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恋愛小説のはずでした

婚約破棄を宣言されましたので、元離婚弁護士として慰謝料を請求します

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/19


「セシリア・アーデン! 私は今ここで、君との婚約を破棄する!」


王立学院の卒業記念夜会で、王太子アルベルト殿下が高らかに宣言した。


その腕には、ミレーヌ男爵令嬢が寄り添っている。


楽団の演奏が止まり、大広間にいた全員の視線が私たちへ集まった。


私は手にしていたグラスを給仕へ返した。


「承知いたしました」


アルベルト殿下が拍子抜けしたように瞬いた。


「……随分と素直だな」


「争うつもりはございません。ただし、後日の行き違いを避けるため、いくつか確認させてください」


「確認?」


「はい。婚約破棄は、殿下ご自身のご意思ですね」


「当然だ!」


「誰かに強要されたものではない」


「私が自分で決めた!」


「国王陛下からのご命令でもない」


「父上にはまだ話していない。これは私の決断だ!」


「よく分かりました」


私は小さな手帳を取り出した。


アルベルト殿下が眉を寄せる。


「何を書いている」


「殿下のお言葉です」


「なぜそんなものを記録する必要がある」


「大切な契約を一方的に終了なさるのですから、記録は必要です」


前世でも、不貞相手の言葉だけを信じ、配偶者を悪者に仕立てた男を何人も見た。


契約を破る人間は、まず自分を被害者にしたがる。


私は四十七歳で過労死し、この世界へ公爵令嬢として転生した元離婚弁護士だ。


姿も声も変わったが、人間の言い分は世界が変わっても大して変わらない。


「では次に、婚約破棄の理由を伺います」


「君がミレーヌを虐げたからだ!」


アルベルト殿下の隣で、ミレーヌ嬢が悲しげに目を伏せた。


「具体的には?」


「彼女の教科書を隠した!」


「その場をご覧になりましたか」


「見てはいないが、ミレーヌがそう言っている!」


「ほかに証人は?」


「必要ない。被害者本人が言っているのだぞ!」


私は手帳へ書き込んだ。


目撃なし。


第三者証言なし。


物証なし。


「さらに、階段から突き落とそうとした!」


「実際に落ちたのですか」


「いや。ミレーヌが手すりにつかまった」


「その場をご覧に?」


「見てはいない!」


「証人は?」


「だから、ミレーヌが――」


「承知しました」


私はもう一行書き足した。


アルベルト殿下の顔が赤くなる。


「さっきから何なのだ、その態度は!」


「殿下の主張を整理しております」


「私を尋問しているつもりか!」


「いいえ」


私は微笑んだ。


「請求額を計算しているだけです」


大広間が静まり返った。


「請求額?」


「はい」


私は手帳を閉じた。


「アーデン公爵家と王家が締結した婚約契約には、一方の都合によって解消する場合、相手方が負担した準備費用を補償すると定められております」


「そんなものは知らん!」


「殿下も署名されています」


「私は十歳だったぞ!」


「幼少であったため、国王陛下も共同で署名されています。ご安心ください。契約は有効です」


殿下は安心するどころか青ざめた。


私は指を一本立てる。


「婚約契約の解消金が、金貨一万枚」


二本目。


「八年間の王太子妃教育、公務、衣装、宝飾品、各国語の教師、移動費、警護費、寄付金。合計一万二千枚」


三本目。


「そして今夜、公衆の面前で、証拠もなく私を加害者と断定したことによる名誉損害が六千枚」


「待て!」


「まだ概算です」


「概算でいくらだ!」


私は手帳を開き、最後の数字を読み上げた。


「金貨二万八千枚です」


アルベルト殿下の口が開いた。


ミレーヌ嬢がそっと腕を離した。


「二万八千……?」


「今夜の出席者は二百十六名。王太子殿下による公然の発言ですから、名誉への影響は小さくありません」


「たかが悪口で!」


「では、虚偽ではなく事実だと証明なさいますか」


「ミレーヌが言っている!」


「その主張は先ほど記録しました。目撃者、物証ともになし、と」


殿下が言葉に詰まる。


「でも!」


ミレーヌ嬢が声を上げた。


「セシリア様は、私を嫌っていました!」


「ええ、好いてはおりません」


広間がざわめいた。


私はミレーヌ嬢を見る。


「ですが、嫌うことと教科書を隠すことは別です。感情は行為の証拠にはなりません」


ミレーヌ嬢は口を閉ざした。


私は近くに控えていた学院長へ顔を向けた。


「学院長先生。念のため伺います。ミレーヌ嬢の教科書が見つかった場所は?」


学院長は重い息を吐いた。


「本人の寮室だ。寝台の下に落ちていた。階段の件についても、昨日、学院から調査結果を王宮へ提出している」


アルベルト殿下の顔が強張る。


「調査結果?」


「踊り場の警備担当によれば、ミレーヌ嬢が裾を踏んでよろめいた。その場にセシリア嬢はいなかった」


ミレーヌ嬢の顔から血の気が引いた。


アルベルト殿下が彼女を見る。


「ミレーヌ……?」


「ち、違うのです。私は、きっとセシリア様がなさったのだと……」


「推測を事実として殿下へ伝えたのですね」


私が確認すると、ミレーヌ嬢は俯いた。


私は手帳へ一行加えた。


「虚偽の告発を扇動した者への請求は、別途検討いたします」


「わ、私にも請求するのですか!?」


「ご安心ください。まず事情を伺ってから決めます」


前世でも、この言葉を聞いて安心した人は一人もいなかった。


そのとき、大広間の扉が開いた。


「これは何の騒ぎだ」


国王陛下が入ってくる。


誰かが急いで呼びに行ったらしい。


アルベルト殿下は助かったとばかりに駆け寄った。


「父上! セシリアが、私に金貨二万八千枚を払えと言うのです!」


国王陛下は息子を見た。


次に私を見た。


「理由を聞こう」


私は最初から簡潔に説明した。


殿下本人の意思による婚約破棄。


王家の承認なし。


契約所定の手続なし。


証拠のない公開告発。


王は黙って聞き終えると、私へ視線を向けた。


「婚約は王家と公爵家の政略だ。アルベルト個人の失言だけで、王家へ全額を請求できると思うか」


大広間の空気が変わった。


今度は王太子ではない。


この国で最も大きな権力を持つ者との交渉だ。


「王家として婚約破棄を追認なさるのであれば、王家へ請求いたします」


私は答えた。


「殿下個人の独断として処理なさるのであれば、殿下へ請求いたします」


国王陛下の眉がわずかに動いた。


「選べというのか」


「請求先をご指定いただければ、そのように」


「王家が追認していないと言えば?」


「先ほど、殿下ご自身が証言されました。国王陛下の命令ではなく、ご自身の意思による破棄であると」


私は大広間を見渡した。


「証人は二百十六名おります」


国王陛下は息子へ目を向けた。


「事実か」


「ですが父上、私は王太子です!」


「事実かと聞いている」


「……はい」


国王陛下はしばらく黙った。


やがて深く息を吐く。


「婚約破棄は王家として追認しない。アルベルト個人の独断として処理する」


「承知いたしました」


「正式な請求書をアルベルト個人宛てに送ってくれ」


「父上!」


「黙れ。お前が自分で決め、自分で宣言したのだろう」


先ほどの確認が、ここで効いた。


アルベルト殿下は何も言い返せなかった。


「支払いについては財務官と相談したい」


国王陛下が言った。


「分割も承ります」


「何回までだ」


「十二回まででしたら」


王はしばらく天井を見上げた。


「……それで頼む」


「父上、本当に払うのですか!」


「なお」


私は手帳を開いた。


「これ以上、殿下が公衆の面前で私への非難を続けられる場合、名誉損害額は増加いたします」


アルベルト殿下が両手で口を塞いだ。


国王陛下はその姿を見て、額を押さえた。


「ところで、二万八千枚には、今後の王太子妃教育をやり直す費用も含まれているのか」


「いいえ」


私は即答した。


「それは王家側に生じた損害ですので、陛下から殿下へ別途ご請求ください」


国王陛下が、ゆっくりとアルベルト殿下を見る。


殿下は口を塞いだまま、首を横へ振った。


「財務官に計算させよう」


「父上!」


「発言を続けるな。損害額が増える」


国王陛下の低い声に、殿下は再び口を閉じた。


私は手帳を閉じた。


婚約者選びには失敗した。


だが、証言を取る相手としては、非常に扱いやすい男だった。


お読みいただき、ありがとうございます。

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