第1話 いつかの思い出
美しい花びらが舞う。
色とりどりの花々が揺れる景色を、リメリィーアルデはまっすぐに見つめていた。
「本当に美しい景色ね。フィオーリエ」
隣には、ピンクから赤にグラデーションを描く、不思議な色合いの髪をした青年。
フィオーリエと呼ばれた青年は、若草色の瞳に笑みを浮かべる。
華やかな笑顔は、目の前の花畑を凌ぐほど美しい。
「そうだね。けれどこの景色はきみと僕、二人でなければ成し得ないものだ。……本当に、神格を辞退するつもりかい、リメリィーアルデ? きみは――」
「私は人だもの。人として生き、人として死ぬわ」
彼の声音には、ほんの少しの哀愁が宿り、小さく揺れていた。
そんな彼にリメリィーアルデは微笑むと、自らの意思をはっきりと口にする。
朝日のような長い金の髪が風に乗り、湖のように清廉な瞳が彼へ向く。
「……そうか。いかに神とて、きみの意思を無碍することはできない。分かったよ」
寂しげな彼に、リメリィーアルデは囁いた。
「ごめんなさい、フィオーリエ。愛しているわ」
「僕も愛しているよ、リメリィーアルデ。大丈夫。きみの命が尽きるまで、この先何十年でも愛を語ろう。そして、きみの命が尽きても愛を語り続けよう。魂が巡り、きみが再び人の世に生を受けたなら、また逢いに行こうかな」
隣に立つ彼女を抱き寄せ、フィオーリエは少年のように笑った。
頬を染めてはにかむリメリィーアルデは彼に頬を預け、うんと頷く。
「待っているわ」
人と神との幸せな恋路。
かつて気ままに生きすぎた人間と神々の間を取り持つため、両者の橋渡しに選ばれた姫と、生命と豊穣を司る花神との恋模様。二人は愛し合い、幸せなときを生きていた。
――あの日までは。
「ほらそこ。授業中の私語はいけませんよ」
「はぁい」
今にも泣き出しそうな分厚い雲が、王都の街を覆っている。
郊外にある私立図書館併設の小さな教室では、小柄な青年が子供たちに神話を教えていた。
「さて、どこまで話したかな」
「花神と姫様の仲が壊されちゃったところです。誰がそのようなことをしたのですか、アルデ先生?」
歴史を学ぶならまずは神話から。館長の教えに倣い、学問として重んじられた神話を話すアルデは、柔和な笑みで子供たちに礼を言うと、手に持つ分厚い本に目を落とした。
凛とした声音は涼やかで、十五人ほどの生徒たちが耳を傾けている。
アルデは生徒たちと本を交互に見つめながら、続きを語り出した。
「はい。二人の幸せを壊したのは、世界の破滅を目論む邪神・ゴルウズでした。邪神は姫の命を手折り、姫を失くした花神は、闇に堕ちたのです」
「……!」
「姫には再生の力があったと言われています。花神が司る生命と豊穣、そして姫の持つ再生の力を失くし、この世界には作物が成長を止める冬が生れました」
息を呑む者、恐ろしげな悲鳴をわずかに上げる者、そんな生徒たちを順に見つめ、アルデは彼らのざわめきが収まるのを待つ。
「じゃあ先生、春はなくなっちゃったの?」
生徒が悲しそうに呟いた。
「いいえ。その後神話では、姫の生まれ変わりと、闇に落ちる寸前に解放された花神の力を継ぐ存在、二人が再び出逢い、邪神の野望を挫き春が来ると語られています。しかし、ここ最近の異常気象を見る限り、再会は未だ為されていないのではないかと疑いたくなりますけれどね」
にこりと柔らかく微笑み、アルデは本を閉じた。
柱時計が鳴り、それまで漂っていたざわめきと緊張感が萎んでいく。
一方で、空からは雨粒が降り注ぎ、静かに音を立てていた。
今日で雨は、七十八日目になる。
作物は育たず、大地は腐り、太陽は雲に覆われるばかり。人々の心もゆっくりと荒み、治安も悪くなってきた。
まるでかつての神話をなぞらえるように、この世界は壊れ始めている。
今日の授業はここまでと解散を告げるアルデに、生徒たちは礼を言うと帰っていった。
『僕も愛しているよ、リメリィーアルデ――』
と、彼らを見送るアルデの脳裏に、ふと今朝の夢が過る。
(やけにリアリティのある夢だった。あれはまるで、神話の一ページ。花神と姫が幸せだったころの、思い出。ずっと傍で見守っていたくなるような。そんな思い出に見えた)
花が舞う景色、二人の息遣い。
夢と言い切るには聊か鮮明すぎる。それに何より気になったのはその名前。
(確かに神話では「橋渡しの姫」と言われるだけで名前は語られていなかった。あの名前は姫の本名なのだろうか。私と同じ。……いいや、夢よ、あれは。現実と混同させてはいけない)
頭を振り、彼――否、彼女は誰もいなくなった教室で息を吐く。
リメリィーアルデは王女だった。
七年前の戦争で国と故郷を失くし、プレジット王国に流れてきた。
拾ってくれた神話研究家の親子と生き、普段はアルデとして、正体が露見しないよう男装を貫いている。
最早本当の姿すら公にできない彼女にとって、今朝の夢は眩しすぎた。
「授業は終わったかい。アルデ」
「デイヴィッツ。うん。もう帰れるよ」
すると、夢と感傷に浸る彼女の元へ、しばらくして背の高い青年がやって来た。
この国では随分と珍しい黒髪に、ガーネットのような釣り目を持つ彼は、リメリィーアルデを拾ってくれた神話研究家の息子だ。
彼女にとっては実質、兄のような存在であるデイヴィッツに微笑むと、リメリィーアルデは教科書の束を抱える。
短く切りそろえた金の髪が揺れ、湖水のような瞳は少年よりも無邪気に輝いた。
「ガルトスお父様は?」
並んで廊下を歩きながらデイヴィッツを見上げる。
この図書館は図書館であり、神話を集めた研究所でもあった。学者たちは古今東西の神話を集め、人と神との共存の日々を紐解こうとしている。
にこと笑ったデイヴィッツは、半ば呆れたように肩を竦めた。
「親父なら今日も石板の解読にご執心さ。またここに泊まり込むんじゃねぇかな」
「なら、今夜は二人だね」
「そうだな」
カツカツと足音を響かせ、二人は外へ向かう。
仲の良い兄妹のような、でもどこか少し、ぎこちなさのある空気が、雨音に溶けた。
それ以上、彼らは何も言わない。
雨は少しずつ、強くなっているようだった。
「失礼」
と、二人して荷物を抱え、エントランスまでやって来たときだった。
リメリィーアルデの後ろから、不意に声を掛ける者があったのだ。
青年のものと思われる低く甘やかな声。
子供たち以外との接触は、極力しないようにしている。
だが、なぜか聞き覚えがあるような気がして振り返った彼女は、その姿に目を見開いた。
「!」
そこにあったのは、夢で見た花神と同じ顔。
「ようやく見つけた。私の姫君」
優しげに微笑むその姿に、リメリィーアルデは大きく目を見開いた。




