異常はありません
神宮寺環奈がその音を初めて意識したのは、六月の終わりだった。
ジ、と短く何かが動き、最後に小さく、カチ、と止まる。
聞こえたのは寝室だった。
十八歳の環奈は、鏡台の前で長い黒髪を梳いていた。背筋を伸ばし、毛先から少しずつ櫛を通していく。幼い頃から母に教わったやり方だった。
音に気づいて手を止めたが、部屋には何も変化がない。
空気清浄機は静かに動いている。エアコンの表示も正常だった。壁際の加湿器は、そもそも電源を切っている。
冷蔵庫だろうか。
寝室まで聞こえるとは思えなかったが、機械の音は壁や床を伝うことがある。ここは四十階を超えるタワーマンションである。換気設備も給排水設備も、一般的な住宅より複雑なのだろう。
環奈はそう考え、髪を梳く作業へ戻った。
父の海外赴任に母が同行してから、環奈は家族所有の部屋で一人暮らしをしていた。
防犯設備について不安はなかった。
建物の入口には警備員が常駐し、エントランスから自宅まで複数の認証が必要になる。来訪者は記録され、共用廊下にも監視カメラがある。住居内には異常を検知するセンサーまで備わっていた。
両親が娘を一人で残すことを認めたのも、この建物だからだった。
環奈自身も慎重だった。
戸締まりを怠らず、知らない相手からの呼び出しには応じない。帰宅時間が遅くなれば、車寄せから部屋まで警備員に連絡を入れる。
華道、茶道、箏、書道、日本舞踊。
曜日ごとに異なる稽古へ通っていたため、帰宅時刻はほぼ決まっていた。
音は、それから何度か聞こえた。
夜、寝室の照明を消した直後。
休日の午後、厚手のカーテンを閉めた直後。
入浴後、濡れた髪を拭いているとき。
ジ―――カチ
音がして、耳を澄ますも、その正体はわからない。
環奈は空気清浄機を止めた。エアコンも切った。電源タップから不要な機器を外し、スマートフォンまで別の部屋へ置いてみた。
それでも、ときどき聞こえた。
どこから鳴っているのかは分からなかった。
天井に近いようにも、鏡台の辺りから聞こえたようにも思える。浴室で聞いたときは、換気口の奥から鳴った気がした。
だが、音の場所が移動していると考えるより、自分が方向を聞き違えていると考える方が自然だった。
音は小さい。
気のせいかもしれない。
そう結論づけるたびに、環奈は少し安心した。
七月の初め、管理会社に相談した。
翌日、制服を着た設備業者が二人で訪れた。
空調、換気口、火災報知器、分電盤。室内の設備を順番に確認していく。環奈は作業に立ち会いながら、音の特徴を説明した。
「機械が動くような音です。短く鳴って、最後に何かが切り替わるような……」
「頻繁に鳴りますか」
「いいえ。一日に一度も聞こえないこともあります」
「その程度ですと、原因の特定は難しいですね」
年上の作業員が穏やかに答えた。
もう一人の若い作業員はほとんど話さず、室内を見回していた。
目が合うと、すぐに会釈した。
作業は三十分ほどで終わった。
「設備に異常はありません。建物は温度差で収縮しますし、配管やダクトを通して別の部屋の音が聞こえることもあります」
「そうですか」
「心配なさらなくても大丈夫ですよ」
環奈は頭を下げた。
その日の夜、環奈は浴室の鏡に付いた水滴を拭いていた。
換気扇を止める。
静かになった直後、天井の換気口から音がした。
ジ―――カチ
環奈はしばらく見上げていたが、換気口の奥は暗く、何も見えなかった。
昼間に確認してもらったばかりである。
異常があるはずはなかった。
数日後、箏の稽古が講師の都合で中止になった。
環奈は普段より二時間早く帰宅した。
認証を済ませ、玄関の扉を開ける。
ゴンッ――
室内へ足を踏み入れた瞬間、寝室の方から小さな音がした。
軽く、硬い音だった。
環奈は動きを止めた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
返事はない。
靴を脱がず、警備室へ連絡した。数分後、警備員が二人到着し、室内を確認した。
窓は閉まっていた。
クローゼットにも、浴室にも、ベッドの下にも誰もいない。玄関の入退室記録にも異常はなかった。
「上の階から響いたのかもしれませんね」
警備員はそう言った。
環奈も、それが最も合理的だと思った。
帰宅時間が普段と違ったことと、室内から音がしたことを結びつける理由はない。
偶然である。
ただ、鏡台の引き出しが少し開いていた。
閉め忘れた記憶はなかったが、閉めたという確かな記憶もなかった。
中には化粧品と髪飾りしか入っていない。なくなったものもない。
環奈は引き出しを閉めた。
それから、音を意識しないようにした。
神経質になれば、ありふれた生活音まで異常に感じてしまう。睡眠不足も影響しているのかもしれない。
母との通話でも、音については話さなかった。
心配をかけるほどのことではない。
防犯設備は正常で、入室記録にも異常がなく、専門業者も問題ないと言っている。
何も起きていない。
そう考えるだけの根拠は十分にあった。
七月最後の日曜日、環奈は稽古の予定をすべて断り、一日を部屋で過ごした。
夕食を済ませ、入浴し、寝室で髪を乾かす。
鏡の中には、白い寝間着を着た自分が映っていた。
背後には整えられたベッドがある。
誰もいない。
環奈はドライヤーを止めた。
静かになった室内で、音がした。
ジ―――カチ
今度は近かった。
鏡台のすぐ前から聞こえた。
環奈は机上の化粧品を一つずつ持ち上げた。引き出しを開け、中身をすべて取り出す。鏡の裏側や机の下にも触れたが、何も見つからなかった。
聞き違いだろう。
方向を誤認しただけだ。
環奈は散らばった化粧品を戻し、引き出しを閉めた。
寝る時間になった。
照明を消し、ベッドへ入る。
暗闇の中で目を閉じると、天井付近から音がした。
ジ―――カチ
環奈は目を開いた。
しばらく待ったが、何も起こらない。
火災報知器の小さな表示灯だけが、天井で淡く光っていた。
あれも先日、業者が調べていた。
異常はない。
環奈は布団を胸元まで引き上げ、もう一度目を閉じた。
その直後、今度は寝室の外から聞こえた。
ジ―――カチ
浴室か、それとも玄関の方だろうか。
環奈が耳を澄ませていると、今度は鏡台の方から鳴った。
ジ―――カチ
どれも違う場所から聞こえた気がした。
けれど、音の方向など、暗い部屋で正確に分かるものではない。
同じところで鳴っている音が反響しているだけ。
環奈はそう考えることにした。
音は機械的で、自然に発生する音とも思えない。
現代ではありふれた生活音の一部の可能性も否定できない。
明日になれば、管理会社へもう一度連絡すればよい。
そう思いながら、呼吸を整える。
そして、寝具の心地よさを感じとりながら眠りについた。
規則正しく寝息を立てる環奈の寝室で、それ以外の音は、もう聞こえなかった。
ジ―――カチ ジ―――カチ
―――少なくとも、環奈には。
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