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真:この世界で探偵を失った僕たちは (We Who Lost Our Detective in This World)  作者: 妙原奇天
第Ⅲ部:探偵を失っても― 「真実」→「赦し」→「再生」

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第20話 再会の影

 掲示板の前は、昼休みのざわめきがまだ残っていた。

 公開資料の紙は四隅の画鋲で固定されていて、角だけ少し反っている。誰かが指でなぞった跡が薄く残り、QRコードのところには小さな指紋がいくつも重なっていた。

 僕は視線を紙から外し、廊下の窓を開けた。湿り気の少ない風が薄く流れ、昨日の雨の匂いはもうほとんどなかった。

「朽木、行こう。生徒会室に人が集まってる」

 ミナトが背後から声をかける。

 隣ではコウが、まだ掲示を見上げていた。彼女は一度、両手で頬を押さえ、指に残る紙の粉をこすり落とした。

「大丈夫」

 そう言って歩き出す。

 今日の一歩は、昨日より少し軽い。

 けれど、軽さに甘えるほど僕らは図太くない。

 生徒会室の前で足を止める。中から話し声が聞こえる。神庭カイの低い声と、南条先生の落ち着いた声。知らない声も混ざっている。僕らは顔を見合わせ、ノックを二度、扉を開けた。

 そこに、彼はいた。

 痩せて、色の薄いパーカーに校内では見かけないスニーカー。目は黒いままなのに、どこか遠くに焦点が合っている。髪は伸びすぎて、耳にかかっていた。

 けど、間違えようがない。

 写真で見て、噂で聞いて、名前を何度も呼んだ、人。

「……ユウト」

 僕の口から出た声は、思っていたより小さかった。

 彼はゆっくりこちらを見た。目の奥の色が、一瞬だけ近くなる。

 神庭ユウト。

 神庭カイの弟。

 花浅ほのかと一緒に、監視映像の“見えない”ところにいた男の子。

「帰ってきたのか」

 カイが肘を組んだまま言う。その声は、怒りにも安堵にも寄らない真っ直ぐさで、逆に胸に刺さる。

 ユウトは少しだけ笑った。笑いを作る筋肉を思い出すまで、数秒かかったみたいな表情だった。

「帰ってないよ」

 その言い方は、彼のものだった。

 昔の映像の中で、放送室の椅子に浅く腰掛けて、ふざけた調子で言っていたときの声。

 でも、次の一言は、まったくふざけていなかった。

「俺は死んでない。ただ、彼女の代わりに消えただけだ」

 空気がわずかに沈む。

 南条先生が目を細め、ミナトが小さく息を呑む。コウは一歩、前に出た。

 ユウトは、壁に寄りかかるように立ち、拳を握ったり開いたりしていた。

 白い指に、二本の細い傷が交差している。古い傷だ。どこかで繰り返し擦れた跡。

「どこにいたの」

 僕は尋ねた。できるだけやわらかい声で。

 彼は首を横に振る。

「言えない。俺が言うと、彼女が守ったものが壊れる。……いや、言える気がしない、が正しいかもしれない」

 カイが視線を落とした。

「記憶が」

「あるところまである。あるところから、空いてる。穴があって、穴の縁だけがやけに鋭い。触ろうとすると手が痛い。でも、その穴に彼女がいる気がする」

 言葉の選び方は、彼らしい。

 ユウトは、自分の中の空白を、誰かの居場所として話す。

 それがずるいのかどうか、僕にはすぐに判定できない。

「医務室へ行くべきだ」

 南条先生が言う。

 彼は“休学中の生徒の帰還”という現実の線を思い描いているのだろう。けれど、ユウトは首を横に振った。

「少し待って。――まず、ここに立ちたかった」

「ここ?」

「この部屋。ここで俺は、何度も“送信”した。花浅先輩がうなずいて、俺がボタンを押して、ノイズの中に言葉を埋めた。今の俺は、そのボタンの手触りしか思い出せない。……手触りなら、まだある」

 ミナトがノートPCを開いた。

 放送系の簡易モニタを立ち上げ、レベルメータを表示する。スピーカーは切って、ヘッドホンで音を拾う。

 ユウトはミキサー卓に近づいた。フェーダーには触れない。代わりに、机の下の金属フレームを指で叩く。

 トン、トン、トトン。

 短く、間を置いて、また叩く。

 ミナトが画面を覗き込み、左右の眼がわずかに広がった。

「今の、覚えてる?」

「覚えてない。でも、手がした。――花浅先輩がしてたやり方。モールス。SOS。流すと誰にもわからないけど、録音を拡大したら見える。見える人にだけ見えるようにして、俺は……」

 ユウトはそこまで言って、言葉を落とした。

 拾い直そうとして、拾えない。

 沈黙が床に落ちる。

 コウがそっと近づいて、彼の手の甲を見た。

「その傷、どこで」

「多分、屋上のフェンス。……あの夜の前か、後か、わからない。『降りる』って言葉を聞いた気がする。『戻る』って言葉も。……それだけだ」

 彼の目は、どこにも焦点が合っていないのに、水だけは澄んでいた。

 僕は彼の正面に立った。

 逃げられないくらい近くて、殴り合いにならないくらいの距離。

 そして、ずっと言えなかったことを、言った。

「生きてて、よかった」

 ユウトは、ゆっくり瞬きをした。

 それから、笑いもしないで言った。

「そう思わないほうが、楽だった」

 僕は黙った。

 楽、という言葉の端が、彼の舌で割れている。

 わざとじゃない。

 でも、僕は黙れない。

「楽かどうかじゃない。――“生きていることが、いちばん重い罪”だと思うなら、罪のままここにいればいい。罰は俺たちが一緒に受ける。だってその罪は、お前一人のものじゃない。構造の罪だ。押した指の罪だ。押させた仕組みの罪だ。……それを、ここで全部、名前にしていく」

 僕の声は震えていなかった。

 震えなかったのは、今日だけだろう。

 明日は揺れる。明後日も。

 でも、今だけは揺れない。

「朽木」

 カイが短く呼ぶ。

 彼は兄の顔と、生徒会長の顔を交互に使っているみたいだった。

 ユウトは、そのどちらも見ないで、僕を見ていた。

「……名前にできる?」

「できるまでやる。花浅の仕様書に、パッチを当て続ける。お前の“覚えてない”も、仕様にする。『証人の記憶は穴が空く』。その穴に手順を通す」

「手順」

「夜間モードを二人承認にする。入退室の閲覧を生徒に開く。広報は差分を残す。事故の言葉は基準を決める。――そういう“変更”の紙を積む。その上に、お前の『ここにいた』を置く。覚えてることが少なくても、置ける」

 ミナトがうなずいた。

「“証言”は“記憶の完全性”じゃなく“位置の確定”で使える。屋上扉の時間、放送室のノブに残った皮脂、当夜の臨時パスの絞り込み。君の『ここで指を叩いた』だけで、一行が埋まる」

 コウが口を開いた。

「私も言う。……私、夜間モードを切った。忘れて、戻せなかった。先輩に頼まれてた。ずっと言えなかった。言ったら全部壊れると思った。でも、言ってみたら、壊れたのは“私一人で抱える”っていう幻想だけだった」

 ユウトは、目を伏せた。

 眉の影が、細く伸びる。

 やっと笑った。

 笑ったけれど、すぐに消えた。

「俺は、花浅先輩に守られた“証人”だって、言える。……でも、その『守られた』が、重い。守られてる間、俺は何もしてない。何もできなかった。ひどい言い方をすると、俺は『守られてる役』で、彼女は『死ぬ役』だった」

 南条先生が、そこで小さく首を振った。

「役ではない。――選択の結果だ。彼女は“降りる”を選んだ。君は“消える”を選ばされた。選ばされた選択は、選択と呼べない。呼ばないまま、おとなになってしまう。そこで、やり直せ」

「やり直すって、何を」

「“証言できない証人”を中心に据えること。……君が空白のままいる事実を、仕様に書く。『証人の自白は穴だらけであってよい』と、学校に残す。残さなければ、次の誰かが“完璧な記憶で証言できなかったから”と責められる」

 ユウトは、目を閉じた。

 まぶたの薄い皮膚の上で、小刻みに何かが揺れる。

 そこに言葉はない。

 でも、音はある。

 机の下の金属を、彼はもう一度叩いた。

 トン、トン、トトン。

 短い間をおいて、トトン、トン。

 ミナトが画面を覗く。

「……“戻る”。“次”。」

「意味、わかるのか」

「わかんない。手が勝手に叩く。叩くと、少しだけ楽になる」

 僕はヘッドホンを外し、彼の手の甲に、自分の指をそっと重ねた。

 熱はほとんどなかった。

 冷たさもなかった。

 ただ、そこに、手があった。

「ユウト。お前がここにいるの、証拠だよ」

「何の」

「“守られたものが確かにあった”っていう。誰も見ていない映像の“外側”の証拠。――生きている証拠」

「生きてることが、罪なら」

「罪のまま、ここにいて。許すのは、俺たちがする。許さないのも、俺たちが一緒に背負う」

 言い終えると、部屋の音が戻ってきた。

 廊下を走る誰かの足音。窓の外の、風の小さな気配。ポスターの端がこすれる音。

 カイが深く息を吸い、吐いた。彼は弟の肩に手を置こうとして、途中でやめ、空中で拳を握った。

「ユウト。帰る場所がひとつ増えた。……ここだ。〈ミステリ研究会〉」

 ユウトは、ゆっくり頷いた。

 頷いたあとの顔は、やっと少しだけ弟に戻っていた。

 僕らは、その顔を見て、少しだけ笑った。

     *

 医務室での簡単な診察のあと、ユウトは保健室のベッドに横になった。南条先生は事務室に報告に行き、カイは生徒会の処理を片づけに戻った。

 ベッドの隣に椅子を引き寄せ、僕とミナトは並んで座った。コウは窓辺でカーテンを整え、小さな風鈴の欠片をポケットから出して、ベッドの柵にそっと置いた。

「何それ」

「花浅先輩の。屋上で割れたやつ。私が勝手に拾って、勝手に持ってる」

「叱られるよ」

「叱られても返さない。……今は、ここに置く」

 風鈴の欠片は音を出さない。それでも、そこにあるだけで、部屋の空気が少しだけ軽くなる。

 ユウトは目を閉じ、しばらく黙っていた。

 やがて、口を開く。

「思い出したこと、言う」

「無理するなよ」

「無理じゃない。――覚えてるのは、『降りる』『戻る』。それから、『押されたことを残す』。花浅先輩は、自分が押されたら、誰かが『押された』と言ってくれるって信じてた。でも、俺は言えなかった。だから、今ここで……言うことだけ、する」

「いい」

 ミナトがメモを取る。僕はユウトの横顔を見た。光の加減で、骨ばった輪郭がくっきりしている。

 ユウトは続けた。

「俺は、彼女の代わりに、いなかった。いない間、お前らがいろいろやってくれた。資料を出して、掲示して、怒られて、それでもやった。……それを見て、帰ってきた。見なかったら、帰らなかった」

「見たのか。どこで」

「町のネットカフェ。――たまたまだと言えば嘘になる。俺は、ずっとここを見てた。見てるのに『いない』ことにしてた。そういうのを、人は臆病って言うのかもしれない」

「臆病でもいい。帰ってきた」

「帰ってきた。……だから、言う。『俺は、花浅先輩に隠された証人だ』。『証言は穴だらけだ』。『それでも証人だ』。……それが、今言える全部」

 コウが風鈴の欠片を指で押さえた。

 指がわずかに震えている。

 ユウトはそれを見て、初めてきちんと笑った。

「凪。お前、泣いてる」

「泣いてない」

「泣いてない人の言い方」

「うるさい」

 やりとりは短くて、くだらない。

 でも、こういうやりとりが戻ってくるのを、どれだけ待っていたか。

 僕は椅子の背に体を預け、天井の四角いシミを見た。

 シミは見た目どおりシミで、意味を持たない。

 意味を持たないものが、今日はありがたい。

「朽木」

 ユウトが呼ぶ。

 僕は顔を戻す。

「俺、たぶん、また消えるかもしれない。今日みたいに来て、明日いなくなるかもしれない。穴は、勝手に開く。塞げない。……それでも、ここに名前を置いていく。名前があれば、呼べるだろ」

「呼ぶ。何度でも」

「呼んだら、戻るかも」

「戻れ。戻らない日も、呼ぶ」

「うん」

 それだけ言って、彼は目を閉じた。

 まつげの影が頬に落ちる。

 眠る前の顔は、年相応だった。

     *

 夕方、部室に戻る。

 鍵を開ける音は、朝より少しだけ軽い。

 机の上に、〈ノートNo.0〉と“押し写し”の紙を広げる。

 ミナトがパソコンに向かい、今日の議事録に「神庭ユウト来訪」と打った。

 その行のすぐ下に、僕はゆっくりと書く。

 証人の証言は穴だらけであってよい。

 穴の縁に、手順を通す。

 書いたあとの白い余白を、しばらく見た。

 余白は、恐ろしい。

 でも、今日の余白は、未来の分だけ明るい。

「代表」

 ミナトが顔を上げる。

 冗談じゃない響きで、呼ばれる。

「次のパッチ。『証人の保護』。物理的な居場所の確保と、精神面のケア。学校側に、具体策を出してもらう。生徒会と共同で」

「カイは乗るはず」

「南条先生も、やる。――凪」

「うん」

「君は彼の連絡先だ。彼が消える日の連絡。戻る日の連絡。どっちも受け取る」

 コウは頷き、机の端で風鈴の欠片をくるりと回した。

 欠片は、音を出さない。

 それでも、光は拾う。

 拾った光が、机の木目の上で揺れた。

「朽木」

「ん」

「今日の章タイトル、決めて」

「章?」

「仕様書の」

 僕は少し考え、黒板に書いた。

 再会の影/生きていることを中心に置く

 字は下手だったけれど、ここにいる全員が読める。

 読めれば、進める。

 進めば、変わる。

 変われば、誰かが助かる。

 誰かが助かれば、彼女が選んだ“降りる”の意味が、少しだけ軽くなる。

 軽くなったぶん、僕らの肩にのる。

 のる重さは、悪くない。

 窓の外で、暮れかけた空に一番星が出た。

 屋上の方角を見たら、風が少しだけ動いた気がした。

 耳の奥で、鳴らない風鈴が鳴る。

 僕はページを閉じ、鍵を握り、ゆっくりと立ち上がった。

 生きていることが、いちばん重い罪だとしても。

 その罪を、証拠に変える。

 証拠は、紙になる。

 紙は、手順になる。

 手順は、世界を遅くする。

 遅くなった世界で、僕らは彼を、彼女を、もう一度呼ぶ。

 呼べる限り、呼び続ける。

 それが、〈ミステリ研究会〉の再会のやり方だ。

 そしてきっと、それが、僕たちの再生の一歩だ。

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