魔王を泣かせてしまいました。
前回のあらすじ
女神と魔王に迫られたので、とりあえず勇者と魔王、どちらになりたいのかを答えることになりました。
そして私は言いました。
「私は」
女神と魔王がゴクリと唾を飲みました。
瞬間。
フッと女神の光が消えて、一瞬部屋が真っ暗になりました。
かと思うと次の瞬間、どういう仕組みか、私の頭上からスポットライトが降り注ぎ、おなかの底から沸き起こるようなドラムロールが聞こえてきました。仕組みも何もありませんでした。言うまでもなく女神の仕業でした。なかなかにくい演出といえました。
じっと女神を見つめると、緊迫の表情で祈るように手を組んでおりますが、その割には余裕のある所業でした。私、だんだんと女神のことが分かってきた気がします。
ところで唯一神たる女神でも、何かに祈ったりするのでしょうか。機会があれば、今度聞いてみたいと思います。
さて。
さっさと答えてしまってもいいのですが、せっかくですので、溜めることにしました。
せっかくの女神の心遣いです。
それに多少空気を読んでみせるのも、数多の冒険者を相手に歌姫の真似事をするうえでの、言わば必須スキルです。
「私は」
迷うそぶりをしてみます。
「私は」
女神と魔王を交互に見ます。
「私はぁっ」
情感を込めます。
「いいから言え」
「はい」
魔王が痺れを切らしましたので、普通に言いました。
「普通に勇者やります」
その瞬間、女神に新たなスポットライトが降りました。自分で自分にやっているのだと思うと、なかなか冷める光景でした。
しかし私たちのそんな思いとは裏腹に、女神はぱんぱかぱーんと喜びました。
「ルージュよ。素晴らしい決断です! 魔王の誘惑に耐え、よくぞ決意しました! 人類史に残る英断と言えるでしょう!」
イエス、イエスッと握りこぶしを振り回すさまは、まさしく女神でした。
そんな女神に対して、魔王は意外にも落ち着き払っていました。
「おまえがそう言うだろうことは、予想出来ていた」
憎憎しげに女神を見据えつつも、魔王が言いました。
その様子からは、少しの動揺も感じさせません。完璧に感情を抑えているのか、または、本当に私が勇者を選ぶことを予想していたのでしょう。流石は魔王でした。
「なぜならここは人界で、お前がニンゲンだからな。何の情報もなしに魔王の道は選ぶまい。だが聞くがよい。そして知るがよい。おまえが信じる人界とニンゲンの道理と真実は、片側の世界からの見方に過ぎないということを」
まるで、ここからが本番だ、とばかりに魔王は言いました。
ですが、魔王は一つ勘違いをしています。
「そういう訳なので、今日はもう寝ましょう。女神さま、光を落としてください」
「そうですね。明日は早いのですから。ルージュ、おやすみなさい」
私の眠気は既に限界だったのです。
フッと部屋の明かりが消えました。閉じた窓から僅かに漏れる月明かりだけが、部屋の中をほんのりと照らしていました。
同時に女神の心象音楽と思しきファンファーレの響きも消えて、夜の静寂があたりを包みました。
暗闇の中、私はいそいそとベッドに潜りました。
そしてこれからの生活に思いを馳せました。
私が勇者。勇者かあ。昨日まで、考えもしなかった。凄いなあ。まるで御伽噺みたい。
偉い人とかにもいっぱい会うんだろうなあ。領主さまとか、王さまとか。
王さまかあ。王さまって、どんな人なんだろう。
やっぱり威厳のある強気な攻めかなあ。それとも、実は意外な受けかなあ。
まだ見ぬ王さまの性癖に胸を膨らませながら、私の意識はまどろみの中に溶けていきました。
「待ってよ」
誰かが言いました。
続けて、ゆさゆさとベッドが揺さぶられる感触があって、私はそれで目を覚ましました。
「聞いてよ」
魔王の声でした。
暗闇のせいで姿は見えませんが、聞こえる声からは胸に迫るような悲しみが溢れていました。すすり泣き一歩手前といった様子でした。
暫く無視していたのですが、魔王は諦めませんでした。
「起きてよ」
縋るような声でした。
女神も気付いているはずでしたが、一向に光を灯す気配はありません。清々しいまでのガン無視でした。清々しさにかけては右に出るものがいない辺り、流石は女神といえました。
仕方がないので、私は身を起こしてランプに火をつけました。このままでは、とても寝付けそうにありませんでしたから。
ぼんやりと見渡すと、薄闇の中で魔王が器用に後ろ足だけで立ち上がり、前足でベッドを揺さぶっていました。
きしきし、ぎしぎし。
そんな、あらぬ誤解を立てそうな音でした。
寝ぼけ眼をこする私に、潤いを増した瞳を向けて、魔王は言いました。
「どうして? どうして我の話を聞いてくれないの?」
声はそのままなのに、そこにはダンディズムの欠片もありはしませんでした。
捨てられた魔王のような魔王がそこにいました。
なかなか胸に来るものがありました。
なので私は、優しく、子どもをあやすような声を心がけて答えました。
「色々あって疲れて、いまとても眠いからです」
本音でした。
「それに、魔界って言われてもよく知らないし」
これも本音でした。
「魔王さまのお言葉ってちょっと難しくて、私、よく分かりませんでしたので……。たぶん、聞くだけ時間のムダかと」
トドメの本音でした。
何一つ、嘘も誇張もありませんでした。
それを悟ったのでしょう。賢い魔王は石のように固まったかと思えば、ふるふると震え始めました。
同時に力強かった揺さぶりも収まり、部屋には静寂と、平らなベッドが戻ってきました。
私は満足して、ランプの灯かりを消して、言いました。
「それでは、おやすみなさい」
そうしてベッドに潜り込んだ時でした。
「ちょっと待ってよ!!」
ついに魔王がキレました。
「静まりなさい魔王よ。近所迷惑ですよ」
これほどまでに説得力がない戒めの言葉を聞いたのは初めてでした。
当然ながら魔王はへこたれませんでした。
それどころか益々勢いを増し、声を荒げ、ドス黒い魔力を撒き散らしながら駄々を捏ねました。
「よく知らないって、なに!? 眠たいからって、なに!? そんな理由で、魔界は滅びるの!? 許容できない! もっとこう、我の言い分も聞いた上で、真に客観的な事実と真実に基づく判断を」
「重いです」
私の呟きは聖剣並みの切れ味を持って魔王を両断しました。
ですが、ここで手を抜いてはいけません。
私はこれから言う言葉のために、姿勢を正して、魔王がいるであろう方向を向きました。
女神が空気を読んでほんのり光ってくれたので、魔王の姿がよく見えました。魔王はあんぐりと顎を落として驚いていて、いったい私が何を言っているのか分からない、分かりたくもない、そんな風でした。
ひと呼吸して、続けて言いました。
「それです。世界が滅ぶのもそうですが、正義とか真実とか、そういうのがぶっちゃけ重いです。
私、ただの町娘ですよ? 学も教養もないです。読めない文字だっていっぱいあります。
そんな私が頭を使って救う世界を選ぶとか、おこがましいにも程があると思います。
なので、私がとりあえず救いたいのはこの町、エイピアです。
それ以外の場所には行ったことがありませんし、よく知らないのでついでに救われていただくとして、すみませんが、魔界は滅びてください」
しっかり言い切って、頭を下げる私を、魔王は呆然と見ていました。
私が頭を上げた後も、そうしていました。
私も目を逸らしませんでした。
女神ですら、痛ましいものを見るかのような眼差しで、魔王を見つめていました。
誰もが言葉を発さないまま、ずっと、ずっとそうしていました。
やがて、ぽつりと魔王が言いました
「ずるい」
魔王はいやいやと力なく首を振りました。
「ルージュがニンゲンに生まれたから、魔界をよく知らないから滅ぼすなんて……人界が救われるなんて、ずるい」
夜の闇に押し潰されてしまいそうな、でも声だけはダンディな、小さな小さな子犬の魔王がそこにいました。
「ずるいし、ひどい。そんな理由で、そんな理由で滅びるんじゃあ、今まで魔界のために死んでいった魔族たちが、あまりにも、報われない……あんまりだ……そんなのは、あんまりだ……」
ぽろぽろと涙を流す子犬の姿は、胸に迫るものがありました。
それでも、私は目を逸らすことができませんでした。
魔王は小さくなって震えて、絶望にまみれていました。
それでも、それでも伝えることを諦めてはいませんでした。
「魔族たちは、今だって生きているんだ。今は辛い生活を続けていても、いつか我らが、魔王が救ってくれるって、そう言って耐えて生きているんだ。
それなのに、ただ知られていないから、滅びるだなんて。
誰が住んでるかも、どんな景色があるかも、ただ知られていないから、滅びろだなんて。
だから、し、死んでくれなんて。
そんなこと、あいつらに言える訳ないじゃないかぁ……!」
決壊。
そんな言葉が相応しい、そういう涙を滂沱として流しながら、魔王は崩れ落ちました。
強靭で、恐ろしくて、人間の命なんて露ほども慮らない魔王。
私の中に漠然と、それでいて確固として存在していた魔王の魔王たるイメージは、恥も醜聞もない、なりふり構わない涙を見た時に、木っ端微塵に打ち砕かれました。
かつて、こういう泣き方をした冒険者がいました。
その人はお店の常連で、いつもは笑うか怒るかしかしたことのない、いつだって底抜けに明るい、そういう男の人でした。
そんな彼が泣いたのを初めて見たのは、大切にしていた妹の結婚が決まった日でした。
多くの酒と仲間に囲まれて、彼は泣いていました。
ちょうど、こんな風に。
男泣きと言葉があるのを、その日初めて知りました。
そして今、よく見知った常連の冒険者と、目の前で泣き崩れる魔王の姿が重なったとき、私にはもう、目の前の魔王をよく知らないものとして見ることが出来なくなっていました。
気がつけば、私は魔王を抱き上げていました。
ひぐひぐと泣き続ける魔王の背を撫でながら、私は問いました。
偉大で強大であるはずの魔王にこんな涙を流させてしまった私は、問わねばならないという使命感さえ感じていました。
「もし私が知ったとしたら、魔族は許してくれると思いますか?」
「無理だよ……無理だ……ひぐ。でも、それでも、知ってほしい。知らないよりも、ずっと、ずっといい」
「その結果、私が考えを変えなかったとしても?」
「それでも! それでも、知ってほしい!」
そしてまた堰を切ったようにおんおんと泣き始める魔王を、私はただじっと抱きしめて待ちました。
ここぞとばかりに思う存分撫で回しながら待ちました。
背を撫で、首を撫で、尻尾を撫でて待ちました。
後ろのほうで女神が「ちょっと」だの「待って」だの「私も」だのと言っていますが、私は努めて無視して待ちました。
どれくらいそうしていたでしょうか。
軽く一年分くらいは動物をもふり倒した、そんな実感が沸きあがってきた頃、気付けば魔王はすっかり落ち着いていました。
私は一つ咳払いをして、魔王を抱え直しました。
私の視線と同じ高さに抱えられた魔王は、なんとも言えない表情をしていました。
人間の私に抱きかかえられて、無様に号泣した自分を恥じているのでしょうか。
人間の私に絶望を叩きつけられて、それでもなお自分に構う私に不安を覚えているのでしょうか。
人間の私に死を宣告された魔族を思い、嘆き悲しんでいるのでしょうか。
そのどれもが見当違いであることを、私は伝えました。
「私、いま選ぶのは止めようと思います」
「ルージュ!?」
「女神さまも聞いてください」
焦ったような女神と呆然とする魔王を、同じように見つめて言いました。
「魔王さまの言うとおり、私は魔界も魔族も知りません。さっきは軽い気持ちで勇者を選びましたが、私もやっぱり人間ですし、今のところ魔王になる気もありません。
ですがたった今、私は魔王さまを知りました。私の見聞きした魔王さまとは、全然違う魔王さまを知りました。
女神さまも、私の思っていた女神さまとは全然違いましたし、そう考えると、私って人界も魔界も全然知らないんだなって思いました。
なので、ちょっと心変わりしました。私、きちんと勇者になる前に、ひとつ魔界を見てみたいです」
「いけません。ルージュ、それはとても危険な考えです! 今すぐ改めるのです!」
「おお……おお……!」
女神と魔王がそれぞれ別の意味でぷるぷるし始めました。
「もちろん、人界だってちゃんと見てみたいです。さっきも言いましたけど、私、エイピアの外に出たことがなくて。人界も魔界も、人も魔族も全部見て、それから決めたいです」
「しかし、ルージュ! そうしている間にも、人類は魔物たちの脅威に晒され続けています!」
「えっと、勇者か魔王かは決めないけれど、魔物退治はするって事じゃダメですか? だって、人界にとっても魔界にとっても魔物は害悪、そうでしょ?」
「しかし魔族との争いは今も!」
「誰がゲートを開くんですか?」
「うっ」
女神と魔王の言葉が正しければ、いま現在ゲートを開くことができるのは、私しかいません。
つまり、私さえゲートを開かなければ、人界と魔界の激突は起きない。そういうことになります。
あれ? もうずっと開けなければいいんじゃないかと思えてきました。
まぁ、魔王としてはそうもいかないのでしょうけれど。
言葉に詰まった女神を尻目に、魔王が言いました。
「ルージュ……いま言ったことは、本当か? 本当に、魔界を見て、魔族を見て、考え直してくれるのか?」
「考え直すかどうかはまだ分かりません。それに私、やっぱり勇者を選ぶと思います」
「ふはっ……正直だな、おまえは。は、ははは」
魔王は暫く泣きながら笑っていました。器用だな、と思いましたが、最後はやっぱり泣いていました。
「ありがとう……」
そういって、魔王は夜の闇に溶けるように姿を消しました。
そういえば、魔王バロールは既に死んでいるのでした。さっきの子犬の姿は、もしかすると、魔王の魔力で作った分身みたいなものだったのでしょうか。
そう考えてみると、あの弱く儚げで愛らしい子犬の姿は、私の関心を誘うための仮の姿だったのかもしれません。
しかし、もしそうだったとしても、消える前の最後の言葉はきっと嘘ではないでしょう。
魔王が消えた後の虚空を、恨めしげに眺める人影がありました。勿論、女神でした。
「ルージュよ。わたくしは納得していませんよ。魔王の甘言に惑わされ、あろうことか魔界観光だなどと」
「観光。そう言われてみると、そうですね」
魔界観光。
世界広しと言えど、魔界を観光しようと思った人間など、もしかしたら私が始めてなのかもしれません。
そう考えると、我ながら突拍子もない提案をしたものだと思います。
「ですが、私は決めました。暫く勇者は保留でお願いします」
「はぁ……。まったく。分かりました。一刻も早く、勇者としての自覚と責務に目覚めることを祈ります」
「気になってたんですが、女神さまはいったい誰に祈るんですか?」
「わたくしを常に見つめる内なる神にです」
「そういうものですか」
「そういうものですね」
私たちで言うところの、「悪いことをするとトーラさまが見てるよ」みたいなものでしょうか。
「それでは女神さま。消灯お願いします」
「まったく、わたくしを照明器具代わりにしようとした勇者はあなたが初めてです」
そう言って、女神さまは姿を消しました。
今度こそ夜の帳が降り、私は一人ベッドの中でこれからのことを考えました。
まずは、エイピアの町を出よう。
そして南を目指して、ゴードグレイス聖王国を出て隣国のハルグリア帝国へ。
それから更に南下して、ハルグリア帝国南部にあるレオイロス大平原を目指そう。
レオイロス大平原を目指す理由は、そこが魔界とのゲートを開くことのできる唯一の大地だからです。
もっとも異世界との壁が薄い土地だからとかで、歴代の勇者さまは常にレオイロス大平原から魔界へと赴き、また、レオイロス大平原で魔王の軍勢を迎え撃つのです。
ハルグリア帝国が人界の最前線と言われている由縁です。
旅の間、私が女神の加護を受けた勇者であることを告げるべきでしょうか。
いえ、止めたほうがいいでしょう。
もしかしたら将来、勇者ではなく魔王を名乗ることがあるかもしれません。
それに勇者であると触れ回ったが最後、きっと私は人界に拘束されて、魔界観光どころではなくなる気がします。
幸い、いまが深夜だということを鑑みてか、女神さまが勇者を選別したことを告げる「お告げ」の声も響いていません。
私が選ばれたどころか、勇者が選別されたという事実もバレていないと考えていいでしょう。
暫くの間は身分を隠す。
魔界観光するために南を目指す。
方針を固めた私は、見慣れた天井を見上げながら、最後の考え事に手を伸ばしました。
あとは、どうやって家を出よう。
私を生んで、そして育ててくれた二人の両親。
大好きなお父さんとお母さん。
幼馴染のコロン。
『炎の燕亭』の常連の冒険者たち。
正直に言えば。
私はエイピアを離れたくはありませんでした。
私は目端に浮かぶ雫をそのままに、何度も何度も鼻をすすりながら、やがて眠りにつきました。
女神と魔王は、一度も声を発しませんでした。