夜明けを待つ 03
「——ええ、聞こえていますよ」
人気の無い路地裏。
既に住人が避難した家屋に背中を預けて、その人物は片手を耳に当てていた。
「そうですね……はい、それで大丈夫です。そのまま維持してください。時機はこちらから伝えます」
広場に設けられた篝火が、夜闇を消し去るように明るく燃えて街を照らしている。街の至るところから、忙しなく動き回っている傭兵たちの気配がする。
彼らも紛れもなく人間だ。心臓を突かれでもすれば容易く命を落とす。それでも街を、人を、平穏を守るために彼らは戦う。
「……いいえ、まだ駄目です。それは最終手段ですから。もう少しだけ辛抱してください」
小さく首を振った人物は、耳から手を離してふと顔を上げた。遥か空の上、火の粉が触れれば燃え尽きそうな細い月に手を伸ばして、そっと囁く。
「果たしてどれほど持ち堪えられるでしょうか、この街は」
***
「——なるほど、領主様はそのような判断を」
傭兵団の副団長である男は、フレイアの言葉にふむふむと頷く。
「メイズ、お前の所感として門の防衛には何人必要だ?」
「門を閉じた今出来るのは、高台からの弓矢での狙撃程度です。偵察・伝令・射手の支援を考えても、20人もいれば足りるかと……そちらは?」
「借りてきた。手が足りんところがあれば使え。一通りはできる」
視線を向けられたシードが自己紹介をする前に、フレイアが口を開いた。平時であれば足りないが、この状況であればそれ以上は必要とないばかりの端的な説明。
「……なるほど」
さっと上から下まで彼に視線を走らせた副団長は、「少し確認して参りますのでお待ちを」と離れていく。当然のようにフレイアがどこかへと歩き去っていき、各々に仕事をしている傭兵たちの中にシードは取り残された。
「……」
何かの建物の壁際に無言で身を寄せる。刺さる視線が痛い。フレイアに師事していた時期もある彼だが、傭兵団の人間とはあまり面識がない。街を守る傭兵団とグレイ個人を守るシードでは、活動範囲が違うのだ。
まるで石像のようにそこに鎮座して指示を待つ彼は、ふと目の前を横切った人間を見て、考える前にその肩に手を伸ばしていた。引き留められた人物が驚いて振り返る。
「わっ、何……ってシードさん? 何でここにいるんですか?」
「それはこちらの台詞だ。何故避難していない……!」
きょとんと呑気に首を傾げる女を見て、シードは思わず声を荒らげる。料理店で働いているときの服装にローブを纏っただけの格好は、どう考えても襲撃に備えているようには見えない。
「敵襲の報せが来たとき、恐慌状態に陥った人達の間で小規模な衝突が起きたんです。そこで怪我をした人や、他にも一人では避難できない人がまだこの辺りに残っています。置いて逃げることはできません」
「お前がそれをする必要はない。傭兵たちに任せればいい」
「彼らには他にも仕事があるはずです。心配しないでください。医術の心得はあります。それに、逃げ足は早い方なんです」
冗談のように、それでいて自嘲混じりに付け加えられた言葉。何を言われても全く揺らぐ様子のない若葉色の瞳を見て、彼は大きなため息をつく。
「……分かった」
「では、」
「俺も同行する」
「え?」
「すぐに戻ってくる。ここに居ろ。絶対に居ろ」
呆気にとられて立ち尽くす女に一方的に念押しをし、シードはすぐさま踵を返した。
***
医術の心得があるというのは確かのようだ。
手際よく手当をしていくニアを見下ろして、シードはそう思う。
こうして見ていると改めて、彼女は人の心を掴むのが本当に上手い。恐怖に怯えている人間も、状況に苛立ちを覚えている人間も、ニアが言葉を交わしながら手当をすればいつの間にか落ち着いている。むしろ協力しようとしている者もいる。傷病人が集められていた空き地の空気全体が、やって来たときよりも明らかに弛緩している。まるで魔術か何かを使っているのではないか、などと非現実的な言葉が思い浮かぶほどに。
「——よし、今できるのはこれで精一杯です。足に違和感はありませんか?」
「おうよ! これなら一人でも領主さんの屋敷に行けるぜ!」
「もう、無茶は駄目ですよ。まだ折れた骨が治ったわけじゃないんですから……本当はそこまでできればいいんですが、すみません」
「ニアちゃんが謝るこたねぇだろ! 分かった分かった、ちゃんと傭兵団の手を借りるさ」
よっこいせ、と立ち上がった老人は、呼ばれてやってきた傭兵の肩を借りてゆっくりと去っていく。その背を見送っていたニアは、ぐるりと人の居なくなった空き地を見回し——
「——あれ、あそこにも怪我人がいますね」
「最初に確認したときには居なかったと思うが」
「誰かからここで手当をしてると聞いて、途中で集まってきたのかもしれません。行きましょう」
空き地の片隅、壁に背を預けて座る男の方へとニアが歩いていく。
「こんばんは、どうしましたか?」
声をかけても俯いている相手が反応する様子はない。眉をひそめたシードは、いつでも男を抑えられるようすぐ傍らに移動する。
地面に片膝をついたニアは、未だ沈黙している男の顔を覗き込もうとし——そこで不意に明後日の方向を振り返り、目を見開いた。
「っ、シードさん!」
「な」
悲鳴のような叫び声とともに、彼女がシードを突き飛ばす。視線の先を確かめようとしていた彼は、予想外の衝撃に態勢を崩して半歩後退する。
次の瞬間。
シードの肩を掠めた矢が、地面へと突き刺さった。
まるで光を矢の形に押し固めたような奇妙なそれは、しばらくその形を維持した後空気に溶け消えた。
数歩後ずさったニアが足を止める。怪我人を装ってた男が立ち上がり、隠し持っていたらしき短剣を拘束した彼女の首筋へと向けていた。
「動くな」
「……」
「お前もだ、領主の護衛」
すぐさま大きく後退し、矢が飛んで来ない場所で剣を抜こうとしていた彼は動きを止めた。布で顔を隠した男はくぐもった声で続ける。
「剣をそこに置いて、前に出て来い。逆らえば女は殺す」
「……逆らわなくとも、お前は彼女を生かしておかないだろう」
剣の柄に掌を当てたまま、シードは感情を押し殺した声で呟いた。
「自分たちの姿や声、そして狙撃という殺害方法を見てしまった彼女を生かしておく理由は、お前たちにない。俺を殺したら彼女も殺すだけだ」
そして今自分が死ねば、間違いなくこの男と姿の見えない射手はグレイの暗殺に乗り出すだろう。それを許容することだけは、絶対にできることではない。自分にそう言い聞かせて目を伏せたシードは、ともすれば砕けてしまいそうなほどにぐっと奥歯を噛み締めた。
先程から一言も発さないニアは、見捨てることを決めた彼をどんな表情で見ているだろうか。
最期にその顔を見ておくのは、己のけじめだろう。
息を吐き、ゆっくりとその顔を上げたシードが見たのは。
音もなく飛来した矢が、彼女を拘束している男の腕を貫く瞬間だった。
「っぐぁ……おい、何をしてやがる!!」
思わず拘束を解いてニアから離れた男が、腕を押さえながら矢の飛んできた方向を見て吼える。
「何が……」
仲間割れにしてはあまりにも状況が不自然だ。一瞬呆気にとられていたシードは、男の持つ不自然な程に白い短剣が彼女に向けられるのを見て駆け出した。
「チッ、大人しくしろ!」
男と向き合うように立っている彼女の表情は、シードからは見えない。逃げろと声をかけようと口を開き——そこで彼の足は止まった。
——パリン
ガラスが割れるような奇妙なと音と共に、ふわりと金色の髪が広がる。彼女の髪を結わえていた紐が切れたのだ。
剣を握ったこともなさそうな白い手が、いつの間にか短剣の刃を握りしめている。明らかに手に刃が食いこんでいるはずだというのに、そこから血が流れ出る様子はない。
「——魔術」
女の声が呟いた。ニアの声だという認識が遅れたのは、そこにいつもの柔らかい響きが一切存在しなかったからだ。
「本当に戦争になる直前までは、手出しをしないつもりだったのですが——魔術が絡んでいるなら看過できませんね」
「……な」
「回路の保護が足りないから、こうやって少しでも多く魔力を流すと壊れてしまうんです。魔族のものを模倣しようとしたのでしょうが、粗末な作りと言わざるをえません」
バラバラになった短剣を見て呆然としていた男は、びくりと肩を震わせて崩れ落ちるとそのまま動かなくなった。
空き地の外の音が遠くに聞こえる。確かに喧騒がすぐ側にあるというのに、思わず息をひそめてしまうほどに張り詰めた静寂を感じる。
「……お前は」
躊躇いがちに口に出したシードの声に、女が振り返った。
結わえていた髪を下ろしたせいだろうか。どこか現実離れした雰囲気を纏った彼女は、眉根を下げた。
「すみませんが、今は後回しにさせてください」
「っ、おい」
そのまま躊躇いなくこちらへ足を踏み出す女を見て、彼は思わず声を上げた。軽く首を傾げた彼女は、シードの注意が光の矢の飛んできた方向に向いていることに気づいて「ああ」と頷く。
「心配ありません。あちらは対処済みですから」
「対処済み、だと?」
「もう脅威になりえないということです」
「それはどういう、」
さらに追及しようとしたシードの言葉が止まる。立てた人差し指を彼の唇に押し当て、ニアが首を振る。
「今は駄目。時間がないんです」
「時間? ……何を」
そのまま下に降りていった彼女の指先が己の手に触れる感覚に、シードは半歩後ずさる。ささやかな抵抗を無視して彼の手を握ったニアは、困ったように微笑んだ。
「申し訳ありません——巻き込まれてください、シードさん」
ごお、と。
耳元で風が鳴る。
「な、」
瞬きの間に、彼は夜空の中にいた。弱々しく輝く月が近い。遠く離れた地上には、先程までいた街が見える。
「高いのが苦手でしたら下は見ないでください。あと、手を離すと落ちますから気を付けて」
付け加えられた言葉で、シードは触れる程度に軽く握っていた手をすぐさましっかりと握り直す。足元に触れるものがないことがひどく心許ない。内心の落ち着かなさを憮然とした表情で隠し、目の前の若葉色の瞳を見つめた。
「こんな場所まで連れて来て、何をするつもりだ」
「シードさんに何かをするつもりはありませんよ。ただ、」
不意に言葉を途切れさせ、ニアは空いている方の手を耳元に置く。よく見れば、指の隙間からは光で形作られた紋様のようなものが見えた。
「はい、聞こえていますよ。……ええ、ここからは私が引き継ぎます。ありがとうございました。……ふふ、分かりました。後でちゃんと褒めてあげます」
それでは、と締めくくれば紋様が消えた。耳から手を離した彼女は、無言でその様子を観察していたシードに気づいて気まずそうに苦笑いを浮かべる。
「ええと……その」
「いい。時間が無いと言っていただろう」
「そ、そうですね。さっさと済ませてしまいましょうか」
ふう、と息を吐いてニアの纏う雰囲気が切り替わる。ゆるりと手を前に差し伸べ、そこに大小複数の光の輪が組み合わさったものを出現させた彼女が、そっと目を閉じて息を吸った。
「——応じよ」
その言葉に従うように、眼下にぽつりと光が灯った。その光はここから見れば豆粒ほどに小さいが、地上から見れば凄まじく大きなものだったろう。光点は見る見るうちに数を増していき、やがて西部の荒野を横断するように巨大な光の線が形成された。
「遍く広がりし不変の理に、白に連なる我が意を示す。其は偽りなり。さりとて在りしものに偽りなし」
目の前の光景に見入っていたシードは、光の線の向こう側で何か小さなものたちが蠢いていることに気づく。じっと目を凝らし、それが闇に紛れるような黒い装備に身を包んだ大軍であることを知って、彼の背に冷たいものが走った。あれは北部にある国の軍隊だ。
もしもすぐさま門を閉じずに敵の侵入を許していたら。そしてそのまま、あの大軍に攻め込まれていれば。きっと今頃、街は陥落していただろう。
「一は零に転ず。零は無に転ず。——拒絶する」
地面から一斉に光の壁が立ち上がる。風を受けた布のように揺らぐ半透明のそれは、北の地の寒空に見られるという神秘の光を想起させた。
その手を下ろしたニアがゆっくりと瞼を開く。眼下の壁を見つめる表情は、シードにはひどく遠いものに思えた。
「……お前は」
若葉色の瞳がこちらを向く。
「お前は、何者だ」
率直な問いかけに、彼女はその目を細める。
「私は——私の名前は、ルベーニア」
ただの魔術士です。
そう言って、女はいつものように微笑んだ。




