やってしまいました。
前回のあらすじ
頬をむにむにされたルージュは、起き抜け一発魔力をぶわっと。
「起きたか、ルージュ殿。着いたぞ。王都だ」
ルージュの頬からアグニが手を離し、そう話しかけたその時だ。
「えっ! 王都!!」
勇者ルージュの覚醒に合わせて、ぶわりと、とてつもない密度の魔力の奔流が勇者ルージュの体から溢れた。
その可視化された魔力は一見すると灰色に見えたが、よく見ると違う。
全てを包み込むかのような純白の魔力と、全てを塗りつぶすかのような漆黒の魔力が、絡み合い、縺れ合い、奪い合い、食い合うかのようにして混ざり合いながら一つの体を中心に循環した結果、見た目には灰色であるかのように見えているのだ。
それは女神からもたらされた勇者としての魔力と、魔王からもたらされた魔王としての魔力を一つの器に注いだ結果なのだが、その真相を知るものは少ない。そもそも魔力が可視化すること自体が、極めて稀で、異例なのだ。ましてやそれが意図して放出しているのではなく、ただ垂れ流されているだけだと知れば、世の魔法使いたちは瞬く間に昏倒するだろう。
ルージュは魔力制御が得意ではないために、逆に意識的に魔力を抑えておくことができない。放置しても魔力が枯渇することはないが、騎手であり、ルージュを抱えるアグニからすれば、視界が遮られてしまうのはよろしくない。
どうにかならないかと試行錯誤した結果、ルージュが眠るなどして心身ともにリラックスした状態になれば自然と魔力が抑えられることが分かった。
それ以来、ルージュは移動中は積極的に、「仕方なく! 仕方なくです!」などと言いながらアグニの胸に頭を預けて眠ることにしていた。だが、それが本当に仕方なくだったのかどうかは、三ヶ月間ルージュの魔力にあてられ続けたアグニの胸当てに『寝心地向上』『悪夢耐性』、『雑音排除』といった謎の効果が現れている時点で推して知るべしである。
「うおっ!」「おわあ!」
そういった事情を知らない者には、目覚めた勇者が突如力を解放したようにしか見えなかった。突如解き放たれた圧倒的な魔力の気配に、ルージュの寝顔に注目していた者たちから悲鳴の声が上がる。
特にルージュを外見で判断し、侮っていた者ほどその衝撃は大きかった。
そして誰もが理解する。
目の前の少女は、紛れもなく、勇者なのだと。
ことここに至り、「勇者!? あれが!?」というある意味至極真っ当な疑念を抱く者は誰もいなかった。抱いていた者も改めた。あれはただの能天気な小娘ではない。極めて膨大な魔力を持った、勇者として選ばれし能天気な小娘なのだ。
しかし街道上には彼らよりも過敏に、勇者ルージュの絶大な魔力に反応してしまう存在があった。
それは馬車を曳いていた馬、そして魔物たちであった。
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「くっ! ここまでか……!」
その頃、東門の街道沿いで街道護衛のクエストの従事していた新人冒険者にして見習い女戦士のアナスタシアは未だかつてない危機に晒されていた。
膝をつき、己を囲むオークたちを睨みつけるアナスタシア。その手の中に武器はない。既に敵に奪われてしまった。
全てはアナスタシアの慢心が生んだ結果だった。他の冒険者たちの制止を振り切って、手負いのオークを深追いした結果がこれだ。気がつけばアナスタシアは孤立し、いつの間にやら多勢に無勢、逆にこうして追い込まれてしまった。
これが一対一ならば、オーク如きに不覚を取らないという自信があった。しかし現実はいとも容易く予測を裏切る。狩る側から狩られる側へ。今この場で最も獲物という言葉が相応しいのは、悲しいことに、アナスタシアだった。
一縷の望みをかけて振り返るが、助けがくる気配はない。街道から遠く離れすぎてしまったのだ。そしてオークは魔物だった。ただそれだけで、アナスタシアはこの後自分を待ち受けるであろう過酷な運命を否応にも悟ってしまう。
戦士としての研鑽を積んで、いずれは聖王国を守る騎士となる。
そんな未来を夢見ていたアナスタシアにとって、これからもたらされるであろう凄惨たる尊厳の蹂躙は、決して許されず、また耐え切れるものではなかった。
「殺せ! 一思いに、私を殺してくれ!」
絶望のあまりそう叫ぶアナスタシアだったが、オークたちはアナスタシアを囲んだまま、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべるのみだ。言葉が通じているかどうかは不明だが、どうやらオークたちはアナスタシアの意を汲む気配はない。
もはやこれまで。最後に残していた自決用の短剣を腰から抜き放つアナスタシアだったが、それさえも背後のオークによって止められてしまう。
「うぐっ……!」
オークの豪腕によって捻り上げられた腕に激痛が走り、アナスタシアは最後の短剣すら取り落としてしまった。そのまま腕を引かれ、吊り上げられるアナスタシア。
自決を防ぐためだろう。頬を乱暴に掴まれ、開かされた口に野太い指をねじ込まれる。そのおぞましい感触と刺激臭に吐き気がこみ上げてくる。
アナスタシアの瞳から涙が零れ落ちる。それが痛みからくるものか、それともそう遠くない未来を悲観するあまりなのか、アナスタシア自身にももう分からなくなっていた。
既に何体かのオークは戦闘は終わったとばかりにアナスタシアに背を向けている。
連れ去られる。オークの巣へと連れていかれる。
きっと助けが来る、という淡い希望が刻一刻と削り取られていく。
やがてアナスタシアは全身の力を抜いた。腕を掴まれ、吊り上げられ、口に指をねじ込まれたまま、全ての抵抗の一切をやめた。騎士としての夢。女としての未来。人としての尊厳。様々なものが、アナスタシアの涙と共に零れていった。過酷な現実を前に、何もかもを諦めようとした。
まさにその時!
「ブモッ!?」
「ブモォー!!?」
遠い街道の方角から、オークたちの神経を逆撫でするような、おぞましくも濃密な気配が突如現れた。
突然ピタリと停止するオークたちに、アナスタシアが怪訝そうに眉をひそめる。どうしてオークたちが足を止めたのか分からなかった。この期に及んで、時間をかけて私の精神を嬲る気なのだろうかと、諦観に満ちた心で考えていた。
しかしオークたちは、アナスタシアが予想だにしない行動に出た。
「ブ、ブ、ブ、ブモーーーーー!!!」
気がつくとアナスタシアは地面へと投げ捨てられていた。
よろよろと体を起こすと、オークたちは皆、アナスタシアに背を向けてどすんどすんと一心不乱に走っていた。
……助かった……?
オークに一度捕らえられた女が、打ち捨てられ、見逃されるという信じられない事態に、アナスタシアは完全に思考停止していた。
だが、より信じられなかったのは、
「うわあーーーっ!! 退いて! 退いて退いて退いて!!」
そんなオークを追いかけるように失踪する一台の馬車の存在だった。
なんという早さだろうか! その勢いは、もはや馬車ではなく戦車か何かのようだった。
見ればオークは、あの馬車から一目散に逃げ出しているように見える。無理もない。あれほどの勢いで衝突されればオークと言えどただでは済まない。
アナスタシアの予想は目の前で現実となった。颯爽とした勢いで現れた馬車は瞬く間にオークどもに追いつき、重さと早さはつまり破壊力だと言わんばかりに刎ね飛ばした。アナスタシアに絶望を与えた恐るべき魔物たちは、痙攣を繰り返すだけの肉塊となった。
気がつけば、呆然とするアナスタシアの前へと馬車が引き返してきていた。御者台に座る行商人の青年は、アナスタシアの姿を見つけて安堵の息を吐いた。
「よ、よかった! 君は無事だったんだね! 大丈夫だった?」
青年からすれば、突如暴れ出した馬が少女を轢かずに済んでよかったと安心したのだったが、アナスタシアからすれば青年は、身を挺してオークから自身を守ろうとしてくれたようにしか見えなかった。
物語で読んで憧れた、白馬にまたがる正義の騎士。
しかしアナスタシアが夢見た騎士は、白馬ではなく馬車に乗って現れた。
助かった。私は、助かったんだ――。
そんな実感が沸きあがるのと同時に、自分の意思ではどうしようもなく胸の鼓動が激しくトゥンクするのをアナスタシアは感じた。
未来の女騎士アナスタシアと、将来の大商人ハーヴェストとの、恋の始まりだった。
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馬や魔物を恐慌させた挙句、街道に列していた馬車の多くを暴走させ、あまつさえ本人のまったく与り知らぬところで一つの恋が生まれてしまった原因は、言わずもがなルージュの魔力だった。
具体的には灰色の魔力の黒い部分、魔王ルージュとしての魔力にあった。魔王バロールの話によれば、歴代魔王が継承し続けてきた漆黒の魔力には恨みや怒りなどの負の感情が凝縮され、色づいているという。
その気配は女神に与えられた純白の魔力と混ざり合っても抑えきれるものではない。そのため、ある程度の知能があって気配に敏感な一部の動物や魔物は、ルージュが魔力を垂れ流して近づくだけで逃げ出してしまうのだった。
こんな体質であるために、ルージュは基本的に馬車などの乗り物に乗るどころか近づくことさえできない。
例外として、例えばアグニが持つ『騎乗』スキルなどによって馬の精神が強く保たれている場合などはその限りではない。もしアグニがルージュの元へと送られてこなければ、ルージュは徒歩によって王都ディアカレスを目指さなくてはならなかっただろう。
言うまでもないが、いきなり解放されてしまった魔力の影響の多くは破壊的な結果を生んでいた。むしろ女戦士が助かったり、恋が生まれたりするのがおかしかった。ルージュが知れば「どうしてこうなった」と頭を抱えていただろうが、いまルージュの眼前で繰り広げられている光景は、甘く切ない恋の始まりなどではなく、勢い込んで東門から離れようとする馬車同士による玉突き衝突事故の嵐であった。
破壊されて横倒しになる馬車多数。深刻な被害を受けた行商人たちの阿鼻叫喚。唖然とする兵士たちの前でルージュは思った。
「やっちゃった」
アグニは「またか」とばかりにため息をついた。慣れたものだった。
その後すぐに魔力は収まり、ルージュは人前で更にだらしない姿を晒すハメになった。まさに悲劇であった。
こうしてルージュたちは、長い旅路の果てに王都へと辿り着いたのであった。




