婚約破棄を宣言されましたので、元離婚弁護士として慰謝料を請求します
「セシリア・アーデン! 私は今ここで、君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業記念夜会で、王太子アルベルト殿下が高らかに宣言した。
その腕には、ミレーヌ男爵令嬢が寄り添っている。
楽団の演奏が止まり、大広間にいた全員の視線が私たちへ集まった。
私は手にしていたグラスを給仕へ返した。
「承知いたしました」
アルベルト殿下が拍子抜けしたように瞬いた。
「……随分と素直だな」
「争うつもりはございません。ただし、後日の行き違いを避けるため、いくつか確認させてください」
「確認?」
「はい。婚約破棄は、殿下ご自身のご意思ですね」
「当然だ!」
「誰かに強要されたものではない」
「私が自分で決めた!」
「国王陛下からのご命令でもない」
「父上にはまだ話していない。これは私の決断だ!」
「よく分かりました」
私は小さな手帳を取り出した。
アルベルト殿下が眉を寄せる。
「何を書いている」
「殿下のお言葉です」
「なぜそんなものを記録する必要がある」
「大切な契約を一方的に終了なさるのですから、記録は必要です」
前世でも、不貞相手の言葉だけを信じ、配偶者を悪者に仕立てた男を何人も見た。
契約を破る人間は、まず自分を被害者にしたがる。
私は四十七歳で過労死し、この世界へ公爵令嬢として転生した元離婚弁護士だ。
姿も声も変わったが、人間の言い分は世界が変わっても大して変わらない。
「では次に、婚約破棄の理由を伺います」
「君がミレーヌを虐げたからだ!」
アルベルト殿下の隣で、ミレーヌ嬢が悲しげに目を伏せた。
「具体的には?」
「彼女の教科書を隠した!」
「その場をご覧になりましたか」
「見てはいないが、ミレーヌがそう言っている!」
「ほかに証人は?」
「必要ない。被害者本人が言っているのだぞ!」
私は手帳へ書き込んだ。
目撃なし。
第三者証言なし。
物証なし。
「さらに、階段から突き落とそうとした!」
「実際に落ちたのですか」
「いや。ミレーヌが手すりにつかまった」
「その場をご覧に?」
「見てはいない!」
「証人は?」
「だから、ミレーヌが――」
「承知しました」
私はもう一行書き足した。
アルベルト殿下の顔が赤くなる。
「さっきから何なのだ、その態度は!」
「殿下の主張を整理しております」
「私を尋問しているつもりか!」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「請求額を計算しているだけです」
大広間が静まり返った。
「請求額?」
「はい」
私は手帳を閉じた。
「アーデン公爵家と王家が締結した婚約契約には、一方の都合によって解消する場合、相手方が負担した準備費用を補償すると定められております」
「そんなものは知らん!」
「殿下も署名されています」
「私は十歳だったぞ!」
「幼少であったため、国王陛下も共同で署名されています。ご安心ください。契約は有効です」
殿下は安心するどころか青ざめた。
私は指を一本立てる。
「婚約契約の解消金が、金貨一万枚」
二本目。
「八年間の王太子妃教育、公務、衣装、宝飾品、各国語の教師、移動費、警護費、寄付金。合計一万二千枚」
三本目。
「そして今夜、公衆の面前で、証拠もなく私を加害者と断定したことによる名誉損害が六千枚」
「待て!」
「まだ概算です」
「概算でいくらだ!」
私は手帳を開き、最後の数字を読み上げた。
「金貨二万八千枚です」
アルベルト殿下の口が開いた。
ミレーヌ嬢がそっと腕を離した。
「二万八千……?」
「今夜の出席者は二百十六名。王太子殿下による公然の発言ですから、名誉への影響は小さくありません」
「たかが悪口で!」
「では、虚偽ではなく事実だと証明なさいますか」
「ミレーヌが言っている!」
「その主張は先ほど記録しました。目撃者、物証ともになし、と」
殿下が言葉に詰まる。
「でも!」
ミレーヌ嬢が声を上げた。
「セシリア様は、私を嫌っていました!」
「ええ、好いてはおりません」
広間がざわめいた。
私はミレーヌ嬢を見る。
「ですが、嫌うことと教科書を隠すことは別です。感情は行為の証拠にはなりません」
ミレーヌ嬢は口を閉ざした。
私は近くに控えていた学院長へ顔を向けた。
「学院長先生。念のため伺います。ミレーヌ嬢の教科書が見つかった場所は?」
学院長は重い息を吐いた。
「本人の寮室だ。寝台の下に落ちていた。階段の件についても、昨日、学院から調査結果を王宮へ提出している」
アルベルト殿下の顔が強張る。
「調査結果?」
「踊り場の警備担当によれば、ミレーヌ嬢が裾を踏んでよろめいた。その場にセシリア嬢はいなかった」
ミレーヌ嬢の顔から血の気が引いた。
アルベルト殿下が彼女を見る。
「ミレーヌ……?」
「ち、違うのです。私は、きっとセシリア様がなさったのだと……」
「推測を事実として殿下へ伝えたのですね」
私が確認すると、ミレーヌ嬢は俯いた。
私は手帳へ一行加えた。
「虚偽の告発を扇動した者への請求は、別途検討いたします」
「わ、私にも請求するのですか!?」
「ご安心ください。まず事情を伺ってから決めます」
前世でも、この言葉を聞いて安心した人は一人もいなかった。
そのとき、大広間の扉が開いた。
「これは何の騒ぎだ」
国王陛下が入ってくる。
誰かが急いで呼びに行ったらしい。
アルベルト殿下は助かったとばかりに駆け寄った。
「父上! セシリアが、私に金貨二万八千枚を払えと言うのです!」
国王陛下は息子を見た。
次に私を見た。
「理由を聞こう」
私は最初から簡潔に説明した。
殿下本人の意思による婚約破棄。
王家の承認なし。
契約所定の手続なし。
証拠のない公開告発。
王は黙って聞き終えると、私へ視線を向けた。
「婚約は王家と公爵家の政略だ。アルベルト個人の失言だけで、王家へ全額を請求できると思うか」
大広間の空気が変わった。
今度は王太子ではない。
この国で最も大きな権力を持つ者との交渉だ。
「王家として婚約破棄を追認なさるのであれば、王家へ請求いたします」
私は答えた。
「殿下個人の独断として処理なさるのであれば、殿下へ請求いたします」
国王陛下の眉がわずかに動いた。
「選べというのか」
「請求先をご指定いただければ、そのように」
「王家が追認していないと言えば?」
「先ほど、殿下ご自身が証言されました。国王陛下の命令ではなく、ご自身の意思による破棄であると」
私は大広間を見渡した。
「証人は二百十六名おります」
国王陛下は息子へ目を向けた。
「事実か」
「ですが父上、私は王太子です!」
「事実かと聞いている」
「……はい」
国王陛下はしばらく黙った。
やがて深く息を吐く。
「婚約破棄は王家として追認しない。アルベルト個人の独断として処理する」
「承知いたしました」
「正式な請求書をアルベルト個人宛てに送ってくれ」
「父上!」
「黙れ。お前が自分で決め、自分で宣言したのだろう」
先ほどの確認が、ここで効いた。
アルベルト殿下は何も言い返せなかった。
「支払いについては財務官と相談したい」
国王陛下が言った。
「分割も承ります」
「何回までだ」
「十二回まででしたら」
王はしばらく天井を見上げた。
「……それで頼む」
「父上、本当に払うのですか!」
「なお」
私は手帳を開いた。
「これ以上、殿下が公衆の面前で私への非難を続けられる場合、名誉損害額は増加いたします」
アルベルト殿下が両手で口を塞いだ。
国王陛下はその姿を見て、額を押さえた。
「ところで、二万八千枚には、今後の王太子妃教育をやり直す費用も含まれているのか」
「いいえ」
私は即答した。
「それは王家側に生じた損害ですので、陛下から殿下へ別途ご請求ください」
国王陛下が、ゆっくりとアルベルト殿下を見る。
殿下は口を塞いだまま、首を横へ振った。
「財務官に計算させよう」
「父上!」
「発言を続けるな。損害額が増える」
国王陛下の低い声に、殿下は再び口を閉じた。
私は手帳を閉じた。
婚約者選びには失敗した。
だが、証言を取る相手としては、非常に扱いやすい男だった。
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