番号呼び :約5500文字
「二百四十一万一千五百七十番様ー、二百四十一万一千五百七十番様ー?」
――ん?
「あ、二百四十一万一千五百七十番様。お席のご用意ができましたので、こちらへどうぞ」
……は?
おれはゆっくりと顔を上げ、眉をひそめた。
視線の先に立っていた店員は、おれの顔を見つめ、不思議そうに瞬きを繰り返した。
いや、今なんて言った? 二百四十一万一千五百七十番……だと。まさか、おれのことか?
昼時のチェーン店のファミレス。店内は家族連れや学生、昼休みに入った会社員で混み合っており、入口付近の待合スペースには順番を待つ客が何人か腰を下ろしていた。幼い子供の笑い声や皿が触れ合う音が絶えず聞こえてくる。
おれも受付表に名前を書き、空いた椅子に座って静かに順番を待っていた。
なのに……なんだ、今の呼び方は。二百四十一万一千五百七十番? はあ?
「どうなさいました? こちらへお越しください」
こ、こちらへお越しください? こっちは来るたびに毎回数千円は使う上得意のお客様だぞ。まずは『本日はよくお越しくださいました』と目の前で膝をつくべきだろうが……いや、それはどうでもいい。
そんなことよりどういうことだ。わざわざ名前を書かせ、十分以上も待たせておいて、その挙句に番号で呼ぶだと。
ここは刑務所か! 名前で呼べよ! いったいどういうつもりだ!
……と、腹の虫がおさまらないものの、腹は減っている。ここで怒鳴りつけて店を追い出されたら、泣きを見るのは自分の腹だけだ。
おれは奥歯をぎりりと噛み締め、込み上げる怒りをどうにか飲み込むと、店員の後ろについて無言で席へ向かった。
料理を食べ終える頃には、頭に上っていた血もいくらか引いていた。
いやいや、まあよかった。お互いにな。もし今も腹が立ったままだったら、会計をすっぽかして店を出ていたかもしれない。……なんて、ただの無銭飲食だな。おれは鼻を掻き、自嘲気味に笑った。
とはいえ、胸の奥の引っかかりはまだ消えていなかった。だから会計の際、おれはレジの店員に訊ねることにした。
「こちらお釣りになります。またのお越しをお待ちしております」
「なあ、あんた」
「はい?」
「二百四十一万一千五百七十番ってなんだ。ここは刑務所か? ……いや、それ以前になんなんだその数字は。二百四十一万一千五百七十って、でかすぎるだろ!」
おれはそう言い放った。直後、しまったと思った。
話しているうちについ感情が昂り、思いのほか声が大きくなってしまった。これでは店員を威圧しているように見えてしまう。と、思ったのだが、店員の女は怯えるどころか、きょとんとした顔で小首を傾げた。
まるで『何を言っているんだろう』とでも言いたげな、その口を尖らせた表情がおれの神経をじわりと逆撫でした。
しかし、ふと周囲を見渡すと、近くの席の客がこちらを見ているのに気づいた。これ以上騒げば、こちらが変人扱いされてしまう。
「……ま、気をつけるように」
おれは短く咳払いをして話を切り上げ、レシートをポケットに押し込むと、そのまま店を後にした。
しかし、外に出ても怒りは収まらなかった。後頭部がカーッと熱くなり、むずむずとしたかゆみを感じた。
あとで公衆電話から本部にクレームを入れてやる。客を番号で呼ぶなんて、接客としてどう考えてもおかしいだろう。しっかりと名前を名乗って、管理本部長を指名してやる。絶対に逃がさんぞ――そう息巻きながら、おれは歩道をずんずんと歩いた。
「おーい、二百四十一万一千五百七十番くん。おい」
「……は? あっ」
背後から声をかけられ、おれは振り返った。そこに立っていたのは会社の上司だった。
おれは慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。
「これはどうも、課長」
「おお。今から昼飯かい?」
「いえ、ちょうど食べ終わったところでして……」
「そうか。じゃあ一緒に会社に戻るか」
「は、はい!」
どうやら今おれが睨みつけたことには気づいていないらしい。おれはほっと小さく息を吐いた。
しかし、考えれば考えるほど腹立たしい話だ。いったい何なんだ、あの店は。客への応対というものは、名前に『さん』や『様』を付けて呼び、会計が済んだら入口まで見送り、深々と一礼して送り出す。それが接客というものだろう。それを何だ。どうして見ず知らずの受付女に番号で呼ばれなければならないのだ。
個人情報保護のためか? 馬鹿を言っちゃいかん。個人情報、個人情報と、言葉だけを振り回し、その意味をろくに理解していない連中が何でもかんでも過剰反応するから、こんな窮屈な世の中になったんだ。おれがいつどこで「氏名で呼んでくれるな」と頼んだ? 名前を書かせておいて、その名前を呼ばないというのはどういう理屈だ!
確かに、中には氏名を伏せたい人間もいるだろう。だが、それなら受付票に『匿名希望』や『番号呼び出し希望』といった丸を付ける欄を設ければ済む話ではないか。いや、そんなやつは本名では書かんわ! くああああっ!
「おい、聞いているのか? 二百四十一万一千五百七十番」
「だからおれを番号で――え?」
「なんだ君。さっきからぼーっとしすぎだぞ。ははは、転ぶなよ」
「あ、あの、課長……今、私のことを……いや、さっきも」
「君、さっきもだが、『課長』って失礼だぞ」
「え?」
「ちゃんと番号で呼んでくれよ。一億五十万二千八十五番と」
「……は?」
開いた口がしばらく塞がらなかった。やがてその口は壊れた玩具のように、ぱくぱくと何度も開閉を繰り返した。
どういうわけか、社員たち全員――いや、それどころか全人類が番号で呼び合っていたのだ。
九千六百四十四万二千五百十八番さん、資料ができ上がりました、チェックを――。一億三万七千三百二十二番さん、先ほどお電話が――。八千六百万――ええい、まどろっこしい。
とにかく、会社に戻ったおれは驚愕した。社員全員が、あの気の遠くなるような長ったらしい番号を一度も噛まず、さも本名のように呼び合っていたのだ。
それが耳に入るたびに、おれは目を見開き、口を半開きにして固まった。驚いては呆け、驚いては呆ける。一日中そんな調子だったおかげで、帰宅する頃には口の中はかぴかぴに乾き切り、瞬きのたびに目がごろごろと痛んだ。驚き、たじろぎ、アホウドリである。は?
まるで現実感がなかったが、それでも夢ではないことは確かであった。
そしてその異常は会社の中だけの話ではなかった。
駅前では待ち合わせをしていた若い女が、「七千万六百五十二ー!」と手を大きく振り、スマートフォンを耳に当てた会社員風の男は「あ、どうも。一億――」と、もう番号は忘れた。覚えられるか、そんなもの!
とにかく誰もが自分の番号を当たり前のように名乗っていた。
さらにアパートの部屋に帰り、テレビを点けたおれはまたしても仰天した。
バラエティ番組では出演者同士が番号で呼び合い、画面のテロップにも名前ではなく長ったらしい数字だけがずらりと並んでいたのだ。
ニュース番組も同様だった。アナウンサーは抑揚のない口調で、まるで住所でも読み上げるように淡々と番号を並べていた。『本日午後、無職の九千七百二十七万九百九十九番が殺人未遂の疑いで――』
これはどう考えてもおかしい。おれの頭がいかれてしまったのか。目と耳が勝手に人の名前を数字に変換してしまっているとでもいうのか。
いいや、それでは説明がつかない。おれ自身もまた、その長ったらしい番号で相手を呼ばなければ会話が成立しなかったのだ。しかも途中で一桁でも間違えたり、言い淀んだりすると、相手は露骨に顔をしかめた。
もっとも、普通の名前でも呼び間違えられれば、そりゃ気分は悪いだろう。だがこんなのは無茶な話だ。十桁に近い数字をその場で覚え、即座に間違えずに口にしろというのか。ふざけるな!
それにしても、どういう基準で番号が割り振られているのかはまったくの謎だった。
おれの番号――二百四十一万一千五百七十番なんて、最初はとんでもなく大きな数字だと思っていたが、仮に全国民、いや全人類に番号が振られているのだとしたらどうだ。世界人口は七十億を超え、この国だけでも一億人以上いる。
そう考えると、おれの番号はむしろかなり若い部類に入るのではないか。
もっとも、数字の大小で優劣が決まるわけではなさそうだった。
上司である一億五十万二千八十五番は、おれより遥かに数字が大きい。だからといって『数字が大きい者ほど偉い』『価値がある』という話ではないらしい。テレビを見ていると、人気絶頂の若い男アイドルが数十万番台だったり、有名な政治家が何百万番台だったりと番号に規則性らしいものはまるで見えてこなかった。
まさか、連中よりもおれや上司のほうが偉いという話でもあるまい。では逆に、数字が若い者ほど優れているというわけでもなかった。たまたま見たニュースで、七百六十七番の無職が痴漢で逮捕されていた。
考えても答えは出ず、仕方なくおれは会社の人間や取引先の番号をメモし、なんとかこの異様な日常に適応しようと努めた。ペンで手のひらやワイシャツの袖口の裏に相手の番号を書き込み、会話のたびに盗み見したり、語呂合わせをこじつけたり、自宅や会社のトイレの個室で繰り返し唱えて覚えようとした。
『あなたは』『そちらは』などといった誤魔化しは通用しなかった。番号で呼ばなければ、相手は必ず怪訝な顔をするのだ。覚えた十桁に近い数字を相手が代わるたびに頭の中で即座に切り替えなければならず、人物の顔と数字を同時に思い浮かべる生活は、おれの頭を確実に蝕んでいった。
頭の中では四六時中数字が流れ続け、書類を見ても信号待ちをしていても風呂に浸かっていても、意味があるのかないのかわからない数字の列が浮かんでは消えていった。やがて、夢の中でも誰かが念仏のように延々と番号を唱えるようになった。ただ、それはどうやらおれ自身が寝言で口走っているようだった。朝、喉がやけに渇いている日が続いたのを妙に思い、ある夜、録音して寝たところ、その事実を知った。低く重い獣の唸り声のようだった。
そしてある日。とうとう腹の虫が限界を迎えた。
「ば、番号で呼ぶな!」
気づけば、おれは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がっていた。
鈍い音がオフィスに響いた。周囲は一瞬で静まり返り、社員たちの視線が一斉におれに向けられた。だがその程度で怯むものか。むしろ胸の奥で煮え立つ怒りは勢いを増した。
「ど、どうしたんだ、二百四十一万一千五百七十番――」
「だからやめろ!」
上司は戸惑いながらも笑みを浮かべ、おれを宥めようと声をかけてきた。おれが怒鳴り返すとその笑みは一瞬で引きつり、近くの椅子にすとんと腰を落とした。
こうなったおれはもう止まらない。相手が上司だろうが社長だろうが政治家だろうが医者だろうが関係ないのだ。
いや、『冷静に自己分析できているじゃないか』って? ブレーキの壊れた車を運転している人間だって、自分が止まれないことくらいは理解しているだろうが! キキィィッー!
「番号で呼ぶな! 人間扱いしろ!」
おれは駆け寄ってきた一億五十万二千八十五番の足を払って相手の体勢を崩すと、胸倉を掴み、そのまま机の角へ何度も頭を叩きつけてやった。鈍い音が響き、周囲から悲鳴が上がった。ガアガアガア! アヒルどもが! おれは続けて、前々から気に食わなかった女子社員に人気の二億七千三百二十二万九千五百五十七番の喉へ手刀を叩き込み、かわいい、かわいい九千六百四十四万二千五百十八番の胸を揉みしだいた。誰かがおれを止めようと腕を掴んだ――二十八万七千五百二十九番だ。おれはその手を振り払い、鼻っ面に拳を食らわせてやった。二十八万七千五百二十九番は机に倒れ込み、書類が羽毛のように宙を舞った。けけけけ、ざまあみろ。お前は二十七万八千二百九十五番と紛らわしいんだ、この野郎。それから、おれはお局気取りの四百四十七万八千二百三十五番の頭へノートパソコンを振り下ろし、さらに二千七百二十七万の耳を噛みちぎり――五億六千万七百一三番の鼻を――そして八十九億六千七百二十二万三千二百九十八の――三千六百五十二万四千五百八十六に――八十万三千三百五十六二十三九六九六九六九一一〇百十百十百十一一九一一九一九一九一九一九一九〇八一四五四五四五四五四五四〇七二一四五四五四五四五四五一一〇五五五五五五五九五九五九五九五九五四九四九四九四九四九〇八一九六九オガワ六九六九六九――オガワ。オガワ!
「おい、オガワ。返事をしないか!」
「あ、は、はい!」
我に返ったおれは慌てて返事をし、背筋を伸ばした。
「まったく……。次、コウノ――」
刑務官は小さくため息をつき、隣の房へ歩いていった。
おれは刑務所に収監された。不本意ではあったが、当然の結果でもある。あれだけ大暴れしたのだから。
それでもおれは安堵していた。
なぜなら、ここでは番号ではなく名字で呼ばれるからだ。オガワ、オガワ、ああ、いい響きだ……。もう何十年も付き合ってきた苗字のはずなのに、初めて耳にした新鮮さがある。
たった……たった三音でおれをおれだと示してくれる。なんてすばらしいんだ。オガワ、オガワ……春のオガワは~さらさらいくよ~。
「ああ、そうだオガワ」
「は、はい!」
刑務官が戻ってきた。おれは房の真ん中で正座したまま声を張った。
「今日からお前はオガワ二号だからな。そのつもりでいろ」
「えっ」
「午後から新しくオガワが入るんだ。以上」
刑務官はそれだけ告げると、靴音を廊下に響かせながら去っていった。
おれの腹の虫が再び低く唸り始めた。




