始まり
その紳士が僕を訪ねてきたのは、さわやかな初夏の風が木々を揺らし、やわらかな太陽光が降り注ぐ、五月の半ばごろだった。
中間テストが終わり、幾分か心が軽くなった、ある土曜の午後、その人は忽然と僕の前に姿を現した。
僕の家は、縁側があって、風鈴がちりんちりんとなっているような、超和風的な家だ。
そんな、超和風的な家の縁側で、僕は久しぶりにガリガリ君ソーダ味を食べながら物思いにふけっていた。そんなとき―
ピンポーン!
チャイムが鳴った。
玄関先に出た僕は、異様な光景を目にした。
黒い背広、黒いシャツにズボン。そして黒いアタッシュケース。
全身黒で染め上げているその紳士で、ただひとつ眼を引くのが、襟元に結んだ真紅の蝶ネクタイだった。
その紳士は丁寧な口調で、しかし威厳のある声で僕に話しかけた。
「失礼ですが、聖貢君ですか?」
「そうですけど」
僕の名前をなぜか知っていた変人紳士に、僕は思いっきり疑いの目を向けて返事をした。
紳士は、それに動じるふうもなく、名刺を差し出しながら、僕にこう自己紹介した。
「吉見ゲーム株式会社の鎖部と申します。以後、お見知りおきを」
「どうも」
僕は名刺を受取り、それを眺めた。
なるほど。確かに、吉見ゲーム株式会社とあり、秘書・鎖部命とある。
吉見ゲーム株式会社の名前はゲームに疎い僕でもきいたことがある。小企業と吸収合併を図り、自社を大きく発展させた会社だ。ゲームの種類も豊富で、電子ゲームからすごろくに至るまで、ゲームという名のつく、ありとあらゆる商品が出揃っている。
僕はこの会社は何もしなくても億単位のお金が秒刻みで入って来るのではないかと思っている。もちろん、確証などないが。
僕は鎖部なる男と向き合った。
「それで、大企業の秘書である貴方が僕にいったい何の用で?」
鎖部というその紳士は、僕のつっけんどんな態度に少しも嫌な顔をせず、代わりにとびっきりの営業スマイルを向けて信じられないことを口にした。
「貴方が、我が社が新しく開発したゲームの参加者として選ばれたことをお知らせします。つきましては、明後日の午後5時に横浜港を出港します〝ロイヤル・ヨシミ号〟に乗船いただき、一週間のゲームに参加していただきます」
僕の頭の中は、既に夢と現実の区別がつかなくなっていた。
ネーミングセンスのない船だなあ、とか、横浜港って神奈川県だよねえ、とか、どうでもいいようなことばかり思いついて、肝心なところは全然考えられなかった。
鎖部の口調は丁寧だったが、逆らえるような雰囲気は全くと言っていいほどなかった。
鎖部はさらに続けた。
「御両親には事情をお話しし、既に了承を得てあります。貴方は一週間分の旅支度を整えていただきます。用意するものは各自で決めていただいて構いません。それでは、明後日の朝10時にお迎えに上がります。」
放心している僕に鎖部はにっこり微笑んだ。
そして、僕に一枚の封書を手渡し、玄関先から姿を消した。
残ったのは、放心している僕と溶けかかったガリガリ君ソーダバー、そして一枚の封書のみだった。
こうして、僕は〝ゲーム〟へと導かれていった。