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十八歳の誕生日なのに、みんなは私が十八年前に死んだと言う

作者: 熾星
掲載日:2026/10/31



 十八歳の誕生日。私はケーキのろうそくを吹き消した。


 会場の照明が戻った途端、私を囲んでいた友人たちが悲鳴を上げた。真帆は口元を押さえ、後ずさりした拍子に壁へぶつかった。それでも私から目を離せず、震える指でこちらを指さしている。


「いやああっ! 死体よ! 顔が腐ってる!」


 私は自分の頬に触れた。肌は滑らかで、化粧も崩れていない。淡いピンクのマニキュアを塗った指も、白いドレスも、さっきまでと変わらなかった。


 それなのに、友人たちには私が腐り果てた死体に見えているらしい。


 前世の私は、周囲の人間から化け物扱いされ、火葬場で生きたまま焼き殺された。


 そして今、十八歳の誕生日に戻ってきた。


 震える手で祖母に電話をかけると、懐かしい声が返ってきた。祖母は優しく私をなだめ、家に帰れば厄を払ってあげると言った。私の好きなおはぎも用意してあるらしい。


 私は上着を取りに戻る余裕もなく、ホテルを飛び出した。


 晩秋の街を裸足で走り、ようやく御影家の屋敷にたどり着く。玄関の扉に手をかけたとき、奥から祖母の声が聞こえてきた。


「玄道さんの言うとおりね。千景が死んだと思わせれば、あの子の命を直哉に移せるそうよ。帰ってきたら、あの水を飲ませましょう」


 車椅子に座った弟が、弾んだ声で尋ねた。


「ばあちゃん、これで僕は死なずに済むんだよね?」


「もちろんよ。十八年も育てた甲斐があったわ。最後くらい、弟のために役立ってもらわなくちゃね」


 私は玄関の前で動けなくなった。


 誕生日会で起きたことは、偶然ではなかった。


 家族は、私が死ぬのを待っていたのだ。


 けれど、彼らは知らない。


 私は一度、彼らに殺されている。


 今度は黙って命を差し出すつもりはなかった。



1



「きゃああっ! 蛆がいる! 本当に蛆が湧いてる!」


 誕生日パーティーの会場に悲鳴が響いた。私はケーキナイフを手に、長テーブルの前に立ち尽くしていた。テーブルクロスにはクリームがこぼれ、床には倒れたグラスが散らばっている。さっきまで笑っていた同級生たちは、出口へ向かって我先にと逃げ出していた。


 真っ先に壁際へ逃げたのは真帆だった。胸元を押さえ、顔を真っ青にして私を指さしている。何か言おうとしても、吐き気がこみ上げるのか、声がうまく出ないようだった。


「真帆、どうしたの? 私だよ。千景だよ」


 私は彼女に近づこうとした。


 真帆はテーブルに残っていたグラスをつかみ、私に向かって投げつけた。グラスが肩をかすめ、赤いジュースが白いドレスに飛び散る。


「来ないで! 顔の肉が剥がれてるじゃない!」


 私は足を止めた。


 恐る恐る頬に触れる。皮膚に異常はなかった。グラスが当たった肩には鈍い痛みがあったものの、血も出ていない。


 周囲から、怯えた声が次々と上がった。


「目玉が落ちそう……」


「臭い! 腐った臭いがする!」


「誰か、警察を呼んで!」


 私は化粧室へ駆け込んだ。鏡の前で息を切らしながら顔を確かめる。そこに映っていたのは、きれいに巻いた髪と、上品なドレスに身を包んだ十八歳の少女だった。恐怖で頬が赤くなっているだけで、腐った肉も蛆も見当たらない。


「どうして……。私、何も変わっていないのに」


 廊下から足音が聞こえた。扉を開けた誰かが私を見るなり悲鳴を上げ、逃げていく。


 鏡の中の自分から、目が離せなかった。


 おかしいのは私の体ではない。周囲の人間には、私が別の姿に見えているのだ。


 震える手でスマートフォンを取り出し、祖母の番号を押した。


 幼い頃、熱を出した私のそばにいてくれたのは祖母だった。学校で嫌なことがあった日も、彼女だけは私を抱きしめてくれた。父と母が直哉の世話にかかりきりだった御影家で、祖母は私にとって唯一、安心して甘えられる相手だった。


 呼び出し音が数回鳴り、懐かしい声が聞こえてきた。


「千景、どうしたの? そんなに泣いて」


「おばあちゃん……みんなが私を死人だって言うの。顔が腐ってるって。私、どうしたらいいの?」


「大丈夫よ。きっと悪いものに取り憑かれたんだわ。すぐに帰っておいで。おばあちゃんが厄を払ってあげるから。温かいおはぎも用意してあるよ」


 祖母の声を聞いて、張り詰めていた息が少しだけ緩んだ。


 私は上着を取りに戻ることさえ忘れ、ホテルを飛び出した。入口に停まっていたタクシーに駆け寄ったものの、運転手は私の顔を見るなり目を見開き、車を急発進させた。ガードレールにぶつかりそうになりながら走り去る車を、私は呆然と見送った。


 そのときになって、靴を履いていないことに気づいた。


 晩秋の風が足元を吹き抜ける。裸足でアスファルトを踏むたび、細かな石が皮膚に食い込んだ。道ですれ違う人々は私を避け、若い男たちはスマートフォンを向けて笑っている。


 それでも私は走った。


 家に帰れば、祖母が助けてくれる。


 そう信じるしかなかった。


 御影家の門にたどり着いた頃には、足の裏から血が滲んでいた。庭の灯りが点き、玄関からは子供の頃と変わらない香の匂いが漂ってくる。私は門柱に手をつき、呼吸を整えてから玄関へ向かった。


 扉に手をかけたところで、祖母の声が聞こえた。


「玄道さんは、はっきりおっしゃったの。今夜、千景が死人だと思い込まれれば、あの子の生気を封じられるって」


 父が尋ねた。


「本当に、あの水を飲ませればいいんだな?」


「ええ。屍油を混ぜた呪水よ。飲ませれば、儀式は完成するわ」


 車椅子の車輪が回る音がした。続いて、直哉の楽しそうな声が聞こえてくる。


「ばあちゃん、姉ちゃんは本当に腐り始めてるの? 僕、もうすぐ元気になれる?」


「そうよ。もう少しの辛抱だからね。今夜が終われば、苦しい思いをしなくて済むわ」


 祖母は、子供を寝かしつけるような口調で続けた。


「千景の命はおまえに移るんだから。十八年も育てたんだもの。最後くらい役に立ってもらわなくちゃ」


 私は扉から手を離した。


 家の中から漂う香の匂いも、壁に掛けられた灯籠も、幼い頃から見慣れたものばかりだった。そこにいるのも、間違いなく私の家族だった。


 その人たちが、私の死ぬ日を相談している。


 足元で、小さな音がした。


 踏んでしまった木板が軋んだのだ。


 屋内の話し声が止まった。


「誰かいるの?」


 祖母の声から、優しさが消えた。


 私は口元を押さえ、息を殺した。



2



 しばらく沈黙が続いたあと、玄関の扉が開いた。


 祖母は濃い色の和服をまとい、黒い陶器の碗を持っていた。中には墨汁のように濃い液体が入っており、表面には油の膜が浮いている。鼻を刺す生臭さに、私は思わず顔を背けた。


 直哉は車椅子に座り、私を見ていた。いつもなら体を起こすだけでも苦しそうなのに、今は口元を歪めて笑っている。


「姉ちゃん、帰ってきたんだ。いい匂いがするね」


 私は一歩退いた。


「飲みたくない。おばあちゃん、それをやめて」


 祖母の笑顔が消えた。


 彼女は私の手首をつかみ、碗を顔の前へ押しつけた。老人とは思えない力だった。黒い液体が縁からこぼれ、木の床に落ちる。ジュッという音とともに、白い煙が立ち上った。


「直哉は命が尽きかけているんだよ。それなのに、おまえはまだ自分のことばかりかい?」


「さっきの話、全部聞いたよ!」


 私は必死に腕を引いた。祖母はもう片方の手で私の顎をつかみ、口を開かせようとする。


「直哉のために飲みなさい!」


「お父さん! お母さん! 助けて!」


 階段を下りる足音が聞こえた。


 父が現れ、その後ろから母が麻縄を持って降りてきた。縄には、すでに結び目が作られている。私はそれを見つめた。


 最初から、私を縛るつもりだったのだ。


「お父さん、本当に私を殺すの?」


 父は眼鏡を押し上げた。


「千景、いい加減にしなさい。直哉は体が弱いんだ。姉のおまえが少しくらい譲ってやってもいいだろう」


 母は視線を落としたまま、麻縄を握り直した。


「玄道さんが言っていたの。今夜おまえが死ねば、直哉は助かるって。お願いだから、協力してちょうだい」


「私が死ぬことが、協力なの?」


 母は答えなかった。


「外の人たちは、もうおまえを死人だと思っている。前と同じ生活には戻れないかもしれないわ。だったら……」


 母は唇を噛んだ。


「今夜のことを済ませたほうがいいでしょう?」


 私は両親を見つめた。


 幼い頃、熱を出した私の枕元に置かれた薬。誕生日に母が焼いてくれたケーキ。学校で泣いて帰った日に、祖母が抱きしめてくれた腕の温かさ。忘れたくなかった記憶が、次々と浮かんでは消えていった。


 祖母が碗を持ち上げた。


「飲みなさい!」


 私は膝を思い切り跳ね上げた。


 祖母の腹に直撃し、彼女は悲鳴を上げて倒れた。碗が床に落ちて砕け、黒い水が畳に飛び散る。父が飛びかかってきたが、私は玄関脇の靴箱を押し倒した。大きな音に父が足を取られ、その隙に扉を開けて外へ飛び出した。


「千景! 戻ってきなさい!」


 母の叫び声が背後から追ってきた。


 私は振り返らなかった。


 住宅街を駆け抜ける。通行人は私を見るなり悲鳴を上げ、近くの店へ逃げ込んだ。誰かが警察に通報し、別の誰かが遠くからスマートフォンを向けている。


 一台のパトカーが道路を通り過ぎた。


 私は助けを求めようと手を伸ばしたが、祖母の言葉が頭をよぎった。


 周囲の人間が私を死人だと思い込めば、私の生気は封じられる。


 警察官まで私を死体だと思ったら、どうなるのだろう。


 前世の記憶が蘇り、足が止まった。


 私は路地へ折れ、ゴミ袋や段ボールが積まれた狭い通路に身を隠した。腐った食べ物の臭いが鼻を突いたが、今は気にしていられない。壁際にしゃがみ込み、膝を抱えて震えていると、路地の入口から足音が近づいてきた。


「そこにいるんだろ。出ておいで」


 若い男の声だった。


 私は足元に落ちていたガラス片を拾った。


 黒い上着を着た青年が、青白い火を灯した紙灯籠を手に入ってきた。彼は私を見ても悲鳴を上げず、逃げもしなかった。


「あなた……私が見えるの?」


「見えるよ。ドレス姿で裸足のまま、傷だらけになって逃げ回っている女の子がな」


 青年は私の足元へ視線を落とした。


「俺は鳴海朔。おまえ、妙な呪いをかけられてるな。活屍の呪いだ」



3



 私は朔が差し出した手を取らなかった。


「私を捕まえて、誰かの身代わりにするつもり?」


「そう思うなら、ここで大声を出してみればいい。俺がおまえを害するつもりなら、とっくにそうしている」


 朔はウェットティッシュと包帯を取り出し、私の隣へ置いた。無理に近づこうとはしない。私はしばらく彼の顔を見つめたあと、ガラス片を脇へ置き、血の滲んだ足を拭いた。


「どうして、みんなには私が死体に見えるの?」


 朔は紙灯籠を地面へ置き、私の眉間に目を向けた。


「死気がまとわりついている。おまえ自身の体が腐っているわけじゃない。死気がおまえの姿を覆い隠してるんだ。周りの人間には、呪いが見せる姿しか見えていない」


「祖母は、みんなが私を死人だと思えば、弟に私の寿命を移せるって言っていた」


「寿命を簡単に移せるなんて、術を知らない人間を騙すときの言い方だ。あいつらがやっているのは、借命じゃなく身代わりの術だろう」


 朔は私の反応を確かめるように、少しだけ言葉を切った。


「おまえの弟は、十年前には死んでいたはずだ。体は死んでいるのに、禁術で動かされている。別の魂を入れて、生きているように見せかけてるんだ」


「そんなはずない。直哉はずっと家にいたし、私も一緒に暮らしてきたのよ」


「体が動いていることと、生きていることは同じじゃない」


 言い返そうとして、声が出なかった。


 朔の話では、死者の魂を迎えに来るものから逃れるため、術師は別の人間を身代わりにすることがあるらしい。私を活屍に仕立て、周囲の人間に死者だと思い込ませる。そうすれば、私の魂まで死者として扱われ、連れていかれる。その間、直哉は私の寿命を使い続けるのだという。


 祖母が持っていた黒い水。母の麻縄。父の冷たい目。


 さっき目にしたものが、ひとつにつながった。


「私はどうすればいいの? このまま待っていたら、死んでしまうの?」


「怖がって逃げ続け、自分はもう助からないと思い込めば、死気に魂を食い込まれる。生きたいなら、あいつらの思いどおりに動くな」


 朔は少し考えてから、言葉を継いだ。


「血のつながりが、術の弱点になることもある。あいつらはそのつながりを利用して、おまえを苦しめてる。なら、逆に利用してやればいい。術をかけた側に反動を返せるかもしれない」


 朔は私の手首を取り、脈を確かめた。触れられた場所が、かすかに温かくなる。


「それに、おまえの魂は妙に強い。死気に覆われているのに、まだ完全には飲み込まれていない。何かに力を封じられているようにも感じる」


「私に、そんな力があるの?」


「今はわからない。ただ、術が切れれば何か変化があるかもしれない。だから、絶対に自分の命を諦めるな」


 私は包帯を巻いた足に力を入れ、ゆっくり立ち上がった。傷はまだ痛んだが、逃げることだけを考えていたときとは、気持ちが違っていた。


「みんなが私を幽霊だと思っているなら、私から会いに行ってあげる」


 朔が眉を上げた。


「家族が私をここまで追い詰めたんだもの。大人しく殺されるなんて、ごめんよ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。



4



 朔は鞄から護身符を取り出した。


「胸に貼っておけ。死気が心臓まで入り込むのを抑えられる。ただし、長くは持たない」


 私は符をドレスの内側にしまい、御影家へ戻った。


 屋敷の客間には煙が立ち込めていた。仏壇の前には私の写真が置かれ、位牌の脇には線香が立てられている。祖母と両親、直哉は火鉢を囲み、私の服を燃やしていた。


 母は目元を拭いながら、衣服を火の中へ放り込んでいる。


「千景、向こうでは幸せに暮らすのよ。家族を恨んじゃだめだからね……」


 直哉が私を見つけた。


 手にしていた紙が床へ落ち、彼は悲鳴を上げた。


「母さん! 姉ちゃんが帰ってきた!」


 家族全員が振り返った。


 私は髪を顔に垂らし、足を引きずりながら進んだ。喉の奥から、ひゅうひゅうと空気が漏れるような音を出す。


 母は悲鳴を上げて後ずさり、火鉢のそばに尻餅をついた。父の手から紙が散り、顔から血の気が引いていく。祖母だけは仏壇の縁をつかみ、必死に強がっていた。


「何を怖がっているの! この子はもう死んでいるんだよ!」


 私は髪の隙間から直哉を見つめた。


「直哉……お姉ちゃん、寒いよ。ずっと暗いところにいるんだよ……」


 直哉は車椅子から転げ落ち、祖母の背中へ這い寄った。私の命を欲しがっていた弟が、目の前に私が現れただけで泣き叫んでいる。


 私は仏壇へ向かい、香炉を床へ叩きつけた。香灰が飛び散り、木彫りの仏像が倒れて割れる。供物を払い落とし、火鉢も蹴り倒した。赤い炭が畳を転がり、燃やしていた衣服に火が移った。


「ここは私の家よ。誰にも追い出させない!」


 祖母が懐から黒い銅鈴を取り出した。


「騒ぐんじゃない! 跪きなさい!」


 耳をつんざく音が響いた。頭の奥に針を刺されたような痛みが走り、視界が暗くなる。胸元の護身符が熱を帯びた。私は舌を噛み、口の中に広がった血の味で意識をつなぎ止めた。


 祖母が再び鈴を振ろうとした瞬間、私は駆け寄って奪い取った。


「玄道さんからいただいた摂魂鈴なんだよ! 返しなさい!」


「魂を操れるんでしょう? だったら、まず自分で試してみればいい」


 私は鈴を仏壇の台座へ叩きつけた。


 木の台座が割れ、残っていた仏像も真ん中から裂けて床に落ちた。祖母は胸を押さえ、喉の奥から悲鳴を上げた。口から黒い血が噴き出し、そのまま床へ崩れ落ちた。



5



「おばあちゃん!」


 父が祖母を抱き起こし、怒りに震える目で私をにらみつけた。


「御影千景! 自分の家族にまで手を出すなんて、気が狂ったのか!」


「家族? 私の命を直哉に渡そうとしたとき、あなたたちは私を娘だと思っていたの?」


 父は口を開いたものの、何も言えなかった。


 直哉は車椅子の上で苦しみ始めていた。顔色が急速に青紫へ変わり、喉を押さえながらもがいている。


「父さん……息ができない……助けて……!」


 母は直哉に駆け寄り、泣き叫んだ。


「千景、お願いだからやめて! 直哉が死んでしまう!」


 私は弟を見た。


 幼い頃、私が病気で寝込んでいたとき、直哉は私の薬を取り上げて遊んでいた。大切な物を欲しがられれば、祖母も両親も必ず譲るように言った。彼がどれほど私を傷つけても、家族は体の弱い弟を大切にしろと繰り返してきた。


 そして今、私の命まで奪おうとしている。


「直哉は、十年前に一度死んでいるんでしょう?」


 玄関の扉が勢いよく開いた。


 濃い色の和服を着た中年の男が、骨珠を巻いた腕を下ろしながら客間へ入ってきた。黒崎玄道だった。彼は割れた仏像を一瞥し、私へ冷たい視線を向ける。


「私の陣を壊しておいて、まだ平気な顔をしているとはな」


 祖母は床から手を伸ばした。


「玄道さん! 助けてください!」


 玄道は祖母を無視し、手首の骨珠をゆっくり動かした。


「小娘、なかなか度胸があるじゃないか」


 骨珠がばらばらにほどけ、空中に浮かび上がった。黒い炎へと変わった珠が、私の顔へ飛んでくる。


 そのとき、胸元の護身符が激しく熱を帯びた。


 金色の光が衣服の内側から溢れ、黒い炎を弾き返す。炎は壁にぶつかって爆ぜ、煙を上げながら消えた。


 玄道の笑みが消えた。


「護身符か。誰の助けを借りた?」


 私は答えず、テーブルにあった果物ナイフをつかんで首元へ突きつけた。刃先が皮膚に触れ、細い傷から血が流れる。


「それ以上、近づかないで!」


 父が駆け寄ろうとしたが、玄道が手を上げて制した。


「あなたたちは私の命が欲しいんでしょう? だったら、今ここで私が死んだらどうなるの? 強い怨みを抱えた悪霊になったら、直哉はどうなるの?」


 玄道は目を細めた。


「身代わりの術では、病死や寿命が尽きたように見せかけなければならない。おまえが怨みを抱えて死ねば、悪霊になる可能性がある。直哉の体では耐えきれないだろう」


 私は少しずつ玄関へ下がった。


「私を逃がして。もうこの家には戻らない。あなたたちにも二度と関わらないから」


 玄道はしばらく私を観察したあと、体を横へずらした。


 私は彼らから目を離さず、玄関を抜けた。


 庭の石畳に足を下ろしたとき、ようやく息を吐くことができた。


 背後から玄道の声が響く。


「逃げ切れたと思うなよ。おまえの生年月日も、身につけていた物も、こちらには揃っている。今夜、子の刻になれば、どこへ逃げても魂を呼び戻してやる」


 私はスマートフォンを握りしめ、夜の闇へ走り出した。



6



 朔は住宅街の外れで待っていた。私が駆け寄ると、彼はまず首筋の傷に目を向けた。


「思ったより派手に暴れたみたいだな」


「黒崎玄道が、子の刻に私の魂を呼び戻すって」


 時刻は午後十時を少し過ぎたところだった。子の刻が始まるまで、一時間もない。


 朔の表情が険しくなった。


「あいつはおまえの命引きを持っている。術を始められたら、魂を体から引き離されるぞ」


「だったら、今すぐ戻って取り返そう」


「無理だ。あいつはおまえを逃がしたあと、別の手を用意しているはずだ。今戻れば、相手の陣の中で戦うことになる」


 朔は羅盤を取り出した。盤面の針は落ち着きなく回転し、やがて市街地から離れた方角を指した。


「術を破るには陣眼を見つけなければならない。これほど大きな身代わりの術を維持するには、陰気を供給するものが必要だ」


 私は羅盤を見つめ、ふと思い出した。


「深見町の旧宅……!」


「直哉が子供の頃に住んでいた場所か?」


「十年前、直哉はあの近くの川で溺れたの。引き上げられたときには、もう息をしていなかった。おばあちゃんは一晩中泣いていて、そのあと、知らない術師が直哉を助けたのよ」


 それから直哉は体が弱くなり、私も原因のわからない病気にかかることが増えた。御影野市へ引っ越してからは少し体調がよくなったものの、大切な日があるたびに熱を出したり、怪我をしたりしていた。


 十年前の事故から、何かがおかしくなっていたのかもしれない。


「そこが陣眼である可能性は高い。子の刻が始まる前に行こう」


 私たちはタクシーを拾い、深見町へ向かった。


 市街地を離れると、道は次第に細くなり、両側には黒々とした林が続いた。街灯も消え、ヘッドライトが照らす道路だけが暗闇の中に浮かんでいる。


 しばらく走ったところで、私の指先が冷たくなり始めた。関節がこわばり、頭の中に靄がかかったようになる。耳元では何人もの人間が私の名前を囁いていた。


 千景。


 こっちへおいで。


 私は耳を塞ごうとしたが、腕にも力が入らなかった。


 朔が私の手をつかみ、掌に符を描いた。


「眠るな。俺を見ていろ。着くまで意識を保て」


 彼の手から温もりが伝わってきた。私は朔の顔を見つめ、何度も息を吸った。声を聞いているうちに、少しずつ意識がはっきりしてきた。


 午後十時五十分、タクシーは深見町の入口で停まった。


 村は異様なほど静まり返っていた。犬の鳴き声も虫の音も聞こえない。村の奥には古い屋敷が残り、周囲の木々は歪んだ枝を夜空へ伸ばしている。


「俺から離れるな。道端のものには触るな。誰かに名前を呼ばれても、絶対に返事をするな」


 朔は銅銭を連ねた短い剣を取り出した。


 私はうなずき、彼の後ろを歩き始めた。


 苔に覆われた石段を上るにつれ、胸が締めつけられるように苦しくなった。耳元から直哉の声が聞こえてくる。


「姉ちゃん……こっちへおいでよ。一緒に遊ぼう」


 私は唇を噛み、返事をしなかった。


「水の中は気持ちいいよ。姉ちゃんも降りておいで」


 湿った笑い声が、水底から響いているようだった。


 私は掌をつねり、痛みで意識を保った。


 やがて、旧宅の門が見えてきた。


 庭には雑草が伸び放題になり、中央には木板で塞がれた古井戸があった。その隙間から黒い煙が絶え間なく立ち上っている。まるで、井戸の底で何かが息をしているようだった。


「ここよ。直哉の事故のあと、おばあちゃんが人を呼んで塞いだの。子供が落ちたら危ないからって」


 朔は井戸へ近づき、板を持ち上げた。


 底には水が一滴もなかった。


 泥の中に、小さな骸骨が丸まっている。骨には赤い糸が何重にも巻きつけられ、その一端は井戸の壁へ伸び、もう一端は泥の中に打ち込まれた布人形につながっていた。


 人形の胸には、私の名前が書かれている。


 体には七本の長い釘が深々と打ち込まれていた。


「これが……直哉なの?」


 朔は井戸の縁にしゃがみ込んだ。


「そうだ。十年前、あいつは死んでいる。今の直哉は、別の魂を押し込まれ、禁術で動かされているだけの躯だ」



7



 私は井戸の底を見つめた。


 十年間、家族は直哉の体が弱いことを理由に、私へ我慢を強いてきた。祖母は弟がかわいそうなのだから譲ってやりなさいと繰り返し、父も母も、直哉が望むものは何でも与えた。


 その直哉が、十年前にはすでに死んでいた。


「どうすれば、これを壊せるの?」


 朔は鞄から紫色の符を取り出した。紙には朱砂で複雑な文様が描かれている。


「天雷符を使って浄火を起こす。骸骨と人形を焼けば、赤い糸が切れる。鎖魂杭が壊れれば、直哉を動かしている術も維持できなくなるはずだ」


 彼は空を見上げた。


「だが、子の刻までもう時間がない。向こうでも術が始まっているだろう。二つの術がぶつかれば、おまえの魂にも反動が返る。意識を失うかもしれないし、魂そのものに傷がつく可能性もある」


 私は井戸の底を見つめた。


 このまま逃げ続ければ、いつか必ず捕まる。家族は私の命を諦めないし、玄道も手を引くはずがない。


「もう逃げたくない。ここで鎖魂杭を壊さなければ、私はまた家に連れ戻される。あの人たちに殺されるくらいなら、ここで賭ける」


 朔はしばらく黙っていたが、やがて符を握り直した。


「わかった。俺の後ろに立て。赤い糸には触るな」


 彼は紫色の符を井戸の中へ投げ入れた。


「急急如律令、雷来!」


 夜空に雷鳴が響いた。


 符から青白い炎が上がり、やがて眩しい金色へ変わった。炎は赤い糸を伝って走り、骸骨と布人形を包み込む。


 その瞬間、私は悲鳴を上げて膝をついた。


 魂の中心に焼けた針を突き刺され、血管の中をかき回されているような痛みだった。私は頭を抱え、地面を転げ回った。視界の中に、十年前の光景が断片的に浮かび上がる。


 川の中でもがく直哉。


 岸辺で泣き叫ぶ祖母。


 直哉の体を抱き上げ、聞いたこともない呪文を唱える男。


 そして、赤い糸の先に横たわる小さな私。


 光景が消えると同時に、井戸の底から鋭い音が響いた。


 一本の赤い糸が切れたのだ。




 同じ頃、御影野市の屋敷では、黒崎玄道が祭壇の前に立っていた。


 子の刻が近づいている。玄道は布人形の眉間へ最後の釘を打ち込み、千景の魂を呼び戻す準備を進めていた。井戸の底につながる陣眼から陰気を引き出し、布人形に集めれば、千景の魂を引き寄せられるはずだった。


 ところが、釘を打ち込んだ途端、胸に激痛が走った。玄道は息を詰まらせ、口から黒い血を吐いた。


 手の中の布人形が燃え始める。


 赤い糸が次々と切れていった。直哉は車椅子の上で悲鳴を上げ、皮膚の表面から黒い膿を滲ませた。頬の肉が蝋のように溶け、顎へ垂れ下がっていく。


「馬鹿な……! 誰が鎖魂杭を壊した!」


 玄道が人形をつかもうとしても、炎は消えなかった。指先に焼けるような痛みが走り、祭壇の上に置かれた道具が次々と音を立てて砕けていく。


 最後の赤い糸が断ち切られた。


 頭の奥で、何かが壊れる感覚がした。


 十年間、ずっと体にまとわりついていた重苦しさが、少しずつ薄れていく。井戸の底から伸びていた赤い糸が切れるたび、胸の奥に押し込められていた何かが動き始めた。


 私は地面に手をつき、荒い息を繰り返した。朔が腕をつかみ、顔を覗き込んでくる。


「千景、聞こえるか?」


「……うん」


 声は掠れていた。それでも、自分の声が自分の耳に届いた。



8



 朔は私を引き起こした。


「立てるか? ここを離れるぞ」


 旧宅の壁に亀裂が走り、屋根瓦が次々と落ちてきた。鎖魂杭が壊れたことで、井戸の底に封じられていた陰気が制御を失っている。枯井戸の周囲の地面が沈み込み、裂け目から黒い煙が噴き出した。


 私は朔の腕を借り、庭を抜けた。


 林の端までたどり着いた瞬間、背後で大きな音が響いた。振り返ると、旧宅は土煙の中に崩れ落ち、枯井戸も倒れた梁に埋もれていた。


 私は木に手をつき、荒い息を整えた。指先には温もりが戻り、関節も自由に動く。胸を押し潰していた重苦しさも薄れていた。


 朔は懐中時計を確認した。


「子の刻に入った。術は切れたが、直哉の体にはまだ怨気が残っているはずだ。玄道が何をするかわからない。ここで安心するのは早い」


 その言葉を聞き終える前に、スマートフォンが鳴った。


 画面に表示されていたのは父の名前だった。


 通話に応じると、病院の救急処置室が映った。医師や看護師が慌ただしく動き回り、警報音が絶え間なく鳴っている。


「御影千景! おまえ、いったい何をしたんだ! 直哉が死にかけているぞ!」


 父がカメラを病床へ向けた。


 直哉は人間の姿をほとんど保っていなかった。全身に潰れたような傷が広がり、皮膚の下から黒い膿が滲み出ている。指は不自然な方向へ曲がり、ベッドのシーツをつかみながら、喉の奥から途切れ途切れの声を漏らしていた。


「自分で選んだ結果でしょう」


 父が言い返そうとしたとき、画面の端から冷たい笑い声が聞こえた。


 黒崎玄道だった。


 玄道は、直哉が運び込まれたと聞いて病院へ駆けつけていた。家族には治療を手伝うと告げ、直哉のそばに居座っているらしい。病室には呪符が貼られ、ベッドの下には黒い布に包まれた術具が置かれていた。医師たちは直哉の異常な状態に困惑していたが、玄道は彼らを遠ざけ、独自の方法で処置を続けていた。


 玄道の顔には黒い筋が浮かび、口元には血がこびりついている。彼の姿からは、先ほどまでの余裕が消えていた。


「鎖魂杭を壊したくらいで、勝ったつもりか?」


 玄道は私をにらんだ。


「直哉の命はもう保たない。ならば屍煞に変えてやる。怨気を注ぎ込んで、おまえを見つけ出させる。欠けた魂を補うには、おまえの魂が必要だからな!」


 玄道が呪符へ手を伸ばした瞬間、病室の照明が明滅した。直哉の体が大きく跳ね、医師が慌ててベッドから離れる。玄道はその騒ぎに構わず、呪文を唱え続けた。


 通話はそこで途切れた。


 朔の顔色が変わった。


「まずい。あいつ、直哉を屍煞にする気だ」


「屍煞って何なの?」


「鎖魂杭が壊れた以上、直哉は本来なら死ぬ。だが、玄道は残った怨気を使って、あいつを怪物に変えようとしている。人間だった頃の意識を失い、生きた人間を食らうことだけを求める存在だ」


 朔は御影野市の方角を見た。


 遠くの空に黒い雲が集まり始めていた。


「十年間、おまえと直哉はつながれていた。あいつは必ずおまえを狙ってくる」


 私はスマートフォンを握りしめた。


「だったら、待つしかないわね」


「市街地へ引き込むわけにはいかない。人のいない場所で迎え撃つ。今度こそ全部終わらせるぞ」


 私は彼の隣に並んだ。


「ええ。ここで終わらせましょう」



9



 私たちが選んだのは、御影野市の郊外にある廃化学工場だった。


 工場はずいぶん前に操業を停止しており、周囲の塀は崩れ、錆びた金属缶があちこちに積み重なっている。建物の窓ガラスはほとんど割れ、屋根の一部も崩れていた。夜になると人の気配はなく、遠くの道路を走る車の音だけが聞こえる。


 朔は工場の周囲を歩き、赤い糸と銅銭、符紙を使って結界を張った。出入口をつなぎ、敵が入り込めば逃げ道を塞げるように陣を組んでいく。


 私は指示された場所に立ち、指先を小さく切った。


 血を一滴、陣眼につながる赤い糸へ落とす。糸は一瞬だけ金色に光り、すぐに暗い赤色へ戻った。


「これで本当に効くの?」


「おまえと直哉をつないでいた術は、まだ完全には消えていない。あいつはおまえの魂を食らおうとしている。なら、そのつながりを逆に利用すればいい。おまえの血を餌にすれば、必ず陣の中へ入ってくる」


 私はうなずいた。


 旧宅を離れたのは午前零時を少し過ぎた頃だった。朔は途中で必要な道具を集め、私は傷の手当てを受けながら工場まで移動した。結界を張り終えた頃には、夜はすっかり深まっていた。


 午前二時。


 工場の周囲を、腐臭を含んだ風が吹き抜けた。


 朔が銅銭の剣を握り直す。


「来たぞ」


 暗闇の奥から、爪がコンクリートを引っかく音が聞こえてきた。やがて工場の影から、四つん這いになった異形の姿が現れた。


 身長は二メートルを超えている。全身の皮膚は焼け焦げたゴムのように裂け、ところどころから黒い肉が覗いていた。長い爪が地面を削り、口元からは緑色の涎が垂れ落ちている。


 赤い目が、私を捉えた。


 腐敗した顔の奥には、かつての直哉の面影が残っていた。


「姉ちゃん……香り……食べさせろ……」


 直哉が私へ飛びかかってきた。


「起陣!」


 朔が叫ぶと、工場の周囲に張られた赤い糸が一斉に金色の光を放った。光の網が直哉の体を覆い、皮膚を焼き始める。傷口から黒煙が上がり、直哉は苦しげに咆哮した。


 だが、直哉は暴れながら結界の一角を力ずくで引き裂いた。


 反動で朔の体が後方へ押し戻され、口元から血が滲む。


「どれだけ怨気を溜め込んだんだ……!」


 直哉が赤い網を突き破った。


 目には人間らしい感情が残っていない。私だけを見つめ、低い唸り声を上げながら迫ってくる。


 私は床に落ちていた鉄棍を拾った。


「直哉! 私が誰なのか、わかる?」


 一瞬だけ、直哉の動きが止まった。


 朔はその隙に飛び出し、銅銭の剣を直哉の背中へ深々と突き立てた。直哉は耳をつんざくような叫び声を上げ、体をひねって爪を振るった。


 朔の体が吹き飛び、コンクリートの壁に激突した。


「朔!」


 私は駆け寄ろうとした。


 しかし、直哉が立ちはだかった。


 直哉はゆっくりと近づいてくる。腐った顔には、幼い頃に甘えてきたときの面影がわずかに残っていた。


「姉ちゃん……助けて……」


 私は鉄棍を握る手に力を込めた。


 直哉は私の大切なものを奪い、家族に我慢を強いらせてきた弟だった。十年前に死んでいたのに、家族は彼を守るために私の命を吸い続けた。今は私の魂まで食らおうとしている。


 朔は、私には生まれつき強い魂の力があると言っていた。鎖魂杭に縛られていたため、本来の力を発揮できなかっただけだという。


 井戸の底で赤い糸が切れたとき、胸の奥で何かが目を覚ますような感覚があった。死気に押さえ込まれていた力が、今も体の内側で熱を帯びている。傷口から流れる血が、直哉の体へつながる糸を通じて、かすかに反応していた。


 直哉が私の魂を食べようとするなら、こちらからその力を流し込めばいい。


 私は鉄棍を下ろし、両腕を広げた。


 直哉は私が抵抗を諦めたと思ったのか、喉の奥で唸った。四つん這いになり、勢いよく飛びかかってくる。


 私は逃げなかった。



10



 直哉の牙が、私の肩へ深々と食い込んだ。


 激痛が全身を駆け抜ける。歯が骨に当たる感触が伝わり、血が腕を伝って流れ落ちた。それでも私は手を離さず、腐り果てた頭を抱え込み、直哉の体を胸元へ押しつけた。


「私たちは血がつながっているんでしょう? だったら、一緒に地獄へ落ちなさい!」


 鎖魂杭が壊れたことで戻ってきた魂の力を、傷口から直哉の体へ流し込む。


 直哉が激しく暴れ始めた。


 黒ずんだ皮膚の下に金色のひびが走る。焼けた岩のような光が体内を流れ、裂け目から眩しい光が漏れ始めた。直哉は私の背中を叩き、長い爪で服を引き裂きながら苦しげな声を上げる。


「熱い……! やめろ……姉ちゃん、やめてくれ……!」


 その声には、ほんの少しだけ、かつての直哉の恐怖が戻っていた。


 私は歯を食いしばった。


 長い年月をかけて吸い上げられ、封じ込められていた力が、直哉の体内で膨れ上がっていく。皮膚が裂け、骨が軋み、周囲の空気まで歪み始めた。


 私は残っていた力をすべて注ぎ込んだ。


「消えなさい!」


 轟音が工場全体を揺るがした。


 直哉の体は急激に膨張し、眩い光の中で弾け飛んだ。腐った肉が黒い液体となって床へ飛び散り、強烈な悪臭が辺りに広がる。黒い液体はコンクリートをじゅうじゅうと溶かしながら広がり、やがて色を失っていった。


 私は直哉を抱えていた腕を離した。


 体が床へ倒れ込む。肩の傷から血が流れ、視界が少しずつぼやけていった。


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。


 壊れた窓の向こうで赤と青の光が揺れ、人影が工場の中へ駆け込んできた。


 最後に見えたのは、壁際に倒れている朔の姿だった。


 名前を呼ぼうとした。


 けれど、声が出なかった。



11



 次に目を開けたとき、私は病院のベッドに横たわっていた。


 カーテン越しに日差しが差し込み、消毒液の臭いが鼻をつく。肩には厚い包帯が巻かれ、少し動かしただけでも痛みが走った。天井を見つめたまま、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。


 顔を横へ向けると、朔がベッド脇の椅子に座っていた。額には包帯が巻かれ、小さなナイフでリンゴの皮を剥いている。


「目が覚めたか?」


 私は掠れた声で尋ねた。


「私……生きてるの?」


「悪運の強いやつだな。そう簡単には死なないらしい」


 笑おうとしたが、肩の傷が引きつり、顔をしかめた。朔は呆れたように息を吐き、切り分けたリンゴを器に入れた。


「警察には、あの夜のことをどう説明したの?」


「工場で爆発が起きたのは事実だからな。現場には化学物質も残っていた。警察は漏洩による中毒症状や爆発事故の可能性を調べている。詳しいことはまだ調査中らしい」


 私はリンゴを見つめた。


「黒崎玄道は? それから、お父さんとお母さんは……?」


「玄道は死んだ。術の反動に耐えきれなかったらしい。遺体は工場の近くで発見された。体には獣に引き裂かれたような傷がいくつもあったそうだ」


 朔は少し間を置いた。


「おまえの両親も精神的にかなり参っている。今は精神科で治療を受けているらしい。枕を抱きしめて直哉の名前を呼んでいると聞いた」


 私は窓の外を見た。


 家族が報いを受ければ、胸のつかえが取れると思っていた。彼らが苦しみ、私が味わった恐怖を知れば、気持ちが晴れるはずだった。


 けれど、話を聞いても、胸の奥から湧いてくるものはなかった。


 長い間、私を苦しめていた重荷が取り除かれたような、空っぽな感覚だけが残っていた。


 ふと思い出して、私は顔を上げた。


「真帆は?」


「誕生日会にいた友達か? 何日も病室の前で待っていたぞ。毎日泣きながら会わせてくれって言うから、うるさくて追い返した」


「どうして、そんなに……?」


「謝りたいんだと。おまえが退院したら、好きなものを何でもごちそうするって言っていた」


 私は手元のリンゴを見つめた。


 涙が一滴、膝の上へ落ちた。


 真帆はあの夜、本当に恐ろしかったのだろう。彼女の目には、私とは違う姿が映っていた。目の前に腐った死体が立っているように見えたのなら、逃げ出したくなるのも無理はない。


 それでも、真帆は私が目を覚ますまで病室の外で待っていてくれた。


 私は手の甲で涙を拭い、リンゴを口に運んだ。


 窓から差し込む日差しは、思っていたより温かかった。



12



 一年後、私は御影野総合大学に合格した。


 この街には、今も思い出したくない場所がいくつも残っている。それでも、私はひとりで道を歩けるようになったし、他人の視線を必要以上に気にすることもなくなった。短く切った髪は以前より軽く、Tシャツとジーンズで過ごす日々は気楽だった。肩の傷も、薄い痕を残すだけになっている。


 あの夜の出来事は、私と朔だけが知る秘密になった。


 公表された調査結果では、廃化学工場で起きた事故として処理されている。一方、霊的な事件に関わる人々の間では、御影千景という名前が少しずつ知られるようになっていた。


 普通の人間の体で屍煞を倒した少女。


 古い呪術を受け継いだ者。


 そんな噂を耳にすることもあったが、私は気にしていなかった。


「何を考えてる?」


 頬に冷たいものが押し当てられた。


 朔が買ってきたアイスミルクティーだった。私は肩をすくめ、彼をにらんでから飲み物を受け取った。


「今夜、何を食べようかなって考えてたの」


「今夜は仕事だ。飯のことは後にしろ」


 朔が顎で示したのは、少し先にある講義棟だった。


 最近、夜になると建物の中から泣き声が聞こえるという。階段を上っていた学生が、窓際に白い服を着た女が立っているのを見たとも話していた。学校側が何人かに調べさせたものの原因はわからず、最後には朔のもとへ相談が持ち込まれたらしい。


 朔は私を見て、挑発するように笑った。


「どうする、御影の女傑さん。小遣い稼ぎに付き合うか?」


 私は眉間に触れた。


 かつて、そこには重い死気がまとわりついていた。今はもう、何も感じない。


 家族に命を奪われかけたあの夜から、私は少しずつ自分の生活を取り戻してきた。けれど、この世界には、誰にも信じてもらえず、恐怖の中に閉じ込められている人がまだいる。


 私自身が、そうだった。


 何を訴えても信じてもらえず、逃げる場所さえ見つからなかった。あのとき朔が声をかけてくれなければ、私は再び死んでいたかもしれない。


 自分にできることがあるなら、同じ思いをする人を放っておきたくなかった。


 私はミルクティーを飲み干し、空になったカップをゴミ箱へ放り込んだ。


「行こう。ただし、報酬は半分ずつだからね」


 朔は顔をしかめた。


「ちゃっかりしてるな」


「当然でしょ。私は一度死にかけたんだから」


 朔は呆れたようにため息をつき、講義棟へ向かって歩き出した。


 私はその隣に並んだ。


 木々の間から日差しが差し込み、二人の影が長く伸びていく。


「ねえ、朔。終わったら何か食べて帰ろうよ」


「仕事が片づいてから考えろ」


「じゃあ、報酬から食事代を引くから」


「おい、勝手に決めるな」


 私は笑いながら、彼の隣を歩き続けた。


(完)






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― 新着の感想 ―
これ、普通にシリーズ物にして欲しいです。
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