4話 変化と始まり
どこまでも続く暗闇の中、何の重さも感じない。ただこの暗闇には色があって、音があって。何か大きなうねりが広まっている。それもとてもゆっくりと。気を向けないとそんなうねりがあることすらもわからないくらい、とても大きなうねり。暗闇はなぜか黄昏のような色をしていた。薄っすらと広まり、何もないはずなのに、何もかもがそこにあるような。凝縮されて、広まって、また凝縮される。それもまた、とてもゆっくりと、気を向けないとわからないくらい。
なぜ私はこんなところにいるんだろう。体の重さも、心の痛みも感じない。一つの場所に固定されているんだろうか。動いている感覚はしなかった。周りの全てがなぜか鮮明に見えるようで、目で何かを見る感覚とは違ってて。そうしていると波が押し寄せてくる。私を外側から内側へと押しつぶすように。だけど体の感覚があるわけじゃない、私という輪郭があるわけじゃない、なのにそれは、ぼんやりと私の形に入り込んでくる。
不快な感覚じゃない。ただ忘れていようと思ってたのに、思い出してはいかないはずなのに、それを思い出してしまう。そんなことはあってはならないはずなのに、無理やり力で理を捻じ曲げようとしている。とても暴力的で、私の中にずっとあった空白を埋めようとしている。こんな形で埋まることはこれが初めてで、拒絶する方法もわからない。
青い液体で私の中が満たされていく。重さのないその液体は、私の感覚を塗り替えていく。今まで言葉にすることも出来なかった感覚、考えもつかなかった洞察、知りえなかった知識、そして説明出来なかった事象の意味。
それらが冷たい熱を持って私の形を変えてゆく。息を吸って、吐く。何もかも変わってしまった。瞼を開けると、美しい幾何学模様が描かれた白黒の天井が見える。クッションが私の頭を支えていて、私はソファーで横になっていた。首を動かして隣を見ると、私の雇い主である、ビレム・フォン・ヴァンダインが窓際に立って背を向け夜空を見上げている。長く続いたであろう沈黙を破り、私から彼へと言葉を投げかける。
「今起きました。私はどれくらいの間、意識を失っていたんでしょうか。」
ベストの内側にあるポケットから懐中時計を取り出し時間を確認してから窓から背を向けるビレム。
「二時間十五分といったところだ。どこか痛いところはないか?」
「ありません。ご主人様が私が倒れるところを魔法で守ってくださったんですよね。感謝いたします。」
私の言葉を聞いたビレムはそれに答えることなく、目を細めて私を見つめた。彼は薄い笑みを浮かべ、前とは違う、まるで同じ大人を相手にしているような口調で私に問いかけた。
「記憶を取り戻した感想を儂に聞かせてくれるか。」
言わずに黙っていても特に彼は私を追い詰めるようなことはしないだろう。彼はそう言う人間だ。全部を説明することは出来ない。そうすることで何が起きるか、想像すらつかない。彼は老いてはいるが、今でも死ぬような年齢ではない。残りの年月を私が教えた知識を広めることに使えば、世界は変わってしまうだろう。それは悪いことではない、だけど、いいことでもない。この世界の魔法の可能性を見て確かめるまで、軽率に自分の知識を広めることはしたくない。
それに、私の前世はそこまでいいものじゃなかった。おいそれと人に言いふらすことは出来ない。ただ少しは話せると思う。それに、これは取引の材料になるかもしれない。ただこの世界の人間が前の世界と全く同じ仕組みをしているかを確かめないことにはことを進めない。ただいくつか確かなことがあって、例えば癌。人間が細胞で出来ていないことには癌は発生しない。人体の構造も変わらないと考えていいだろう。では、ここで私がビレムの説得に使える材料は決まっている。けどその前に聞いておかないと。ソファーからも起き上がって、ちゃんと座って、ビレムの目を見て、問いかける。
「ご主人様の前世はどのようなものだったんでしょうか。私たちは共犯者になりました。この錬金薬は世間に公表出来るものではないものなんですよね。私たちはそれを飲んで、普通は知りえないことを知ってしまいました。共犯者として、ご主人様の話を聞く権利はあると思いますが、どうでしょう?」
私の問いに答える前にビレムは私の前まで歩いてきて、反対側にあるソファーに座った。
「君の前世がそれなりに力のある立場だった可能性も考えていた。貴族や王族、それとも何らかの力で成り上がった人間。君の言い方から察するに、私のような立場の人間と対等に交渉することが出来るという事は、つまりそう言う事なんだろう。」
全く違うけど、否定せずにいると彼は続けて言う。
「だが我が国エルドリッサの出身ではないことも考えられる。どっちだ?君が前世で前の王だった場合は儂も相応の礼儀を持って接しないといけないだろう。」
ここで明確な嘘をつくことは出来ない。私はエルドリッサや大陸全体のの政治システムなどに全然詳しくない。制度がどのような仕組みなのかを学校で学んだくらいで、それ以上のことは言ってしまったらすぐにぼろが出るだろう。
「私の前世はエルドリッサとは違う国でした。サヘルニアでもアリアンドリアでもありません。遥か昔の時代か、それとも別の大陸か。この国の名前は聞いたことがないんです。」
紛れもない、確かな重さを持つ記憶が生まれて、その記憶にはこの世界の人間では理解できない感覚が多く含まれている。ならこういう風に説明しても問題ないはず。
「なるほど。その国ではどのような立場だったんだ?」
私はアルカイックスマイルを浮かべて沈黙を貫いた。本当のことを言うより、こうした方がいいと思ったから。
「この国と無関係な遠い国の人間なら、王族であることを儂に言ったところで君が損をすることはないと思うが。なぜ言わない?」
「ご主人様の前世の話を先に聞かせてもらえませんか?」
「なるほど、話の主導権はもう君の方へと移っている。君から聞ける話が楽しみだ。だがそのためには儂の前世を語らねばならないと。よかろう。しかしだ、もう儂の前でも平気に嘘をつけるようになっていることも考えられる。」
少し意地悪そうな表情でそう言うビレム。彼が考えていることは間違ってはいない。別に悪意があるわけじゃない、彼を利用しようとしているわけでもない。だから後ろめたいことは一つもない。
「私が仮に嘘をついたとしても、ご主人様の前で何か悪さをしようとするなら、すぐに気づかれることでしょう。前世の記憶が戻ったくらいでご主人様を出し抜けるなんて出来るはずもありませんし、そうしたいとも思いません。それとももう私の言葉は信じるに足りぬものとなったんでしょうか。」
するとビレムは意地悪そうな表情を崩し、柔らかな笑みを浮かべた。まるでこの状況を楽しんでいるように見える。
「なるほど、その説明は理にかなっている。最初から自分の前世のことは語るつもりだった。この国の南はどこも国境を接しておらず、大きなが川が流れていることは知っているか?川からはいくつものの運河と水路がどこまでも広がる農地に水を供給し、様々な作物を育てている。儂はその先の一つにある村落で生まれた一人の女性だった。広い農地を持っていて、たくさんの兄弟姉妹がいて、平穏無事な日々を送り、成人して間もないころで、同じ村に住む無口ではあるがちゃんと優しさを持つ男と婚姻を結んだ。二人のうち誰か、それとも二人ともか。二人の間で子供は生まれなかった。それなりに励んではいたが、出来ないことは出来なかった。村では毎年、初夏と収穫の時期とに祭りを行った。いつもの素朴な服に色とりどりの飾りをつけて、彫刻を燃やして、歌を歌って、酒を飲み、踊る。きっと今でも同じことをやっているだろう。」
ビレムは一度そこで話を区切り、自分の部屋を見渡した。
「都会でも祭りをやっている。君も見たことがあるだろう。魔導士たちが集まって色とりどりの花火を打ち上げて、空中に光の模様を描き、躍動するように動かす。儂も若いころには小遣い稼ぎに幾度かやったことがある。貴族がそんな理由で人のもとで働くことが知られたら、他の貴族の名誉すらも落としたと見なされてもおかしくないことだが、どうしても手に入れたい錬金薬の素材があったんだ。だからわざわざ王都ハルシュテルとは離れた町まで行って、その町で主催する祭りで花火を打ち上げる練習をして、実際に打ち上げて、大きな青い鳥を空に描き羽ばたかせた。祭りを主催していた貴族家には若い娘さんがいて、彼女とよく話していたんだ。言葉遣いが貴族のそれであることを彼女にばれたことも知らずはしゃいで。豪胆で情熱的な人だった。」
多分、その人がビレムの亡くなった奥さん。
「前世では簡単な魔法以外は使えなかったんだ。今では想像もできないがな。夫と並んで花火を見て、その幻想的な美しさに魅了された。だからと何かが出来たわけじゃないが。夢を抱いたところで、自分の生活に満足さえしてしまえば、人はそれ以上のことに足を踏み入れることは滅多にしない。何もかもが村にはあったんだよ。花咲く春も、眩しい夏も、秋の紅葉も、雪の積もる穏やかな冬も、人と愛し合う喜びも、助け合い支え合う暖かさも、どこまでも続く長閑な平穏も。なのにそれ以上を求めても仕方がない。まだ若くとも自分が魔導士の弟子になるような人間でないことはわかっていた。村にある学校でも基礎的な魔法くらい教えてもらえる。大人になっても先生に聞けばどうだろうと相談して、基本的な原理を知った時には、どうしても手の届かないものだと実感した。もし人に決まった運命があるなら、もしかするとそれは前世からの願いによるものやも知れん。君はどうなんだ?何の願いがあったのか、儂に聞かせてくれるか?」
暗に私の前世にも何かしらの願望を抱いてこのような人生になったのではと聞いているんだろう。
「私にも確かに願望はありました。」
そう言うと促されたけど、私は首を振った。
「まだご主人様の話をすべて聞いておりませんので。」
「続きと言っても大した話ではないが、そう言うなら聞かせてやろう。幻獣が現れて畑を荒らされたこともあったが、概ね平和だったんだ。子供を持つことが出来なかった寂しさゆえか、何匹も犬を飼っていたよ。犬が死んだらまた村のどこかで生まれた子犬を新しく家族に入れて、その繰り返し。何十回物の冬を超えると、気力が衰えることを実感し、親が亡くなり、昔から知っていた村の大人たちが亡くなり、やがて夫も先に亡くなった。彼が好きなハーブティーを淹れて、横になっているベッドへ持っていたら、息を引き取っていた。」
そこまで言ったビレムの姿が、ぼんやりと、田舎に住んでいる年老いた優しそうな女性の姿と重ねて見えた気がした。どこまでも淡々としていて、声のトーンに変化もなく、ただ懐かしむように遠いところを見ていた。彼は視線を私の方へとまた移し、最後まで語る。
「それからまた数年が過ぎて、村の若者たちが毎日見に来てくれて、動くことも難しくなってからはたくさん世話になってしまった。動けなくなってから何週間か経って、終わりはすぐに訪れた。窓の外には雪が降っていて、死んだ夫を会いに行くとばかり思っていたんだ。貴族の家で生まれ変わるなんぞ、誰が想像できようか。性別も変わり、過去の記憶はきれいさっぱり忘れて。前世も今も人に悪意を向けそれをぶつけることは得意ではないこと以外、何の共通点なぞありやしない。さて、君の番だ。君はどのような人間だったのか、共犯者である儂に聞かせてくれ。友人や家族にすら話せないことを儂は君に話した。君も儂に話してくれるのだろう?」
そう言われて断るわけにはいかない。それでも、私は、すべてを語るには、私が前にいた世界も、前の世界の状況も、私自身の人生も、短い物語のように語るには長すぎる。どこからどこまで語っていいのかを自分で決めるのも難しい。それらを語ることが、この世界の人間にとってどういう意味を持つのか定かではない状態。自分の心も、普通に生きる場合は触れてはいけない場所を触れている。だから出来るだけ彼から情報を貰おう。判断材料が必要だ。
「探したことはありますか?それが何かしらの勘違いで作り出された記憶である可能性はもう検証しているんでしょうか。」
ビレムはニヤリと笑い、自分の親指で指輪を触ると、机の引き出しから写真が一枚すっと抜け出て、虚空を移動してきて私の前にひらりと落ちた。見てみると、ビレム自身と重ねて見えた姿そっくりの老齢の女性が写真の中に収められている。隣には彼女の夫らしき無愛想に見える老人の男性と、毛の長い大きな犬が三匹と子犬が二匹。写真はセピア色に褪せていて、どんな色だったのかはわからないけど、背の低いお花畑の真ん中に立つ姿は確かな暖かさを感じさせる。
「儂も同じことを思って探したのだよ。直接足を運ぶことまではしなかったが、その写真を入手することはできた。百年ほど前の物で、村の図書館に保管されていたらしい。」
ビレムは今何歳なんだろう。孫がいるという話は聞いたけど、屋敷に訪問したことは一度もない。どこか遠くに住んでいるんだろうか。
「この女性の記憶が世界に記録されていて、それをご主人様は、錬金薬を使い、引っ張り出してしまった可能性もあるのではないんでしょうか。それに偶然にも成功してしまって。」
私の言葉にビレムは目を少し大きく開けて頷いた。
「興味深い仮説だな。しかしそれを考えるためにも君から話を聞くことが必要だ。」
ビレムからそれ以上の情報を聞き出すには、今の私では役不足だったみたいだ。彼が私の話を聞いてそれを嘘だと断定される可能性は低いと思う。ちゃんと説明したらいいだけだから。だけど、彼は果たして私が持っている記憶を肯定的に受け入れてくれるんだろうか。ビレムがいくら温和で包容力のある人間だからと、違う世界の人間をむやみに信じるのはまた別の問題。
じゃあそれをビレムに全部言ってしまったら、自分にとってただの不利益をもたらすだけで、ビレム自身も後悔してしまうかも知れない。自分の決定はやはり危険で、私を危うい立場へと追いやったと罪悪感を抱いて、最終的には忘却させることを選ぶはず。
それでも話さないという選択肢や、嘘をついて別のことを離すという選択肢は私にはない。そもそも真剣で真摯だった彼に適当な嘘をついて誤魔化したいとも思えない。
だからどこまで話すかを決める。問題ない範囲を定めて、私は語り始めた。
「私が生まれた国は豊かではありましたけど、様々な問題を抱えていました。人が人に優しくすることに制限があって、どこまでも無関心を貫いてもそれが許されて、明らかに問題のある制度を改善するまで途轍もなく時間がかかって、間違った話を広めて、騙して、騙されて、生活が便利になっても人と人との距離は滅多に縮まることなく、抱えている孤独に押しつぶされる人に溢れていて、誰かを攻撃することで団結したり、さりげない悪意を誰も防ごうとしなかったり。問題が起きても誰も責任を取ろうとせず、責任を取ると言いながただ逃げるか、それとも死んで逃げるか。そんな国でしたけど、確かな善意もありました。豊かで住みやすい国にしようという意思も常にそこにあったんです。技術の発展は絶えず進んで、何も考えずに楽しむ手段はいくらでもあって。私もそれなりにのめり込んでいたんです。それでもそれを楽しむだけで時間が過ぎるわけではありません。国は常に拡大することをモットーにして発展を遂げることを義務のように誰しもが考えていました。例えそれが避けられない破局へといざなうとしても、止めることは出来ない。そうすることで繁栄を謳歌していたからなんです。」
経済の終わりなき発展こそが至上命題、そのためなら激しい競争や、抗えない貧困、夢を見ることすら出来ず、仕事に押しつぶされる毎日を余儀なくされる人たちを見て見ぬふりをすることも当然のように受け入れられる現実だった。世界が広まっても、夢と欲望に終わりはなく、そこに誰かが行けるならそのために誰かが忘れ去られることがあってもいい、そうやって人々は自分では叶えない夢を誰かが叶うのを見て、受動的に時代の流れに従う。そんな世界で私は、流れる時間にただ身を任せていた。やるべきことをやって、眠りについて。星々が与える残酷な幻想に手を伸ばして、重力に従い落ちる。笑いがこぼれる。ブラックホールの向こう側はこうなっていたのかと。
「そんな国で私は、それなりに充実していながらも満たされない日々を送っていました。それなりに物事がどう動いているかを学んで、知って、自分で出来ることを探して。ただ悪いことが起きる時は少なくありませんでした。失敗して、挫折して。誰からも慰めてもらえなくても、進まなくてはいけなくて。色々頑張ったんですけど、徐々に希望がなくなって、暗く澱み始めて。世界はより明るい方向へ進もうとしていると言うのに、間違ったことが起き続けていても、物事は最終的にはいい方向へと進むのが決まっていると言うのに、私はその流れに乗ることが出来なくて。だからずっと一人で苦しんで、足掻いても最後まで自分の置かれた状況を変えることは出来ませんでした。これが私の話です。」
ビレムは話を聞きながら時に頷いたり、時に顎に手を当てたり、眉をひそめたり、眼を大きく開けたりしていたけど、最後はふっと笑った。
「君が語った国は聞いたことがない。証明することも難しいだろう。どれだけの数の大陸がこの世界にあるのか、誰もわかってないからな。」
この世界には無数の大陸があって、地平線はどこかで海に変わっても、水平線は終わることがない。無限に続く海と大陸の世界。この世界は惑星ではない。一体何がどうなっているかわからないし、そもそも重力がどう作用しているのかとか、そもそも星が核融合を繰り返して最終的に超新星爆発を起こして広めないと存在しえない、金のような重い元素がこの世界にもあることとかか、そもそも元素自体が存在するのか、それとも何かの別のものなのか、まるで想像の埒外にあるものの塊。世界が違うんじゃない。この世界は多元宇宙論でいう、全く別の法則で出来て、別の宇宙。
逆にこの世界からしたら、惑星と星、ただっぴろい空間と様々な天体で構成された世界もまた、想像を絶する世界なはず。私も実は結構衝撃を受けている。二つのまるで異なる世界が存在していて、なぜかこの世界にもちゃんと人間とか、同じ動物とか、そう言うのがある。進化はちゃんと学校で学んでいるし、季節まであるし、言葉までどこか似ているなんて意味がわからない。
一体どうなっているんだろう。この世界の歴史もおかしいところだらけだったりするし。
「後ろめたいことがあるから具体的な内容は隠しているとか、ご主人様を騙して何かを得ようとしているとかじゃありません。前世がどのようなものだったとしても、今の立場のままであることは重々承知しております。」
するとビレムは顔を振った。
「君は自分の国をまるで自分のことのように言う。国の主なければそうは言わないものだ。ただ度胸があるだけの人間だったなら儂を図ろうとするだろう。詐欺師だったなら玉虫色の言葉を使い、自分に有利になるよう言いくるめようとしていただろう。しかし君は純粋に時代への感想と君自身の人生を語るだけだった。政治の中枢にある人間はそのような態度をよく取るものだ。それも孤独な立場だったとすると、王や女王、もしくは皇帝以外は考えられまい。お飾りの王であったか、それとも周りと合わせることでしか物事を進められない弱い立場の王であったか。どちらにせよ、君が抱いた感想に噓偽りがないことは伝わってきた。儂を騙すためだけにそのような事柄は作れまい。不思議なものだ、何か目的があって生まれるわけでもあるまい。違う立場として生まれてから初めて見えることがあると言うのに、記憶はすべて忘れ、錬金術の神秘に頼らなかったらただ自分の人生が一つの短い物語として終わるものだとばかり考えていただろう。だが儂らは思い出してしまった。君のためと言っておきながら、情けないことに、君という共犯者が出来たことを嬉しく思っている。」
私の前世ではこの世界と違って、社会の全体的な仕組みや政治の流れを、ある程度の教育さえ受けていれば誰でも把握することが出来るものだった。だからまるで王のように語れたかもしれない。訂正するにもその仕組み全体を今更説明する必要があって、すると芋づる式に自分の具体的な過去まで話さないといけなくなってしまう。
ビレムの中で私から語った物事がそのように繋がっているのなら、それこそ彼にとっての事実となるだろう。それを無理やり変えようとすると、それなりに労力を必要とするだろう。そうする価値があるかどうかもわからない、そうすべきかどうかもわからない。こういう時は掘り下げずに流れに身を任せた方がいい。
ビレムに頼みたいこともあるし。その頼みは、ビレムからしたら私の前世の立場なんて何の役にも立たないはず。
「共犯になったついでに一つお願いできませんか。もしかすると、ご主人様のためにもなるかも知れません。」
ビレムは私の言葉に興味を持ったのか少し前のめりになって耳を傾けた。
「言ってごらん。」
「私は前世で、故あって魔法を学ぶことは出来ませんでした。今でも生活に必要な簡単な魔法は使えますけど、それ以上の魔法も使ってみたくて。図々しくただ秘密を共有しているからとか、そう言うことじゃありませんから。私には医学の知識があります。ご主人様の見えなくなった目を見えるように出来ると思います。」
この世界には人を医療ではなく魔法で治療するのが一般的。私も軽い切り傷などは治せる。治癒術師は解毒も出来て、切断されて間もないならくっつけることだってできる。だけど出来ないことも少なくない。心臓疾患は治せない。多分固まった血液が大動脈に詰まった状態を異常と判断出来ないから。私の祖父のケースのように癌も直せない。むしろ癌になった患者に治癒魔法をかけると早死にすると聞く。多分、癌細胞ですらも活性化させられちゃうからなのではないだろうか。顕微鏡なんてものはない、魔法があるので、目に見えない小さい世界を気にする人なんて、全くいないわけではないと思うけど、生物の仕組みを微細何単位で理解されていないことは確か。
ビレムは左目が白内障の状態。白内障は水晶体が濁ることで、別に中に異物が入ってそうなったわけではない。つまり異常と判断されることがなかったら、治癒魔法で治すのは不可能という事。
「医学を嗜んでいる王だったと。だが君にとっては残念なことに、それだけでは儂が君を弟子にする理由にはならない。君は貴族で、宮廷魔導士だった儂の弟子になるという意味を本当にわかって言っているのか?この国の政治は何も知らないだろう。目のことは特に不便だと感じているわけでもない。見えればそれで越したことはないだろうが、対価としては弱い。」
ここで断れることは想定はしていたけど、政治を理由にされるとは思わなかった。ならここはビレムの興味を引くようなことを言ってみよう。魔法に魅入られた彼なら、きっと。
「瞳孔には薄いレンズがあります。それが濁ることで今のご主人様のような症状が現れる。治癒魔法でも治せないのは、それが明確な害として判断されることはないからです。ただ濁っただけのレンズを元通りに戻すのは不可能。なので、先に薄いレンズを作り、体の一部として元からあるレンズを析出した後、作ったレンズを入れて定着させると目はまた見えるようになるでしょう。私はこのような知識をそれなりに持っています。それは対価にならないんでしょうか。」
「それは確かに価値の高い知識だ。儂にそれを教えると言うのならそれなりの金を出そう。君を自由に出来るほどの金を。」
私が今ここで彼から欲しいのはお金じゃない。心に火の灯った私には新たな薪を必要としている。今私が持っている知識がどれだけ通用するかもわからないのに、それに賭けてお金をかせいで、それからこの屋敷から出てまた魔導士を探して、弟子入りすることを考えるなんて、今目の前にチャンスがあると言うのに、そんな先の見えない遠回りをしたいとは思わない。だからここで決める。
「ご主人様は、不老に興味はありませんか?」
魔法で細胞を操作することが出来れば、不老も夢ではない。前世ではかなわなかった。この世界でなら可能かもしれない。
「儂が作った錬金薬の効果をもう忘れたのか?」
「魂は輪廻する、だから死を恐れることはない、そう言う事なんですよね。でも未来にどうなるかはわかりません。酷い人生になるかも知れません、またたくさんのことを失ってしまうはずです。それを毎回毎回経験することより、一度の人生で時を止めてしまうのもありだとは思いませんか?」
ビレムは低く笑って、ソファーに背もたれた。確かな手ごたえを感じる。
「儂はもう老いて、やりたいことは全部一通りにやって、叶えたいことは一通りに叶えた。何か未練があると思っているのか?」
「次の人生は辛いことになるかもしれません。どうなるかわからないのに、それに賭けるんですか?それに、全部やったと言いましたけど、それは今だからこそ言えることで、実際に若さが戻ってしまえば変わるかもしれない。違いますか?」
ビレムは私の言葉に納得したのか頷いてみせる。
「問題は、儂が長生きに特に興味を持たないことだ。人が人であるためには決められた限界が必要なのだよ。それを超えてしまえば意味を失ってしまうだろう。意味の中で生きるためには、限界に縛られないといけない。だが、そうだな、世界中の人間が不老になれば、儂も不老になることを選ぶだろう。だが君はそう言うつもりで儂にそれを言ったわけではないのだろう?」
手ごたえなんて幻だった。私の勘違いだった。恥ずかしさで顔が熱くなる。ビレムはそんな私を見ても、嘲笑うことなく微笑んでいた。そんな彼を追い詰めていいんだろうか。一瞬その考えが脳裏を過ぎても、私はついに話してしまう。
「ご主人様は、私が世間知らずの十四歳の小娘だから、錬金薬を飲ませる実験対象として選んだのではないのですか?ご主人様が作った錬金薬がただ世界から記憶を引っ張り出すようなものでないと、確信を得るために。記憶を引っ張りだすだけでは、洞察や前世での考え方までは再現できないはずですから。ご主人様はとても知的で、様々なことを経験していらっしゃいますから、確信を得ることは出来なかった。だから私に恩を着せるような形で実験に参加させる。もし間違ってもご主人様ならどうにか出来る自信があるから。違いますか?」
「人は立場によって見方が変わってくる。儂は確かに君にとって、君になんでもできるような人間にも見えることだろう。自分はただか弱い使用人で、儂は年老いたとしても魔導士としての力量は健在で、貴族としての地位もある。だがな、アヴェリーナ。そうはならないのだよ。君がいた国では違ったやも知れんが、この国ではそうはならない。なぜかわからないだろう。それが君と儂の間にある認識の差で、それを埋めることが出来ない限り、儂は君を下手に弟子にするわけにはいかない。」
記憶は戻っているとは言え、完全に大人のような思考が出来るようになったわけではないのを実感する。記憶が脳の形を変えるとしても、未熟さはどうにもできない。まだ赤いままの顔を見せたくなくて俯いていると、向こう側にいるビレムから質問が飛んできた。
「君は君が持っている他人に教えてはいけない知識を、儂に教えることをしてまで、君は儂の弟子になることを願っている。それはなぜだ?金だけでは足りない理由は?君自身が不老の存在になるためか?」
俯いていた顔を上げ、ビレムの目を見て真摯に語る。
「そう言う思惑が全くなかったわけでは、ありませんけど。それだけじゃなくて、ご主人様の弟子になれば、私はもっと多くのことが見えると思います。この立場では、この小さくて普通と変わらない体では、それ以上を見たくても見えない。それ以上が見たい、感じたい、考えたい。それは、いけないことなんでしょうか。私の前世は限られた環境で限られたことしかできませんでした。今も同じです。ご主人様は仰いました。願いを叶えるために、生まれ変われるのかも知れないって。私も同じなんです。願いを叶えたい。確かに私はこの国の政治とか、社会の仕組みとか、まるで知らないただの小娘でしかありません。だから、思っているんです。そうじゃない自分になりたいって。」
私の言葉を聞いたビレムは優しそうな笑顔を私に向けた。
「儂が引き寄せた因果だと言うのに、儂はその責任を君に負わせようとしていたようだ。悪いことをしたな。」
謝られるなんて思わなかった。目を丸くしてビレムの顔をまじまじと見てしまう。かなり失礼なことだという事に思い至って、視線を外そうとすれば彼は人差し指を立てて言う。
「君の思いはちゃんと伝わった。儂は夢を叶えて、君にはそれを叶える権利を与えないなど、理不尽で不公平だろう。人から恨まれることはするものでない。今日から君は儂の弟子だ。儂のことは師匠と呼ぶように。」
ビレムは会話の主導権を私に移ったと言ったけど、そんなはずがない。論理的な思考に一生を費やしてきた人特有の慎重さは、今の、ただの使用人の小娘に過ぎない私がどうにか出来るようなものではなかった。ビレム自身が判断して、私の願いを叶えることにした。
「はい、お師匠様。」
「それと、儂と君の、錬金薬に関することだが、あれはもう二度と作れまい。滅多に出回らない貴重な素材をいくつも使って作ったものだ。中には取引が違法なものまである。そうまでしても儂は、知りたかった。存在の中に刻まれた記憶はどこから始まるのかを。だが人に知られてしまえば、その違法な素材を手に入れるために躍起になる人間が必ず現れるだろう。それを防ぐためにも、君は秘密を漏らしてはいけない。わわかったか?」
私は頷いて答えた。
「命に代えても、必ず秘密をお守りします。」
「よろしい。今日はもう疲れただろう。時間も大分遅くなった。明日も早起きをしないといけないだろう。君の立場と仕事を今すぐ辞めさせるわけにはいかない。それが契約だからだ。世の中の仕組みを感情に任せて恣意的に変えるのは、誰であろうと許されない。儂の言っている意味を、今の君ならちゃんとわかるはずだ。」
それが彼の価値観であることはちゃんと伝わってきた。そして今の私にとって、屋敷での仕事は大した苦には思えない。どうしても体は動かさないといけないのに、仕事をするとそれが出来ちゃうんだから。
私は来た時と同じくカーテシーをして研究室を出て、リンテンのいる私たちの部屋へと戻るため廊下を歩いた。気のせいか、景色が色を増しているようで、自然と口角も上がって、今でも踊りたいくらいの嬉しさがこみ上げてくる。
これからどうなるんだろう。この時点で確実に言えるのは、私のこれからの人生はきっと、私が想像もつかないことになるという事だけだった。