幕間 アグニ独白
幕間です。
さっくり書くつもりがさっくり14000文字をオーバーしました。
分割しようかとも思ったのですが、途中で切ると微妙だと思ったのでまとめました。お時間のある時にどうぞ。
ルージュ殿は、とても不思議な勇者だ。
オレは勇者を知っている。
先代の勇者、フセオテ殿を知っている。
彼は実に尊敬すべき男で、頼りになる戦士で、そして何よりも勇敢な勇者だった。
高潔な精神。超人的な剣技。優れた状況判断。リーダーシップ。
そのどれもが彼を構成する要素で、それらは他の何よりも彼を勇者たらしめるものだったが、しかしそれらはあくまでも彼の活躍と実力を外側から見ただけの、上辺だけの評価に過ぎない。
オレにとって彼を、フセオテ殿を象徴するものはただ一つ。
それは彼の手だ。
優しい手だった。
『よろしく、アグニ』
そう言って差し出された彼の手の、なんと暖かかったことか。
『ありがとう、アグニ』
そう言ってオレを撫でた彼の手の、なんと優しかったことか。
オレは今でも、フセオテ殿の手の平の感触を覚えている。
そして彼に出会い、彼の手の平に初めて触れたとき、オレはこう思ったのだ。
この人に仕えたいと。
この人の支えになりたいと。
男として、騎士として、彼のパーティメンバーとしてのオレが、そうしたいと叫んでいた。
彼の手の平は、常に誰かに差し出されるためにあった。
彼と共に、オレ達は多くの人々を救ってきた。
危機の淵に立たされた人々に、彼は迷いなく手を差し伸べた。
悲しみ、嘆き、助けを請う人々を、彼の手が癒すのを幾度となく見てきた。
彼の手は、救う手だ。
その彼の手が魔物、そして魔族と戦うために剣を握らなければならないということが、ひどく悲しかった。
だが彼はあまりにも強すぎて、誰もその役割を代わることは出来なかった。代わることを許されなかった。
彼は常に戦場の先頭に立って、剣を振るい続けた。
彼は勇者だった。
彼は常に人々の味方で在り続けた。
救う存在で在り続けた。
守る存在で在り続けた。
そんな彼を、オレ達は何よりも愛していた。尊敬していた。
彼が最期の時を迎えるその瞬間まで、彼を愛し、敬い……そして彼に守られた。
誰もが彼の死を悲しんだ。
深い深い悲しみがあった。
だが不思議と後悔はなかった。
オレはそれが、誰もが全力を尽くしたからだろうと考えてた。
誰も、彼を助けなかったのではない。守らなかったのではない。
圧倒的な実力の差が、彼を助けることを許さなかった。
何よりも彼自身が、オレ達に守られるということを許さなかった。
代わりに女神様が彼を庇護してくださった。オレ達にできないことを、女神様がしてくれた。
だからオレ達は信じた。
勇者フセオテなら大丈夫。
勇者フセオテならきっと何とかしてくれる。
きっと女神様が、勇者フセオテを守ってくれる。
いつか誰かがこう言った。やがて誰もがそう言った。
そう言って、彼に守られ続けてきた。
その行為を、オレ達は『信じる』と呼んだ。
誰もがフセオテ殿を信じた。
信じ続けた。
信じて彼を死地に送り、そして誰もが知るような結果になった。
だからだろう。
オレが彼女を――ルージュ殿を、不思議な勇者だと思ってしまったのは。
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オレが彼女と初めて出会ったのは、彼女が暴れる冒険者を取り押さえている場面だった。
その現場はひどい有様だった。酒場というよりは元酒場とでも言うべき惨状だった。壁に穴は開き、床板はめくれ、テーブルは一つ残らず無残に砕け散っていた。
その中心で椅子に座る少女を一目見た時、それが只者ではない事はすぐに理解できた。
体中から膨大な魔力を放ち続けながらも平然とする少女がそこにいた。
馬が怯えて当然だ。
目に見えるほどに凝縮された魔力がその少女の体を常に隙間なく覆っているのを見た時、オレはその才能の大きさに身震いした。
なんと優れた素質か。
これほどの逸材が今まで野に埋もれていたことが信じられなかった。
だがそれ以上に、オレの心は喜びに踊った。
圧倒的な実力。
そして少女の身でありながらも、暴れる冒険者に立ち向かう精神。
そこに、かつて共に旅をしたフセオテ殿の影を感じたからだ。
オレはすぐに彼女を試すことにした。
オレは新たな勇者を試す手段として、魔物の討伐を考えていた。
フセオテ殿とオレ達の旅は、常に戦いの隣にあったからだ。
道すがらレイライン辺境伯閣下からエイピア周辺について確認を取り、オムアン湖と呼ばれる湖付近に比較的弱い魔物が現れることを知っていたオレは、彼女と閣下を馬に乗せて湖へと急いだ。
彼女はなんというか、少し変わった少女だった。
オレに丁寧な言葉を使い、どういう訳か閣下が飲酒状態にあると勘違いして気遣い、大抵の者が悲鳴を上げるオレの馬に乗ってはしゃいだりもした。
そのどれもが、オレに違和感を与えた。
驕りがまるでなかったのだ。
彼女が膨大な魔力を持ち、あれほどまでに酒場を荒らす冒険者を一蹴することができる実力者であることは疑いようがない。
それにも関わらず、彼女の態度はまるでごく普通のどこにでもいるような町娘のそれだ。
魔物を退治してもらうと伝えた時の表情が、その直感に拍車をかけた。
驚きと不安、そして不満。何を考えているのかと言わんばかりの表情に、こちらが呆気に取られてしまったものだ。
周りの冒険者たちもそうだ。危ない。無理だ。大変なことになる。そんなことを口々に言って止めようとする。まるで理解できなかった。彼らには彼女から溢れる魔力が見えていないのか?
オレは彼らを無視することにした。ルージュ殿ほどの逸材が今までこんな辺境に隠されていた一因が、彼らにあるのではないかと疑ったからだ。
「さあ、ルージュ殿」
オレの手を取った彼女の表情は、やはりどうしようもなく、町娘だった。
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剣を持つことを頑なに拒む彼女を説き伏せて剣を持たせたとき、オレは確信した。
やはりあの冒険者たちは信用できないと。
なにせ彼女はオレが両手で振るう両手剣をなんと片手で鞘から抜き、軽々しく持ち上げてみせたのだ。彼女の体格ではありえない膂力だ。真に恐ろしいのは魔法を使った痕跡すらないということだ。それは彼女の持つ魔力が、なんの魔法行使もなく彼女を強化していることに他ならない。
それどころか、何を思ったのか彼女は剣を水平にしてピタリと止めてみせた。その両手剣の重さを知っているオレは驚きのあまり声も出なかった。その剣がいったい何キロあると思っているんだ!?
あまつさえ遊びのように剣を揺らして首を傾げる彼女の姿に戦慄した。オレにできたことと言えば、彼女を手放しに褒め称えることくらいだ。
だからだろう。その直後、唐突に彼女が大量の鼻血を出したときは慌てたものだ。あれほどの膂力だ、やはり肉体に負荷をかけてしまうのだろうかと慌てたのだ。もしや、剣を持つなと忠告した冒険者の真意はここにあったのかと自身の迂闊さを後悔しかけたが、彼女は「大丈夫です」と繰り返した。
やがて鼻血が止まり、彼女が非常にスッキリとした笑顔で「もう大丈夫です」とオレに笑いかけたときは、代償に怯まず敵に立ち向かう勇者の高潔な精神を垣間見た気がして、心配よりも喜びが勝ってしまったものだ。
その後に起こったことは、まさしく圧巻の一言だった。
始めは危ういとさえ思った。
彼女の怯えは間違いなく本物だったからだ。
彼女ほどの魔力を持つ者が、たかがスライム如きを心の底から恐れ、震えているという事実が信じられなかった。
だが、彼女は恐れを振り払った。
飛びかかるスライムを前に勇敢に一歩踏み出し、真っ直ぐに剣を振り下ろした。
その後に起こったことを、オレは終生忘れないだろう。
まさか、あの広大な湖を割ってしまうほどとは!
全身を襲う轟音と風、そして目の前に高く広がる光景が、彼女が持つ圧倒的な力を否応にも理解させられた。
それだけではない。あのフセオテ殿をして破ることができなかった竜王の結界が見事一刀両断にされているのを見たとき、全身から震えを抑えることができなかった。思わず叫んでしまったほどだ。
おそらく、意図したものではあるまい。
竜王は巻き込まれたのだ。
あの恐るべき緑竜の王が、風と嵐の支配者が、たかがスライム一匹を倒すための一撃に巻き込まれて命を落としたのだ。
何もかもが規格外で埋め尽くされた光景の中で、たった一人彼女は笑っていた。
まるで雨雲が去ったあとの晴れ間の中に虹でも見つけたかのような気楽さで、初めて聞いた歌に頬を綻ばせるようにして、明るく楽しそうに笑っていた。
オレはその時思った。
彼女は誰かの庇護を必要としないだろうと。
もう既に、これ以上なく女神に守られている。与えられていると。
そしてその代償に、この人界に住む者は誰も彼女を守ることは出来ないのだろうと。
その一点が、オレに確信させた。
ルージュ殿は、紛れもなく人界を救う勇者なのだと。
@
その後、確かオムアン湖で起こった出来事を説明するために小領主殿を訪ねたのだが、そこから先の記憶は少し曖昧だ。
色々と興奮していたことは確かなのだが、気が付けばオレはルージュ殿の家の一室で寝かされており、オムアン湖を割ったあの日から一晩が経っており、炎の燕亭はますます荒れ果てており、冒険者達は死屍累々と言った様子で積み重なって倒れており、国王陛下から下賜された白銀のプレートメイルは粉々に粉砕されており、王都で購入した聖剣にはなぜか闇属性が付与されていた。
いったいその晩、オレの身に何が起こったのか。その謎は今でも解けていないが、想像することはできる。大方冒険者達に酒を飲まされ、つぶされてしまったのだろう。我ながら、情けない醜態を晒してしまったものだ。騎士失格と誹られても言い逃れできるものではない。だとしても、聖剣についての真相は未だ闇の中だ。
ただ一つ重要なことは、ルージュ殿が国王陛下の招きに応じ、オレと共に王都へと発つことを了承してくれたという点だった。
それを話した時の彼女の酷く申し訳なさそうな表情がひどく印象に残っている。いったいあの夜、オレの身に何があったのだろう。彼女は伏してそれを語ろうとはしなかったが、今となっては瑣末事だ。
ともあれ、旅を急ごう。
オレは鎧の残骸を町の者に引き取ってもらい、新たに皮鎧を仕立てた。
彼女は砕けた鎧を金に換えたことに関して、オレに被が及ばないかを心配しているようだった。
だが、国王陛下は決して愚か者ではない。沙汰は追って下されるだろうが、今は何より王命を優先すべきなのだ。今何が最も重要なことかを、陛下は必ずや理解してくれるだろう。
「そうですか」
彼女はホッとしたようにそう言った。
その後、ゆっくりとエイピアの町を歩きながら、オレたちは色々と話をした。
彼女は何度も何度も振り返り、真剣な表情で目を動かし、少しでも多くのものを見ようとしていた。
その時オレは察した。きっと彼女には分かっていたのだろうと。彼女が愛しているであろうこの町には当分……いや、もしかしたら永遠に戻れないかもしれないということを。
しかしそれを分かっていながら、彼女はオレに恨み言一つ言わなかった。
不思議だった。
なぜオレが不思議だと感じたのか?
それはその日、彼女との会話の中で、いま彼女の中に満ち満ちて溢れている膨大な魔力がすべて、つい最近得たばかりのものだということを知ったからだ。
それはつまり、つい先日まで彼女は本当に、何の才能も戦う力も持たない町娘として生きてきたことを意味する。
正直、ルージュ殿が昨日湖を割った瞬間よりも驚いたかもしれない。
その日まで町の中でしか生きてこなかった、騎士でも冒険者でも、ましてや成人すらしていないただの町娘が。
突然勇者の力だけを得て、暴れる冒険者に襲われ、返り討ちにして。
突然表れた王都の騎士に連れていかれるままに生まれて初めて町の外に出て、魔物を相手に剣を持たされ。
そして今、勇者として祀り上げられ、愛する両親と町から無理やり引き離されようとしている。
想像しただけでも凄絶な仕打ちだと分かる。
戸惑うはずだ。怒るはずだ。嘆くはずだ。悲しむはずだ。
あの時スライムに対して見せた恐れは本物だったのだ。
それを強要させたオレを恨んで当然だ。憤って当然だ。お前は私に怖い思いをさせたのだと、わめき散らして当然だ。
なのに何故、彼女は恨み言一つ言わずに、オレを見上げて笑いかけるのだろう?
まるでオレの行いを、ただ許すかのように。
それが身勝手で醜悪な願望だというのは分かっている。
それとも彼女は、オレが彼女にいったい何を強要したのかが分かっていないのだろうか?
これから自らが王都に向かうことで、いったいどのような責任を背負わされることになるのか、分かっていないのだろうか?
いいや違う。分かっていない筈がない。
だからこそ、彼女はあんなにも必死になって、瞬きすら惜しんで、エイピアの町の日常を瞳に焼き付けようとしている。
彼女は全て分かっている。
個人の事情、国の事情、そういった全てを理解し、それを受け入れた上で、まるで自分が何も知らない町娘であるかのように振る舞っている。
それどころか鎧を処分した俺を心配する余裕さえ見せる。
リエリアに寄り道すると決めた際も、魔物退治に意欲的な姿勢をアピールしてみせる。
信じがたいほどに強靭な精神だった。
その在り様は、オレに一人の男を連想させる。
あのフセオテ殿にも、そういったところがあった。
それは勇者として選ばれた自覚や責任といったものが彼にそうさせたという、自己犠牲と呼ばれる血濡れの精神だ。
オレは、それが勇者という役割に最も必要とされるものだと分かっている。
オレは、それこそがフセオテ殿を勇者たらしめたのだと知っている。
オレに手を伸ばさせたのだと知っている。
「ルージュ殿。君はとても優れた、素晴らしい勇者だと思う」
だからこそ、本来決して褒め称えられるべき物ではないはずの彼女の精神を、ありったけの敬意と謝意を込めて飾らなくてはならない。
ルージュ殿は素晴らしい勇者だと。
だが、本当にそれだけの言葉で片付けてよいのだろうか?
@
疑念はリエリアの町でより大きくなった。
彼女には緊張感という感情がまるで見られなかった。
思えばエイピアを発ち、リエリアの町に向かうまでの間もそうだった。
整備された街道とはいえ、町の外は常に危険との隣り合わせだ。
肉食の獣、人を襲う魔物、盗賊、それらがどこに潜み、いつ襲い掛かってくるかも分からない。
しかし彼女は出会って間もない男であるオレにべったりと背中を預け、ましてや揺れの激しい馬上であるにも関わらず、まるで住み慣れた実家にいるような気の抜けた態度と姿勢をとってみせた。
無防備にも程があった。
溢れる魔力を抑えるために必要だとは言え、普通の人間にそれが可能だろうか?
いや、不可能だ。ましてや彼女はスライムと対峙し、その恐ろしさに直に触れている。
町の外が危険な場所であることを知っている。
ではいったい何が彼女をそうさせるのか?
目覚めた自分の力に対する、勇者としての絶対的な自信か?
それとも、魔物など大したことはなかったと奢る、無知な町娘の思い上がりか?
@
ラスタの森に入り、オレの疑念はますます膨らんでいく。
虫除けなどに関しては――正直驚いたが――比較的どうでもいい。
それよりも、ラスタの森に入ってからの彼女の振る舞いだ。
森の中での彼女の様子ときたら、まるで観光気分だった。
両手に小さなバスケットを抱え、楽しそうに森のあちこちを指差してはオレに質問を投げかけてくる。ここは既にいつ三つ目狼が襲ってきてもおかしくない魔物のテリトリーだというのに、彼女はそれが分かっていないのだろうか?
特に緊張したのは、彼女の非難の眼差しがオレを捉えた時だ。
あの時は全身に冷や汗が流れた。
オレは彼女の圧倒的な魔力から来る一撃の恐ろしさを知っている。もしあの力の欠片でも向けられたら。
しかも非難の内容もひどい。伐採地としてある程度拓かれたラスタの森に対して、「森って感じがしない」等といちゃもんを付けたのだ。
エイピアの町で彼女が見せた才覚と精神からは想像もできない姿がそこにあった。
まるで本当に、何も知らない町娘のようだ。
見知らぬ景色に目を輝かせる町娘のようだ。
オレはますますルージュという少女のことが分からなくなった。
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驚きは続く。
三つ目狼を警戒しながら森を進んでいたはずが、気が付けば森を抜けていた。
何が起こったのか分からなかった。
未開の森を踏破するほど歩いて、ただの一度も襲われないということがあるのだろうか?
傍らのルージュ殿と言えば、その場から見える景色をひとしきり楽しんだ後、そわそわとオレを見上げていた。
かすかにバスケットを揺らしながら。
言わんとすることは明白だった。
「取りあえず、昼食にしよう」
オレはそう言う他なかった。
彼女は神妙そうな顔で頷き、そっとよだれを拭った。
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サンドイッチを美味しそうに頬張る彼女の姿は、どう見ても平和そのものだ。
手うちわで木々を揺らしたり、肉の欠片を森に投げたりして遊ぶ姿も、オレの中にある勇者のイメージにそぐわない姿だ。
食べ物で遊ぶことは関心しないが、彼女がやろうとしていることは理解できる。彼女は彼女なりに、獣が一度も現れなかったことを不思議に思っているのだ。
だがオレには一つ心当たりがあった。
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オレの予想は的中した。
やはり彼女の魔力が、虫除けどころか魔物除けとも言える効果を発揮していたのだろう。
信じがたい事実だった。
これほどまでに魔物討伐に向かない才能があるだろうか。
彼女はただ歩くだけで魔物を寄せ付けない。それは彼女自身が常に安全であることを意味するが、逆に言えば、そのしわ寄せは彼女以外の誰かに向かうということだ。
彼女は魔物に出会うことはない。
出会えないのだから倒せない。
こうして魔力を抑えることで、オレのような者に倒させることは出来るだろうが、それはつまり彼女がいなくても同じということだ。まるで意味がない。
見たところ、脱力を強いられているせいで視界もままならないようだ。せめて彼女の経験になればと思ったが、それも無駄になりそうだった。
この事実はオレにある推測を立てさせた。
彼女はしらを切ろうとしていたが、彼女の魔力が魔物除けになるだろうことを彼女が知っていたのだとすれば、この道中に見せた彼女の態度の謎も解ける。
つまり彼女にとっては町の外も森の中もなんら危険な場所ではなかったのだ。
自身が安全な場所に立っていると分かればこそ、街道の上でもへにゃりとしただらしない姿を見せることができたし、危険な魔物の巣食う森の中をピクニック気分で歩くことができた。
だからこそ、彼女はいついかなる場所でも無防備な町娘として振る舞うことができた。
しかし、それだけでは説明が付かない事実もある。
例えばこの時がそうだ。
彼女は危険な森の中で、魔物どもが近寄ってくるほどまでに力を抜き、魔力を抑え、オレと魔物の戦闘を目の当たりにしてなお、だらだらとした脱力した姿勢を貫き続けていた
それはまるで自分が誰かに守ってもらえることを確信しているような、無謀で無防備な町娘の姿だ。
それはオレの中にある勇者像とは真逆の位置に存在するものだ。
オレは問うた。なぜそんなにも落ち着いていられるのかと。
彼女は答えた。それはオレがいるからだと。
オレはその時、自らの不明を彼女に突きつけられたような思いに捉われた。
あまりの恥ずかしさに頬に火が付いたようだった。
オレは彼女を素晴らしい勇者だと考えて接してきた。
しかしそれはあまりにも一方的な理解だ。
そうだ。彼女は決して生まれついた勇者ではない。
彼女は突然力を得ただけの町娘だ。
大きな力を持った勇者なのではない。勇者の力を持ってしまっただけの、ただの町娘だ。
オレ達騎士が守るべき民だ。
どうしてオレはそんな簡単なことに気が付かなかったのか。
そもそもオレが、君を守ると言ったのではないか。
「そうか」
だからこそ、その時オレは改めて誓ったのだ。
「分かった。オレが全力で君を守る」
@
だがその思いもすぐに打ち砕かれることになる。
赤黒く、そして巨大なスライムのような魔物だった。
王国の近衛騎士として、そして勇者フセオテ殿のパーティメンバーとして世界の各地を渡り歩いてきたオレをして見た事も聞いた事もない魔物だった。
新種の魔物自体は、決して珍しいものではない。
寧ろ多いと言っていいだろう。
こういった新種の魔物は必ず年に数回は現れ、そのたびに国は冒険者ギルドに対して新種の魔物に対する情報収集を呼びかけている。そしてこのスライムのような魔物は、恐らく紛れもなく今までの報告にない新種の魔物だ。
油断は出来ない相手だった。
そうだ。オレは油断などしていなかった。
ルージュ殿を下がらせ、聖剣に炎を纏わせた。『炎剣』と呼ばれるオレが得意とする魔法の一つだ。高温に熱せられた刃は打ち合うことを許さない、鍛えられた鋼をも溶断する恐るべき刃となる。
赤いスライムの表面が波のように揺らいだ瞬間、オレは直感に任せて聖剣を構えた。そしてスライムから放たれた致死の一撃をいなした瞬間、戦闘は始まり、そして終わった。
オレの本領は接近戦にある。刃の届く位置に辿りつき、聖なる炎を纏った聖剣の一撃を叩き込む。
しかしそれをスライムは許さなかった。膨大な体積に裏打ちされた恐るべき数の致死の槍がオレの行く手を阻んだ。回避は許されなかった。何故ならオレの背後には、守るべき彼女の姿があったからだ。
身体強化により加速された世界で縦横無尽に剣を振るった。鋭敏化された知覚に任せて世界を爆炎で包んだ。スライムは火に弱い。オレの爆炎は幾つもの槍を落とした。自分の力が通用すると確信した。だからこそオレはあと一歩で剣が届くというところで、あのスライムにしてやられた。
よもや、炎耐性のある槍を繰り出すことが出来るとは!
あの恐るべきスライムはオレをこの距離まで誘い出すために、わざと耐性の弱い槍を放っていたのだ。
そう気付いた時には全てが遅かった。
もはや相討ちにすらならない。仮にこの聖剣がかのスライムに届いたとしても、あれほど強固な耐性の前では一撃でという訳にはいかない。そしてオレはといえば、確実に次の一撃で即死するだろう。
振りぬいた剣を懸命に戻そうとするが、間に合わない。
これまでか。
そう思ったとき、信じられないことが起きた。
「待ちなさい!!」
誰何するまでもない。ルージュ殿だ。
思わず身を堅くしたが、予想していた衝撃は訪れない。しかし代わりにオレを貫こうとしていた全ての槍は残らず後方へと突き進んだ。彼女のいるほうへ。
守るべき人のいるほうへ。
「ルージュ殿!」
何故だ! 何故前に出た! そう叫ぶことしか出来ないこの身が恨めしかった。
せめて一太刀。そう思って剣を振るおうとするも、巨大なスライムはオレを飛び越え彼女の真上へと跳躍した。届かない。オレよりも奴のほうが早い!
止めろ! 止めてくれ! 彼女は剣すら持っていないんだ!
生まれて初めて森に入った、町娘なんだ!
声にならない声がこぼれた。しかしスライムは止まらない。幾つもの槍が彼女を貫いたように見えた。幾つもの赤が散ったように見えた。あまりの絶望に心が折れそうになる。しかし。
「わああああああ!」
聞こえた。彼女の声だ。彼女は無事だ!
彼女が拳を振り抜いたのが見えた。恐るべき魔力が篭った彼女の拳だ。割れた湖が脳裏を過る。オレは赤黒いスライムが跡形もなく吹き飛ばされる姿を空想した。
しかしそれは現実にはならなかった。赤黒い体が大きくたわみ、自ら体に大きな穴を空けて拳をかわした。信じられないほどの反応速度と知能だ。木々をへし折るほどの突風がスライムの穴を通って空へと流されていく。オレをして足を止めてしまうほどの突風を前に、しかしあのスライムは耐えていた。耐えて、彼女に襲い掛かった。
「アアアアアアアアアッ!」
何も考えられなかった。そんな余裕はなかった。
彼女の驚きと恐怖に満ちた表情が、否応にもオレに思い知らせる。
彼女は勇者ではない。
彼女はただの町娘だ。
肺から全ての空気が絶叫となってオレの口からこぼれる。その間にも彼女の体はおぞましき魔物に包まれようとしている。
逃げ場はどこにもなかった。
守れなかった。
また守れなかった!
やめてくれ! オレに、そんな顔を見せないでくれ!
剣の重みさえ許せなかった。何もかもを投げ捨てて手を伸ばした。
しかしオレの手の届かない向こう側で、諦めたような表情で目を閉じた彼女は全身をスライムに飲み込まれ、そして――赤が弾けた。
@
結局のところ、守られたのはオレのほうだった。
勇者フセオテ殿のパーティメンバーとして世界を股に掛けて戦ってきたという自負があった。
そこいらの冒険者などとは比べ物にならない武を誇ってきた。
しかしオレはあの恐るべきスライムに対して手も足も出せず、そして奴はルージュ殿にとっては歯牙にもかけ得ない存在だった。
オレは彼女が町娘であると思い、守ろうとしたが、実のところ彼女は誰かに守られる必要などなかったのだ。
オレは目の前に広がる余りにもばかばかしい光景と、慌てふためいてオレの心配をする彼女の姿に、どうしようもないほど滑稽な気持ちになった。
大笑いした。
なんと、オレは滑稽な男なのかと。
森を抜けるまでの間、オレはどうやってあのスライムを倒したのかと彼女に聞いた。
すると彼女は、自分でもよくは分からなかったのだが、あのスライムが全身を覆った際、体から魔力が勢いよく吸われる感覚があったと答えた。
つまり、要するに。
あのスライムは、食事をしたのだ。
彼女の体の外にまで迸るほどの膨大で濃密な魔力の一端でも喰らおうとその身に触れたとき、あの巨大なスライムは一瞬でパンクし、破裂してしまったのだ。
なんとばかばかしい。
剣も拳も必要としていない。
彼女は文字通り、体一つであの恐るべきスライムを打ち倒したのだ。
だが。
では彼女が、指一本触れるだけであのスライムを倒せるということを事前に知っていたのかというと、それは違うという。
実戦経験などあってないような彼女だ。それが事実だろう。
それはつまり、彼女はオレの窮地を見て、無我夢中で叫び、拳を振り上げ、その一撃をかわされて尚、あの結果になった。
勝算あっての行動ではなかった。
己の力も敵の力も知らず、見誤り、瞠目し、自らの窮地に絶望さえして――そしてうっかり敵を倒したのだ。あの竜王と同じように。
戦闘が終わり、腰を抜かしたのがいい証拠だ。
「よかったー」などと気の抜けたことを言いながらも、腰を抑えて「すみません、腰が……!」などと言っている姿は血みどろの惨状の中心に居るにはあまりにも不釣合いなほど愛らしくて、そんな彼女の姿がオレをますます混乱させた。
彼女はいったい何者なんだ?
勇者だと思えば、勇者ではない。
町娘だと思えば、町娘ではない。
勇者としての使命を理解した者が、こんなにも無防備に笑えるだろうか?
町娘としてしか生きてこなかった者が、あんなにも勇敢に立ち向かえるだろうか?
分からない。
オレには、彼女が分からない。
@
「アグニは私のことをどう思ってるんですか?」
不意に。
オレは彼女、そんなことを言われた。
その時オレは、自らの不明を彼女に詫びていたと思う。
何か意味があって発した言葉ではない。
言うなれば懺悔だろうか。この思いを、ただ彼女にだけは聞いて欲しかった。
しかし、彼女はそんなオレにこんなことを言った。
「勇者ですか? それとも、酒場で生まれた町娘ですか?」
「……どうなんだろう。今回の件で、ますます分からなくなった」
オレは正直に答えた。
彼女はオレの胸の内を見透かしたようなことを言う。
それがますます、オレの混乱に拍車を掛けた。
彼女はそんなオレの不甲斐なさを目の当たりにして、実に不満そうに頬を膨らませてみせた。
そのままオレにぐりぐりと後頭部を擦り付ける。地味に痛い。彼女は自分の動きにかかる勇者補正を甘く見ている気がする。
オレもオレで申し訳なさと痛みに板ばさみになって、実に情けない顔をしていた気がする。
その時。
「どっちも私ですよ」
唐突に、答えが訪れた。
彼女はオレの胸の中で、視線をまっすぐにオレに向けていた。
フセオテ殿に良く似た目を。
「私は勇者ですし、世間知らずの町娘です。だから私はアグニに助けてほしいですし、アグニを助けることもあると思います。どっちも私です。
だからアグニも私を助けてください。そして、たまには頼ってください。
今は頼りないかもしれませんが、私はこれでも一応、あなたたちの勇者なんですから」
その時のルージュ殿の逆さまの笑顔を、オレはきっと忘れないだろう。
彼女の笑顔は、まるで悪戯を囁くような明るさと、それでいて何もかもを包んで癒す聖母のような慈しみの輝きで満たされていた。
オレの胸の中で見上げるように花咲いたその笑顔を見た瞬間、どうしようもないほどの熱さを頬に感じたのを覚えている。
オレの胸の中に燻っていた靄のような感情の迷路を、彼女の剣が一刀両断にしたかのような感覚を覚えた。
あれほど迷い、悩んでも得られなかった答えがそこにあった。
清廉な光がそこにあった。
泣き出したくなるほどの喜びがあった。
オレがどれほどこの感情を抑えることが出来たのか、自信がない。
彼女の驚きに満ちた表情が、それを物語っている。
つまるところ、彼女は……ルージュ殿は、オレにこう言ってくれたのだ。
守ってくれと。
こんなにも情けないオレに。
彼女を守るどころか、逆に守られるような無様を見せたオレに。
力がないことを言い訳に、死地に向かうフセオテ殿を見捨てたオレに。
強大な力を持つ勇者でありながらも、彼女は、このオレに守ってくれと言ってくれたのだ。
その言葉の、なんと暖かかったことか。
オレは答えを得た。
どんな黄金にも負けない、光り輝く答えを得た。
勇者に仕える従者のように、ただ守られ、支えるのではなく。
無辜な町娘を庇護する騎士のように、ただ守ろうとするのでもなく。
オレはルージュ殿に尽くしたい。
一人の騎士として、男として。勇者でもなく町娘でもなく、目の前の一人の少女に尽くしたい。
今まで剣を握ったこともない、ただの町娘の生まれでありながらも、人界のために身を削ろうとしてくれるルージュ殿に尽くしたい。
膨大な魔力という勇者の力を得てなお、オレのような男を頼り、信頼し、守ってほしいと体を預けてくれるルージュ殿に尽くしたい。
彼女の思いに応えたい。
彼女の想いに報いたい。
この身、この心、この魂にかけて、オレは今度こそ……勇者殿を守りたい。
「君は」
ああ。
君という人は、オレにどれほどの救いを与えてくれるのだろう。
「本当に不思議な勇者殿だ」
この感謝を少しでも返せる日が来ることを、切に願う。
@
ルージュ殿は、とても不思議な勇者だ。
「ふーんふーんふふんふーんふーん♪」
彼女の表情は、見ていて飽きるということがない。
楽しそうに目を輝かせながらきょろきょろと周りを見ていたかと思えば、急にぽけっとした表情を作ってなにやら考え事を始めたりする。案外、何も考えていないのかもしれない。
眠そうな顔でオレに寄りかかり、だらしのない寝顔を見せることもある。馬上で眠ることができるのは騎士の才能の一つとして数えられるが、彼女の場合は何か違う気もする。
そして今のように、決して安全とは呼べない街道の上だというのに、まるで気楽な旅を楽しむ貴族の令嬢か何かのように、のん気に鼻歌などを歌うこともある。
「その歌だが、確か森の中でも歌っていなかったか?」
「あ、はい。好きな曲なんです。うるさかったですか?」
「いや。いい歌だと思う。不思議だが、聞いていると力が湧いてくるようだ」
「そうですか!」
にへらと笑う。とても魅力的な笑顔だ。
「歌詞はないので、正確には歌ではないんですけどね」
「そうか。なんという曲なんだ?」
「分かりません。教えてくれませんでした。案外、名前なんてないのかもしれません。
ただ女神さまはこの曲を、私が最初の一歩を踏み出すことができるようにと贈ってくれました」
「そうか。女神様が、君に」
きっとそれは、あの日のことだろう。
彼女が初めて見る魔物に、スライムに真剣に怯えている時に。
我らが女神様は、この曲を与えることでルージュ殿を守ってくれたのだ。
しかし、最初の一歩を踏み出すための曲……か。
…………よし。
「ルージュ殿!」
「へぁい!? な、なんですか?」
おっと。いかん。気合が入りすぎて、また大声が出てしまったかもしれない。
だが、今さら止まることなどできるはずもない。
オレは初陣に出た時のような緊張を噛み殺し、この思いを伝えた。
「オレにその曲を教えてくれないだろうか?」
「え?」
「こう見えて、オレは口笛が得意なんだ」
驚いて見上げる彼女に笑いかける。
「君と一緒に歌いたい。どうだろうか」
しかし……。
これは存外、照れくさいものだな。
だが甲斐はあった。彼女は笑ってくれた。
「……はいっ!」
ルージュ殿は、とても不思議な勇者だ。
その実力は未だ底が知れない。恐らくフセオテ殿よりも遥かに優れた素質を持っているだろう。
オレの実力では、とても並び立って戦うことはできそうにない。
しかし、そんなオレにも守れるものがあるはずだ。
少なくとも、オレは。
何があろうとも、彼女の笑顔だけは守り抜いてみせる。
ゴードグレイス聖王国近衛騎士団が一兵卒として。
勇者だからでも、町娘だからでもない。ルージュという一人の少女に仕え、時に支え、時に守り、誠心誠意尽くすことを誓う一人の男として。
このアグニの誇りにかけて。
彼女とオレに一歩踏み出す勇気を与えてくれた女神の曲を、今のオレの精一杯の気持ちで奏でながら、オレは前へ歩いていく。
彼女と共に。
――♪
次回予告。
旅。温泉。そして宿。
湯煙温泉宿で起こる事件といえばやはり殺人事件!?
迷探偵女神トーラの送るカヨーサスペンス! 血湧き肉踊る一大スペクタクル!
果たして真犯人はいったい……誰だ!?
『真実は、金で買える!』




