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いずれ最強の結界魔法使いとなる幼子の旅の記憶 ―フィオーレ王国宮廷魔術師キウイ その叡智と愛の原点―

作者:
掲載日:2026/02/25

「母さま、起きてください。もう朝日が昇っておりますよ」


 私が寝袋に向かって声をかけると、中から聞こえてきたのは「もぞもぞ」という鈍い音と、「……あと五分」という弱々しい声でした。

 普段魔獣と戦っている時の凛々しい母さまからは想像もできないような情けない甘えた声に、私は思わずため息をついてしまいます。

 私は知っています。これは日が頭の上に来るまで起きる気がないという意思表示です。


 母さまの寝袋の隣には、大小二つの背鞄が置いてあり、それ以外には何もありません。

 私が寝ていた寝袋はすでにきちんと畳んで鞄に括り付けてあります。

 朝焼けの光とともに起きて、寝具の片付けをして、川の水で顔を洗い、朝の体操ももう済ませました。

 そこまでしてもなお母さまが起きる気配がないので、私はこうして声をかけているわけであります。


「母さま……私はもうすぐ全寮制の初等学校に入学してしまうのですよ。私がいなくなったらどうするのですか。少しは早起きの練習をしてください」

「…………わたしは、キウイが、生まれる前から、旅人なんだ……何も問題は、ない……のさ…………」


 母さまはそれだけ言い残して「ぐう」と寝息を立て始めてしまいました。

 仕方がないので私は寝袋の中身を覚醒させることを諦めて立ち上がります。

 さあっと心地のよい風が木の葉をさらって木々の間を吹き抜けていきました。


「今日はよい天気、ですね」


 ぐぐっと伸びをして、胸いっぱいに朝の冷たい空気を吸い込みます。

 頭上には吸い込まれそうなほどの晴天。

 今はまだ白んでいるこの空も、じきにターコイズを溶かしたような深い青に染まるでしょう。

 どれだけ背伸びをしてみても、私のこの小さな手では、この広い空のほんのひとかけらさえ掴み取ることはできません。

 けれど、だからこそ。この果てしない空の下を歩き続ける日々が、私は楽しくて仕方がないのです。


 私と母さまは旅人です。

 生きる基本は自給自足。

 それとは別に、行く先々で魔獣の討伐依頼なんかをこなして、その返礼をもって細々と暮らしています。

 

 私は両親のうち母さましか存じません。

 旅先で行きずりで作った子なのだと、母さまは笑って言いました。

 お相手のことは何も教えてくれません。

 もう会うことはないので何も知る必要はないと、母さまは言います。

 その人の顔も名前も、今後私が知ることはないのでしょう。

 

 ただその人のことを語る時、母さまの瞳はいつも春の陽だまりのように穏やかに細められるのです。

 その表情を見れば私にもわかります。母さまはその御方のことを、今でも心から大切に思っているのだと。

 私にもいつかそのように心から深く愛せる存在ができるのでしょうか。

 幼い私には、まだ恋というものはさっぱりわかりません。


 母さまは旅人として生きる術を私に教えてくださいました。

 中でも入念に叩き込まれたのは結界魔法の扱いです。

 私と母さまには、この魔法以外に適性がありません。

 火を灯すことも、水を出すこともできない。だからこそ、唯一与えられたこの力を万能な道具として使いこなし、旅の不自由さを補うための知恵を、母さまは私に伝授してくれたのです。


 結界魔法で身を護るのはもちろんのこと、日常を便利に彩るための手段としても活用する――その極意を、母さまは知識として可能な限り私に授けてくれました。

 しかし、それを母さまのように自在に使いこなせるかは、また別の話です。

 私は母さま以上の結界魔法の使い手を見たことがありません。

 いつかあの背中に追いつき、この魔法を極めてみせる。私は密かにそのような決意を胸に抱いているのです。


 旅の師匠としてはこれ以上なく心強い母さまでありますが、それ以外のことを教えるのは少しばかり不器用であられます。

 読み書きや算術、それに一般常識や礼儀作法などは全て旅先で出会った方々から教えていただきました。

 かといって母さまが頼りないわけでは決してありません。

 ……ねぼすけな母さまは少々心許なくも見えますが。


 旅先の方々が幼い私に惜しみなく教えを授けてくださったのは、ひとえに母さまの温かみのある人柄のおかげです。

 母さまはいつの間にか他人の懐に潜り込むのがとても上手な御方なのです。

 魔獣討伐の依頼をきっかけに出会った方々とも、返礼の場を設けていただく頃には、まるで旧知の仲のように打ち解けてしまうのです。

 招き入れられた家で、そこに住む方々が、私の母さまと楽しく笑い合いながら、ついでに私にペンや算盤(そろばん )の持ち方を教えてくれる。

 これはひとつの適材適所の形なのでしょう。


「……母さまが起きる気がないのなら仕方ありません。私は朝食の準備をしましょうか」


 私は気持ちよさそうな寝息を立て続けている寝袋から離れ、さわさわと川のせせらぎの音がする方へ向かいました。

 幼い頃は母さまの姿が見える範囲でのみ行動するように厳命されていましたが、最近ではある程度の自由を許されています。

 

 この周囲には母さまの手による魔獣除けの結界が張り巡らされています。

 意識を研ぎ澄ませば、母さまの魔力によって構築された壁が私には薄らと感じられます。

 結界の中であれば自由に出歩いてよいことになっています。


 「この中にいれば、絶対安全だから」――そう言って笑う母さまの言葉通り、結界の内側はまるで危険な外界から切り取られたようで、常に穏やかな空気に満ちているのです。

 母さまの結界はただの壁ではありません。私にとっては、どんな豪華な宿屋の寝床よりも深く安らげる場所です。

 私もいずれ護るべき人に、結界魔法をもって揺るぎない安らぎを与えられるような存在になりたい。そんなささやかな夢を、私はこの透明な壁の中で育てているのです。


 寝袋から離れてしばらく歩くと、木々が遮っていた視界がぱあっと開け、朝の光を浴びてダイヤモンドを零したようにきらめく小川に辿り着きました。

 しゃばしゃばと音を立てる清流を覗き込むと、数匹の魚が泳いでいるのが見えます。

 一生懸命に尾を振る姿は観察対象として大変興味深いものですが、見て楽しむために来たのではありません。

 この命には、私たちが生きるのに必要な栄養源――朝食になっていただきます。


 私は目を閉じて魔力を練り上げました。

 母さまから教えていただいた通りに、結界魔法を川を跨ぐように展開します。

 結界魔法とは、通すものと通さないものを自由に選べる壁です。

 この結界は水だけを通すものです。魚は通ることができません。結界の網のようなものですね。


 結界の網から少しだけ上流に向かい、濡れないように全身に防水結界を張ってから水に入ります。

 膝まで水に浸かり、ばしゃり、ばしゃりとわざと大きな音を立てて結界の網の方にゆっくり歩くと、驚いた魚が逃げようとして――何もないはずの空間に遮られ、銀色の身体を跳ねさせました。

 ぱしゃぱしゃと小気味良い音を立てて水飛沫(みずしぶき)が舞いますが、私の防水結界を濡らすことはできません。

 結界の網にかかった魚は全部で七匹。でも、捕るのは五匹だけです。

 私が二匹、母さまが三匹。それだけで十分ですから。

 命を戴くのは、必要最低限に。母さまの大切な教えです。

 母さまは私にもっと食べるように言いますが、いつも二匹でお腹いっぱいになってしまいます。だからこれだけでよいのです。


 両手を前に出し、上に向けた二つの手のひらを跨ぐように、川に仕掛けたのと同じ結界の網を出します。

 それを水中に差し入れ、逃げ惑う魚たちの下から一気に掬い上げます。

 結界は川の水の抵抗を一切受けず、ただ獲物だけを捉えて水面を割りました。

 透明な壁の上には、濡れた鱗を光らせてぴちぴちと跳ねる五匹の魚だけが取り残されます。

 魚の身体にまとわりついていた雫が結界を透過して、ぽたぽたと水面(みなも)へ波紋を作りました。


「よし、ちょうど五匹です。うまくいきました」


 そのまま、川に設置していた結界の網を開放して、自分は川岸へ。

 魚たちを草の上に置いたら、今度は平たいまな板代わりの結界を地面の上に展開します。

 そして、人差し指の先に魔力を凝縮し、極限まで薄く、鋭利に研ぎ澄ませた銀色の結界を展開します。

 これは刃です。対物理結界を極限まで薄くすることで、鋼の包丁のように料理に活用することができます。


 ぴちぴちと草の上で跳ねている魚を一匹、まな板結界の上に乗せ、飛んでいかないようにきゅっと押さえつけます。


「……すみません、あなたの命……ありがたくいただきますね」


 顔と(えら)に銀の刃を滑り込ませると、魚は一瞬だけ身を震わせてすぐに静かになりました。

 そのまま身体のラインに沿って刃を動かし、内臓を取り除いていきます。

 苦味の元となる部位を傷つけないよう、慎重に。

 同じ作業を五匹分。物心ついた頃から繰り返してきたこの所作は、もはや私の身体の一部となっています。


 五匹全て捌き終わったところで、包丁結界を解除します。出しっぱなしは事故の元ですから、必要なとき以外はすぐに片付けるのが母さまの教えです。

 私は命の欠片であった魚の内臓を小さな結界の器にまとめ、大木の根元へと運びました。


 この強く生命の臭いがする塊は扱いに注意しなくてはなりません。

 そのまま捨てれば魔獣を招き、川へ流せば水の清らかさを損ないます。

 そのようなことは三流の旅人がする、決して許されない行いです。

 

「さて、このあたりでいいでしょうか」


 私は目を閉じ、土の奥深くへ魔力を浸透させます。

 そこで水平に展開した結界を、ぐぐっと押し上げれば――ぼこりと音を立てて、柔らかな土が地上へと押し出されました。

 私は空いた穴に、内臓を静かに納めました。


「……お恵み、ありがとうございました」


 飛び出した土を手で丁寧に戻し、最後にぽんぽんと叩いて形を整えます。

 やがてこれは分解され、森の栄養となり、また別の生命を育む礎となるのです。


「……ふう。さて、次は魚を洗いますよ」


 私は大木から離れ、捌いた魚を並べておいた、まな板結界の場所に戻りました。

 その時、透明な結界の上でゆらりと揺らめく影が目に入ります。


「あっ」


 私の気配に驚いたのか、その影は細い尻尾を揺らしながらひゅうっと風のように駆けていきました。

 野生の逞しさを感じさせる野良猫です。

 完璧な等間隔で並べていたはずの魚の列。そのちょうど真ん中に、ぽっかりと不自然な空白が一つ生まれていました。


「…………ああ、困りましたね。母さまの分の魚が減ってしまいました」


 本来であれば朝食の準備は母さまと二人で行うものです。

 一人が内臓を処理し、もう一人が魚を洗いながら番をする。そうしていつも通りに役割分担していれば、このような不備は防げたはずでした。

 つまり母さまが寝坊したという事象が、魚を猫に盗まれるという事象を招いたのです。

 よってこの損失は母さまの取り分から減らすのが妥当な判断でしょう。


「さて、気を取り直して。魚を洗いましょう」


 私はまな板結界の上に残された魚を全て抱えて、再び川岸に向かいました。

 身体に防水結界を張ってあれば、魚のぬめりなどで服が汚れることはありません。

 魚を流してしまわないように気をつけながら、一匹ずつ丁寧に血を洗い流します。

 お腹を指先でなぞり、お尻の方にきゅっと滑らせて、消化管に残った残り滓を丁寧に追い出します。

 この一手間を惜しむと、食べる時に苦味や雑味が口の中に広がってしまうのです。

 せっかく命をいただくのですから、なるべく最高の状態にしてあげるのが食べる者の責務というものでしょう。


「よし。綺麗になりました。さて……薪を集めましょうか」


 私は川から上がると、目を閉じて魔力を練り上げました。

 今度作るのは、魚を入れる用の籠として使う結界です。

 魚を抱えたままでは薪集めができませんが、魚を放置してまた猫に魚を盗まれたら大変です。

 二度も盗みを許すほど、私は甘くありません。

 私は四匹の魚を包み込むように、立方体の結界を展開しました。

 私の身体に固定するように結界を展開したので、私が歩けば魚が自動的についてきます。

 これなら猫からもしっかり守れますし、我ながらこれは名案ですね。


 両手を自由に使えるようになった私は、落ちている薪を拾い集めながら、母さまの寝袋から十歩ほど風上の場所へ向かいました。

 調理場と定めたその場所の地面に、草が燃えないように防炎結界を展開して、その上に薪を積み上げます。

 中心に空気が通るように円錐状に薪を組むのが焚き火の基本です。

 その傍らで、細長く丈夫そうな枝を四本選り分けます。これは魚を刺す串にします。


 薪を積み終えたら、もう一度指に包丁結界を纏わせ、選んだ串用の枝を薪の真上に構えます。

 シュッ、シュッ。

 薪の山の上で枝の先端を鋭く削ると、削り取られた樹皮や薄い木くずが積もっていきます。

 これが最高の着火剤になります。削りたての乾燥した枝により、火の回りが劇的によくなるのです。 

 木くずがこぼれるたびに、削りたての木肌から、春の森を凝縮したような濃厚な香りがふわりと広がりました。

 即席の串が完成したらいよいよ仕上げです。

 魚の身をくねらせ、踊り串を打ちました。


 完成した四本の串に魚を丁寧に刺し終わる頃には、目の前に完璧な焚き火の土台が出来上がっていました。

 あとは火をつけるだけです。

 火打ち石を使うのが一般的ですが……この晴天を使わない手はありません。今日は太陽の力を借りることにしましょう。


 私は目を閉じ、両手の間に魔力を練り上げます。

 展開したのは中央に柔らかな膨らみを持たせたレンズ型の結界です。


「曲率を固定……よし。レンズの屈折率から算出される焦点距離は……ここです」


 太陽の光を真正面から受け止めるよう、結界の角度を微調整します。

 この透明なレンズ結界はただ光を通すだけではありません。広く降り注ぐ天からの恵みを、針の先ほどの一点に収束させるのです。


 ちり、ちりり。


 極限まで濃縮された陽光が、乾いた木肌を容赦なく灼き始めます。

 眩い輝きが茶褐色から黒へと色を変え、そこから一筋の白い煙が立ち上がるまで、時間はかかりませんでした。


「……よし。計算通りです」


 私は生まれたばかりの小さな火種を大切に育て始めます。

 ふうっと優しく長く息を吹きかけて風を送ると、酸素を得た火種が橙色の輝きを増し、小さな産声を上げるようにちろちろと細長い火が立ち上がります。


 長めの木の枝を使って火のついた木くずを慎重に誘導し、薪の隙間へと滑り込ませました。

 上昇気流に乗った炎が薪を舐めるようにして、上へ、上へと広がっていくと、ぱちっと爆ぜる音が響きました。


「さて、焼く前に……味付けが必要です」


 私は一度、荷物を置いてある母さまの寝袋の側に戻りました。

 寝袋を覗き込めば、中身はぴくりとも動かず、幸せそうな寝息に合わせてわずかに上下し続けています。


「やれやれ、まだぐっすりですね。まあ、私の計算によれば……じきに目覚めるはずです」


 寝袋は置いておいて、私は母さまの背鞄を漁って塩の小瓶を取り出すと、再び焚き火の場所へと戻りました。

 並んだ串に刺さった魚の近くに座って手のひらに少量の塩を取ると、指先でぱらぱらと魚の身に満遍なく振りかけていきます。

 特に焦げやすいヒレの部分には、厚めに塩を塗り込む化粧塩を施しました。

 全ての魚の準備が整ったのを確認すると、私は魚を刺した串を焚き火の周囲に立てました。


「あとは待つだけですね」


 ぱちぱちと火の粉が跳ねる音を聞きながら魚が焼けるのを待ちます。

 じゅうじゅうと魚から脂が垂れてきて、香ばしい匂いが辺りに立ち込めました。

 すると、遠くで母さまの寝袋が、もぞもぞといもむしのように動き始めます。

 計画通りです。この美味しそうな魚の匂いを届けるためにわざわざ風上を選んだのですから。


 母さまが起きてくる頃には、魚はちょうど食べ頃になっているでしょう。

 魚の数がいつもより少ないことに文句を言われるかもしれませんが、それは寝坊した母さまの自業自得というものです。


 私は火の番をしながら、ぱちりと爆ぜる火の粉を眺めます。

 もうすぐ私は全寮制の初等学校へ入学します。そうしたら、母さまと二人で世界を旅するこの日々は終わりを迎えます。

 そこから先は自分の人生だから、好きなように歩みなさい。母さまはそう言いました。

 この先の人生にどんな道が続き、私がどんな大人になっていくのか。今の私にはまだ想像もつきません。

 けれど、きっと。

 朝陽に透けるターコイズの空の下。母さまと囲んだこの焚き火の温かさを、私はこの先もずっと、忘れることはないでしょう。


 寝袋の中から母さまがのそりと這い出てきました。

 目が合うと、寝ぼけ(まなこ)のまま「……キウイ、おはよ」とまだ夢の中にいるような声で微笑みます。

  

 さあ、いつも通りの――穏やかで賑やかな一日の始まりです。






お読みいただきありがとうございました。

連載中の異世界百合小説『人魚と姫』に出てくる戦うメイド、キウイの幼少期の話でした!

書いたらなんだかハマってしまったので定期的に書くかもしれません……!

ちっちゃいキウイ……とってもかわいいですね……


成長したキウイが宮廷魔術師として大活躍する

長編百合小説『人魚と姫』も何卒よろしくお願いします!

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