第95話:「ルーシェ、がんばる!:2」
第95話:「ルーシェ、がんばる!:2」
見つからないように、静かに、こっそりと。
ルーシェは部屋の扉をほんの少しだけ開き、片目で部屋の中を凝視する。
(むぅ? いません、ねぇ……)
だが、部屋の中には、誰の姿もない。
ただ、コーヒーなどを楽しむために用意されているイスとテーブルが見えるだけだ。
ルーシェはヴィルヘルムの姿をなんとか確認しようと、隙間を見る位置を変え、見える範囲をいろいろと動かしてみる。
1人きりになったヴィルヘルムはきっと、間違いなく、その本性をさらけ出してなにかよからぬことをしているのに違いない。
ルーシェはその瞬間を抑え、それと同時に部屋の中に踏み込むつもりだった。
だが、突然、ルーシェの目の前の視界が開ける。
「へっ? 」
ルーシェは、そんな間抜けな声を漏らし、目をぱちくりとさせた。
突然、目の前にあった扉が、消えた。
おかげでルーシェにはヴィルヘルムの部屋の中がよく見えるようになっていたが、ルーシェはその状況をすぐには理解できない。
(えっと……、扉が、開いた……? )
そして、ルーシェが、扉は消えたのではなく、開かれたのだということをなんとか理解した時、斜め上の方からルーシェに声がかかった。
「おやおや、なにかと思えば……。のぞき見するとは、なんともお行儀の悪いメイドさんだ」
それは、ルーシェが監視しようと思っていた相手、ヴィルヘルムだった。
彼はルーシェが部屋の中をのぞいていたことに、気がついていた様子だった。
だから彼は薄く開いた扉から見ているルーシェにはわからないように扉へと近づき、なんの予告もなしにいきなりそれを開いたのだ。
「どうかなさいましたか? 公爵殿下からなにか、言い忘れたことでもおありでしたか? 」
ヴィルヘルムがルーシェへと向けている表情も、口調も、穏やかで優しい。
それを見た限りでは、ルーシェの行いを起こっている様子はなく、[いたずら好きな子供を見つけてしまった]といった程度に思っているように見える。
「はっ、はわっ、はわわわわっ!? 」
だが、ルーシェは思わず、その場に尻もちをついてしまっていた。
(ルーの、おバカ! お間抜け! もーっ、なんで、また、こんなっ!! )
後悔先に立たずとはよく言ったもの。
エーアリヒの後をつけた時に続き、今回もスパイ作戦に失敗してしまったルーシェは、内心で自身を罵倒しながら、自分の行いの愚かさを思い知らされていた。
同時に、おそろしい想像がいくつも頭の中に浮かんできて、ガタガタと身体が震えはじめる。
相手は、大人の男性だった。
スラム育ちのせいで貧弱な上にまだまだ子供でしかないルーシェにはとても力で太刀打ちできるような相手ではない。
逃げ出すことも、不可能だった。
相手の方が足は長く、走るのも速いはずだったし、なにより今のルーシェは、驚いたのと、怖いのとで腰が抜けてしまって、走り出せるような状態ではない。
エーアリヒの後をつけた時は、たまたま、運が良くて、見逃してもらうことができた。
だが、今回は?
相手の悪事の証拠を押さえるつもりが、いともたやすく見つかってしまったルーシェは、相手の秘密を探ろうとした自分は当然、ただでは済まない、なにか酷いことをされるのだと思った。
「大丈夫ですよ。確かに少し驚きましたが、別に、このくらいで怒ったりはしません。あなたのような年齢の子供は好奇心旺盛なものですし、私に興味をお持ちだったのでしょう? 」
だが、ヴィルヘルムは柔和な笑みを浮かべ、穏やかな口調でそう言ってくる。
それが、逆にルーシェには恐ろしい。
ルーシェが暮らしていたスラム街には、見た目は優しそうによそおっていながら、ルーシェのような子供をさらってしまう人さらいだっていたのだ。
こうなったら、ルーシェには、自分が助かる道は一つだけに思えた。
双眸に涙を浮かべ、カタカタと小刻みに震えながら、自分よりもずっと背が大きいヴィルヘルムを見上げていたルーシェは、そう決心すると、大きく息を吸い込み、次いで、大きく口を開けて、肺から空気を一気には吐き出そうとする。
全力の悲鳴で、ルーシェのピンチに気づいてもらうのだ。
大声で悲鳴をあげて、エドゥアルドたちに助けを求めようとしたルーシェだったが、しかし、その意図を察したヴィルヘルムの手によって即座に口を塞がれてしまった。
男の大きな手で口を塞がれてしまったルーシェは、慌てて出そうとしていた悲鳴を引っこめた。
たとえ助けを呼んで、エドゥアルドたちが、あるいは屋敷の警護についている兵士たちが駆けつけて来てくれたとしても、すでにヴィルヘルムの手で押さえつけられてしまっている状況では、きっとルーシェを助けるのは間に合わないだろうと思ったからだ。
相手は、力の強い、大人の男性なのだ。
武器を持っていなくとも、ルーシェを傷つける方法はいくらだってある。
このまま、その大きな手でルーシェの鼻と口を塞いでもいいし、床の上に押しつけて、首を締め上げてもいい。
そんな犯罪はスラム街では日常的に起こっていたし、ルーシェには、実際にその被害に遭ったという体験があった。
ルーシェは、もはや声も出せず、ガタガタと大きく震えながら、双眸から涙をこぼしながらヴィルヘルムを見上げることしかできなかった。
その様子を見て、ヴィルヘルムの柔和な笑みが消える。
代わりに浮かんできたのは、心底心配そうな、そして、困ったなという表情だった。
「そんなに怖がらなくても、大丈夫ですよ。ほら、なにもしませんから」
ヴィルヘルムはそうなだめるような笑みを作って、一度は塞いだルーシェの口から手をどけてくれたが、過去の酷い記憶と現在の状況が結びついてしまったルーシェは、それだけではもう冷静にはなれない。
ルーシェは、「ひっく、ひっく」と小さくしゃくりあげながら、だが恐れからか大声を出すこともできずに、泣いている。
そんなルーシェのことを困ったように見つめていたヴィルヘルムだったが、突然、彼はなにか妙案を思いついたような明るい表情を見せ、自身のズボンのポケットに手を突っ込んだ。




