踏み出す一歩
春の空気には、どこか人の心をほどく力がある。けれど、私にとってその季節は、少しだけ苦い記憶と結びついていた。
学生時代、最後の春休み。
あの頃、好きだった人に思い切って気持ちを伝えた結果。
「お前にそんな感情はない」と冷たく話され、はかなく終わってし合った。
はっきりと振られ、静かに距離ができていく。
そして、気づけば彼の隣には別の誰かがいた。
私は学生最後の春休みに大失恋したのです。
社会人になり、調理師として忙しい日々を送ることになるだろう。
その前の春休み中には自動車学校に通い、免許取得に励んでいた。
ある日、このままではいけないと、以前から気になっていたマッチングアプリを始めた。
誰かと出会えば、何かが変わるかもしれない。
そんな淡い期待と、少しの不安を抱えながら。
そこで出会ったのが、この春から美容師として働く新社会人の彼だった。
彼は私よりも一つ年上で、遠くの県に住んでいた。
文字だけのやり取りで、顔は知らない彼。
最初はほんの短い挨拶のやり取りし貸していなかったけど、不思議とどこか柔らかい雰囲気をまとっていた。
「はじめまして。料理の仕事されてるんですね、すごいです」
それに対して、私もぎこちなく返す。
「ありがとうございます。美容師さんなんですね、大変そう」
そんな他愛もないやり取りが、少しずつ増えていく。
彼は美容師の道か調理師の道かどちらかを考えていたそうで、調理師として働くことが決まっている私に興味深々の様子。
私も、同じ道を志そうと考えていた彼に少しづつ心を許し始めていた。
気づけば、仕事終わりに彼からのメッセージを確認するのが、日課になっていた。
――不思議だな。
顔も知らない相手なのに、こんなにも自然に会話が続くなんて。
そしてある日、彼から提案があった。
「よかったら、電話してみない?」
少し迷った。
文字とは違う。
声は、もっとリアルで、もっと近い。
けれど、私は「いいよ」と送信していた。
その夜。
「……もしもし?」
最初は、お互いに少しぎこちない沈黙が流れた。
けれど、それは長くは続かなかった。
仕事の話、好きな食べ物、休日の過ごし方。
気づけば、笑い声が増えていく。
「え、そんな失敗する?それ絶対お客さんびっくりしてるでしょ」
「するの!でもちゃんとリカバーしてるから!」
「いや、想像したら面白すぎて無理」
他愛もない会話なのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
時計を見ると、すでに一時間以上が過ぎていた。
それでも、まだ話したいと思ってしまう。
そして、ふとした沈黙のあと、私は冗談交じりで実際に会ってみたいと言ってみた。
遠い所に住んでいる彼なので、実際に会うことは叶わないだろうと思いながら…。
しかし、彼からの反応は予想外なものでした。
「僕も……会ってみたいなって、思った」
心臓が、小さく跳ねる。
その言葉に、ビックリしつつも過去の記憶が、一瞬だけよぎる。
――また、同じ思いをしたらどうしよう。
けれど同時に、今のこの時間が、確かに心地よいとも感じていた。
「……うん。私も、会ってみたい」
そう答えた自分の声は、思ったよりも素直だった。
「じゃあ、どっちが行く?」
「え、そこもう決めるの?」
「だって、会うって言ったし」
電話の向こうで笑う彼の声に、私もつられて笑った。
あの春、終わったはずの何かが、今、少しずつ形を変えて動き出している気がした。
それが恋になるのか、それともただの通り過ぎる縁なのかは、まだわからない。
けれど――
あの日、伝えられなかった想いとは違う形で、今度は自分から一歩を踏み出せたことだけは、確かだった。
春は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。




