エドモンド邸にて。
前回のあらすじ
ダグルスさんは馬恐怖症を克服しました。やったね!
ゴードグレイス聖王国レイライン辺境伯領のほぼ東端に位置する、湖と冒険者の町、エイピア。
見渡すほどに広大な湖であるオムアン湖から産出される豊富な水産物に支えられ、辺境の町としては比較的大きく成長を遂げながらも、周辺に棲息する魔物の多さから冒険者以外の者があまり定住しないために、都市と呼ぶには遠く及ばない町。
ルージュの生まれ故郷であるエイピアとは、そういう町である。
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さて。
そんなエイピアの住宅地の一角に、この一帯を治める貴族、レイライン辺境伯の屋敷ほどではないにせよ、そこそこにして立派な屋敷が一つある。
その屋敷の持ち主の名はエドモンドという。
ぴょこんと伸びたチャーミングなヒゲが特徴の、エイピアの町を領主より任されたレイライン辺境伯領が小領主の一人である。
その日、エドモンドの姿は屋敷の一階に位置する応接室にあった。
応接室。来客を迎え、応対するための部屋である。
だがその時、応接室の中にあるのはエドモンドただ一人。迎えるべき客の姿はどこにもなく、また来客の予定もない。
ではエドモンドは、用もない応接室にたった一人でいったい何をしているのかと言うと……なんと、号泣していた。
上座に座り、拳を握りしめ、じっと一点を見つめて泣いている。
それも滂沱のような、まるで途切れることのない涙を遠慮なく垂れ流している。
尋常ではない泣きっぷりである。
嗚咽することもなく、しゃくり上げることもなく、どこか哀愁の漂う表情で静かに泣き続けるエドモンド。
男泣きに泣くエドモンドの姿がそこにあった。
そんなエドモンドの視線の先だが、これと言って特に何かあるわけではない。
絵画もなければ家具もない。強いて言えば壁があるのみである。
落書きがあるわけでもない。目立つ汚れがあるわけでもない。それでもあえて特徴を挙げるとするなら、妙に真新しいことぐらいだろうか。
そんな何の変哲もない応接室の壁を見つめて、エドモンドは泣いていたのだった。
「また壁見て泣いているんですか、あなた」
そこに通りかかったのは、呆れ顔をしたエドモンドの妻エミリーである。若々しく見えるが、こう見えて二児の母である。
ぱたぱたとスリッパを鳴らし、エプロンで手を拭いながらそんな風に声をかけて来た我が妻に、エドモンドは目頭を抑えながら、こみ上げるような震える声で答えて言った。
「いや……だって。本当に、感慨深いんだもの」
「壁が直ったくらいで大げさよ。大工さんもこりゃーキレイな穴だねえ、これはキレイに直るよって言ってくれてたじゃないの」
「でもさぁ。俺は目の前でこう、壁がぶっ壊れるところを間近で見てたもんだからさぁ。あの大穴が本当に塞がるのかと思うと気が気じゃなくて」
「はいはい、分かったからもう泣くのはお止めなさいな。ちゃんと直ったんだからいいでしょう?」
「ああ、本当によかった。俺の屋敷、ちゃんと直ったんだよなあ……ぐすん」
そう言って、綺麗に修復された壁へと視線を戻すと再び鼻をすすり始めるエドモンドに対し、エミリーは処置なしといった様子で、やれやれと肩をすくめた。
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エイピアの町を治める小領主エドモンドの奇行には訳がある。
その原因となったのはおよそ三ヶ月前に起こった事件、通称『オムアン湖潮吹き事件』である。
その日エドモンドは、町を囲う外壁の高さを優に越える巨大な水しぶきを見た。
尋常ではない高さの水しぶきだ。太陽に届くのではないかと思うほどの噴出。少し遅れて吹き荒れる轟音。大地の揺れ。
その突然の天変地異を前に、エイピアの住民の誰もが、オムアン湖の湖上に逃げ込んだとされる竜王の復活を予期したものである。
しかし実際には、その轟音と水しぶきの正体は、エドモンドらの予想とはまるで真逆のものだった。
それをエドモンドに説明するために、当日彼の屋敷へと訪れた人物が三人いた。
その人物たちとは、ダグルス・レイライン辺境伯、王国近衞騎士アグニ、そしてルージュである。
彼らは今日、エドモンドが座っているこの応接室に集い、小領主エドモンドに対する説明責任を果たした。
竜王と呼ばれる魔王軍最後の生き残りを、篭城していた館と島ごと一刀のもとに斬り捨てたというニュースは震えこそしたが朗報だった。
だが、その日に起きた出来事をエドモンドなりに要約するとこうなる。
……いつの間にか勇者になってた、ちょっと天然入った酒場の娘のルージュが、とんでもない馬鹿力で騎士を殴って……よりにもよって屋敷の壁をぶち抜いた。
と。
そう。
小領主エドモンドにとって、屋敷の壁がぶち抜かれたことに比べれば竜王の生死やルージュの勇者化など二の次。
エドモンドは自らの命と家族の次に屋敷のことをこよなく愛する、自宅大好き人間だったのである。
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「あなたってばほんといい性格してますよね。もう。いいですよ、好きなだけそこで愛しの壁ちゃんと語らっておいでなさいな」
「いつだってお前が一番だよ、エミリー」
「それ、全っ然説得力ありませんからね!」
壁を見つめたまま一瞥もくれずに愛を囁いたエドモンドだったが、それを快活に笑い飛ばせる女がエミリーであった。
実際のところ、無惨に崩れ掛かった壁を前に膝をついて涙するエドモンドの有様はひどいものだった。
残骸を片付けて涙し、応急処置で塞がれる大穴を見て涙し、執務中にふと思い出して涙する。
いざ壁の修理が始まった時には、邪魔にならない場所から大工衆の作業をじっと見守ったりもしたものだ。
一時期はそれを呆れた様子で眺めていたエミリーであったが、見事に修復されたヒビ一つない綺麗な壁を見たときの咽び泣くエドモンドの姿を見れば、色々諦めもつくというものだった。
「もうじき夕飯ですから、呼んだらちゃんと来てくださいね」
「うん、分かった。今晩はなにかな」
「そうそう! ついさっき冒険者ギルドのアルゴスさんから、鈴鳥のお裾分けがあって」
「ソテーか!」
みなまで言わせず、喜色に彩られたエドモンドがエミリーを振り向く。
自分に愛を囁いた時には一瞥もなかったのに、好物の話をした途端に壁の事を忘れるだなんて、なんて現金な夫なのであろうか。呆れたものである。
エミリーはこれ見よがしにため息をついてみせた。
「そう! 愛する妻と大切な壁よりも大好きな鈴鳥のソテーよ! 分かったら返事!」
「そ、その言い方は色々と語弊が」
「返事は!」
「はいっ!」
よろしい。と頷いて踵を返す愛する妻を、エドモンドは不動の姿勢で応接室の扉が閉まるまで見送る。
ぱたぱたと遠のいていくスリッパの音を聞きながら、エドモンドは慎重に息を吐き出した。
「……ふう、やれやれ。この町は何というか、気の強い女性が多いな」
エドモンドは額に浮かんだ汗を拭いながら、行きつけの酒場のうだつの上がらない亭主の事を思い浮かべていた。
亭主関白を気取っている癖にいざという時にヘタレる酒場の亭主と、一見優しそうに見えて肝が座りまくった酒場の女将の姿を。
「あいつもよく尻に敷かれていたしな……。そう言えば、もうすぐ三ヶ月が経つ頃か」
三ヶ月。それはエイピアの町から寄り道などせずにまっすぐ馬車で向かった場合、ちょうど王都に辿り着くくらいの時である。
とすれば、この町エイピアから王都へと旅立った彼女は、そろそろ王都に着いた頃だろうか。
……この町の出身者が王都に。そう考えると、中々感慨深いものがあるな。
エドモンドはふと脳裏に浮かんだ、酒場の亭主たちの一人娘のことを思い浮かべた。
ルージュと聞いて、エドモンドが連想するのは偉大な勇者ではなく知り合いの娘である。
なにせエドモンドは幼い頃からルージュのことを知っている。それこそ、母を真似してトコトコ酒場を歩き回っていた少女時代からだ。大きなお盆を抱えて強面の冒険者たちの間を走り回り、たまに誰かに尻を撫でられてはピーピー泣いていた時代もあった。実に懐かしい。
それが今では立派に大きくなるどころか、人界を背負って立つ勇者様である。突然選ばれたというだけでも驚きなのに、オムアン湖に陣取っていた竜王まで斬って捨てたというのだから驚きも二倍、いや三倍だ。人生何が起きるか分からないものである。
「まあ、あの二人の子だから心配はいらないだろうが、あの騎士に余計な苦労をかけていないかどうかが心配だ」
ちょっと特殊な環境で育ったせいか、ルージュは割と図太いところがある。勇者になる前から尻を撫でようとした冒険者の手をお盆で引っぱたくくらいのことは出来たのだから、繊細さとは少なくとも無縁だ。
年頃との男性との二人旅と聞けば鉄板の心配ネタがあろうものだが、ことルージュに限っては大丈夫だろうという謎の信頼がエドモンドにはあった。あの子なら野営なんかもストレスなくこなせるという不思議な確信である。恐らく彼女の両親も似たようなものだろう。これも教育の賜物と呼べるのだろうかとエドモンドは悩んだ。
少ししんみりとした気分になってしまったエドモンドは、気分を切り替えるために冷めかけた紅茶で舌を湿らせながら、再び壁へと視線を戻した。
「あのう。普通、そこは『元気にしてるかなー』とかでは?」
壁の前にルージュが立っていた。
「ぶふぅーーーーーーーーっ!?」
エドモンドは盛大にむせた。
多忙につき短めです。すまねえ! すまねえ!




