第90話:「酒場:2」
第90話:「酒場:2」
「千載一遇の、好機だったのだぞ!? それを、みすみす見逃しおって! 貴様、いったいなにをしていたのだ!? 」
それは、フェヒターがペーターをなじり、糾弾する言葉だった。
「あの小僧に銃口を向ける機会を得たというのに! どうして、鉛球のひとつも撃ち込まなかったのだ!? 」
「お言葉ですが、フェヒター準男爵」
フェヒターに一方的に怒鳴りつけられながらも、ペーターは冷静だった。
ペーターは手に持っていたワインボトルを静かにテーブルの上に置くと、自分の方を睨みながら肩で息をしているフェヒターに、淡々と言う。
「自分がエーアリヒ準伯爵から仰せつかっていたのは、公爵殿下を[警護せよ]、そして[監視せよ]との2点だけでした。……決して、お命を奪えとか、危害を加えよという命令ではありませんでした」
「しかし、せっかくの好機をみすみす逃すなど! 」
「そうおっしゃられましても。……演習中に公爵殿下に銃口を向ける機会があった、とおっしゃいますが、そもそも、マスケット銃というものは、百発百中とはいかないもの」
ペーターの口調は、怒りを隠そうともしないフェヒターに、ただ事実を説明するようなものだった。
「演習の最中に実弾を混ぜたところで公爵殿下を確実に害することは難しく、また、弾がそれましたら、関係のない兵卒が害をこうむります。そのようなこと、できるわけがないでございましょう? 」
「それの、いったいなにが問題だというのだ!? 」
しかし、フェヒターは納得せず、さらにペーターを罵倒した。
体内に一気にアルコールを取り込んだために急速に酔いが回りつつあるフェヒターは冷静さを完全に失い、口角から唾を飛ばしながらペーターを責め立てた。
「すべてが! すべてが、手に入るのだぞ!? このオレの手に! あの小僧さえいなければ、この国のすべてがオレの支配するところとなるのだ!
たかが一兵卒の命なぞ、なにを惜しむことがある!? 」
そのフェヒターの言葉に、ペーターは面食らったような顔で一瞬だけフェヒターのことを見やり、思わず口の中で「そんな理屈があるかよ」と呟いていた。
しかし、ペーターはすぐに、フェヒターの機嫌をこれ以上損ねるべきではないと思い至り、慌てて表情をとりつくろい、顔をフェヒターからそらすために、恐縮したような態度で頭を下げてみせる。
幸い、酔いが回ってきているフェヒターには、ペーターの呟きは聞こえず、一瞬だけ見せた唖然とした表情にも気づかなかった。
「オレのことだけでもない! 貴様にも、余りある利益がある、そのはずだろう!? 」
フェヒターにはもう、目の前のことがまともに見えていないようだった。
酔いによって、なかなか進まない公爵位の簒奪にいら立ち、焦る本心がさらけ出されているようだった。
「エーアリヒは、貴様に約束したはずだ! 見事、任務をこなせば、公国軍の全軍を指揮する将軍に取り立て、褒美も思いのままだと! 貴様、褒美が欲しくはないのか!? 」
「……もちろん、ありがたく頂戴いたしたく思っております」
ペーターは、頭を下げたまま、もう呆れの表情を隠さないで、とりあえず話だけは合わせていた。
(エーアリヒ準伯爵のことも、呼び捨てか……)
そして、ペーターは心の中で、フェヒターのことを軽蔑した。
エドゥアルドの警護を任されるのにあたり、ペーターがエーアリヒに呼ばれ、そこで密約を交わしたのは事実だった。
エドゥアルドを[警護]し、同時に、その動向を[監視]する。
配下の兵士の中に、エーアリヒの息のかかった者が紛れ込むことも、黙認する。
その引き換えに、ペーターは将来、栄達し、大金を手にすることになる。
だが、ペーターは決して、進んでその依頼を受けたわけではなかった。
エーアリヒにその話をされた時点で、明確に断れば自身の命が危ないと、そう思ったから話を合わせた、という部分が大きいのだ。
もちろん、エーアリヒが約束してくれた褒美は魅力的なものだった。
ペーター自身、準男爵という位を持つ、貴族の末席に連なる者ではあるのだが、ペーターの家は何代か前にすでに没落し、わずかな領地を持っているのに過ぎない。
経済基盤のない下級貴族には強いツテなどなく、おそらくはペーターが出世し栄達する望みは薄いだろう。
40を過ぎて大尉止まりというのが、そのいい証拠だった。
そんな、平民とほとんど変わらないような暮らしをしている下級貴族のペーターにとって、エーアリヒが持ちかけた陰謀に加担するという行為は、文字通り千載一遇の機会だった。
ペーターにとって、エドゥアルドはあまりよく知らない存在であったというのもある。
ノルトハーフェン公国に仕える貴族であるペーターは、当然、エドゥアルドがその主人であり、忠誠を誓うべき相手であるはずなのだが、実権を持たない上に面識もなく、また、どのような人物かもわからないような状態では、なんの親しみも、忠誠心も生まれようがなかった。
そうであるのなら、この陰謀に加担し、そして、エドゥアルドと同じくらい[よく知らない]相手であるフェヒターを公爵とし、その見返りとして栄達する方がいいと思ったのだ。
だが、少し双方の人物が見えてくると、(早まった……)という後悔が強くなってくる。
フェヒターは、今、頭ごなしにペーターを怒鳴り散らしているように、傲慢な性格をしていた。
常に他人を見下しているようなところがあり、そして自身がいかに優秀で偉大な人物なのかを誇示しようとする。
しかも、陰謀の首魁であり、すべてのおぜん立てをしてくれているエーアリヒのことを、フェヒターは内心では呼び捨てにしているのだ
もう、彼は公爵になったつもりでいる。
だから平気で、現状の爵位では対等であるはずのペーターをなじり、酌をさせて、ふんぞり返ることができる。
それだけでも不快な気持ちにさせられるのに、あまつさえ、フェヒターは一兵卒の命などなんとも思っていないのだ。
ペーターは貴族で、兵卒たちは平民ばかり。
身分の違いによってお互いに隔てられてはいるものの、ペーターのようにすでに没落した下級貴族の家に生まれた者と平民との間には、実際には大きな違いはない。
なにより、同じ鍋で煮込んだスープを食べ、共に勤務している兵卒たちなのだから、自然と愛着も湧いてくる。
(それを、とるに足らない、道端の小石のように考えていやがる! )
元々良い印象など少しも持っていなかったが、ペーターはフェヒターのことが心底嫌いになった。
その点、エドゥアルドは、いい。
確かにエドゥアルドは若くて未熟で、[兵卒のことを知るために訓練に参加したい]などと、実際にはその準備をするペーターたちにとっては迷惑でしかないようなことをそれと知らずに要求してくる、世間知らずなところもある。
だが、エドゥアルドは少なくとも、兵卒のことを、その辺に転がっている小石のように、取るに足らないものだとは考えていない。
そうでなければ、兵卒のことを知るために、などと言いだしたりはしないだろう。
その一点だけでも、どんなにエドゥアルドが未熟であっても、ついて行こうかという気持ちが生まれてくる。
それに、かわいらしいメイドが頑張っているというのも、ポイントが高い。
ペーターは未だに独身で子供がなく(どうせ没落した貴族の家に生まれてしまって栄達の望みもないのだから、子孫を残そうなどと考えず自分の代で家をたたむつもりだった)、父親の気持ちなどわからなかったが、ルーシェとかいう幼いメイドが一生懸命に働いている姿を見ると、まるで父親になったかのように、暖かな気持ちになってくるのだ。
エドゥアルドのために、一生懸命。
どんな事情があってルーシェが公爵家に仕えているのか、ペーターは知らなかったが、それでも応援したいと思わずにはいられない。
「もちろん、ご褒美を頂戴いたしたく思っております。……ですから」
だから、エドゥアルドを害するように要求するフェヒターに向かって、ペーターは顔こそあげないものの、はっきりとした口調で言った。
「公爵殿下を害せよというお話は、自分の一存では承服いたしかねます」




