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人間の死角シリーズ

異常はありません

作者: 天秤座
掲載日:2026/07/27



 神宮寺(じんぐうじ)環奈(かんな)がその音を初めて意識したのは、六月の終わりだった。


 ジ、と短く何かが動き、最後に小さく、カチ、と止まる。


 聞こえたのは寝室だった。


 十八歳の環奈は、鏡台の前で長い黒髪を梳いていた。背筋を伸ばし、毛先から少しずつ櫛(くし)を通していく。幼い頃から母に教わったやり方だった。


 音に気づいて手を止めたが、部屋には何も変化がない。


 空気清浄機は静かに動いている。エアコンの表示も正常だった。壁際の加湿器は、そもそも電源を切っている。


 冷蔵庫だろうか。


 寝室まで聞こえるとは思えなかったが、機械の音は壁や床を伝うことがある。ここは四十階を超えるタワーマンションである。換気設備も給排水設備も、一般的な住宅より複雑なのだろう。


 環奈はそう考え、髪を梳く作業へ戻った。


 父の海外赴任に母が同行してから、環奈は家族所有の部屋で一人暮らしをしていた。


 防犯設備について不安はなかった。


 建物の入口には警備員が常駐し、エントランスから自宅まで複数の認証が必要になる。来訪者は記録され、共用廊下にも監視カメラがある。住居内には異常を検知するセンサーまで備わっていた。


 両親が娘を一人で残すことを認めたのも、この建物だからだった。


 環奈自身も慎重だった。


 戸締まりを怠らず、知らない相手からの呼び出しには応じない。帰宅時間が遅くなれば、車寄せから部屋まで警備員に連絡を入れる。


 華道(かどう)、茶道(さどう)、箏(こと)、書道(しょどう)、日本舞踊(にほんぶよう)。


 曜日ごとに異なる稽古へ通っていたため、帰宅時刻はほぼ決まっていた。


 音は、それから何度か聞こえた。


 夜、寝室の照明を消した直後。


 休日の午後、厚手のカーテンを閉めた直後。


 入浴後、濡れた髪を拭いているとき。


 ジ―――カチ


 音がして、耳を澄ますも、その正体はわからない。


 環奈は空気清浄機を止めた。エアコンも切った。電源タップから不要な機器を外し、スマートフォンまで別の部屋へ置いてみた。


 それでも、ときどき聞こえた。


 どこから鳴っているのかは分からなかった。


 天井に近いようにも、鏡台の辺りから聞こえたようにも思える。浴室で聞いたときは、換気口の奥から鳴った気がした。


 だが、音の場所が移動していると考えるより、自分が方向を聞き違えていると考える方が自然だった。


 音は小さい。


 気のせいかもしれない。


 そう結論づけるたびに、環奈は少し安心した。



 七月の初め、管理会社に相談した。


 翌日、制服を着た設備業者が二人で訪れた。


 空調、換気口、火災報知器、分電盤。室内の設備を順番に確認していく。環奈は作業に立ち会いながら、音の特徴を説明した。


「機械が動くような音です。短く鳴って、最後に何かが切り替わるような……」


「頻繁に鳴りますか」


「いいえ。一日に一度も聞こえないこともあります」


「その程度ですと、原因の特定は難しいですね」


 年上の作業員が穏やかに答えた。


 もう一人の若い作業員はほとんど話さず、室内を見回していた。


 目が合うと、すぐに会釈した。


 作業は三十分ほどで終わった。


「設備に異常はありません。建物は温度差で収縮しますし、配管やダクトを通して別の部屋の音が聞こえることもあります」


「そうですか」


「心配なさらなくても大丈夫ですよ」


 環奈は頭を下げた。


 

 その日の夜、環奈は浴室の鏡に付いた水滴を拭いていた。


 換気扇を止める。


 静かになった直後、天井の換気口から音がした。


 ジ―――カチ


 環奈はしばらく見上げていたが、換気口の奥は暗く、何も見えなかった。


 昼間に確認してもらったばかりである。


 異常があるはずはなかった。



 数日後、箏の稽古が講師の都合で中止になった。


 環奈は普段より二時間早く帰宅した。


 認証を済ませ、玄関の扉を開ける。


 ゴンッ――


 室内へ足を踏み入れた瞬間、寝室の方から小さな音がした。


 軽く、硬い音だった。


 環奈は動きを止めた。


「どなたか、いらっしゃいますか」


 返事はない。


 靴を脱がず、警備室へ連絡した。数分後、警備員が二人到着し、室内を確認した。


 窓は閉まっていた。


 クローゼットにも、浴室にも、ベッドの下にも誰もいない。玄関の入退室記録にも異常はなかった。


「上の階から響いたのかもしれませんね」


 警備員はそう言った。


 環奈も、それが最も合理的だと思った。


 帰宅時間が普段と違ったことと、室内から音がしたことを結びつける理由はない。


 偶然である。


 ただ、鏡台の引き出しが少し開いていた。


 閉め忘れた記憶はなかったが、閉めたという確かな記憶もなかった。


 中には化粧品と髪飾りしか入っていない。なくなったものもない。


 環奈は引き出しを閉めた。


 それから、音を意識しないようにした。


 神経質になれば、ありふれた生活音まで異常に感じてしまう。睡眠不足も影響しているのかもしれない。


 母との通話でも、音については話さなかった。


 心配をかけるほどのことではない。


 防犯設備は正常で、入室記録にも異常がなく、専門業者も問題ないと言っている。


 何も起きていない。


 そう考えるだけの根拠は十分にあった。


 七月最後の日曜日、環奈は稽古の予定をすべて断り、一日を部屋で過ごした。


 夕食を済ませ、入浴し、寝室で髪を乾かす。


 鏡の中には、白い寝間着を着た自分が映っていた。


 背後には整えられたベッドがある。


 誰もいない。


 環奈はドライヤーを止めた。


 静かになった室内で、音がした。


 ジ―――カチ


 今度は近かった。


 鏡台のすぐ前から聞こえた。


 環奈は机上の化粧品を一つずつ持ち上げた。引き出しを開け、中身をすべて取り出す。鏡の裏側や机の下にも触れたが、何も見つからなかった。


 聞き違いだろう。


 方向を誤認しただけだ。


 環奈は散らばった化粧品を戻し、引き出しを閉めた。



 寝る時間になった。


 照明を消し、ベッドへ入る。


 暗闇の中で目を閉じると、天井付近から音がした。


 ジ―――カチ


 環奈は目を開いた。


 しばらく待ったが、何も起こらない。


 火災報知器の小さな表示灯だけが、天井で淡く光っていた。


 あれも先日、業者が調べていた。


 異常はない。


 環奈は布団を胸元まで引き上げ、もう一度目を閉じた。


 その直後、今度は寝室の外から聞こえた。


 ジ―――カチ


 浴室か、それとも玄関の方だろうか。


 環奈が耳を澄ませていると、今度は鏡台の方から鳴った。


 ジ―――カチ


 どれも違う場所から聞こえた気がした。


 けれど、音の方向など、暗い部屋で正確に分かるものではない。


 同じところで鳴っている音が反響しているだけ。


 環奈はそう考えることにした。


 音は機械的で、自然に発生する音とも思えない。


 現代ではありふれた生活音の一部の可能性も否定できない。


 明日になれば、管理会社へもう一度連絡すればよい。


 そう思いながら、呼吸を整える。


 そして、寝具の心地よさを感じとりながら眠りについた。


 規則正しく寝息を立てる環奈の寝室で、それ以外の音は、もう聞こえなかった。














 ジ―――カチ   ジ―――カチ





 ―――少なくとも、環奈には。




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