決して、後悔だけはしないように。
前回のあらすじ
危ない! 目の前に暴走した森牛が!
視界いっぱいに広がる森牛の苔色の背中。
まるで走馬灯みたいに、時の流れがゆっくりに感じる。
音を置き去りにするほどの早さで森を駆け抜ける森牛の突進は、レガートさんがただではすまないと言うだけはあるほどの迫力で。
その勢いのまま吹き飛んで迫る森牛の体は、レガートさんの巨体よりも更に一回りも二回りも大きい。
まるで永遠に感じるほどの、瞬きをする暇もないほどに引き延ばされた時間の中で、女神と魔王は言いました。
『殴るのです、ルージュ。今ならたったそれだけで、村人たちの人心は掌握できるでしょう。今のあなたにはそれが可能です』
『食い殺すか、ルージュ? おまえのその綺麗な手を、うす汚い血で汚したくはあるまい? 何、我にとっては容易いことだ』
『『どうしますか(どうする)、ルージュ。今すぐ選びなさい(選べ)』』
無音の世界に響いた二つの声は、私がいま、この瞬間を生き残ることについてこれっぽっちも疑ってはいなくて。
私にはもはや命の危険はなく、代わりに提示されたのは、ほんの少しの打算と優しさに彩られた二つの選択肢。
殺すか。
殺させるか。
人界の守護者、女神の言葉か。
魔界の支配者、魔王の言葉か。
その二人のその問いに答えないなんて選択肢は、はじめっから存在しなくて。
刹那の永遠の中、唐突に、今すぐ、瞬時に、考える時間もないまま答えを迫られたその問いに、
(もしお前がこれから先を生きていく途中、何か大きな選択を迫られた時、それがどんなに判断を急かされたとしても――)
私は、
(迷え。即決するな。どんな些細なことでもいい、情報を集めろ。そして考えろ)
私の答えは、
(そうすりゃあ、お前がどんなに悪い選択をしたとしても――)
それでも私が考え抜いて、まず最初に思ったことは、
(決して間違えて後悔することだけはねえ)
もう絶対、後悔だけはしたくない。
@
受け止める。
受け止める。
女神の言う通りに殴るのではなく、魔王をけしかけるのでもなく、私自身がそうしたいから、殺してしまわないように受け止める。
瞼の雫が散るよりも早く、迷って悩んで考え抜いて、そうと決めた私の祈りに、私の両腕は応えました。
静止したような時間の中で、私の両手は焦れったくなるほどゆっくり動き、しかしその手が巨大な森牛の体を確かに挟み取った次の瞬間。
緩やかだった時の流れはあっという間に加速して、膝立ちだった私のつま先は加重で一瞬のうちに地面に埋まりました。
「――――――――っ!!」
凄まじい衝撃。
声なき声。私の祈り。
それは今にも吹き飛ばされてしまいそうな衝撃の中、私の手のひらに伝わる感触への祈り。
潰れるような、ひしゃげるような、森牛という命が奏でる、悲しい手応えへの祈り。
体を走る暴力的な衝撃を、膨大な魔力が受け流していくのが分かる。かすり傷一つ負うどころか、まるで千人の人に支えられてるみたいに、私の膝がこれ以上折れ曲がることすらない。
女神と魔王によって与えられた、白色と黒色の魔力の恩恵。
自分は決して傷つかない代わりに、簡単に誰かを傷つけてしまう力。
どうやったって私は、私だけは無傷なのに、傷つけたくないものをそっと受け止めることすらできない。
私は勇者で魔王なのに、世界で一番強いんだって女神も魔王もそう言ってるのに、力の加減一つできない自分があまりにも情けなくって、いてもたってもいられない!
情けない! 最強ってなに!?
私の半分が勇者なら、半分くらい助けさせてよ!
泣き出したくなるような私の祈りに、私の魔力が、女神が応えました。
体を流れて溢れる魔力が、キュキュッと吸われる懐かしい感覚。不器用すぎる私の代わりに行われる、女神による魔力の行使。
治癒の魔法が森牛を包む。
抱きとめた森牛の体が、傷つく側から癒されていく。肌で感じる。鼓動も、命も、まだ失われてはいない。
目を見張った。
私はついさっき、女神の提案を蹴ったばかりだ。
殴れと言われて抱き留めて、勝手に泣いてる愚かな私を、女神は見捨てるどころか見守り続けてくれている。
私の選択を尊重し、あまつさえ助けてくれる。
それがあまりにも嬉しくて、有り難くって。
万感の思いで瞼を閉じて、溢れた雫が弾ける頃には、私に抱えられた森牛からは、全ての傷と勢いが失われていました。
「ありえない……。あの森牛の突進を、無傷で受け止めるだなどと」
シンと静まった森の中で、誰かがぽつりと言いました。
私の胸を占めた言葉はただ一つ――間に合った。
悩むことも、選ぶことも、助けることも、助けられることも。
全部ぜんぶ諦めないで、それでも私は、間に合った。
長い長い息と一緒に、全身の力が抜けそうでした。
「……! ……!!」
「あわあっと」
森牛を抱えたまま、ほーっと息をついて脱力してると、やがて森牛が暴れ出しました。そりゃそうだ。森牛の頭は地面すれすれ、いくら持ち上げられてるとはいえ、ちょっと怖い体勢です。
私は森牛を抱えたまま、大地に埋まったつま先を引き抜き、ゆっくりゆっくり立ち上がりました。森牛の頭をこすらないよう、大切に抱えながらゆっくりとです。それだけで村人の何人かが泡を食ったようになりましたが、正直構ってられません。
叩き付けたり、押さえつけたりすることにならないよう、細心の注意を払って森牛を下ろします。
「ごめんね」
私が言うと、森牛は一瞬だけ私に顔を向けました。でも、そんな気がしただけかもしれません。私が瞬きをする前に、森牛はあっという間に森の向こうへ消えてしまいましたから。
あとには控えめな土煙と、草木や大地のざわめきが残されました。
『女神さま、ありがとうございます』
『必要ありませんよ、ルージュ』
『我らはおまえの選択を尊重する。これはただそれだけのことだ』
『フッ。何もせず見ていた駄犬の分際で偉そうに』
『なんだと脳筋女狐が!』
女神はこう言っていますけど、魔王の言葉も嘘ではないでしょう。適材適所。今回は、たまたま女神が助けてくれた。きっとこれは、ただそれだけのことなのです。
『はい。二人とも、ありがとうございます』
私は改めて女神に魔王にお礼を言うと、覚悟を決めて、振り返りました。
そこにはまだ、瀕死の森牛が倒れていました。
私の目の前を横切って、迷う暇も、何かする暇も与えられなかった尽きかけの命。
私は再び跪いて、瀕死の森牛に手を伸ばしました。
多くの血液を失いつつも、その仔はまだ暖かかった。
その仔はまだ生きたがっていました。
それでも私は、例え傲慢だったとしても。
「……ごめんなさい」
自分でもまだ整理のつかない、色々なことに謝って、私がそれをしようとしたとき。
「ルージュ殿」
いつの間にか私の隣に、誰よりも近いところに、私の騎士は立っていました。
「いいんだ。オレがやる」
あっ。それ、ずるい。
ずるいなあ。
アグニはホントに、たまに、こういうところがある。
普段はちょっと天然なのに、どちらかというと鈍感なのに、いつの間にか私の心のすぐ傍に立ってくれてることがある。
何もかも知ったような顔して、私を見ていることがある。
私の何を知ってるんだって思う。私の中に魔王もいるんだって、そんなことも知らないくせに。
私より、ずっとずっと弱いくせに。
私がホントに頼りたい時、こうして頼らせてくれることがある。
そういう時、私はいつも断れない。
だってそれはいつかの街道で、私自身がお願いしたことだから。
だからずるい。ホントにずるい。
今のアグニの前では、私は勇者でも、魔王でもいられない。
ただの町娘に戻ってしまう。
迷えない。頼ってしまう。
こんな私を頼ってくれる、こんな私に頼らせてくれる、今は私だけを見てくれている、優しい優しい騎士さまに。
「おねがいします」
「ああ! 背中を頼む」
私の震えを打ち消すように、アグニの声は力強く響きました。そして一歩、前に出る。私の隣から、私の前へ。
信じられないくらい大きな背中が見える。
頼り、頼られる。それが私たちの関係。
言われるまでもありません。従者の背中を守るのは、いつだって勇者の役目です。今のアグニの邪魔をするならば、例え相手が勇者や魔王だって問答無用の全力パンチです。森牛だったら……また、ちょっと迷うけど。
少しだけ滲んだ視界に映る、アグニの横顔を見て頷いて。
それから私は、私の代わりにアグニが森牛の首を落とすところを、目を逸らさずに見届けました。
気がつくと、空へと昇る黒煙はとっくの昔に消えていて、まるで最初から何事もなかったかのように、森は平穏を取り戻していました。
それから私たちが立ち去るまで、『第46区画』から新たな森牛が現れることはありませんでした。
@
「後味、最悪です」
軽快に駆けるデルタの上で、目の下にできた隈を撫でながら、私はぽつりと言いました。
時刻は昼過ぎ。あの後レガートさんたちは二人で一頭の森牛を引きずり、馬車の元へと引き返していきました。
負傷者ゼロ。収穫は十頭。それはマツコベ村の人たちにとっては充分な戦果だったようで、皆一様にほくほくとした笑顔を浮かべていました。
ただ一人、浮かない顔をしていたのはレガートさんでした。レガートさんはすっかりテンションの下がってしまった私たちを見て、こう言いました。
「いったいどうされたのですか、勇者様? わたくしどもは、何か無礼を働いたでしょうか?」
本当に不思議そうに、不安そうにしているレガートさんを見て、私とアグニは言いました。
「「いいえ(いや)、何も」」
「そうですか! それでその、森牛狩りは、いかがでしたか?」
「「それなりに」」
「……そ、そうですか」
それから私たちは森牛満載で速度を落とすレガートさんたちの馬車を置き去りにして、一足早くマツコベ村へと帰還している真っ最中。一本道なんですから、もう道くらい分かります。
レガートさんには止められましたが、ちょっと気が滅入りすぎてて、早駆けでもしないとやってられない気分なのです!
「もしかして狩りってああいうのが普通なんでしょうか。私ぜんぜん知りませんでした。もっと楽しいものだと思ってました。貴族さまがたって趣味悪いんですね!」
「いや。あれは貴族視点でも相当趣味が悪いと思うぞルージュ殿。オレも未だ胃の辺りがムカムカしている」
『アレがニンゲン基準の狩りだとしたら、ニンゲンどもを滅ぼす理由がまた一つ増えるところだ』
流石に滅ぼす云々は言い過ぎですけど、ほんのちょっぴり魔王に同調する自分もいます。なんというか、あれはダメです。生理的に受け付けないというか。
「あんなに美味しかった森牛が、あんな風に穫られてるなんてちょっとショックでした。っていうか、森を燃やすってひどくないですか!」
「確かに管理はされていた。着火も消火もスムーズだった。条件さえきちんと整えれば、確かに森林火災にまで及ぶリスクは減るだろう。だが、それでもオレには認められん! その地で生きる罪なき生き物を追い立てるなど、魔族のやっていることと変わらないではないか!」
食べるために狩りをする。生きるために命を奪う。そのことまでは否定しません。
だけど私は、『どうやって』という辺りに気を配れるのが、魔物や動物たちにはない、人間のいいところだとも思うのです。
何故なら私たちは、『何を』だけではなく、『どうやって』それをしたかでさえ、後悔してしまう生き物だから。
『そういえばルージュよ。おまえはどうして、両方救わなかったのだ?』
『え?』
『森牛だ。女狐に頼みかけていただろう。それを何故、見捨てるどころか、わざわざトドメを刺そうとしたのだ?』
トドメって。言い方悪いなあ。
『あれは、なんていうか。うまく説明できないんですけど……。その、罰、というか』
『罰? あの牛のか?』
『違いますよ。その、私への罰です。私への罰で森牛を見捨てるって、ちょっと自分で言ってて意味分かんないんですけど』
ぐるぐるとしそうになる頭で、私は頑張って答えました。
『森牛狩りがどんなものかも知らないで、何も考えず、何も悩まず、何も知ろうとしないまま、即断即決してしまった私への罰です。戒め……のつもりだったのかもしれません。私は、きっと後悔したかったんだと思います。たぶん』
『……で? 二頭目は?』
『狩りはもう終わりって聞いたとき、思ったんです。もうこんな風にして死んでほしくないなって。だって狩りは終わったんですもの。一頭目を助けたらレガートさんたちが困るけど、二頭目はそうじゃなかった。女神さまとバロールに殺してしまえって言われても、私は死んでほしくないなって思ったんです。だって死なせたら、きっと私は後悔すると思ったから』
『はぁ? おまえ、後悔したかったのか、したくなかったのか、どっちなんだ?』
『どっちかって言われると、後悔なんてしたくないんですけどね。ホントは。でも』
私はぐでっとアグニにもたれて、突き抜けるような青空を見上げながら言いました。
『私ってきっと、後悔の一つや二つもしないと、成長しないんだなぁって思うんですよ』
『……我にはおまえの言っていることが、さっぱり分からんぞ』
『ですよねえ。私もさっぱり分かんないです』
『おまえはニンゲンだろう』
『こればっかりは、人間にもさっぱりなものなんですよ』
『そういうものか』
『そういうものです』
あーあ。今日はホントにいい天気。
@
マツコベ村に戻った頃には、時刻はもうお昼過ぎ。
戻って早々、私はアグニとマツコベ村の出立について相談をして、結局明日の朝に村を出ることに決めた私たちは、かなり遅れて戻ってきたレガートさんたちにそう伝えました。
「そうですか。それは、寂しくなりますなあ」
レガートさんはかなり引き止めたそうにこちらを見ましたが、私はきっぱり頭を下げて、コテージに戻って不貞寝しました。
夜にはレガートさんたちが、また豪勢な宴会を開こうとしてくれましたが、私はそっと辞退しました。
「流石にあの狩りを見た直後で、森牛を食べようという気はしないな」
「ですね」
私とアグニはそう言って苦々しく笑い合いましたが、ぐうとお腹が同時になって、色々台無しになりました。憎々しいほど体は素直でした。
宴会は辞退したけど、私とアグニとそれから魔王は、分不相応に巨大なコテージの一室でひっそり森牛を食べました。
どんなに複雑な思いでも、やっぱりそれは悔しいくらいに美味しくて、私とアグニは控えめにおかわりをして、それから仲良く不貞寝をしました。
ままならない。そう思いながら。
翌朝の日の出前。
空は明るみ始めたけれど、太陽は山の向こうに隠れて見えない、そんな暁の頃。
並んで寝ていた私とアグニは、遠慮の欠片もない騒々しいノックの音で飛び起きました。
「勇者様! 勇者様! お願いします! 起きてください!」
寝ぼけ眼を擦りながら扉を開けた私たちに、レガートさんは唾を飛ばしながら言いました。
そして一気に目が覚めました。唾ではなく、言葉によって。
「ま、魔物化です! 森牛が、魔物化しました! 暴走です! 数百頭の森牛たちが森を出て、まっすぐ、まっすぐこの村に迫っているんです!!
お願いします! 助けてください! 勇者様! お願いします!」
ちょっと短いですが、キリのいいところまで。
次回、ルージュと魔王が頑張ります。