8話 思い出の中の出来事
その日の夕食時間、私はビレムの弟子となったことを、屋敷の皆に知らされた。使用人たちの食卓にまでわざわざ足を運んで、フォークを手にして小麦とプラムのプディングを食べようとしていた私を立たせて。
「こいつは、アヴェリーナ嬢は昨日から儂の弟子になった。魔導士見習いだ。だが特別な扱いをする必要はない。これまでの通り、彼女は使用人でもある。ただ儂の弟子にもなったからには、儂の研究室へ入り浸ることもあれば、儂と魔法の実習をすることもあるだろう。なぜ儂が使用人を弟子にしたのか気になるだろう。彼女に何か自分にはない特別なものがあったのではないかとな。それを知らずにいたら気になって夜も眠れないだろう。噂をして、嫉妬もしてしまうだろう。実際、儂は彼女に自分の金を使って色々買ってあげた。一人前の魔導士にするためにな。だがこれは正当な取引でもあるんだ。儂は彼女に魔法を教え、彼女は儂に彼女が知っていることを教わる。なぜ彼女が儂が知りたいものを知っているかに関しては、儂もわからないとでも言っておこう。しつこく追求するのもするでない。どうしても気になるなら、彼女じゃなく儂に文句を言いに来い。いくらでも聞いてやる。何かこの場で話したいことがあるなら手を挙げろ。答えてやる。」
取引か、そんな風に他の人には説明するんだね。ビレムってやはりそれなりの地位にいた人間として問題なく腹芸が出来るみたいである。そしてリンテンがなぜか手を挙げて質問をした。
「リーナちゃんは、アヴェリーナは、我々より上の立場になるのでしょうか。」
別にそうはならないだろう。
「さあな。見習いとは言え、魔導士を怒らせたらどうなるかくらい想像が付くだろう。この屋敷で働く君たちならな。まあ、それも彼女と君たち次第だろうよ。儂が決めることじゃない。それともそう命令して欲しいのか?命令をしたところで儂の目が届かないところでも従う義務なんぞない。だがそれでいいわけがない。言ってやろう。将来魔導士となる人間を使い潰すなんてことをして、儂が許すわけがないことは、想像できるだろう?まあ、君たちがそのようなことをする人間じゃないことは儂が良く知っている。そうでない人間をこの屋敷の中へ入れるものか。ただ、そうだな。一人前の魔導士になるために練習したり勉強をする時間は必要だろう。その時間を彼女が必要と言ったら、聞くんだ。それくらいは出来るだろう。わかったか?」
「「「畏まりました。」」」
そう私以外の使用人の皆からの返事が食堂に響いた。
「他に言いたいことは?」
それに対して誰も手を挙げることはなかった。これが彼のやり方だ。彼の性格なのだ。相手が誰であれ反論できないほど論拠を並べる。学会で長くいた人間ならではことだろう。ただ私自身を私自身の立場に対する抑止力にするなんて、予想外もいいところだけど。
「ないのか?では、儂はこれで失礼する。」
そうやってビレムが食堂を背にしてからしばらくして、メイド長からのコメントが飛んできた。
「魔導士なら、重い物を魔法で運べたりするのかしら。」
多分出来るんじゃないかな。まだわかんないけど。なぜかカリスト君がむせて咳き込んでいたのが印象に残った。
部屋に戻り、洗浄魔法で体を綺麗にして部屋着に着替えてからベッドに座ると、隣にリンテンが座った。彼女から何か話がある時に彼女は私の隣によく座る。
「リーナちゃんって魔導士様になっちゃうんだね。」
「まあ、そうなりますね。」
「そっか。未来の心配はしなくても良くなるんだね。夢だった?」
「どうでしょう。未来のことは、考えないようにしていましたから。こうなるとは思えませんでしたし。」
「でも何かを認められたってことなんでしょう?すごいじゃない。今朝出かける時は何か大事な買い物をするのかって思ってたら、そのペンダントとか、腰のあれって、短剣なのよね。魔導士なら杖じゃないの?」
「魔法の触媒を制作する時、魔導士なら形を杖にするのが一般的なだけで、特に制限があるわけじゃないみたいです。実際、お師匠様は指輪を触媒にしてますし。」
「もうご主人様じゃなくお師匠様なんだね。」
その言葉に何か返事をすべきか迷ってたけど、リンテンは黙って灯の魔法で光っているランプをぼんやりと見つめていて、私からの言葉を求めているようには思えなかったので私も黙って、ランプの暖かな光を眺めた。
「そう言えば、リンテンさん、好きな人はいますか?」
ふと思い出しので聞いてみる。カリスト君の助けになりたいわけじゃなく、ただ彼女の場合はどうなのか気になったので。
「好きな人?なあに?やっとそうい事に興味が出たの?誰か好きな人でも出来た?もしかしてご主人様?リーナちゃんとめちゃくちゃ年齢離れてるし、亡くなった奥様一筋だから無理だと思うけど。」
なんでそうなるのかな。ビレムは人としてそれなりに完成しているというか、入る隙がないというか。そもそもそう言う方向で彼を見ることは出来ないというか。別に彼に魅力がないわけじゃなく、人はどこか不安定な状態じゃないと他の人を必要としないから、そう言う人にこそ自分から何かをしてあげたい、愛らしいって思うわけで。ビレムは例え彼の気が変わって、魔法を熟達させた私が彼を若返らせたとしても、私に寄りかかってくることなんて想像もできない。
「違います。リンテンさんの好みとか気になってて。今まで付き合ったこととか、ありませんか?」
「見ればわかるでしょう。あると思う?そう言う機会があればいいなってずっと思ってはいるんだけど。」
「恋愛小説とか読んでますよね。近くから探したりはしないんですか?ほら、屋敷の中に若い執事の人、結構多いじゃないですか。」
「多いというか、まあ何人かいるね。でも付き合うってなるとね。そう言うのって仕事から離れてやるんじゃないの?」
カリスト君がちょっと可哀想に思えて来る。
「じゃあ、仮にですけど、うちの執事の誰かに告白されたら振るんですか?」
「そんな、あり得ないって。」
「仮の話です。」
「うーん、まあ、その時にならないとわかんないかな。でもどうしちゃったの?うちの執事に興味が出ちゃったの?そう言えば、今朝出かけた時、カリストさんと一緒だったのよね。もしかして、彼のこと気になっちゃってる感じ?」
「違います。年齢結構離れてますよね。」
「そう? 十歳そこら辺とか普通でしょう?」
この世界では世代によっての文化の変化が殆ど存在せず、人によって成熟度が違うため、年齢の離れた恋愛はそこまで珍しいものではないんだけど。
「それに、私のことは異性として好きじゃないみたいですし。」
「こんなに可愛いのに?彼も見る目ないのね。というか聞いてみたんだね。」
カリスト君、見る目ないって言われたよ。彼が好きなのはあなたです、何て言ったらどのような反応が戻ってくるのやら。言わないけど。
「話の流れで。私の話はいいんですから。リンテンさんの好みがどうなのかなって。理想的なタイプとか、そう言うのあったりします?」
「理想的なタイプか。あんまり考えたことないかな。経験もないのに言うのもなんだけど、恋愛ってあれだよね。こうするべき、これが理想的って思ってやるもんじゃなくて、自然な流れでそうなるもんじゃないの?それに、自分から相手に譲らなきゃいけないこととか、逆に譲ってもらわないといけないこととか、そう言うことを考えた方が現実的じゃない?」
思ったよりずっとしっかりしている。
「でも経験はないんですよね。」
「それを言っちゃだめでしょう。まあ、本当にその通りなんだけど。でもまあ、気になってるというか、あんな人と恋愛するのは素敵かもって思ったことはあるよ?劇場で見た俳優さんじゃなくてね?」
「誰なんですか? 私の知っている人?」
「多分知らないと思う。誰かに言っちゃだめだからね。秘密なの。えっと、バルデン様って人なんだけど。ご主人様のお弟子さんで、魔導士で、お貴族様。この人、格好いいのなんの。顔もよくて、背も高くて、声も渋いの。単純に動作一つに気品があってさ。まあ、直接話したことなんて当然ないんだけど。でも聞けるでしょう?私たちって、お客様が来たら給仕して、壁の前で立ってさ。それでさ、ただ格好いいだけじゃなくて、話し方とか、笑顔とかが素敵でさ。一つだけじゃなくて、全部が格好いいの。」
バルデンって、レナルドが言っていた人だ。彼以来に弟子は取らないと思っていたって、何かあるのでは。
「その人の年齢とかは知ってますか?」
「わかんない。何回か屋敷に来たことがあってね。リーナちゃんがまだここにいなかった頃ね。」
わからないって、年齢不詳ってこと?
「でも、お師匠様の弟子だったら結構年齢高いんじゃないですか。まだ引退する前の弟子さんだったりしたら。」
「どうかな。もう結婚はしているかも。多分しているよね。お貴族様だし。でも奥さんとか子供とか連れて来なかったらさ、もしかしたらって思うじゃん?」
「それとも離婚しているかも?」
確かに、と頷くリンテンに対して私は続けて疑問を投じた。
「そのバルデン様と恋愛する想像とかしているんですか?」
「まあ、妄想は自由だよね。別にバルデン様を自分がどうにか出来るなんて思わないけど、一度そう言う人を見てしまうとさ、その人にとって特別な人ってどういう人なんだろうって思ったりするでしょう?リーナちゃんにはそう言う経験ない?」
人というより例えば旅に出て、本を読んで、その世界を知って、そこで生きてみたいという妄想は幾度か繰り返している。
「あります。」
だからそう答えると。
「じゃあ理解できるでしょう?自分で手が届かないのをわかっててもさ、物分かり良く後ろに下がって、自分には相応しくないとか自分に言い聞かせたらさ、ちょっと情けないでしょう?そんな情けない人間にはなりたくないわけよ。だからって、別にバルデン様に直接話しかけたりするわけがないけどね。でもほら、お貴族様ってたまにメイドに懸想したりするじゃん?」
今仕えている屋敷の主人がモラルが高く、基本的に優しい老魔導士だからと、そう言うことは全然考えていなかった。
「若い男性貴族のいる屋敷とかで働くとそう言う関係になる場合もあるんですか?」
「まあ、町のさ、他のメイドたちの話とか聞くとね?子供を産むことまで行くのはそこそこあるっぽい。それで養育費とかもらってさ。」
そんなドロドロな話が普通にあるなら、そう言う家ではメイドなんて雇わない方がいいのでは。
「そうしたらメイドの仕事は出来なくなりますよね。」
「メイド辞めてもさ、町の商業ギルドに登録すれば職業訓練は無料でもらえるわけじゃん?それで工場で簡単な仕事とかしてさ。ほら、工場って結局あれでしょう?機械の仕組みを学んでどこを加熱するか、冷却するか、空気中の水分を絞り取るとか、そう言う簡単なことをどこでも自由に出来るわけじゃん?」
この世界は産業は発達している世界ではあるけど、しかしながら工場で労働者を雇うというシステムは存在せず、商業ギルドに登録さえすれば町中のどこにある工場でも自由に出入りできる。今日はこの工場でこの仕事をして、次の日は別の工場でまた別の仕事をする。皆魔法が使えるから、働いた分だけ、収入として入るようになっている。そしてそう言う工場を行き来して好きな仕事をする人をモナドという。
「リンテンさんはモナドになりたいんですか?農家は継がないんですか?」
「畑仕事って大変だよ?私が継がなかったら弟が継ぐはずだし。モナドになればさ、自由な生活ができるわけじゃん?お金が欲しくなったら工場で好きなだけ機械を加熱したり冷却したりしてさ。そりゃ、そこまでお金は稼げないかもだけど、お貴族様の子供を産んで、養育費とかもらってさ。」
現実的なのか、ゲスいのか、夢見がちなのか、どっちとも取れない考え方に乾いた笑いだけが漏れる。
「ご主人様のお孫さんとかはどうなんですか?私たちとそう変わらない年齢な気がしますけど。」
「貴族って、えっと、直接的に爵位を受け継いだ人以外は、一代過ぎれば継承できなくなるのよね?あってる?」
「あってます。」
確かに貴族じゃなければそんな、よそに子供作って養育費だけ送るとかそう出来るものじゃないよね。
「まあ、わかってはいるけどね。自分がちょっと可笑しな考え方してるって。でもさ、あれだよ?可笑しく見えても別に誰かを傷つけるわけじゃないでしょう?こんなこと言いながら自分から話しかける勇気何てまるでないのにね。私の話はこれでお終い。リーナちゃんは?恋愛経験ないって何回も聞かれてるからわかるけどさ。」
「ごめんなさい、隠すつもりはなかったんですけど、実はあるんです。」
「え、聞いてない。この屋敷に来る前なんだよね?」
「それよりずっと前の話です。」
十年も二十年も、それ以上前の昔の、遠い遠い世界での話。
「それより前? どういうこと?」
「年下の男の子と付き合ってました。彼の方からアプローチしてきて、気が付いたら付き合い始めて、一緒に暮らすようになって。」
「ちょっと待って、ちょっと待って。リンテンさんは今十四歳だよね?」
「まあ、聞いてください。私の歌だと思って。」
「歌?」
リンテンはクスクスと笑ってから答えた。「わかった。聞いてやる。」
「私は言わば衛兵で、騎士でした。夜が七日間続いて、昼が七日間続いて、太陽の見えない日もあって。その世界では人が狂いやすくて、だから犯罪に走る人は少なくありませんでした。ただの犯罪ならともかく、色々考えて、自分たちの暴力に理由を付けていたんです。そんな人たちに武力を行使して捕まえて、時には…」
そこで少し濁す。
「わかった。それで?」
リンテンは多分、調度私の年齢でならやってしまう妄想を聞いている気分なのだろう。
「そう言う仕事をするためには、犯罪者より強くなければなりません。生れから特殊でないといけない。実験のように生まれて、それで生き残ればまるで超人のように強くなって。そんな私の体を検査したり、点検してくれる人がいないとだめじゃないですか。そう言う人と付き合ってたんです。」
ふむふむと頷くリンテン。
「割と凝ってる設定だね。」
そう言うことにしておこう。私も笑顔で誤魔化す。
「それで、一緒に暮らすようになって。すると、今まで見えなかったこととか良く見えてきたんです。ああ、この人はそういう人なんだなって、色々知ることが出来て。いいことろもたくさんありましたけど、もちろん悪いところもあればいいところもあって。恋愛って実は自分が耐えるかにかかっているんです。だれでも悪いところは持っていますから。そんな相手の悪いところに耐えられなかったら、それで終わり。耐えられたら、関係をより深められる。そう言うものなんです。」
「確かに、耐えられそうになかったら恋愛なんて出来ないよね。」
自然と顎に手を当てて、真剣な表情で考えこむリンテン。
「と言っても仕事で遠くへ出かける時もあって。そういう時は外で何十時間も過ごして、それでたくさん頑張って戻ると、その人の顔が見れるんです。すると、私はこの世界では一人じゃないんだなって、実感出来て。」
彼がいなくても生きることは出来たはずだけど、彼がいなかったら私が人生で感じた意味はずっと小さいものになったはず。
「妄想にしては実感がこもりすぎてない?」
「演劇の独白なようなものと思ってください。」
するとリンテンは思い当たるものがあったのか、「なるほど。」と頷く。
「特に肌を直接触れ合ってなくても、ただ抱き合っているだけで良かったんです。互いの匂いが混ざって、目を瞑って、音楽を聴いて、何も考えずに、ただ時間を過ごして。」
リンテンはその場面を想像したのか顔を少し赤くした。
「その人ってどんな感じなの?リーナちゃんの妄想の彼氏。」
「線が細くて、笑顔が優しくて、すごく、頭が良くて。私と比べ物にならないほどたくさんのことを知っていて。長距離をただひたすらに走るのが好きで、私に何かを説明してくれるのが好きで、何でもないことにも特別に感じ取って、たくさんお金を持ってるのに、使う意味がなければ燃やしてもいいとか言ってて。」
錬金薬でそことまで思い出してしまうなんて、ビレムの腕がいいからなのか、それともこの世界の理はそこまで万能なのか。リンテンは続きを促していたので語る。
「結婚も考えていたんです。けどどうしても踏み込めなくて。彼との時間は、本当に何も特別なことがなくても、二人でただ笑い合うだけでもこんなにも素敵で、何もかもが美しく見えて。」
前世の私は誰から特に必要とされてないと言うのに、自分から仕事を抱えてはそれを処理することで日々の寂しさを紛らわしていた。仕事から自分の存在意義を見出しただけじゃなく、むしろ仕事をするためだけに生きている、そんな人生。いつも外には広大な星空が広がっていて、手を伸ばせば届きうるんじゃないかと勘違いしてしまうほどの近くに、自分という存在を受け入れてくれる壮大な景色。その中に含まれることは、荘厳で巨大な意志を感じられた。
だから一所懸命頑張ったのに、見てはいけないものを見て、知ってはいけない事実を知って、上層部に訴えたらへき地にある現場へと左遷されて。
その時彼と出会った。動物に優しくて、人生にロマンを持つことを第一に考えているような、夢見がちな人だった。そんな彼のような人たちを自分の手で守れることって、結構素敵かも知れない、そう思うことで私は生きる意志を取り戻していた。
「辛いことがたくさんあったんですけど、それでも、もしかするとそんな辛い時間は、彼とそうやって時間を過ごすための試練だったかもしれないって。なら私が今まで辛かったことも、そんなに悪いことばかりではなかったかも、なんて思えてきて。それだけで幸せだったんだと思います。そんな幸せがいつまでも続いてくれたらいいなって。でも心の中でわかってはいたんです。私という人間はどうしようもなく壊れていて、これもいずれ終わってしまうんだって。別に寿命で二人のうち誰かが先に死んじゃうとか、そう言うんじゃなくて、私の運命が彼を私のところに留まらせることを許さないんだって。でも、今この瞬間だけでもいいから、いつか終わるとわかっていても、それでも、それでも良かった。私がいつも仕事から家に帰ってくると、彼は家で仕事をしている人だったので、嬉しそうに笑顔で出迎えてくれて。抱きしめあって、ただいまって言って。今日も大変だったって愚痴を言って、すると彼はちゃんと頑張ったんだね、私の背中を撫でてくれて。結局、私の不安は確かなもので、色々あって別れちゃったんですけど。」
最後の日のことは、決して思い出したいものではなかった。出来れば忘れていたかった。でもせっかく思い出したものなのに、消してもらうだなんてことをしたら、彼女が可哀想と思ってしまって。
どうしようもない状況に陥り、自暴自棄になって、虚空を見つめ、これが私の終わりなら、それも悪くないなんて現実を受け入れた彼女の姿を、せめて未来の自分である私だけでも覚えてあげないと。例えそれが無意味な行為であったとしても、前世の私は、彼女は最後までちゃんと頑張っていたんだから。もう自分を許してあげてと言いたかった。ちゃんと何もかも忘れて幸せになれたら良かったのに。ハッピーエンドはそう簡単には訪れないものなのかもしれない。
「でも、最後まで彼のことを忘れることはありませんでした。口にずっと彼の名前が残ってて、気を抜いたら呟いてしまうほどで。」
「そんなに愛してたんだ。」
「今はもう、会う事すら出来ないんですけどね。私が思うに、相手がどんな人間かは、実はそこまで重要じゃなかったりするものなんです。相性とか、そんなことも考えられますけど、人間って、実は日々の幸せを感じるために、そこまで大きなものが必要なわけじゃなかったりしますから。例えば暖かな温もりとか、安心させてくれる優しさとか。それだけで、世界って、今までよりずっと美しく見えたりするものなんですから。自分がこの世界を、この人生をちゃんと生きているって、自分が選んだ道をちゃんと歩んでいるって、その事実を噛みしめるために必要な塩みたいなものなんです。互いに支え合えられる立場であること、それが一番大事で、相手が持つ特別さより、自分が相手にどれだけ優しく出来るか。そう言うことを考えさせてくれる人が現れるなんて、素敵なことだと思いませんか?」
リンテンはそれを聞いて感心したように頷いて、私の頭を撫でてくれた。
「うんうん、本当、いいこと言ってる。」
「えっと…ごめんなさい、長々と。」
「大丈夫?」
「大丈夫って何がですか?」
「もう、泣いちゃってるじゃん。ほら。」
リンテンはそう言って私の頬を拭う。確かに視界が少しぼやけていて、暖かい涙が伝うのが感じられた。
「どうしてなんでしょう。本当に昔のことで、その時の感情なんてもう残っていないはずなんですけど。」
「あれだよね、学芸会で舞台の上で役を演じたんでしょう?」
「はい、物語です。ただの物語で、それにのめり込み過ぎちゃったみたいです。」
そう、この世界では誰も知らない、私だけが知っている物語。
「それで泣いちゃうなんて、もう。感受性がすごく豊かなんだよね。そんなまるで自分のことみたいに考えちゃってさ。役者の才能あるんじゃない?」
リンテンはそう言って私の肩をポンポンと叩いてから腕をさすってくれる。
「ありがとうございます。その物語はとても鮮明で、今でも目をつむると思い出すことが出来て。ただ自分がその時どういう心持ちで状況と向き合っていたのかなんて、わからないじゃないですか。物語なんですから。けどそれがずっと心の中に、深いところに残ってしまって。自分ならその物語の中に入っていたとして、主人公の立場になっていれば、そんな結末は迎えなかったはずなのに、主人公はそうもいかなかったから、それがもどかしくて。この気持ち、わかります?」
こういう風にしか説明できないことが少しもどかしいけど、自分が招いた結果だし、我慢しないと。
「少し、わかるかも?私も恋愛小説読むと、なんでこの人はこの時こうしてなかったんだろうって、思っちゃうからさ。結構不思議な話だよね。誰かがリーナちゃんにだけ見せてくれた物語って、その人って小説家だったの?それで作品が出版されることが、何らかの事情で出来なかったとか?知り合い?もしかして家族?」
「そんな感じです。」
「あまり言いたくないなら言わなくていいけど、なにか、こう、実感がこもってた。本当に大丈夫?作品にのめり込みすぎたんじゃない?それにどうして今更思い出したのよ。」
リンテンの言葉に私はふふっと笑った。彼女もつられて笑って、それからはいくらかたわいのない雑談を交わしたり、私の触媒武器であるスピリット・ファングを鞘から抜いて見せたりと、それなりに心が落ち着いたところで眠りにつき、朝までぐっすりと寝た。その日は長い長い夢を見て、その夢の中で私は前世の自分と向き合っていた。
何かを話し込んでいたんだけど、起きてすぐそんなに長く何を話したのか、すべて忘れてしまっていた。