女神は見た! 湯煙温泉街殺人事件 その3
前回のあらすじ
温泉でやってしまいました。
※注意
このエピソードには一部、BLを含むけっこうキツイ性的な表現や、どうしようもない変態が含まれております。
もし苦手な方は、恐れ入りますが第24部「マツコベ村に行きました。」までスキップしてください。
温泉宿オールドウッドはちょっとした坂を上った所に建っていて、これがつまりどういうことかと言いますと、玄関口を出た先の坂の上はホワイトタブの町並みが一望できる絶好の夜景スポットでした。
「主人の祖父は、この夜景を楽しんでいただくためだけに、こんな辺鄙な所に宿を構えたのだそうです」
私の隣で、ツーマさんがそんな事を言いました。
私はツーマさんに向き直る事もせず、ただ何度も何度も力強く頷きながら、両目を精一杯に見開いて目の前に広がる景色に没頭していました。
私は今までずっと、ホワイトタブとは温泉の町だと思っていました。
湯の滝や、町中を流れる湯の道の景観を楽しむ町だと思っていました。
他ではあまり食べられない、ちょっと珍しい食べ物が食べられる町だと思っていました。
どの冒険者さんも、ホワイトタブの高所から望む夜景の話なんて、私にしてはくれませんでした。
いや。
あの荒っぽい冒険者さんたちのことです。もしかしたら、誰も気がつかなかっただけなのかもしれません。
こんなにも綺麗な景色なのに。
澄み切った空気の下、満天の星空と対を為すようにして広がる地上の星々。
それは麓に広がるホワイトタブの灯りであり、遥か彼方に広がる町の、村の、旅人たちの篝火の灯り。
煌煌と輝く星空から降り注ぐ光と地上に点在するあたたかな光は、真夜中だというのにこんなにも明るく世界を照らしていました。
地上の灯りの一つひとつは、そこで誰かが生きているという証。
見渡す限りに広がる限りない世界のどこでだって、人々が生きているという証。
私がちょうど求めていた、人々の気配そのものでした。
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大浴場へと向かうアグニを見送った私は暫く一人で部屋に籠っていました。
その頃、私はひとり脳内大反省会の真っ最中でした。
穴があったら掘ってる所を見つめたいくらいの心境でした。
未だに顔から熱が取れません。
なにせあれからというもの、魔王が一言たりとも口をきいてくれないのです。
何か話しかけても、念話ですらもウンともスンともワンとも言わないのです。
その意図する所はあまりにも明白でした。
どう考えても魔王に気を遣われていました。
あの大浴場で起こった事について、何も見てないし聞いてないし触れない。私がうっかり新しい扉を開いてしまったばっかりに、魔王は無用な気遣いを強いられていました。
魔王にアレなところを見られて気を遣われる勇者候補ってどうなんでしょうか。
そんな自分が情けないったら恥ずかしいったらありませんでした。
でも、いくら反省しても、ゴロゴロとのたうち回っても、大声を出そうとしても(近所迷惑になるのでやめました)、壁に頭を打ち付けようとしても(確実に宿が破壊されそうなのでやめました)、私の心の奥から鳴り響くノック音はちっともやまないのです!
こんな事は、大酒を飲んで抱き合って眠る冒険者さん達の絡みを見て初めて「あっ、男性同士ってイイな」と思ったあの日以来でした。
由々しき事態でした。
なぜなら私たちのような特殊な趣味を持つ人たちにとって、人様にご迷惑をおかけしないというのは最低限かつ暗黙のルールです。
ですがたぶん、これは突き詰めたらダメなやつでしょう。
なにせ今でもたった一人で部屋にいると、なんか、こう。
今は一人きりだけど、いつアグニが戻ってくるか分からない。けれど、必ず戻ってくる。
そういう、ついさっきまで大浴場で体験したあの興奮が脳内でリフレインしてくるのです!
いかに世間知らずな町娘と言えど、流石にこれはダメなやつだということは分かります。酒盛りのたびに服を脱ぎ散らかして衛兵に連れていかれるバルドさんを何度見てきたと思っているんですか。
勇者や魔王なら捕まっても大丈夫じゃん? とか、そもそも捕まらないじゃん? とか、その手の悪魔の囁きが入り込む余地すらありません。
なぜなら私の体を包むこの絶大なる魔力はナンバーワンにしてオンリーワン。幸か不幸か、エイピア生まれのルージュという人物を示すこれ以上ないパーソナルデータなのですから。
そんな私が何かしでかそうものなら、問答無用で身バレ待ったなしなのです。
ふと私の脳裏に、とても口には出せないような罪で人界でも魔界でも裁かれる勇者兼魔王という絶望の未来が浮かびました。
血の気が引きました。
これ以上、部屋に籠っていたらダメになる。
そう直感した私は、とにかく人の気配を求めて部屋を飛び出しました。
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オールドウッドの玄関口を飛び出した私は、そこでばったりとツーマさんに遭遇しました。
「あら、こんばんは」
謎の危機感に苛まれる私の瞳に映る、星空の下でにっこり微笑むツーマさんの姿は、控えめに言って女神でした。
玄関口でツーマさんが何をしていたのかというと、帚を持って宿の前を掃いていました。
暗くないのだろうかと思いましたが、山中の星明かりって意外と明るいんですね。
門に設置された魔法灯の灯りと合わせて、足下がばっちり見える光量でした。
「こんばんは。すみません、お邪魔ですか?」
「いいえ。お客さま、当宿の温泉はいかがでしたか?」
ツーマさんはニコニコと、そんなことを言いました。
確かツーマさんはアグニを大浴場へと送り出す私を見ていたはずですが、にも関わらず私が湯上りであることをばっちり見抜いていました。流石は女将ツーマさん。とはいえ、脳天から湯気を発しているさまを見ればそれも当然というものでしょう。
「はい! 温泉、最高でした! あんなのは初めてでした!」
私は思いの丈を包み隠さず伝えました。
「お褒めいただき、ありがとうございます。喜んでいただけて嬉しいわ」
ツーマさんはにこにこと淑女オーラを振りまきながら会釈してくれました。ああ。汚れ荒んだ心が癒されるようです。
そのとき、ふと強い風が私たちの間を吹き抜けました。山間を抜ける心地よい夜の風が、私の心と体の熱を冷ましてくれるような気がしました。
ツーマさんと夜風。ダブルの癒しの前に破顔する私。
それを見たツーマさんは、夜風にあたって涼むのならば是非見てほしいものがあると言って、私を宿に繋がる坂道まで連れてゆき、そして魔法灯を消しました。
そして、余分な灯りの途絶えた夜の闇の中で。
私は素晴らしい景色に出会いました。
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『素晴らしい景色ですねルージュ。地上はあんなにも光が溢れています! あの光の一つひとつが、勇者として守るべき人々の命なのです! 人界を象徴する景色と言っても過言ではないでしょう! たとえあの駄犬が百の甘言であなたを惑わせたとしても、このたった一つの景色があなたの迷いを振り払うでしょう! 守りたい、この人界! そうは思いませんかルージュ! ルージュ! 聞こえていますよね?』
どのくらい、その景色を眺めていたでしょうか。
未だ沈黙する魔王の様子を好機と見たのか、延々と聞こえてくる女神の啓示という名のテンション高めのセールストークを聞き流していた頃、私の背後……連なる山々の空のほうから、ゴロゴロと不穏な音が聞こえてきました。
振り返れば、山の頂の向こう側に見える星空が暗闇に切り取られているように見えます。
雨雲と、雷雲の気配でした。
でも、日が落ちる前はあんなに晴れていたのに。
「雷ですね」
ツーマさんがぽつりと呟きました。
その時、突然の白い閃光が夜空を二つに切り分けました。続けて届くのは落雷を告げる音。
「近いですね」
「そうですね」
その音に急かされたように、ツーマさんは掃除を再開しました。
やがて夜風の中に湿った空気を感じるようになり、遠く感じた雷鳴も少しずつ大きなものへと変化してゆきます。
それは刻一刻と変わる、山の天候の変化の兆しでした。
雨と雷の気配は風上の方角から、徐々に徐々にホワイトタブのほうへと近づいてきていました。
「今晩、この辺りも降るかもしれませんね」
「そうですね。お義父さん、大丈夫かしら」
ツーマさんは宿の看板を拭きながら、心配そうにため息をつきました。
そこにあったのは、夫の父親を真剣に気遣う妻のあるべき姿でした。
私は眩しいものを見たような気分になりながら、なんとなく気になったことを問いかけました。
「ところで、看板の角度は直さないんですか?」
「この宿の味ですから!」
ツーマさんはニコリとして言い放ちました。あの夫にしてこの妻ありでした。
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そろそろ宿の中に戻りましょう。
掃除を切り上げてそう告げたツーマさんと一緒に建物の中に入ろうとした時でした。
「ツーマさん。ご無沙汰ですな」
オールドウッドの玄関口に、裕福そうな壮年の男性が現れました。
薄明かりの中でも分かる、身なりの整った男性でした。整えられた口ひげとよく似合う黒帽子が印象的な、おじさんと言うよりはおじさまと呼ぶのが似合いそうなおじさまでした。
なんとなく私は、同世代との絡みよりも凄く年下の少年をセメるのが似合いそうな方だなと思いました。心地よい夜風とツーマさんにすっかり癒されていたこともあり、鼻血を出す事態にまでは発展しませんでした。
そんなおじさまをツーマさんはホッとしたような声色と笑顔で迎えました。箒を握り締めたままぱたぱたと走るツーマさんの姿は愛らしい少女のようでもありました。
「お待ちしておりました、お義父さん」
「お義父さんではありませんよツーマさん。私は今日は一人の客として来ているのですから」
「そうでしたね。ようこそいらっしゃいました。お荷物のほうお預かりしますね」
「うむ」
おじさまはツーマさんと親しげにやり取りをした後、それをぽけっと眺めていた私に気が付きました。
玄関口から漏れる灯かりの中でぼんやりと佇む私の姿と、漏れ出ている怪しげなまでの魔力量に驚いたのでしょう。落ち着いた印象だったおじさまは私を見て一瞬ギョッとしました。私はというと、もう慣れたものでした。
「うおっ。凄い魔力だな。君はいったい?」
「どうも、はじめまして。ルージュと申します」
「本日宿泊なさっている、お客さまです」
そう言ってぺこりとお辞儀すると、ツーマさんがそっと補足してくれました。
男性はゴホンと咳払いをして、まるで詫びるかのように会釈しました。
「失礼。私はダーディと申します。本日この宿に宿泊する、一人の一般客です」
「私の夫のお父君で、当宿のオーナーです」
ダーディさんの自己紹介に続いて、やはりツーマさんがそっと付け加えてくれました。オットーさんが言っていた、本日来ると言っていたもう一人のお客さんですね。
ダーディさんはツーマさんの補足に対して、少しだけムッとした表情を作りました。ただ、それ以上は何も言うことなく、ツーマさんの後をついて建物の中へと入っていきました。
たったこれだけの短いやり取りでしたが、ダーディさんに対する私の第一印象は、とても厳格そうな人だなというものでした。きっと自分の立場とか役職に対して、きっちりとしたオンオフをつけたい方なのでしょう。
二人の背中をなんとなく見送っていると、足を止めたダーディさんが振り返りました。
「ルージュさん。どうやら今晩は一雨ありそうです。あまり外に長居しても、湯冷めしてしまいますよ」
私は一言返事を返して、少し駆け足で建物へと戻りました。
雨音が建物を叩く音が響いてきたのは、そのあとすぐのことでした。
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部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、ちょうど部屋の前でぽかぽかと湯気を発する、色気のある美貌とばったり出会いました。
襟元をパタつかせながら、すっかり赤くなっている顔に風を送り込むイケメンは、見間違えようもなくアグニでした。
アグニは皮鎧などの旅装を解いて、ゆったりとした浴衣を着ていました。脱衣所に備えてあったものですが、着方がよく分からずに私が断念したものでした。あとでツーマさんに着方を教えてもらおうと心に決めました。
「アグニ」
「る、ルージュ殿!」
訂正します。様子のおかしいアグニとばったり出会いました。
浴衣装備のアグニは、どういう訳かひどく慌てていました。私の顔を見た矢先の出来事でした。何故でしょうか。私の顔に何かついていましたか?
私は首を傾げながら、先ほどまで宿の玄関口でツーマさんと話していたこと、物凄い夜景を見たこと、でも雨が降り出してしまって一緒に見れないことなどをアグニに伝えました。
「それとついさっき、ダーディさんって人に会いました。オットーさんのお父さんで、宿のお客さんだそうです」
「そ、そうか! うむ、それはその、何よりだ」
何が何よりなのかまったく分からないことを言いながら、アグニはそそくさと部屋へと入っていきました。生返事と言うにも程がある態度でした。
……あやしい。
なんでしょう。このアグニらしくないアグニは。
いつもの自信たっぷりな素直さが微塵も感じられません。
大浴場で何かあったのでしょうか。
アグニを追って部屋へと入りますが、アグニはまったく落ち着くことなく部屋を歩き回っていました。
あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。
何かしていないと落ち着かないのでしょうか? 見ているこっちが落ち着きません。
とてもついさっきまで人の残り湯に縋りつくほど疲れていたとは思えませんでした。
「アグニ。温泉はどうでしたか?」
「あ、ああ。そうだな。オレも初めて入ったのだが、存外心地よいものだった。疲れもほら、この通りだ」
「なんで部屋を歩き回ってるんですか?」
「いやあ! 疲れが取れすぎてな! 少し体を動かしたい気分なんだ!」
「いったいさっきからどうしたんですか。様子が変ですよ」
「う! いや、なんでもないんだ。大丈夫だ」
「顔がもの凄く赤いですよ。本当に大丈夫ですか?」
「本当に大丈夫だ! これは、アレだ。少しのぼせてしまってな」
どこかで聞いたような台詞を言いました。
やがてアグニは観念したように腰を下ろしましたが、一向に私と目を合わそうとしません。
壁を叩く雨音の数でも数えているのか、じっと壁を睨みつけていました。
私はそんなアグニをじっとりとした目で見つめていました。
沈黙の時間が続きました。
なんともあからさまな態度でした。
控えめに言って、あやしすぎました。
アグニはこれで何かを隠しているつもりなんでしょうか?
これほどまでに嘘をつくのが苦手な人がこの世に存在していたとは驚きでした。
ここまでされてあやしいと思わなかったら、その人はよほど心の綺麗な方なのでしょう。そして私は残念なことにそこそこ汚れた心の持ち主でした。ほら、魔王の魂とか結びついてますし、少しくらいは、ね?
私は心の汚れた女らしく、アグニを追求してみることに決めました。
聞くことは一つでした。
「アグニ」
「ど、どうした」
「飲みました?」
アグニがブッとお茶を吹きました。
あまりにも露骨なリアクションでした。
その意味するところは恐らく一つでした。
血の気が引きました。
「えっ、のっ、飲んだんですか!? 本当に!?」
「違う! げほっ、断じて違うぞ! 誓っ」
「女神さま!」
『飲んではいないようですね。飲んでは』
「じゃあ何をしたんですか!?」
『何もしていないようですね。今のところは』
「いったいこれから何をしようとしているんですか!?」
「ルージュ殿! ルージュ殿! 落ち着いてくれ!」
「ルージュさん! アグニさん!」
その時がらりと部屋の戸が開けられました。
アグニの襟首をキュッと締めながら、両手両足をピンと伸ばして背伸びまでアグニをガクガク揺らしている私の姿をばっちり目撃したのはオットーさんでした。
オットーさんは地面から離れて切なげに揺れるアグニのつま先を痛ましそうに見つめたあと、気を取り直したように言いました。ちょっぴり涙目の私も意識を手放しかけているアグニも華麗にスルーする、宿の主人の風格がそこにはありました。
「大事なお話があります。夜分遅くに大変申し訳ありませんが、ロビーまでお越しください」
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ロビーには私たちとオットーさんのほかに、ツーマさん、ダーディさんの姿もありました。宿の人間と宿泊客が勢ぞろいしたその空間に、もう一人、見知らぬ人物の姿がありました。
きっと外の雨の中を走ってきたのでしょう。全身ずぶ濡れになって尻餅をつくようにして両足を投げ出し、ぜえはあと荒々しく息を吐く男性がいました。
年はオットーさんと同年代に見えます。オットーさんが誠実そうな夫というイメージなのに対して、その男性はちょっとチャラいお兄さんといった雰囲気でした。
男性は、濡れた体を乾いた布で甲斐甲斐しく拭うツーマさんに為すがままにされながら、ただ一言、フレードだと名乗りました。
「つい先ほど、フレードが情報を届けてくれたんです。大雨の影響で、町中の川が氾濫しているそうだ。住宅地に大きな影響はないが、氾濫した川についてはとても渡れる状態ではないらしい」
オットーさんが苦い表情で言いました。
この宿オールドウッドは、ホワイトタブの中でも町外れの、少しというよりかなり辺鄙な場所にあります。観光スポットからも住宅地からも程遠く、周辺にあるのは自然ばかり。町中からオールドウッドにたどり着くまでの道すがら、アグニに引き摺られながら何度も坂を上り下りし、幾つもの川を渡ってきたことを思い出しました。
あの川が渡れなくなってるってことは、つまり、私たちはホワイトタブの町中まで戻れない……?
「そうだ。少なくとも雨が止むまでの間は、宿の中で大人しくしておいたほうがいいだろう。それに急な雨は同じくらい急に止む。足止めされるのもせいぜいが今晩中だろう」
ようやく一息つけた、という様子のフレードさんが私の呟きを肯定しました。
このやり取りをする前に、「うおおびっくりした! イヤッサー人かよ!?」などと叫ばれて傷心する一幕がありましたが、時間の都合により省略します。
「そうか」
アグニの反応は、あっさりとしたものでした。まるでその事実に対し、熟考に価しないと考えているかのようでした。
ちなみに私も概ね同じ意見でした。
この夜遅くにホワイトタブの町中まで戻るつもりは、そもそもなかったからです。私もアグニも温泉に浸かったばかりで、気分的には「いざ睡眠!」といったところ。翌朝早めに起きてアグニと観光するためにも、私たちに寝る以外の選択肢はありませんでした。
唯一の心配事といえば、大雨の影響でこの宿が流されたりしないだろうか? というものでしたが、
「安心なされよ。この宿は高所にあるから浸水の心配もなく、雨水は近くの谷を通るから鉄砲水に見舞われる心配もありません。この建物も、見かけよりはしっかりとした造りなんですよ」
私の不安はオーナーであるダーディさんが、力強い笑顔で払拭してくれました。
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ダーディさんは部屋へと戻り、ツーマさんは濡れた床を掃除し、フレードさんは濡れた体を温めるために大浴場へと向かいました。
すると、迷いのない足取りで大浴場へと歩き出すフレードさんを呼び止めたツーマさんは、オットーさんを振り返ってこんなことを言いました。
「あなたも一緒に入ってきたらいかがですか?」
そのとき。
私の心に潜むリビドーセンサーが、ぴくりと反応を示しました。
「それもそうだな。どうだフレード。たまには裸の付き合いでもするか!」
「バカ言えよ! もうガキじゃねえんだぜ! 風呂くらい一人で入るっつーの!」
見た目に反して、乗り気なオットーさんと、消極的なフレードさん。
「いいじゃないですか。貴方達ときたら、小さい頃は町中の足湯で二人してよくすっぽんぽんになってたでしょう?」
「「昔すぎんだろ!」」
息ピッタリの男性二人と、それをクスクスとからかうツーマさん。
なんやかやと理由をつけては結局揃って大浴場へ向かっていく男性二人を見送りながら、私はツーマさんに訊ねてみました。
「ツーマさんたちは、フレードさんとお友達なんですか?」
「腐れ縁みたいなものよ。私達は幼馴染みだったの」
ツーマさんは掃除の手を止めて、懐かしむように目を細めました。
「私と、オットーと、フレードと。いつも三人で組んで遊んでいたわ。こんな山奥の町だから、あまり娯楽もなくってね。湯の滝に飛び込んだり、温泉で泳ぎ回ったり、そういうことばかりして過ごしていたの。でも、楽しかったわ」
「今でも仲がいいんですね」
「ええ。私とオットーが結婚してからは、フレードも気を遣ってあまり来なくなってしまったけれど、こうして口実ができそうな時には毎回のように遊びに来るのよ。今日だって、雨の気配を感じて宿の近くまで来ていたはずだわ。だってフレードの言う通りに大雨で川が渡れなくなっているのなら、フレードはその前にこちら側に渡っていたはずだもの」
そう言って悪戯げにウインクを決めるツーマさんと来たら、控えめに言って魔王の風格でした。
それほどまでにオットーさんを、そしてフレードさんを理解するツーマさんの姿に、私は三人を繋ぐ絆のようなものを感じました。
私が幼馴染のコリンのことであればだいたい何でも答えられるように、彼女もまた、ことオットーさんやフレードさんに関することであれば、何もかもを知っているという自負のようなものがあるのでしょう。
その絆を、ツーマさんの年齢になっても持ち続けていられる。例え二人と一人が切り離されたとしても、こうして繋がり続けている絆がある。
それは私にとって、希望のようにも思えました。
私は脳内に展開されるオットー攻めフレード受けの甘美な妄想に吐息と一筋の鼻血を零しながら、そんなことを考えました。
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その後。
私とアグニは部屋へと戻り、そう長くない時間を過ごした後、眠りにつきました。
眠りにつくまでの間、特に何か重要なことが起こっただとか、そのようなことは決してありませんでした。
強いて言えば、アグ二がやたらと筋トレに励んでいたことぐらいでしょうか。
「適度な運動は健全な精神を保つために極めて重要な要素の一つだ」
そんな事を言っていました。せめて入浴前にすればいいのに。アグニは流れ落ちる汗もそのままに、やがて力尽きて倒れ込むようにして布団で眠りました。
私はその様子を、膝を抱えてただじっと眺めていました。はだける浴衣。チラ見えする汗と筋肉。実に素晴らしい景色でした。ホワイトタブの夜景にも引けを取りませんでした。私はきっと、何があってもアグニを守り抜くでしょう。
私は倒れ臥しているアグニの汗を簡単に拭いて布団をかけ、衝立の向こうに敷いたもう一つの布団で眠りました。
なので私たちには、最後にオットーさんたちと別れた後、このオールドウッドの中でいったい何が起こったのか、それを正確に知ることはできません。
ですがこの時、もう既に、事件は始まっていたのです。
雨と雷に隔絶されてしまった、この密室とも呼べる温泉宿の中で。
よりにもよって人界で勇者と呼ばれる私が泊まったその日に。
そんな事件が起こるだなんて、いったい誰が予想したでしょうか。
「きゃあああああああああっ!」
雷の音と聞き違えてもおかしくなかったほどの、甲高いツーマさんの悲鳴。
尋常ではないその声に叩き起こされた私とアグニが、悲鳴を頼りに大浴場までたどり着いたとき、その場にはもう、全ての人間が揃っていました。
彼らの中心でただ一人、一糸纏わぬオットーさんは横たわっていました。
魔法灯の灯かりに照らされたオットーさんの顔色は、遠目にもはっきりと分かるほどに蒼白く、そして彼の頭を抱きしめて涙するツーマさんの両手は、赤い何かで濡れていました。
そのあまりの凄惨たる赤さに、気が遠くなるような現実感のなさしか感じなくて。
ツーマさんの表情も涙も、眠る前に見ていたはずの彼女の笑顔からはまるで想像がつかなくて。
いったい何が起こったかなんて、とても聞ける状況ではなくて。
私は。きっと恐らくダーディさんもフレードさんも、そしてアグニも、ただその場に立ち尽くすほかありませんでした。
まるで膜を張ったみたいにあらゆる音が遠ざかり、代わりに激しく脈打つ心音と、そして女神のその声が頭の中にはっきりと響きました。
聞きたくなかった声が。
『ルージュ。あの男は既に死んでいます』
そしてまた一つ、雷が落ちました。
宿の主人、オットーさんが死んだ。
いや、違う。
オットーさんは、ただ死んだのではありません。
きっと。恐らく。だって。なぜなら。
倒れたオットーさんのすぐ傍に、べったりと赤いものがついた手桶が一つ転がっていたから。
ああ、オットーさんは、あれで殴られたんだ。だから、死んでしまったんだ。
そう思ったときに、考えてしまったときに、私はゾッとしました。
その考えのあまりの恐ろしさに、絶望感さえ抱きました。
その考えから導かれる、それを行って当然の推察に。
即ち。
――いったい、誰に?
滝のような豪雨が建物を叩く音と、劈くような激しい雷の音が、私たちの心を搔き毟りました。
やっと事件が発生しました。
次回、迷探偵女神による推理パートです。
まともな展開は期待しないでください。