第91話:「酒場:3」
第91話:「酒場:3」
フェヒターの性格から言えば、ペーターのこの言葉を聞いた瞬間、激高し、場合によってはサーベルを抜き、ペーターを斬り捨ててもおかしくはなかった。
ペーターは内心で(少しはっきり言いすぎたかな)と後悔していたが、同時に、すっきりとした気分も味わっていた。
ペーターは確かに陰謀に加担している、エドゥアルドにとっての裏切り者、そしてフェヒターにとっての賛同者であるはずだったが、ペーターにとって約束を交わした相手はエーアリヒであって、フェヒターではない。
頭ごなしに怒鳴りつけられ、まるで従者のように扱われる筋合いなどないのだ。
しかし、ペーターの予想に反し、フェヒターはペーターに対してなんのアクションも起こさなかった。
それどころか、ついさきほどまでそうしていたように、ペーターのことを一方的に罵倒するようなこともない。
いぶかしんだペーターがそっと視線をあげると、そこには、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたフェヒターがいた。
「フン。……あくまで、[頼まれた以上のことはできない]ということか」
フェヒターはペーターを嘲笑うようにそう言うと、唐突に自身の懐に手をのばす。
ペーターは、思わず身構えた。
フェヒターがその懐から取り出すのはナイフか、それかピストルで、そのどちらかによってペーターを殺傷するのだと思ったからだ。
しかし、フェヒターが取り出したものは、ペーターの予想とは異なるものだった。
それは、片手からはみ出るくらいの大きさの小袋だった。
高価そうな絹製の袋で、その口はきつく縛られており、たっぷりと中身が詰まっているのかはち切れそうなほどに膨らみ、そして、ずっしりと重そうだった。
ペーターが戸惑っていると、フェヒターはその小袋を雑多にテーブルの上に放り投げた。
すると、落とされた勢いと、はちきれそうなほどに詰まった中身の圧力に耐えかねて袋を縛っていた紐が千切れ、その口が開いて中に詰まっていたものがジャラジャラと音をたてながら広がった。
それは、金貨だった。
それも、現在帝国で流通している金貨よりもずっと古い、タウゼント帝国の草創期に発行されたとされる旧帝国金貨だった。
エンシェントは古代を、クラウンは王冠を意味し、帝国の皇帝の名のもとに発行され、その権力を象徴する王冠が金貨に刻まれていることからそう呼ばれている。
ただの金貨ではない。
その旧帝国金貨は、現在の帝国で発行されている金貨よりも、そしてどんな外国で発行されている金貨よりも、遥かに高い純度を誇るものなのだ。
同じ金貨と言っても、その価値には様々な違いがある。
特に大きいのが、その純度だ。
金貨はその発行される時代、発行する側の都合によって他の貴金属と混ぜ合わされ、合金として発行されることがほとんどで、その合金の中で金の割合が高ければ高いほどに価値が高まる。
旧帝国金貨は、純金だ。
その小袋に詰まっているのがすべて旧帝国金貨だとすれば、庭つきの大きな屋敷を買って、何人も使用人たちを雇い、優雅に一生遊び暮らして、まだ余るだけの価値がある。
加えて、美術品としての付加価値さえついている。
帝国の草創期に発行された、つまり、初代皇帝となった、今となっては伝説的な人物として語られる人物の命によって発行された旧帝国金貨は、自身の権威を高めたいと願う帝国貴族たちの間では垂涎の品なのだ。
初代皇帝に少しでもかかわりのある物品を所有しているというだけで、帝国貴族たちは敬意を示すようになる。
旧帝国金貨は希少な品でもあり、その額面上の価値以上にあつかわれている。
現代の金貨は、帝国で数百年間も採掘されて来た金鉱山の枯渇や、長い間続けられてきた放漫な財政を支えるために改鋳されたもので、その改鋳のために旧帝国金貨の多くが溶かされ、新たな金貨を作るための材料とされてしまっているのだ。
ペーターは、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
ペーターのような下級貴族では、どうあっても一生触れることさえ難しかったであろう大金が、目の前に、それも無造作に投げ出されているのだ。
「それは、我がノルトハーフェン公国の中枢、ヴァイスシュネーの地下金庫に、長年保管されて来た財産の一部だ」
フェヒターは、大金を前に目を丸くしているペーターの反応に満足そうに、得意そうにそう教えた。
それから、フェヒターはペーターの肩に自身の手を置き、頭を下げていたままのペーターにそっと顔をあげさせると、親しげな笑みを向けながらささやく。
「これを、お前にやろう」
その言葉に、ペーターは緊張して冷や汗を顔中に浮かべた。
また唾を飲み込もうとしたが、いつの間にか喉がカラカラに乾いたようになっていて、唾が出てこない。
もう、酔いなど完全に吹き飛んでしまっていた。
目もくらむような大金。
誰だって、欲しいと思う。
それさえあれば、一生、優雅に遊んで暮らせるのだ。
だが、問題は、その[代償]だった。
大金には、その額の大きさに比例した[代償]がつきものなのだ。
「次にチャンスがあったら……、あの小僧を、殺せ。確実に」
そんなペーターに顔をよせると、フェヒターはそう言い含める。
「どんな手段をとってもいい。後のことも考えなくていい。とにかく、あの小僧を殺すのだ。……[褒美の対価として約束したこと以上はできぬ]というのなら、ここで改めて、オレと新たな約束を交わすのだ。……エーアリヒとではなく、この、オレとな」
ペーターは、今すぐフェヒターから顔をそらしたかった。
フェヒターは笑みを浮かべてはいたが、その笑みは、嫉妬と憎しみの上にわざとらしく張りつけられた薄っぺらなものでしかなく、その向こうに隠されている野心が透けて見えている。
大金は、欲しい。
だが、もし、ここでうんとうなずいてしまえば、ペーターはもはや後戻りすることができなくなる。
どうせ、すでに陰謀に加担してしまっている身ではあったが、ペーターの加担している度合いはエドゥアルドを監視する程度で、まだ軽いし、状況によっては引き返しもできる。
だが、その命を奪え、となると、ことは重大で、二度と後戻りはできないかもしれない。
ペーターは視線を左右にさまよわせながら、返答に窮して黙りこくるしかできなかった。




