った耳。
控えめに言っても人間離れした美少年二人がそこにいました。
あまりにあまりな魔王と竜王の変身に、今度は私のほうこそが目の前の光景にフリーズする番で、
「バローーーーーーーールゥーーーーーっっっ!!!」
「エミルーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!」
岩の転がるような不協和音じみた音でもなく、人生の渋みを感じさせるヴァリトンボイスでもない、年相応の愛らしい少年の声で互いに強く呼び合いながら二人が熱い抱擁を交わしたとき、頭の中にいるもう一人の私が恍惚とした表情で言いました。
……ショタっ子同士もっ……イイっ……! (イイっ……!) (イイっ……!) (イイっ……)
「うぷはっ!!!」
『ルーーーーーーーージュ!!!』
どこかで扉がガコン! と開く音がしました。
そして喜ぶべき二人の再会を祝う紅い飛沫が風に舞い、私の膝は再び大地に崩れ落ちました。
ショタ竜です!
3章入って登場人物いっぱい増えたのに、ネームドの男女比率がおかしい。




