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帰郷の理由。

前回のあらすじ


 勇者が現れた! エドモンドは噴茶している!

 

 私がエドモンドさんのお屋敷に転移した時、最初に感じたのは懐かしい町の匂いでした。

 青々としたギリャドの香りと、それだけでは打ち消されない、でも町中で生活していた頃にはすっかり慣れきっていた独特の魚臭さ。


 それは私がエイピアの町を離れてから知った、故郷の匂いでした。



 生まれて初めて町の外に出て、生まれて初めて湖の畔で剣を振ったとき。

 私は女神の曲を知り、未知なる方へと、一歩前へと踏み出すことの素晴らしさを知りました。


 今まで触れたことのなかったものに触れ、見たこともなかったものを見て、知らなかったものを知る。

 そのことがもたらす、無上の喜びを知りました。


 そしてアグニや家族のみんな、幼馴染みに、実家の常連さんたち。色々な人たちに背中を押されて、生まれて初めての旅に出た時。

 私は初めて、生まれ育った町にも匂いがあったのだということに気付きました。


 それは今までずっとそこにあったのにも関わらず、私にとってあまりにも身近すぎて、今まで気付くことすら出来なかった匂い。

 でもそれは、新しい土地で新しい人たちと出会うたびに、まるで私が無自覚でいることを許さないかのように気付かせるのです。


 町には、そして土地には匂いがある。

 その土地に暮らす人たちに共通する、独特の匂い。

 自分だけの部屋が自分の匂いで満たされるように、住み慣れた家に家族の匂いがつくように、それはその土地に住む人たちがつける、その人たちだけの匂い。


 匂いだけではありません。

 見たことのなかった風景が。

 嗅いだことのなかった匂いが。

 味わったことのなかった味が。

 聞いたことのなかった音楽が。

 私に、いま目の前に現れている新しい景色がいったいどんなところであるのかを教えてくれる。


 知らなかったことが増えていく。

 知らないでいたことが消えていく。

 私をずっと閉じ込めていた、未開の森が拓かれていく。


 今いる場所から、一歩前へ。

 その一歩を踏み出し続けることに、ためらいはありませんでした。

 私の初めての旅は、本当に楽しかったんです。

 出会い続ける新しい景色が私にとっては新鮮で、楽しくて、それらを目一杯に吸い込んで楽しみながら過ごした三ヶ月間は実にあっという間でした。

 ただ、この胸の中に沸き上がり続ける、故郷への強い郷愁の念も本物だったというだけで。



 いったい、いつからだったでしょうか。

 私が今まで出会ったことのない、新しい何かに出会うたびに、ああ、帰りたいなと、そう思うようになったのは。



 ふと気付くと、目の前の景色と、故郷の景色を見比べてしまっている。

 ふと気付くと、新しい土地の匂いを嗅いで、故郷のそれを懐かしく感じてしまっている。


 たまたま立ち寄った町が、どこかエイピアに似ているからとか、そういうわけでもありません。

 ただ、どんな町に立ち寄ったところで、その町はあくまでも新しい景色でしかなくって。


 どんな景色を見ても、故郷の面影とは重ならなくて。

 私の中の故郷はいつまで経っても色褪せたりしなくて。


 どんなに凄い景色を見て、心の底から感動したとしても、だからこそ痛烈なまでに気付かされるんです。

 ここはエイピアじゃないんだって。

 そんな当たり前すぎるほどに当たり前のことを、何かの拍子に何気なく思い出しただけで、途端に胸がきゅうと苦しくなるんです。


 アグニと出会い、旅に出て、何もかもが新鮮で新しいものたちに囲まれて。

 想像もしてなかった感動や身に余るような贅沢を経験したって、私の故郷は決して色褪せたりはしていませんでした。


 私には、今、心から行きたいと願う場所があります。

 それは魔界と呼ばれている場所。

 魔王バロールが住む世界であり、もしかしたら、私が住むことになるかもしれない場所。

 そして、もしかしたら私がこの手で滅ぼさなくてはならないかもしれない場所。


 いつかやがて、必ず選択の時はくる。

 私にとっては胃が痛いことに、選ばないという選択肢はどうやらないようで。

 いつか必ず訪れる、しなければならない決断の助けを得るために、私は魔界に行かなくてはなりません。

 ある日突然部屋に現れた女神と魔王に挟まれて、そう決意せざるを得ない状況になっていたとしても、それは確かに私自身が決めたこと。


 だけど、私は全てが叶って、魔界へと足を踏み入れる前に。

 絶対、必ず、どうしても、もう一度エイピアの町に帰りたい。

 エイピアの風を、エイピアの音を、エイピアの景色を感じて、エイピアの町の土を踏みたい。


 だから私は決めていました。

 いつか王都に辿り着いて、転移魔法を習得したとき、まず真っ先に帰ろうと。


 陛下にアグニを取り上げられそうになって、ちょっと頭に血が上ったのは本当。

 新しい従者を連れてくるだなんて、陛下に啖呵を切ったのも割と本気。

 だけど、こうしてエイピアに帰ってきて、懐かしい空気に触れてみると、いったいどれが建前で本気だったのか、私にもちょっとよく分からなくなりました。


 帰ってきたんだという喜び。

 私はエイピアに帰ってきた。

 ただそれだけの事実が生み出す、濁りようも混じりようもない、ただ一つの喜びの感情。

 それを前に、建前だの本音だのは、まったくの無力だったのです。


 嬉しいものは、嬉しい。


 本当はこの里帰りにはアグニを連れてきたかったんですけど。

 私の決心をポカン顔で見送ったアグニには、少し留守番してもらいましょう。うん。


 なぁんてことを思いながら、私は三ヶ月振りの故郷の空気を胸一杯に吸い込みながら、


「聞いているのか、ルージュ!? 私はいまなんと言ったね!?」

「はいっ! もう勝手にひとさまのおうちには入り込みませんっ! もう二度としませんっ! だからそろそろ許してくださいエドモンドさんっ! 可愛いおヒゲが、台無しですよ?」

「反省が足らあん!」


 ……エドモンドさんから、それはもう大変なお叱りを受けておりました。


  @


「いくらお前が勇者になったとはいえ、人として生まれたからには最低限の礼義というものがある。お前がたったいま蔑ろにしたものだ。いいかねルージュ。礼義を弁えた人間というのは、家主に黙って勝手にひとさまの家に上がり込んだりはしない! ノックをするだとかそれ以前の問題だ! 勇者のみが覚えられるという転移魔法! なるほど、それを使えば確かにいつでも好きな場所に移動できるのだろう! しかし! それは決して、みだりに他人の領域に踏み込むためにあるものでも、ましてやひとさまを仰天させるためにあるのではなあい!」

「はいっ! 仰る通りであります!」


 雷が落ちたようとはまさにこういうのを言うのでしょう。

 びりびりとコマクを震わす、割れんばかりの大音声!

 コマクだけではありません。部屋中のありとあらゆるものが震えています。よく見るとテーブルの上のグラスがちょっとずつ動いているのが分かります。心なしか右のほうの壁にヒビが入っているようにも見えますね!


 激おこエドモンドさんに相対しているのは勿論私。背筋を伸ばして両手を膝に、エドモンドさんの顔を見つめて清聴する姿勢です。でも、頬が緩んで半笑いになってしまうのは自分の意思ではどうにもならないようでした。

 そんな私の胸中を占めているのは、叱られる気まずさや恥ずかしさを越えた、深い深い郷愁の念です。

 だって本当に懐かしい。エドモンドさん、昔からこうやって、時々もの凄く怒るときがありました。今みたいに両目を吊り上げて、顔を真っ赤にして怒鳴るんです。こうなったエドモンドさんは、最終的には酸欠でへたり込むまで止まりません。


「聞いているのか、ルージュ!? ひとさまの家の壁は!?」

「はいっ! 殴らず蹴らず壊しません!」

「そうだっ! ひとさまの家の壁は、壊してはならあん!」

「はいっ!」


 そんなエドモンドさんのお説教ですが、言ってる内容としては終始だいたいこんな感じでした。

 不法侵入や強制ドッキリなんかは、本当にエドモンドさんの仰る通りで申し訳ないなあと思ったのですが、壁についてはよく分かりませんでした。私の転移と何か関係があるのでしょうか。正直まったく心当たりがありません。壁がどうしたというのでしょうか。エドモンドさんの声を受けて、徐々にヒビを大きくしている右のほうの壁と何か関係があるのでしょうか。

 とはいえ、エドモンドさんのお説教の攻略法はただひたすら聞き分けよくすることです。気になりますけどここは我慢するところ。余計な質問はむしろ火に油なのです。私の経験則がそう言っていました。場数が違いますよ場数が。


「ハァ……ハァ……ふひゅう……ふひゅうう……」


 あっ。息切れだ。酸欠まであとちょっとです。

 この後エドモンドさんは「分かったねルージュ」と言う!


「分かったね、ルージュ? もう、こんなことを、しては、いけない、よ」

「はいっ! 本当にすみませんでしたっ!」

「よろしい」


 最後にすうっと大きく息を吸い上げて、エドモンドさんはソファに深く深く体を沈めました。お説教タイム終了のお知らせです。

 そして訪れる、しじまの時間。

 昔はそれが開放感の象徴みたいに思えたのですが、今の私を包んでいるのは不思議な余韻の感覚でした。

 いったいどうしてしまったんでしょうか。

 お説教が終わって、残念に思ってしまうだなんて。


 暫く続く、ぜぇはぁという呼吸音。

 それに黙って耳を傾けているのが、いまこの時間の最も贅沢な使い方であるような気がして、


「……それと」


 エドモンドさんのその一言を受けて、弾かれたように顔を上げた時、自分が俯いていたことに気付きました。


「遅くなったが、お帰り、ルージュ。こうして無事に帰ってきたことは、本当に嬉しく思っているよ」


 エドモンドさんは、懐かしい声、懐かしい表情で、そんな言葉をくれました。

 それはどんな大声よりも、私の心の一番深いところにしみ込んでくるようでした。


 何気ないはずのその一言に、私は、


「……はいっ。エイピアのルージュ、ただいま戻りました!」


 胸の奥から沸き上がる気持ちをいっぱいに乗せて、

 きっと、最高の笑顔を返せたと思います。


  @


 その後、私とエドモンドさんはこの三ヶ月間の話をしました。

 エイピアのほうはあんまり変わりがなかったらしく、お父さんもお母さんも元気でやってると聞いてホッとしました。常連さんたちも誰かが欠けたという話もなくて、元気でやってるみたいです。生傷は、絶えないみたいですけどね。

 私が出立する時はボロボロだった『炎の燕亭』ですが、今ではすっかり元通りどころかちゃっかりリフォームまでしたらしいです。他人(りょうしゅさま)のお金と思ってのこの決断は、間違いなくお母さんですね。


 一方で、私も積もる話をしたりしました。

 ホワイトタブでの出来事は三重くらいオブラートに包んだりと、恥ずかしい部分はちょっぴり隠しつつ、話は徐々に現在へ。

 転移魔法で王城を飛び出してきたと言ったら顔を青くしたエドモンドさんですが、次に領主さまのお屋敷の中に転移した話をしたら顔を赤くする一幕もありました。顔色がまるでシグニオンみたいですよと言ったら「頼むから今日はこれ以上怒鳴らせないでくれ」と頭を抱えられました。ちなみにシグニオンは加熱すると色が変わるお野菜です。


「レイライン辺境伯の屋敷に無断で転移したことは、この際もう何も言わないけど……本当に反省してくれるね? 平民の身分だったら冗談抜きで首が飛ぶから」


 親指でクイッと首を刎ねるジェスチャーをするエドモンドさんに、深く頷いて返す私。それまでは領主さまのお屋敷での出来事も話そうかなと思っていたのですが、それを見て止めました。アレもきっと洒落にならないやつだ。きっと。


 領主さまのお屋敷で頑張って釘を刺してきたことについては、全然まったくこれっぽっちも悪かっただなんて思いませんけどね。嫌がらせとかされたら即戦争ですよ戦争! 実家に手を出すとか私にとっては魔族の軍隊より邪悪な存在です。いっそ魔王になる決心を固めるまである。

 まぁ、今にして思えばちょっとやり過ぎたとは思いますけどね。実際の所、ちょっと間が悪かったんだと思います。なんせ私もアグニを取り上げられそうになったばかりで機嫌もよくなかったですし、その直後で「奪ってやるぞ!」とか言われたら頭に血も上りますって。その言葉には凄く敏感な時でしたし。


 悪いことしたかなぁとは思うものの、とはいえやっちゃったものは仕方ありません。過去を振り返ってもしょうがない。こうなったからには領主さまにはお願いした通り、エイピアと実家に甘々な領主さまでいてもらわないと損ですね!

 幸い、私には女神がついてます。もし領主さまに何か不穏な動きがあったら教えてくれるとのことです。女神の監視が比喩でもなんでもなくなってしまいました。女神さまが見てるってやつですね。めがみてですよめがみて。


「ともあれ、ルージュも波瀾万丈な旅をしてきたということだけは分かったよ。勇者ってのは大変なんだねぇ。ところで、その従者の心当たりというのはこの町の冒険者かい?」

「えっと、帰ってきたのはそういう訳なんですけど、心当たりはあたらずとも遠からずって感じです。エドモンドさんには一つお願いがあって来ました」

「言ってみなさい」

「船、貸していただけませんか?」

「船」


 エドモンドさんは腕を組んで、意外そうに答えて言いました。


「小さな船ならオムアン湖に幾つか繋いであるが、いったい何に使うつもりなんだ?」

「実は、そのオムアン湖に用があって来たんです。エドモンドさん。オムアン湖ですけど、最近の様子はどうですか?」

「……ああ。そういうことか。合点がいったよ」


 そう切り出した私に対して、エドモンドさんは声のトーンを下げてこう言いました。

 大切なことを伝えるように。しかし私にとっては、何ヶ月も前から知っていた言葉を。


「君の予想通りだよ、ルージュ。だからこそ、もしも行くというのなら充分に気をつけてくれ。

 ……オムアン湖湖上には、今も竜王の雲の結界(・・・・・・・)が張られ続けている。君が倒した竜王は死んではいなかった。まだ、生きていたんだ」


 竜王。


 私が勇者兼魔王になった日に湖の藻屑と消えたことになっていた、風と嵐の支配者。

 かつて戦争で猛威を振るった魔王バロールの戦友。


「もう一度、討伐しに行くのかい?」


 エドモンドさんの真剣な問いかけに、私は肯定も否定もしないで、ただ曖昧に笑って返しました。

 だって……私、これから竜王を倒しにいくつもりも、そもそも倒そうとしたことすらありません。


 ただ、バロールと一緒にその人に会いに行くこと。

 そしてそれこそが、私がアグニを奪われないためにエイピアに帰ってきた、一番の理由だったのです。


従者フラグです。

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